俺たちが乗る予定の船は貨物船も兼ねた小型船さすらい丸
 時は出港時間五分前…という丁度良い時間だ
 港にたどり着いた俺たちはすぐに船を見つけることが出来た

 しかし何故か船は出港準備がされているようには見えない
 それどころか、どこか港は騒然としている
 何か嫌な予感が俺たちに過ぎった


「いや〜…兄さんがた、すまんのぅ
 今朝な、水死体が上がったとかで…ゴタついてての
 悪ぃんだが、出港を一時間ばかし遅らせてもらえんかいな?」


 港に着くなり、さすらい丸の船員はそう言って謝ってきた
 しかしそれは彼らの責任ではない
 俺たちは素直に頷くしかなかった

 しかし…朝一番から縁起が悪い
 新たな旅の始まりの第一歩が、いきなりの死体騒動か…
 つくづく一筋縄には行かない俺たちの人生を物語っているようだ


「水死体か…気の毒にな…」

 俺は朝市の名残であろう空き箱に腰掛けると、身体を折り曲げて寒さを凌ぐ
 早朝という事もあるだろうが、息も凍りつきそうなほどに寒い

 北海道の手稲山は今頃、雪化粧をしている時期だろう
 国際スキー場もそろそろオープンしている筈だ…もう何年も滑っていないが

「南郷通りの冬囲いは終わったかな…
 美園のリンゴ並木は今年も豊作だったのかな…」

 冬を感じると、故郷を思い出す
 腰まで埋まる大雪原の中を、片方の靴を失いつつも横断した日々…


「君の故郷の話?」

「ああ、やっぱり北海道は冬のイメージが強くてな…
 大通公園のホワイトイルミネーションもそろそろ始まる時期だし、
 学校ではきっと今頃、クリスマス礼拝の準備で毎日忙しいだろうな…」

 俺の学校には毎年、巨大なクリスマスツリーが立つ
 校門のところにある木に電球をつけたもので、とにかく存在感があった
 学校の窓には生徒の手作りステンドグラスが一面に張り巡らされて学校全体がクリスマス一色に染まる

 それはとても綺麗な光景だった
 一年のうちで最も学校が美しく見える時期
 この学校の生徒であることを誇りに思える季節だった

 ただひとつ、クリスマスツリーの木がモミの木ではなく、巨大な松の木であることを除けば――…


「…そういえば、この時期になるといつも―――…」

「おっ…こっちの人たちにも何か習慣があるのか?」

 そう言えばこの世界の風土や風俗的なことは何も知らない
 何かこの時期に重大なイベントなどがあるのだろうか

「いや、大した事ではないのだけれど…
 この時期になるといつも、白菜の漬物を作っていたな、と…」

「………。」

 …それは、俺のいた世界と変わらないな…ここは本当に異世界ですか?
 軒先やベランダに連なって干された大根がちらほらと見えるのが切ない
 ああ…田舎の婆ちゃんの白菜漬けと沢庵漬けが恋しくなったな…


「そういえば、お前って料理のレパートリー豊富だけど何の料理が一番得意なんだ?」

 むしろ、作れない料理なんて無いんじゃないか…という勢いだ
 彼の洋食和食なんでも来いといったレパートリーは限度を知らない

「…得意料理は…オニオングラタンのスープかボルシチだろうか…
 それとも薬膳スープカレーか…いや、サバの味噌煮なのかも知れない…」

 本気で国籍問わずだな
 いや、それよりも…サバの味噌煮って…

「カーマインに得意料理はあるのか?
 以前はとても独創的なものを作ってもらったけれど…」

 独創的というか爆発的というか滅殺的というか…
 後にも先にも、あんな料理を作ったのは初めてだ
 一体、なぜあんな事になったのか…今でも謎である

「昔、勤労感謝の日に作ったエスカロップは好評だったな
 でもあれって市販品を並べただけだから実際は作ってないか
 そうだな…小学生の頃に調理実習で作った、鮭のちゃんちゃん焼きかな」

 俺は味噌とバターをこねていただけだったが…
 でも一応、あれも料理だ…と思ってくれ

「私の聞いた事の無い料理名だな
 君の世界特有のものなのだろうか…今度作ってみてくれ」

「…ん…今度こそ変色しないように作るな」

「それは…ありがたい」

 メルキゼの顔が一瞬強張る
 あの時の料理は彼が完食してくれたが、そうとうマズかったらしい
 今度こそ汚名返上…せめて見た目だけでも食べ物に見えるものを作らなければ


 そんな事を、ぼんやりと考えていると突然物凄い悲鳴が港に響き渡った
 絹を裂くような甲高い女性の声だ

「うわぁっ!?
 な、何だっ!?
 モンスターでも出たのかっ!?」

「いや、先程の水死体…の恋人らしい
 まだ二人とも若いというのに不憫なものだ…」

 白い布に包まれた、物言わぬ骸
 その傍らに変わり果てた恋人の姿に縋って泣き叫ぶ若い女性の姿が遠目に見えた

 メルキゼには周囲の声が全て聞こえてるらしい
 貰い泣きしているギャラリーに混じって、ほろほろと涙をこぼしていた

「あー…こらメルキゼ、泣くな
 ここからだと俺が泣かせたみたいに見えるだろ」

 俺はマントの裾で彼の顔を拭ってやりながら、早く船が出てくれることを祈った




「…はぁ…」

 船が出てからも、メルキゼの顔は冴えない
 先程の事がよほどショックなのだろう

 俺も一応はショックだったが、遠目からだったし相手は名も知らない他人だ
 だからサスペンスドラマのワンシーンを見ているような感覚で傍観していたのだが…
 しかしメルキゼの場合はそうではなかったらしい

「君と同じくらいの歳をした男だった…
 可哀想に…人生はまだ、これからであるというのに…」

 涙こそ止まっていたが、それでも哀しげなその姿は充分泣いていた
 彼の姿に、通り過ぎる船員も乗客も一気に悲しみモードへと突入してゆく
 周囲を巻き込むなと言いたいが、一部の女性陣からはまた違った視線を感じるので黙っておいた
 うっとりと頬を染めてメルキゼに見入る女性たちは、彼の本性など知る由も無いのだろう

 とりあえず俺は、こっそりと彼の鼻水を拭いておいた
 中身はアレだけれど、せめて見た目だけは格好良く見せておきたいという心理だ


「愛する人を失うという事は、何て哀しい事なのだろう…
 彼女は恋人に向かって己の無力さを嘆いていた
 やはり愛する人を護りきる事が出来ないというのは耐え難い事なのだろうな」

「ああ、その気持ちなら俺も痛いほど判るな
 俺も恋人を亡くした時に自分の無力さが嫌になった」

 本当に何もしてやれなかった
 約束も守ってやる事ができなかった
 気が付いた時には既に冷たくなっていた恋人の姿は今でも忘れられない

「…恋人を…亡くしている?」

「別にそこまで言う必要ないと思ってたから、言わなかったけどな
 俺がこの世界に来る少し前に、恋人が死んでいるんだ
 原因不明の病気で…何もしてやれないまま、あっという間に冷たくなってた」

 不思議だ
 感傷的になるかと思っていたのに予想外に冷静なのだ
 淡々と言葉が出てくる自分が信じられない
 自分が自分ではないような、奇妙な感じがした


「変だな俺…あんなに哀しかった筈なのに、今じゃ物凄く落ち着いてる
 一生この悲しみは消えないと思っていたのに…俺ってこんなに薄情な奴だったんだ…」

 ショックだった
 引きこもって自閉症になるまで悲しんでいた筈なのに
 今ではもう彼女の死を過去のものとして捉えている自分がいる

 着実に癒え始めてきている傷が後ろめたい
 まるで俺が彼女の事を初めから想ってなどいなかったかのようだ

「俺、要の事が好きで憧れていて…それは本当なんだ
 だから一生彼女の死を悲しんで生きようって思っていた筈なのに…
 それなのにどうして立ち直って来ているんだろう…これじゃあ裏切りだな…」

 そう、裏切りだ
 要の事を愛していると言いながら、彼女の事を忘れようとしている


「…俺…最低だな…」

「―――そんな事は無いと思う」

 がし、と頭をつかまれた
 そのまま俯いていた顔を正面に向けさせられる
 彼らしからぬ乱暴な行為だ

 怒っているのかと恐る恐る顔を窺うと、予想に反して彼は涼しげな瞳で俺を見下ろしていた


「…えーっと…メルキゼ?」

「カーマインは最低ではない、私にとって君は最高な人間だ
 上手く言えないけれど…カーマインが自分の事を悪く言うのは嫌だから…
 ええと…カーマインは悪くない、私はそう感じているから…ええと…ああっもう…言葉が出て来ない!!」

 メルキゼはヘナヘナとその場に座り込んだ
 そのまま両手で頭を抱え込むと苦悶の声を上げる
 気持ちを上手く言葉に出来ないもどかしさに苛立っているらしい

「あぁ…何故私はこうも頭が悪いのだ…
 こんな訳の判らない言葉では慰めにもならない…っ!!
 違う、私が伝えたいのは…カーマインは薄情ではないという事で…ええと…」

「…メルキゼ…」

 彼の言っている事は滅茶苦茶だ
 説得力なんてものは欠片もない

 しかし何故だろう
 必死になって掛けられる言葉は俺が今まで聞いたどの言葉よりも深く胸に沁み込んで行く
 言葉ではなく彼の想いそのものが自分の中に伝わるのを感じていた

 ほわん、と心の一部が浮上する


「…カーマイン、すまない…やはり上手く言えない…」

 しゅん、と力無く項垂れるメルキゼ
 俺はその頭を軽く小突いた

「いや、お前の気持ちは充分伝わったさ
 ありがとうな…メルキゼ、おかげで気が楽になった」

「……?」

 何で? といった表情で首を傾げる彼に俺は無言で手を差し出した
 はっきりした理由なんて俺にだって判らない

 ただ、巧みな話術よりも心からの訴えの方が時として強い力を発揮する事があるのだと、
 そんな事を漠然と考えていた

 現状は何も変わっていないのに、妙に身体が軽い
 何となくだけれど、自分の中の何かが浄化されたような気持ちだった


「…まぁ、カーマインが元気になったのならそれで良いのだけれど…」

 メルキゼはぶつぶつと呟きながら、それでも立ち上がった
 俺の心の中には彼女に対する後ろめたさが燻っている
 けれど、メルキゼの励ましの言葉も確かにそこにあった

 最後にどちらが残るのかは判らない
 ふたつの感情はぶつかり合ってこれからの俺を苦しめるだろう
 しかしメルキゼの言葉に微かな救いの光を感じ取れたのも事実だった

 …焦っても仕方が無い
 時が経てば自ずと結論が出るだろう

 この旅が終わる頃までには…きっと




「そろそろ一時間経ったかな…メルキゼ、港に戻ろう」

 水死体騒動も落ち着いたらしい
 船着場から人だかりも姿を消し、本来の姿を取り戻していた

「あぁ、船員が手を振っている
 私たちを待ってくれていたらしいな…カーマイン、急ごう」

 俺たちはパタパタと船目掛けて駆け出した
 ただでさえ騒動で出港が遅れているのだ
 自分たちのせいで更に遅らせてしまったら申し訳ない


「兄さんがた、やっと出港できそうさの
 今にでも出ることが出来るんだけども、もういいかいな?」

「あ、はい…お願いします」

 気さくな船員はポンポンと俺の肩を叩きながら中に入るように促してくれた
 メルキゼは船に乗るのが初めてだという
 緊張した面持ちで船に足を踏み入れていた

「ほ、本当に海上に浮かんでいる…
 床が揺れているけれど…大丈夫なのだろうか…」

「あー…結構波があるみたいだな」

 小さな船は、高波に激しく揺れていた
 嫌な考えが脳裏を過ぎる

「船員さん、この船…大丈夫ですよね…?」

「兄さんがた心配なさるな
 この船は小さいけども設備は万全さの…ほれ、見てみなされ」

 船員は胸を張って甲板を指した
 そこには何やら色々な器具が積み上げられている
 使い勝手はわからないけれど、船員がそこまで言うなら大丈夫なのだろう

「それなら、安心してて良いんですね?」

「もちろんさね…ほれこの通り救命胴衣は豊富にある
 いつ船が沈んでも、これさえ身に着ければ身体は沈まんよ」

「………………。」

 それは果たして、大丈夫だと表現して良いものだろうか…


「…あの、船が沈まないという保障は…?」

「沈むときは沈むし、沈まんときは沈まんもんじゃよ
 全ては時の運じゃからのぅ…まぁ、肩の力を抜きなされ
 気楽に構えておれば運も味方につくものじゃよ…安心しなされ、兄さんがた」


 この説明でどう安心しろと!?









 …むしろ、不安が倍増してきた
 ここまで危険な船旅はそうないだろう


「野郎ども、イカリを上げろ――っ!!
 出港するぞ、汽笛を鳴らせ――っ!!」

 俺たちの不安をよそに、船員は高らかに声を上げる
 周囲からあいあいさー≠ニ定番の返事が返ってきた
 そのまま下っ端と思われる船員数名が出航の準備に散っていった

 しかしこのままこの船に乗っていては命の保証は無い


「ま、待ってくれ!!
 降ろして…降ろしてくれぇ――っ!!」

 俺たちは口々に叫んだ
 しかし―――…


 ぶお〜〜〜…

 曇った空に間の抜けた音の汽笛が鈍く響き渡る
 その爆音に俺たちの訴えはかき消され、第三者の耳に届く事はなかった

「うわーっ!!
 進んでる、進んじゃってる!!
 しかも想像以上に早い――っ!!」

「ああ…もう岸が遠くに…!!
 船とはこんなに早く移動するものなのか…!?」

 本気で物凄いスピードだ
 わたわたと慌てふためく俺たちに、船員はまったりとした笑顔で告げる

「いつもはもっとスローペースなんじゃがの
 ここまで早いとなると…海流にでも流されておるのかも知れんのー…」

「………………」

 一瞬の沈黙
 そして―――…


「戻って…戻ってくれぇ―――っ!!」

「何か変な方向に行ってないか!?
 ちょっと…何処へ行くんだこの船っ!?」

 真っ青になって悲鳴を上げるメルキゼ
 船の進行経路が気になって仕方が無い俺

 そして――…


「知らんのー…全ては風と運任せじゃのー…」

 腹立たしいほどに達観している船員たち数名…
 お前たち、その仙人のような落ち着きは一体何処から来るんだ!?

「ああぁぁ…船がっ
 船がぐるぐる回ってるっ!!」

「案ずるな、兄さんがた
 救命胴衣は人数分あるさのー」

「沈没を前提に話さないで下さいっ!!
 絶対に嫌ですよ、冬の寒空に漂流するなんて!!」

 溺死は免れても、冷たさに心臓麻痺を起こしかねない
 それ以前に救助が来なければ、そのまま餓死の恐れもあるだろう

「こんなの詐欺だ、金返せっ!!
 いや、金よりも俺たちを帰してくれ――っ!!」

「ああ…岸に戻りたい
 むしろ森へ帰りたい…」

 怒り狂う俺と、さめざめと悲観に暮れるメルキゼ
 態度は違えども、ふたりとも魂の叫びを上げている事だけは確かだろう


「これがこの船の醍醐味じゃな
 船の名もさすらい丸≠カゃしのー…?」

「本当に流離うって判ってたら、こんな船乗らなかったよ!!
 ミステリーツアーじゃないんだから、目的地に行かせてくれよ!!」

「安心しなされ、今まで一度たりとも目的地に辿り着けなかった事は無いからの
 いかなる時も回り道は必要さの、ただ我武者羅に突き進めば良いという事ではない…」

 いや、何か良いい事言ってるっぽいけど実際には単なる言い訳でしかないぞ
 それ以前に、こんな状態で本当に商売が成り立っているのかという事が物凄くに気になる

「客から訴えられたりしませんでしたか…?」

「こんな、いかにも怪しい船に乗ろうとした客は、そもそも兄さんがたが初めてさの
 どんなに金銭的に辛い旅の者も、もう少しまともな船を選んで乗っていくからのー…」

 まともじゃないんですか、この船は
 それに、船員が自ら怪しいと断言するこの船って一体…

「兄さんがた、こんな甲板に居ても良い事なんて無いさの
 謙遜無しに何もない所じゃが下の方の部屋で休んでおりなされ
 寝ておっても大丈夫さね、沈没5分前には確かに知らせるさのー…」

 こんなヤバい船なんかで絶対寝るもんか
 というか、お前…大丈夫っていう言葉の意味判って言ってる?

 それでもこの船員といつまでも話し込んでいるわけにもいかない
 俺たちは温泉のように湧き出てくる不安を呑み込んで、その場を後にした
 しっかりと二人分の救命胴衣を受け取ってから――――…




「あー…もう最悪だ…
 何でこういうハメになるかな…」

 安物買いの銭失い――…というのとは少し違うか
 けれど、うまい話には必ず何か裏があるというのは事実らしい
 物凄く良い学習させてもらった…と思えばまだ気が楽になるだろうか

「客室はここか…期待はしていないけれど
 簡単な睡眠さえとる事が出来れば私は充分だ
 この状況で眠る事が出来るかどうかは判らないけれど…」

 そう言ってドアを開けば、そこには空間が広がっていた
 詩人的に言うならば空虚な宇宙=A俺的に言えば安いラブホの方がまだマシな部屋
 いや、以前に泊まった部屋の無い宿の一室の方がまだ良い待遇だろう


「…ここは…本当に客室なのだろうか…」

 メルキゼは呆然と呟く
 そして引き攣った表情で、恐る恐る部屋の隅を指差した

「カーマイン、この干し草の山は何なのだろう…
 上にシーツのようなものが乗っているけれど、もしかして…」


 これに寝ろと!?


「普通のベッドすら無いんだな、この客室は…
 干し草のベッドって聞こえは牧歌的だけど実際は切ないな」

「草を積み上げただけだから…
 あぁ、ごわごわチクチクして気持ちが悪い…」

 部屋にあるのは原始的なベッド(と呼べるかどうかは微妙な所だ)
 そしてバケツにたっぷりと入った水(清掃用か飲料用かは激しく謎)
 あとは床に直に敷かれたテーブルナプキン(もしかして、これが食卓…?)

「…さすが、価格破壊の域を超えた激安船なだけあるな
 食事付きだって言ってたけど、この調子だと何が出てくることやら…」

 生のイモとか転がされて出てきたらどうしよう…
 いや、海上だから魚かも知れない
 ビチビチ床を跳ね回る魚を丸ごと…とか

 下手したら食中毒や寄生虫の世話になり兼ねない
 あぁ…やっぱり不安だ…


「要…天国から俺たちの船旅を見守ってくれ…」

 写真を握り締めて、ガラにも無く祈ってみたり
 困ったときの神頼み…いや、彼女は神ではなく仏様か…
 どちらにしろ、ご利益があるのかどうかは判らないけれど

「ああ、でも薄情な俺の事なんか助けてくれないかな…」

 しかも彼女の場合、面白がって嵐さえ巻き起こしそうな気がする
 何だか絶望的かも知れない…
 がっくりと項垂れる俺の肩に、メルキゼはそっと手を置いた

「カーマイン、死者を悼む事は大切だと思う
 けれど…その悲しみを乗り越える事は更に大切な事
 悲しみが癒える事は、決して薄情だという事ではない
 君が強く優しく成長して行っているという証なのだと…そう私は思う」

「メルキゼ…お前…」

 彼にしては不自然なほどに、まとまった発言だ
 もしかして、あれからずっと言葉を考えていたのだろうか
 だとしたら彼って、ある意味とても器用な奴かも知れない
 何せ沈没の恐怖に陥り、怯えながら考えていたという事なのだから


「とにかく、私が言いたいのはそういう事だ
 気休めにもならないかも知れないけれど…よかったら記憶の片隅にでも入れておいてくれ」

「………ああ、そうだな…」

 肝に銘じておくよ
 無事に岸に辿り着けた暁には…な
 とりあえず生き伸びる事が先だ
 しかし話題が反れた事で多少気が楽になる
 心にゆとりが出来たことで、他の事にも気が気が付くようになった


「…何かこの部屋、臭わないか?」

「そういわれてみれば…確かに
 どこから臭ってくるのだろう…」

 メルキゼは、きょろきょろと周囲を見渡す
 しかし所詮は小さな船室だ…そこには窓すらない
 だとすれば臭いの根源は室外だろうと、俺は部屋から出てみた

 そして―――…俺は確信を得る


「すぐ隣が…トイレだったよ…」

 当然ながら、水洗ではない
 痛烈な公衆トイレの香りが漂っていた
 鼻をつく…というより目に来る危険な芳香だ

「本気で劣悪な環境だな…食欲も失せそうになる」

 俺はしっかりとドアを閉めると床に胡坐をかいた
 メルキゼは半ば放心した面持ちでベッドに座っている

 頼むから、早く岸に着いてくれ……!!
 俺とメルキゼは心をひとつにして祈ったのだった



「兄さんがた、そろそろ気を取り直して飯でも食いなされ
 所詮は男の料理、味の保障は出来んが量だけはあるさのー…」

 ドアを開いて、船員が入ってきた
 その手にはずっしりとした鍋が握られている

 こんなに大量に持ってこられても困る
 何せ臭覚的にも精神的にも食欲が失せているのだ

 しかしとりあえず鍋に入っているという事は調理されているらしい
 それに加熱されているという事は食中毒の心配も無いということになる
 生の食材を転がされるという事態は免れた…ということに喜ぶべきだろう

 俺は船員に礼を言うと、再びきっちりとドアを閉める
 食欲があるかどうかは別として、とりあえず何か腹に入れておかなければならない

「まぁ、この臭いにもそのうち慣れるだろうし…
 俺たちが気を揉んでいても仕方ないしな
 とりあえず何か食べないと身体が凍えるからなー…」


 ここには当然ながら暖房器具など無い
 身体を温めるためには己の身体で熱を生み出すしかなかった
 その為にはカロリーを摂取するのが一番手っ取り早いし楽なのだ

「その鍋の中身って何?
 とりあえず暖かいものだと嬉しいんだけど」

「…暖かい事は確かだけれど…カーマイン、食べるか?」

 鍋を触りながら、メルキゼは渋い顔をしている
 一体何が不満だというのだろう…判らない
 不審に思って俺は鍋の蓋を開けてみた

「…うっ…」

 立ち上る白い湯気
 そして室内に広がる濃厚な香り


「…………カレー………」

 決して嫌いじゃない
 白いご飯も食べられるし、むしろ好きなメニューだ

 しかし―――…

「何も公衆トイレの臭いが立ち込める中で、
 ホカホカ湯気の立つカレーを食わされるハメになるとは…」

 食べ難いにも程がある
 せめて臭覚的効果が無ければ…

「そうだ、部屋の四隅にカレーを設置したら…!!」

 カレーのスパイスの香りで気にならないかも知れない
 要するにカレーの匂いで悪臭を誤魔化そうという魂胆だ

 俺は適当な皿4枚にカレーを盛ると、それぞれ部屋の隅に置いた

「…………」

「…………」


 何の儀式だこれは
 思わずメルキゼは頭を抱える

「いや〜知らなかったよ
 殺風景な部屋も、四隅にカレーを設置するだけで異様な空間になるんだな」

 本気で物凄く妖しい部屋になった
 シーツを掛けられている干し草が良い味を出している
 更にその中央に座る事で、まるで何かを召喚する儀式のように見えるから不思議だ

「今、船員が入ってきたら言い訳できない状況だな…」

「妙な宗教団体に間違われなければ良いのだけれど…」

 しかも、匂いも微妙な所だ
 むしろ混ざり合って何とも言い難い芳香を漂わせている
 この臭気漂う空気の空間で過ごすか、それともカレー皿を増やして臭気を消すか…

 要するに、臭覚的効果を選ぶか視覚的効果を選ぶか…究極の選択だ


「なぁ、メルキゼ…」

「…何?」

「…カレー皿…増やして良いか…?」

「…………………………構わない…」

 物凄く間があったな…
 やっぱり部屋中にカレー設置は怖いものがある
 しかし吐き気さえも催す刺激臭が漂っているよりはマシだろう

 そして俺は、あるだけの容器全てにカレーを注いだのであった


 数時間後―――…



「うわっ!?
 に、兄さんがた、部屋で一体何をしてるんさねっ!?」

 食器を回収しに来た船員に大層驚かれた








 しかし、憔悴しきった俺とメルキゼは言い訳もせずに、ただカレーに囲まれて虚ろな笑みを浮かべるだけだった


小説メニューへ戻る 前ページへ 次ページへ