「あー…潮風が気持ちいいな…」


 俺は甲板に出て清々しい潮風に吹かれていた
 季節は既に冬なのだが、昼間なら暖かいので日光浴も出来るのだ

 …むしろ、日増しに気温が上昇しているような気がしなくも無い

 見える景色も針葉樹林から熱帯風ジャングルに変化しているような気が…いや、きっと俺の幻覚だろう
 確か俺たちが向かっているのは北にある、極寒の大陸だと聞いた

 だから目の前に見えるヤシの木アマゾン的シダ植物も幻覚だ…そう信じさせてくれ



「―――カーマインさん、今日も日光浴っすか?」

 船員のひとりが俺の姿を見つけて駆け寄ってくる
 船乗りの中で最年少だというの彼は、俺と近い年齢だ
 そのせいか彼は事あるごとに俺に話しかけてくる

「いや〜…これから冬本番だってのに、暖かいっすね
 こりゃあ確実に南に進んでるって思って良いみたいっすよ」

「……俺は…北に行きたいんだ……」

「心配しなくても大丈夫っすよ
 世界は丸いっすから、赤道を越えればまた寒くなってくるっす
 そしてやがて目的地の場所に辿り着くはずっすから、気長に―――」

「最短ルートを選んだ筈なのに
 気が付けば世界直行ルートへ…あぁ…」

 既に怒る気も泣く気も失せていた
 湧き上がってくるのは全てを諦めた空笑いのみ
 こうなってしまっては、もう開き直って船旅を楽しむしかない



「追加料金は要りませんから、安心して船旅を思う存分楽しんで欲しいっす
 どんなに流されてもいつかは必ず目的地に到達するのが、さすらい丸のモットーっすから」

 願わくば流されずに目的地へ直行してくれるのが一番、客としてはありがたいのだけど…
 まぁ観光だと思えば、長期間乗っていられてラッキーだと考えられる…ような気もする

「…この船って、貨物船も兼ねてるんだよな?
 時間掛かり過ぎてるけど、本当に商売成り立ってるのか…?」

「勿論っすよ、それにこの船の積荷は一部で大人気なんです
 どんなに時間が掛かろうと客は文句も言わず、首を長くして何ヶ月でも待ってるっすよ」

 何ヶ月も、って…そんなにかかるのか!?
 季節変わっちゃうじゃないか…!!


「積荷って…一体何を積んでいるんだ?」

「さすらい丸特製のチーズっすよ
 何ヶ月も船に揺られる事で熟成されるんです
 潮風に吹かれるって所が美味しさの秘密っすね」

 そっか…俺たちはチーズと共にさすらっているんだな…
 でも別に船の上で熟成させる必要は無いような気が―――…


「他にもワインやベーコンなんかも積んでるっすよ
 いざという時には非常食にもなるんで心強いっす」

 …積荷に手をつけちゃマズいだろう…
 まぁ、本当に非常時なら仕方が無いのだろうけど


「メルキゼデクさん…あの人にも是非食べてもらいたいっすね…
 船で世界中を回ってるけど、あんなに綺麗な人見たの初めてなんすよ」

 歳若い船員は、うっとりと頬を染めて宙を見つめる
 彼の瞳にはピンクのハートマークすら浮かんで見えた

「…あー…またメルキゼの外見に惑わされた被害者が発生したか…」

 別にメルキゼ本人は惑わすつもりなど毛頭無い
 ましてや意図的に色目を使ったり誘惑しているわけでもない
 そんな器用な真似が出来るのであれば、もっと人生楽に生きているだろう

 彼の要領の悪さはカーマインが一番良く痛感していた

 別にメルキゼが悪いわけではない
 自分以外の者に好意を持たれるという事も、彼にとっては大切な経験だ
 しかし外見に騙されて勝手に夢を見ている輩を見るのは正直言って、良い気がしない



「さっきもメルキゼデクさんとすれ違ったんすけど…いつ見ても美人っすね
 美人は三日で飽きるって言うけど、メルキゼデクさんならいつまでも見つめていたいっすよ
 良いっすね、カーマインさんは…いつもメルキゼデクさんと一緒に行動できて羨ましい限りっすよ」

「…メルキゼの奴、ああ見えて中身はアホのかたまりだぞ?
 それに化け物並の怪力だし…下手に手を出すと命の保障出来ないからな」

 最後の一言は嘘だ
 馬鹿みたいにお人好しで優しくて…その上気が弱い彼の事だ
 命に関わるような事態が起こらない限り、物理的手段には出ないだろう

 けれど、言わずにはいられなかった
 何でも良いから、脅しでも良いから、一言釘を刺しておきたかった








 メルキゼに近付くな――…そう圧力をかける
 もしもの時はメルキゼに代わって、俺が物理的手段に出るつもりだった
 切なくなる程に非力な俺だけれど…いざとなれば蹴りのひとつくらいなら食らわせられるだろう

 しかし目の前の船員は俺のそんな意思など勘付きもしない

「メルキゼデクさんになら痛い目に遭わされても本望っすね
 あの白くて綺麗な手でビンタされたり長い脚で蹴り飛ばされたり――…」


 …マゾかい、お前は…


 もしかすると船員の目にはメルキゼが女王様のような姿に映っているのかも知れない

 でも、現実は悲惨なものだぞ?
 一枚服を剥けば、中身はドレスと猫耳だぞ?

 その迫力に、お前は耐えられるのか!?



「メルキゼデクさんって、恋人いるんですか?
 もしいないんだったら立候補させて貰えないっすかね〜」

「そういう発言は冗談だとしても絶対に止めておけよ
 じゃないと俺がお前を海中に沈めてやるからな…今すぐにでも」

 果たして俺に海の男に勝つだけの力があるのかどうかは――…言うまでも無い
 まぁ、不意打ちで背後から海へ突き落とすくらいなら出来なくもないだろう…手段的にセコいけど

「恐いっすよ、カーマインさん…何もそんなに怒る事無いじゃないっすか
 ――あ…それとも、もしかしてカーマインさんもメルキゼデクさんの事が好きなんすか!?」


 何故そういう発想に辿り着く!?


「…あの…それって素で言ってる…?」

「いや〜船乗りって男しかいないじゃないですか
 女と無縁の生活を何年もしていたら自然と趣向も変わってくるんですよ
 カーマインさんも5年10年、男所帯のムサい船上で暮らしてみたらわかるっすよ」

 そんな地獄、味わいたくない
 でも船の進行状況によっては本気で感化されかねない
 俺は心から、早く船が目的地に着くことを願った


「それで、メルキゼデクさんとはどういった関係なんすか?」

 楽しげに語れるような関係ではない
 一応、俺にとっては命の恩人という事になるのかも知れないが…
 とりあえず簡潔に一言で述べるなら「旅の仲間」と表現するのが妥当だろう

 しかし、その場合―――…


「はぁ…メルキゼデクさんって本当に男にしておくには惜しいっすねぇ…
 あんな美人と四六時中一緒にいられるんなら船乗り辞めても良いっすよ」

「…………」

 下手な事言ったら目の前の変体船員の脅威が迫って来る
 純粋な戦闘力でならメルキゼの方が強いだろうが、最大の難点はあの性格だ
 馬鹿みたいな人の良さと気の弱さが相成って、結局大した抵抗も出来ずに餌食になる可能性がある

 そうならない為には不本意ながらも防御策を張り巡らせる必要があるだろう
 船員からの食指を遮りメルキゼの身を護る
 要するに絶対メルキゼに手を出さなくなるようにするのだ

 その、一番手っ取り早くて確実な方法…それは―――…



「…………め…メルキゼは、俺の…こ、恋人、だから……手を、出すな」

 物凄く棒読み&噛み過ぎ

 我ながら明らかに苦しいセリフだと思う
 まぁ役者じゃないんだし、その辺は大目に見よう…

「えっ…マジで恋人同士だったんすか!?」

 露骨に驚かれてる
 不本意な程に驚かれてる
 煽って来たのは向こうの方なのに…いくら何でもその反応は無いだろう

 ―――いいや、もう自棄になってやる

 俺の中で何かが壊れていた
 むしろ脳の一部が切れていたのかも知れない

 どちらにしろ、開き直ってしまったことに違いは無いのだ
 ここまで来ると妙に清々しい気分にさえなってくる
 仁王立ちしてがっはっは≠ニ豪快に笑いたくなる心境だ



「ああ、そうさ!!
 メルキゼは俺の可愛い恋人、スイート・ラズベリーパイだ!!
 もう新婚カップルも真っ青なくらいイチャイチャのバーニング・ファイヤー!!
 ねっとりする程甘過ぎる空気に周囲の奴らがバケツいっぱいのシュガーを吐きそうになるんだ!!」


 既に自分でも何を言っているのかわからない

 死語を通り越し、むしろ新たな時代を築き出しそうな勢いだ


「あ、あの、メルキゼデクさんが…」

「そう、あのメルキゼが!!
 奴も俺の事を愛し過ぎちゃって、世界は二人の為にあるのよ状態!!
 普段は可憐に恥らう花の乙女状態だけど、たまに大胆になって迫ってきたりもする!!
 ヒラヒラフリフリのプリチードレスを着て俺にご飯だよ≠ネんて言う姿は新妻そのもの!!
 こんなに可愛い過ぎて困っちゃうメルキゼを俺が愛さずにいられるだろうか、いや無い!!(反語)」

 勢いに任せて物凄い暴言吐き過ぎ
 とりあえず先に謝っておこう


 メルキゼ、許せ


 俺だって好きでこんな寒いセリフ連発してるわけじゃない
 全てはお前に悪い虫を寄せ付けない為なんだ…!!



「……あの、メルキゼデクさんが…」

 船員は俺のいる方角を呆然と見つめていた
 しかし視線は交わらない
 彼の視線は俺を通り越し、どこか遠くを見ているらしい

 可哀想に…よっぽどショックだったんだな…
 でも喋ってる俺も辛いんだ!!

「ショックなのはわかるけど、俺とメルキゼは海より深く愛し合ってるんだ
 俺はもうメルキゼしか見えないし、メルキゼの事しか愛することが出来ない
 第三者が割り込めるような余裕なんて微塵も無い程に、俺たちは激しく熱愛中なんだっ!!」


「…あの…メルキゼデクさんが…」

「ああ、わかってるから
 でもそんなに落ち込むなよ
 きっといつか、いい人に巡り合えるさ」

「いえ、そうじゃなくって…メルキゼデクさんが…」

「ん…?
 メルキゼがどうした?」



「…メルキゼデクさんが―――…カーマインさんの後ろにいるんすけど…」


「………………」



 ヤバい



 その時俺は、空気が凍り付いてゆくのを感じた
 背中を伝う汗が潮風に吹かれて妙に肌寒い

 俺はそっと背後に視線を送る
 動かした首がギギッと音を立てたような気がした


「め、メルキゼ…」

 そこには慣れ親しんだ男の姿があった
 すらりとした、しかし逞しい肢体は見事な変色を遂げていた
 その身体が震えているように見えるのは決して気のせいではないだろう

「……い、いつから…お前……」

「君が…この船の積荷について聞いていた辺りから…
 その、君たちが会話しているのが聞こえて…それで近付いたら…その…」

 要するに、ほぼ全部聞かれていたわけだ
 一番聞かれたくない謎の惚気文句リアルタイムでしっかりとっ!!

 メルキゼの聴力が人知を超えたレベルであった事を今更ながらに思い出す
 それと同時に、あの鼻血噴射地獄の悪夢も脳裏に蘇った

 頼む、メルキゼ
 この船を血に染めるのは勘弁してくれ
 まだ何日もこの船に乗らなきゃならないんだ!!

 俺はこっそりと右手でブイサインを作る
 喜びのサインでも、勝利の合図などでもない
 この指は、いざという時いつでも彼の鼻に指を突っ込める為だ
 しかし、スタンバる俺の心配をよそにメルキゼが鼻血を噴出すことは無かった



「……カーマイン」

 地を這うような重低音

 こんなに低い声出せたのかお前、と言いたくなるほど低い声だ
 何と言うか…ドスのきいた声って感じで迫力がある
 俺と船員は思わず縮み上がった

「えーっと…もしかして、怒ってる?」

 聞くまでもない
 メルキゼの様子を見れば明らかだった

 元々鋭い瞳が、更にキレを増している
 眉間に寄った深い皺が怒り絶頂仁王像の如く迫力を醸し出していた

 …怖い
 もしかしなくても…物凄く怖い


「ひぃえええ―――っ!!
 ご、御免なさいっ、出来心だったんすよ!!
 どうか命ばかりは助けてください―――っ!!」

 船員は転がるように逃げ出した
 恐らく、彼はもう二度とメルキゼに近付こうとはしないだろう…

 あぁ…出来るなら俺も逃げたい
 でもここで逃げ出したらメルキゼがどうなるか…いや、俺が何されるかわかったもんじゃない

 というか…何で怒ってるんだ?
 いや、心当たりは充分にある
 俺と船員との会話で気分を害したのは確実だろう

 しかし――…普段のメルキゼの場合は怒りよりも羞恥心が勝る筈だ
 真っ赤になって恥らって悶えるというのがパターンなのに、今日の彼はどうしたことか


「…腹立たしい…」

 やっぱり怒ってるんだな…
 まぁ、自分のいない所で滅茶苦茶な事言われてたら当然だろう

「そ、そう…だな、うん、ごもっとも
 心の底から反省してます、ええもう本当に」

 ひたすらに平謝りの俺
 元凶は船員にあるとはいえ、俺も言い過ぎたのは確かだ

 嘘とはいえ、あんな事をいわれてしまったのだ
 まだこれから何日も船旅は続くというのに、これではメルキゼも生活し辛い
 船員たちから好奇の視線を向けられたり陰口を叩かれたりする可能性もかなりある
 あまりの事に、きっとメルキゼも羞恥より怒りのほうが勝ったのだろう


「ご、ごめんな…俺、ちゃんとフォローしておくから…」

「…しなくて良い」

「いや、でも…やっぱりこのままじゃ…色々とマズいだろ」

「頼むから、これ以上私を惨めにさせないでくれ…」

 惨め…確かに、そう表現出来るかも知れない
 今後のことを思えば彼が惨めな気分になっても仕方が無い

「えーっと、その…本気で…ごめん」

「もういい…済んだ事だから
 けれど、少しここで独りになりたい
 悪いけれど部屋に戻っていてくれないか…?」

 俺に拒否出来る筈も無い
 メルキゼの事が気になりつつも、俺は半ば逃げるように重い雰囲気から抜け出した



「…カーマイン…酷い…
 私の想いも知らないで、あんな嘘を言うなんて…」

 メルキゼの耳には、二人の会話がしっかり聞こえていた
 だからカーマインが自分を庇って嘘を言ってくれていたのもわかっている

「…恋人…私が、カーマインの恋人…」

 あの言葉を聞いた瞬間、幻聴が聞こえたのだと思った
 自分の妄想が生み出した都合の良い幻聴
 別にそれでも構わない…彼の声で、恋人だと言って貰えたのだ
 それだけでもう感極まって天にも昇る思いだった

 そして、それから数分後―――…


 これでもかと押し寄せるカーマインの惚気にメルキゼは本気で衝天しかけたのだった
 ここが船内でよかった…もし彼の姿が間近に合ったら、間違いなく意識を失っていただろう

 自分の為の嘘だという事は理解している
 それでも嬉しいものは嬉しいのだ
 そう…本当に嬉しかったのだ
 だからこそ、辛く感じてしまう

 嘘だとわかっていながらもときめいてしまう自分の何と惨めな事か
 あまりにも惨めで滑稽で―――…激しい自己嫌悪に陥ってしまう
 そしてその想いは自分自身への怒りと姿を変えた

「…本当に、腹立たしい…
 カーマインの善意に対して、私は何て不純な…
 こんな叶わない想いなど…早く儚くなってしまえば楽になれるのに…」

 それでも、自分はあえて辛い選択をする
 己を苦しめるだけの彼への恋心を、それでもしっかりと胸にしまう
 そんな自分の姿に再び怒りが込み上げてくるのだが―――…


「…それでも…この船に乗っている間はカーマインの恋人として過ごせる…」

 新たなる喜びを見出して、胸ときめかせる意外とタフなメルキゼであった




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