日本のホライズン・カレンダー

 まず第一に、アマテラス(天照大御神)が太陽神であることです。・・・
 第二に、その天皇が太陽をまつる祭祀を毎日、早朝におこなっていたことがあげられます。・・・・実際、天皇の座所である清涼殿は東面していました。敏達天皇の宮殿跡は冬至に太陽が三輪山からのぼる位置に建てられています。また、敏達天皇はその統治の七年(五七七年)に日祀辺ひまつりべを設置しています。日祀辺とは太陽を観測し、日神を奉祀する部局です。・・・
 第三に、どのように太陽を観測していたかということについてです。天皇と日祀辺は、山の稜線にのぼる太陽を観測していたと考えられます。三輪山の麓にある檜原ひばら神社には図のような三つの鳥居があり、注連縄しめなわに吊り下げられる紙垂しでが太陽の昇る位置をはかる重要な指標となっていました。・・・・この方法が実際におこなわれていたとすると、まさにホライズン・カレンダーにほかなりません。
中牧弘充『ひろちか先生に学ぶこよみの学校』pp102-104

 これが事実とすれば、なんとも暢気な話である。ストーンヘンジはこれより2000年ほども前に造られているのだ。我々日本人の祖先はこの時代になってもまだこんなレヴェルだったのだろうか?
 敏達天皇の時代あるいはもう少し前に、『元嘉暦』という中国暦が伝わっている。この暦では1年(太陽年)を365.2464日としている。現在のグレゴリオ暦(G暦)の365.2425日よりは不正確であるが、ローマのユリウス暦の365.25日よりは正確である。中国では既にそのような精度の高い暦が作られていた。単純に太陽を観測するだけではなかったのである。
 また、中国暦ではもっと古く前漢の頃から「章法」が知られていた。それは19年に7回の「閏月」を置くというものである。中国暦では月の朔望の周期を1ヵ月とする(「朔望月」)。それは平均で29.53日ほどである。12ヵ月では354日ほどにしかならない。1年(太陽年)は365日ほどだから11日ほど足りない。そこで時々閏月を置いて1年を13ヵ月とするのである。その閏月を19年に7回とすれば、朔望月と太陽年がほぼ一致するのである。
 同じことは古代ギリシャでも『メトーン周期』として知られていた。古代には多くの民族でほぼ同様の『太陰太陽暦』が行われていたのである。

 式年遷宮の歴史は、・・・持統天皇4年の第1回(西暦690年)以来現在まで1300余年の長い年月、ほぼ20年目毎といふ間隔を守って続いてゐる。斎行の年度の詳細な数字は正確に記録されてゐるが、・・・
 ・・・昭和4年の御遷宮の頃から、・・・改めて「なぜ20年なのか」といふ問題に関心を向ける傾向も生じてきた。
 ・・・
 結論を先に云ふと、それはこの地球上で日本列島が占めてゐる緯度的風土的位置に由来する。暦学上の20年周期存在説である。
 ・・・ところで允恭天皇の御代、紀元5世紀の半ばと推定される頃に大陸から暦が移入されたと・・・この暦はもちろん月の朔望の規則性を基準とする太陰暦である。・・・
 ・・・陰暦の導入・施行から飛鳥浄御原朝廷による式年の制定までの約200年間の経験により、古代人は陰暦の元旦と立春とが一致する年もあること、それが20年に一度の周期でめぐってくることに氣がついてゐたのではないかといふのがこの説の眼目である。現代の暦学の専門家の計算によると19年7箇月の周期でその一致が生ずるといふことであるが、まあ20年に一度と看做してよいだらう。
 この推測説が正しいとすれば、日本人は1300年の昔に宇宙の時間的秩序には20年を周期とする規則正しい循環性が内在してゐるといふ事実を発見してゐたわけである。・・・
小堀圭一郎『式年遷宮に見られる長期計画性』サンケイ新聞2013年9月16日

 呆れた御説である。これが東京大学名誉教授というから背筋が寒くなる。「19年7箇月の周期でその一致が生ずる」などと言う暦学の専門家が居るなら是非お目にかかりたいものである。勿論居るはずもないが。「陰暦の元旦と立春とが一致する」のが「19年7箇月の周期」で起こるとするなら、実に立春が2月から9月に動かなければならない。そんな馬鹿げたことが19年の間に起こるというのが名誉教授大先生のご主張なわけである!
 既に述べたように、「19年と7ヵ月=20年−5ヵ月(まあ20年)」ではなくて、19年の間に7回の閏月を置くのである。陰暦の1ヵ月は29日または30日なので12ヵ月では1年(365日ほど)より11日ほども足りないためである。7回の閏月までを含めて丁度19年なのである。この19年は「太陽年」で、現在の19年と(僅かな差を除き)同じである。決して「まあ20年」ではない。
 さて、小堀名誉教授大先生の呆れた誤解は措くとして、「日本人は1300年の昔に宇宙の時間的秩序には20年を周期とする規則正しい循環性が内在してゐるといふ事実を発見してゐた」という主張を見ておこう。「20年」を「19年」に修正するなら、たしかにそのような周期は存在する。ただしそれは日本人が発見したのではない。それよりはるか昔に中国やギリシャで知られていたことが、日本には中国から伝わったのにすぎない。小堀大先生は日本人の優秀性を誇示したいのだろうが(なにしろサンケイだから)、中国人にこんなことを言ったら逆にバカにされるのがオチである。
 細かいことながら、「允恭天皇の御代、紀元5世紀の半ば」に暦が移入されたというのも怪しい。天武・持統(飛鳥浄御原朝廷)の頃まで使われていた元嘉暦が中国で作られたのは日本書紀によれば允恭天皇の時代になるが、それが直ちに伝わったという証拠はない。この暦は百済を経由して伝わっている。多少の時間差はあったものと思われる。確実に伝わったと言えるのは6世紀だろう。

 さて、名誉教授大先生の記事は伊勢神宮式年遷宮を題材としている。その斎行の年度の詳細について大先生は「紙幅の制約」のためとして言及していないのだが、現在ではウィキペディアで簡単に調べることができる。それによれば、古い時代には20年ではなく19年に一度だったことがわかる。まさに章法19年が意識されていたのである。20年に一度となったのは、応仁の乱によって中断していたものが復活された江戸時代以降である。「20年に一度」と伝わるのは、おそらく「数え年」の考え方なのであろう。諏訪大社の『御柱』も、「数えで7年ごと」とされるが満では6年ごとである。かつて、0の概念のなかった民族ではこのような事例が多かった。「数えで20年」とされていたのが江戸時代に復活した時「満で20年」と誤解されたのであろう。
 19年に一度だった時代の式年遷宮をさらに詳しく見ると、内宮の遷宮はほとんどが九月十六日である。 。陰暦の九月十六日が(太陽暦である)二十四節気の霜降(G暦10月23日頃)と重なることが19年に一度起こる。これはまさに章法の一例である。
 1995年12月22日は陰暦十一月朔(一日)でかつ冬至でもあった。こういう日は「朔旦冬至」といって中国では古代から重視されていた。ところでその19年後の2014年12月22日も同じく朔旦冬至であった。これが章法の具体的事例である。大先生も言及している「陰暦の元旦と立春とが一致する」も同じこと、ただし20年ではなく19年に一度なのである。内宮遷宮はこのことを明確に意識していた。ただしそれは、繰り返すが中国から輸入された知識である。
 さらに、陰暦十六日は(ほぼ)満月である。よく十五夜が満月と言われるが、実際には十六日のことが多い。内宮遷宮はその満月の夜に行われた。儀式には灯火を用いなかったというが、満月で明るかったのである。
 さて、満月は必ず、地球から見て太陽と正反対の方向にある。二十四節気の霜降の満月は、その半年前(または後)の穀雨(G暦4月20日頃)の太陽とほぼ同じ方向である。その「霜降の満月」の(≒「穀雨の太陽」の)昇る方位は、伊勢神宮内宮(北緯34°27′)では約76°(東から北へ14°)である。 その方位の近くには朝熊あさまヶ岳がある。実際には朝熊ヶ岳の方位は83°で、むしろ清明(G暦4月5日頃)の日出方位であるが、 標高555mのその山頂から日が昇るのは穀雨の頃であろう

図2 伊勢神宮内宮(北緯34°27′)における日出、日没の方位(二十四節気別)

。また 。そのように朝熊ヶ岳(朝熊山)は伊勢神宮と密接な関係にある。 。 もしかしたら伊勢内宮の本来の神体は朝熊ヶ岳だったのかもしれない。そこから満月が昇る日が内宮式年遷宮の日だったわけである。
 しかし何故満月に注目するのか?何故太陽ではないのか?伊勢内宮は太陽神なのである。
 太陽は、穀雨と処暑(G暦8月23日頃)には毎年この方位から上る。つまりたいして珍しいことではない。一方、満月がここから昇るのは霜降と雨水(G暦2月19日頃)に限られる。ただし雨水は中国暦では「正月中気」で、必ず正月なのである。正月行事が多い中で式年遷宮まで行うのは無理があったかもしれない。そうすると「霜降の満月」だけが残る。
 霜降でも、月がここから昇るのは満月の場合に限られる。そしてそれは19年に一度のことなのである。
 つまり、霜降の満月が朝熊ヶ岳から昇るという19年に一度だけの日を内宮式年遷宮としたのだとすれば、これは中国の天文知識とホライズン・カレンダーの結合と言うことができようか。

 もっとも、「19太陽年=235朔望月(太陰月)」という章法(メトーン周期)は中国から伝わった知識としても、「九月十六日霜降が19年に一度」というのは「日本人の発見」ではないかという反論もありそうだ。まあたしかに、九月十六日霜降などというものが中国で注目されたことはたぶんないだろうから、これはひとつの「発見」かもしれない。ただそれは、章法を知っていればあたりまえのことなのであって、その章法自体を中国人やギリシャ人が紀元前に発見していたこととは比較するも愚かである。


霜降満月

 霜降は「太陽黄経が210°の日」とされる。しかしこれは江戸時代末期に制定された天保暦以後の「定気法」での定義である。それ以前の24節気は(1年を24等分する)「平気法」で決められていた。平気法の霜降は定気より約2日早い。したがって太陽黄経は約2°小さくて208°ほどとなる。そして霜降の満月の黄経は、


Mar. 2016
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