「今日は楽しかった」

「……そ、そう…だな」


 俺の場合、楽しさよりも気苦労の方が勝っていたが
 それでもメルキゼが喜んでいるのだから…まぁ、いいか

 俺たちは宿の一室で久しぶりのベッドの感触を楽しんでいた
 質の良い物とはいえないが干し草よりはずっと良い
 これなら思う存分熟睡出来るだろう

 そう思った瞬間、欠伸が止まらなくなる
 頭の中がぼぅっとして目蓋が重い…


「…眠い…ちょっとだけ寝て良いか?」

 まだ夕方だ
 寝るのは早いけれど、眠いものは仕方が無い

「ゆっくり休むといい
 私も後で眠るから――…」

 メルキゼの言葉を最後まで聞くことも無く、俺は眠りについていた




 目覚めた時、背中が妙に冷たかった
 ランプの炎で淡く照らされた部屋は静寂に包まれている

「……メルキゼ……?」

 周囲を見渡しても彼の姿は見えない
 今が何時なのかはわからないが、窓の外は漆黒の闇が広がっている

 食事か、買い物にでも行ったのだろうか…
 咄嗟にそう思いついたけれど脳がすぐに否定をする
 あのメルキゼが一人で出歩くなんて考えられない
 滅多な事がない限り宿の一室に閉じこもっているような奴なのだ


「…あいつ…何処行った…?」

 俺は本能的に部屋を飛び出した
 彼が宿内にいない事は確信していた

 メルキゼの行きそうな所は―――きっと、人気の少ない所だ
 決して広くは無い村の中、俺は住宅街から離れるように歩を進める
 もしかしたら村から出てしまったかも知れない
 けれどメルキゼが理由も無く姿を消す筈が無い…きっと近くにいる




 そのとき、路地裏への小道が目についた
 気を抜けば見落としてしまいそうなその隙間に俺は飛び込んだ

「……メルキゼ……!?」

 遠目からでもわかるその背中
 狭い通路の中で、メルキゼは壁に縋るような姿勢で蹲っていた
 尋常ではないその姿に頭の中が真っ白になる

「―――メルキゼ…メルキゼっ!!」

 俺は駆け寄ると彼の背中に飛びつく
 広い背を両手いっぱいに抱き締めた

 荒い呼吸が伝わる
 微かに痙攣も起こしていた


「メルキゼ…大丈夫か…?」

 静かに身体をずらし、彼の顔を覗きこむ
 そして嫌な予感が的中していた事を痛感した
 緊張と恐怖に足元が竦む

 唇だけじゃない
 顎、首筋、そして胸元までもが赤いものに汚れている
 息を吐く度に夥しい量の鮮血が彼を染めた


「…う…あ…ぁ…カー…マイ…ン…」

「喋らなくて良いから…!!
 無理するな、俺はここにいるから!!」

 彼を抱き締める俺の手も震えていた
 発作が辛いであろう事は予測していたけれど
 実際にそれを目の当りにすると、あまりの悲惨さに目を覆いたくなる

「…痛い…身体が、裂ける…!!
 嫌だ…行きたくない…助けて、カーマイン…!!」

 血に濡れた手が俺を求めて彷徨う
 その手ごと、しっかりとその手を抱き締めた
 俺のマントにも赤い染みが広がる



 頬が熱い
 俺の瞳から流れる涙が冷え切った頬を濡らす
 涙が血と混ざり、薄い色の雫が地面に弾ける
 この涙で彼の痛みも薄める事ができれば、どんなに良いだろう

 苦しみに喘ぐその身体を抱き締めて、俺は声を上げて泣いた
 彼の言う通り本当に神がいるのなら…この声を聞いて欲しい

 彼にこれ以上苦しみを与えないで
 もう充分に苦しんだのだから
 神に慈悲があるというのなら、どうして彼にばかり試練を与えるのか
 傷付いたこの身をこれ以上痛めつけて何を得ようというのか


「…神とやら…お前は一体どこまで残酷なんだ…?」

 この世に神は存在しないというのか
 存在が確かなのは大切な者を傷つける悪魔のみ――
 …どちらにしろ、彼を救おうとしない神など必要ない

「…お前には俺がいるから…な…?
 弱くて頼りない臆病者だけど、お前をこうして抱き締めるのは俺だけだ
 俺には出来ない事が多いけど、俺にしか出来ない事もあるんだ…そうだろ?」

 汗の浮いた額に口付ける
 鼻先に、頬に、唇に口付けの雨を降らす
 彼の苦痛を洗い流すかのように、何度でも




 どのくらい、そうしていただろう

 いつの間にか舞い降りてきた冬の使いが肩に薄く降り積もっている
 地面に飛び散った赤い後も、白い雪に包まれて姿を消していた

「……カーマイン……」

「馬鹿、喋るな…辛いだろ」

 あれだけ激しく失血をしたのだ
 体力的にも限界が来ているだろう
 一刻も早く宿に戻らなければ危険な状況になる


「…痛みの波が、去った…もう、大丈夫…
 カーマインが…傍で励ましてくれて…いたから…」

 メルキゼの手が俺の頭を撫ぜる
 ちらりと見えた彼の白い指が血に染まっていたのが哀しい
 これからも彼はこうして苦しんで赤黒く汚れて行くのだろう
 この度が終わるまで、何度も…何度でも―――…


「…嫌だ…お前が痛いのも苦しいのも哀しいのも…もう、嫌なんだ!!
 こんなの耐えられない…メルキゼ、もう止めにしよう
 お前をこんな目に遭わせてまで旅を続ける意味なんて無いんだ…!!」

「そう言うと思って、私は発作が起きた時…部屋から逃げた
 君は優しいから…きっと私を気遣って旅を諦めてしまうと…」

「当たり前だろっ!!
 こんな血なんか吐いて…見ていられないんだ!!
 お前を苦しめるくらいなら元の世界に戻れなくてもいい
 なぁメルキゼ、もう森へ帰ろう…そこで一緒に暮らしていこう」

 次の発作がいつ起きるかわからない
 明日かも知れないし、明後日かも知れない
 最悪の場合この後再び起こる可能性も―――…


「早く、この島を出るんだ
 お前の発作が起こる前に!!」

「―――嫌だ…!!
 このままでは君も私も後悔する…
 諦めたくない…とにかく目的地にだけは辿り着きたい
 君が戻れるかどうかわからないけれど、最善は尽くしたい…!!」

 そうだ…例えティルティロ王国に行けたとしても帰る手段が見つかるとは限らない
 けれどこれが俺たちに出来る唯一の手段…これで駄目なら諦められると思っていた
 精一杯やって出た結果なら、どんな事になろうとも後悔はしないと――…

 俺だって旅を途中で放り出したくない
 やり遂げなければ元の世界への未練は断ち切れない


「…でも…それでも、お前が苦しんでいる姿を見るのは辛いんだ…!!」

「そんな事を言わないで…私に同情してくれるなら、旅を続けてくれ
 この旅が終わってしまえば、私の存在意義が無くなる…!!
 私が君と一緒にいられる理由を奪わないでくれ…私の唯一の拠り所なんだ…」

「―――痛っ…!!」

 強く抱き締められて、激痛が走る
 彼の爪が皮膚に食い込んだ
 引き剥がそうとして――けれど、その指が震えている事に気付く
 それは溺れた仔猫が必死に命綱を握り締めている姿に見えた

「…メルキゼ…」

 どうしたら良いのかわからない
 自分が何をしたいのかすらわからない
 こんな時でさえ、臆病な俺の心は躊躇っている


 けれど

 自分に泣き縋るこの存在を愛しいと思う
 何も理解出来ない混沌の中で、その感情だけが唯一の確信めいたものだった




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