「…ふぅ…さっぱりした〜…」


 冷たい夜の潮風で冷え切った身体を、
 宿のシャワーで温めて、ようやく一息吐く

 シェルは濡れた髪をタオルで拭きながら、
 部屋で待つ火波の元へと向かう


 良くも悪くも印象深く思い出に残った初デート

 キャンドルに彩られた夜の港町を、
 二人で歩いた帰り道は何とも言えない甘い雰囲気で

 自然と距離が縮まって、
 思わず手を繋いで帰って来てしまった


 …改めて思い出すと、
 恥ずかしさに耳の先が赤く熱を帯びてくる


 たかが手を繋ぐだけで赤面するなんて、我ながら青臭いとは思う

 それでも恋人と過ごすこれからの生活に
 思いを馳せると自然と胸が高鳴った




「…火波、シャワー終わっ…た……あれ?」


 座っていた筈の火波の姿が見えない

 先にシャワーを浴びていた火波は、
 つい先程まで、椅子に座って寛いでいた


 まさかこんな時間に出掛けるとも思えないシェルは、
 そっと寝室のドアを開けてみる

 もしかすると、シャワーを浴びた事で眠くなったのかも知れない――…



「…火波?」

 薄暗い寝室に向かって声をかけると、
 すぐに低い男の声が返ってくる


「おっ…早いな」

「う、うむ…
 もう眠るのか?」


「いや、そういうつもりでは無いんだが…」

「じゃあ寝室で何をしておるのじゃ?
 シーツはまだ、取り替えたばかりじゃろう?」


「ああ、ベッドを……な」

「む?」


 ベッドがどうかしたのか
 シェルは視線をベッドに向けてみる

 そこには、巨大なベッドが圧倒的な存在感を放っていた



「………うをっ!?」

「どうだ?」


「どうって…これは一体…」

「わしのベッドと、お前のベッドを合わせたんだ
 これでダブルベッドの完成だ」


 即席ダブルベッドを見下ろしながら、
 火波は満足そうな笑みを浮かべる



「シングルベッドに二人で寝るのは無理がある
 おかげでわしも、何度もお前にベッドから蹴落とされた
 だが…こうやってベッドを大きくしてしまえば、もう安心だ
 今夜からベッドから落ちる事無く、暖かくお前と眠りにつけるな」

「……つまり、今夜も拙者を湯たんぽ代わりにする、と…?」


「ああ」

「わざわざ、ベッドまでくっ付けて?」

「ああ」


 悪びれる素振りさえ無く頷く火波




「…………。」


 微かな眩暈を感じて、天を仰ぐシェル

 今のシェルの心境など、
 この男には知る由も無いのだろう


 初デートを終えて心ときめく少年の恋心に、
 突如目の前に現れたダブルベッドが、
 どれほど多大な迫力と衝撃を与えているか、なんて…

 そんなデリケートな少年心なんて、
 このむっつりスケベ男には想像も出来ないのだろう



「…火波よ…つくづく、子供の教育に悪い男じゃな…」

「安心しろ、まだ何もしない
 ただ…少しばかり、暖を取らせてくれれば…」


「………本気で拙者を湯たんぽとして扱う気じゃな……」

「一度暖かいベッドを知ってしまったら、
 もう冷たいベッドの中では眠れないんだ
 体温の無い恋人を哀れんで、暖かな夜を提供してくれ」


「…暖を取る事だけが目的なら、却下じゃ」

「勿論、一番の目的はお前と寝たいという下心だが」


「……………尚悪いわ」

「そう言うな
 ほら、こっちに来い」


 そそくさとベッドに潜り込んだ火波は、
 相変わらずの真顔で手招きをしてくる

 …せめて口元くらいは笑っていて欲しい



「どうしてお主はそう、無表情なのじゃ」

「笑顔は恋人を腕に抱いた時の為に取っておいてあるんだ」


「だからそいういう発言を無表情でするでない
 拙者も反応とコメントに困るではないか」

「笑顔でベッドに誘ったら逆に警戒される可能性があるだろう
 滅多に笑わない奴が急に笑顔になると妙に胡散臭く見えるものだ」



 …自覚があるなら普段から愛想良くしろ

 そう言い掛けて口を噤むシェル
 愛想の良い火波というのも、それはそれで怖い


 何せ火波は吸血鬼
 薄く唇を開くだけで、そこには鋭い牙がキラリと光る

 胡散臭いどころか身の危険をひしひしと感じさせられる笑顔だ
 人通りの少ない夜道でこの笑顔で手招きされたら、軽くトラウマになる自信がある




「むぅ…難儀な男よのぅ…」

「…ほら、いいから寝るぞ
 今、何時だと思っているんだ」


「あー…はいはい
 今日も貞操の危機と隣り合わせの夜が来た…」

「だから何もしないと言ってるだろうっ!!
 そんなにわしは、信用無いか!?」


「だって、恋人と同じベッドで寝ておるのじゃぞ?
 これはもう、男の本能と理性との葛藤ではないか」

「いや、まぁ…確かに
 否定は出来ないが…だが、わしは――…」


「あぁ…火波の巨尻が手を伸ばせば届く範囲に!!
 拙者の欲望に火がつきそうで、いよいよ理性が危うい――…」

「…って、お前の理性かい!!」


 ぽすん

 極力まで威力を落した火波の裏拳が、
 シェルの胸元で気の抜けた音を立てる



「…うむ、良いツッコミじゃ」

「ったく…とにかくわしは、
 お前が誘ってこない限り何もしないからな」


「その理性がいつまで持つか、見物じゃな
 まぁ、32歳の理性がどれ程のものか見させて貰おうかのぅ」

「頼むから、そこで達観しないでくれ…」


 指で軽く額を押さえる火波
 シェルとしては多少ダメージを受け気味の火波の方が話し易い

 一度火波のペースに巻き込まれてしまえば、
 立場が逆転し、途端に自分の方が翻弄させられる

 常日頃から火波を弱らせる言動を心掛けようと胸に誓うシェルだった




「…さて、じゃあ拙者も寝るかのぅ…」


 もぞもぞとベッドに潜り込む
 ベッドは相変わらず人の温もりが感じられない

 毛布の中で触れた火波の足は、
 鳥肌が立つほど冷たかった


「はぁぁ…暖かい〜…」


 うっとりと目を細める火波
 吹雪の中、露天風呂に飛び込んだ時のような表情を浮べている

 しかし恍惚とした表情の火波とは正反対に、
 ひたすら寒さに身を震わせるシェル


「さ、さ、寒い…っ…!!
 体温が…体温が奪われる…っ!!」

「確実に湯冷めしたな
 風邪を引かないように気をつけるんだな
 まぁ…仮に熱が出ても、わしの手で額を冷やしてやるから安心しろ」

「うぅ…蹴り倒したい…
 今夜は3回どころか、5回は蹴落としたい…っ!!」


 このダブルベッドでは、
 いくら蹴っ飛ばした所で火波が落下する事は無いだろうが…



「…まぁ、気にするな
 寝ている内に暖まってくるだろう」

「寒くて眠れぬわっ!!」

 冷え切った爪先を擦り合わせて気を紛らわす


 しかし火波の方は程好く暖まり、既に眠る気満々らしい

 部屋の明かりを吹き消すと、
 そのままゴロリと横たわってしまう


「…じゃあ、わしは眠るから」

「ちょっ…寝るなっ!!」


 明かりを消された部屋は真っ暗で殆ど視界が利かない

 カーテン越しの月明かりで、
 何とか火波の輪郭は確認出来る…という程度だ

 こんな真っ暗な中で、身体が暖まるまで待つなんて暇過ぎる
 大体、この季節でそう簡単に身体を暖めるなんて―――…



「…ああ、そうだ」

 不意に火波が呟く


「な、何じゃ?」

「さっき話していた件だが…」

「……む?」


 さっきの件と言われても、
 どの件なのか判断が出来ない

 首を捻るシェルに、いつの間に近付いたのか、
 微かに笑みを含んだ火波の声が耳元で囁かれる


「……少しくらいなら…触っても良いからな」

「えっ…!?」


 慌てて聞き返すが、
 火波はそれ以上言葉を続ける気は無いらしい

 完全に寝る態勢に入ったようだ


「――――……。」

 一方シェルは、ぽかんと口を開いたまま放心していた
 脳内では火波が囁いたセリフが何度も木霊している



「……さ、触っても良い…って…」


 それは…何処を?
 やっぱりあの巨尻?

 火波は場所を特定していなかったから、
 自己判断で、あんな所やこんな所を触ってもOK?

 火波の言う『少し』の境界線もあやふやだし――…!!


 どきどきどき…

 高鳴る鼓動と共に、一気に体温が上昇した
 むしろ、全身から湯気が出そうな勢いだ



 耳を澄ませば穏やかな寝息
 火波は既に眠りに落ち、無防備に寝顔をさらしているのだろう

 ごくり、と喉が音を立てる


 しかし―――…

 やっぱり寝込みを襲うのは罪悪感がある
 いや、火波の同意は得ているのだから躊躇う事は無いのだろうか


 でも少しの筈が、途中で歯止めが利かなくなったら大変だ

 むしろ、あの火波のことだ
 また狸寝入りをして、途中でシェルを驚かせる作戦かも知れない


 あぁ…でも、せっかく火波からの誘い(?)なのに、
 このまま何もしないで夜を明かしてしまうのも勿体無い

 でも、こういう事は火波の意識がある時に…いや、でも――…!!!



 悶々

 火波に向かって手を差し出しては、それを引っ込める
 そんな事をしている内に、時間だけが過ぎて行く


 身体は充分過ぎるほど暖まった
 しかし、今度は身体が暖まり過ぎて眠れない

 ちょっと気を抜けば、鼻血でシーツを汚してしまいそうになる


「…ね、眠れぬ…っ…」

 ギンギンに目が冴えてしまった
 しかし、かといって火波に手を出す事も出来ず

 結局、朝が来るまでシェルは葛藤を繰り返しながら、
 一人で悶々と過ごすことになったのだった





 翌朝



「……し、シェル…どうした?」

 充血した目
 その下にはクッキリとクマ

 火波が目覚めて最初に見たものは、
 見るからに不機嫌そうな恋人の顔だった


「…ようやく…起きたか…」

「ど、どうしたんだ?
 妙に顔色が悪いが…」



「火波のせいじゃろうが!!
 ああもう…その尻、一度揉ませろっ!!」

「はぁっ!?
 え、え、何っ!?」


「いいから尻を出せっ!!
 この尻のせいで拙者は…拙者はっ!!」

「ちょっ…朝っぱらから何をっ…って、
 いでででででで…痛い、爪が痛いっ!!!!」


 目覚めのキスならぬ、目覚めの尻揉み
 ここまで最低最悪な目覚めのシチュエーションは初めてだ

 くっきりとシェルの爪痕が残った尻をさすりながら、
 火波は二日連続、尻の痛みを抱えて起床する羽目になったという…





「…ったく…何なんだ、一体…」


 釈然としないものを感じながらも、
 朝から不機嫌極まりないシェルを前に何も言えない火波


 触らぬ神に祟り無し

 不機嫌なシェルは下手に刺激しないで、
 ゆっくりと機嫌が直るのを待つ方が賢明だ

 火波は朝食の支度を口実に、
 キッチンに一時避難をしていた


「…はぁ…暖かなベッドと引き換えに、
 尻の痛みが付いて来るとは想像もしていなかったな」


 しかし、何故こんな目に遭うのか

 溜息が止まらない
 いっそ尻に保険をかけたくなる



「やれやれ…尻の触り方から教え込まなければ駄目か…
 まぁ、その方がわし好みのテクニシャンに育て上げられるが――…」

「なにをブツブツ言っておるのじゃ」

「ぅわあっ!?」


 振り返ると奴がいた
 いつの間にキッチンへ来ていたのか

 再び嫌味攻撃が来るかと身構える火波

 しかしシェルは既に機嫌が直っているのか、
 涼しい表情でフライパンの中身を覗き込んで来る



「き、今日は炒り卵…に、ベーコンを入れたやつだ
 それとカボチャの味噌汁とミックスサラダと胡麻豆腐…」

 聞かれてもいないのに朝食のメニューを説明する火波
 そして、そんな説明は全く聞かずに摘み食いするシェル


「うむ、美味しい」

「…それはどうも
 もう少しで準備出来るが…」

「うむ、朝食が終わったら、
 カーマインたちに会いに行きたいのじゃが…」


 どうやら、用件はそれだったらしい

 そういえばあの後、二人はどうなったのか
 気にならないと言えば嘘になる




「…そうだな、後で行ってみるか」

「うむ…じゃが、火波よ」


「…どうした?」

「くれぐれもカーマインたちの前で、
 下ネタ発言をするでないぞ?」


「するわけないだろう
 わしが素で話すのはお前と二人きりの時だけだ」

「嬉しいような、決して嬉しくないような…
 そんな複雑な心境になる返答をありがとう」


「お前が望むのであれば、
 わしがいくらでも下ネタな話題を提供してやるが…」

「望まぬ、絶対に望まぬ」


 何となくこのままの空気だと、
 再び火波の下ネタトークが炸裂しそうな気がする

 食事時にお下劣な話題は遠慮したい
 シェルはいそいそと出来上がった料理を皿に盛り付けてキッチンを後にした







「お…雪だな」


 外に出ると、そこは一面の銀世界だった
 一晩で、随分と積もったらしい

 暗く曇った空から粉雪が容赦なく降り注いできた

 吐く息は真っ白で、
 息を吸い込んだ胸が寒さで締め付けられる


「カーマインたちの小屋は凍り付いておるやも知れぬのぅ…」

「…そうだな…
 普段から隙間風や雨漏りもあったからな…」


 元々、主を失って久しい廃屋だった小屋は
 見事に荒れ果てて建っている事そのものが奇跡的だった

 そんな小屋に更にカーマインの騒動で炎のダメージを与えてしまった
 ここで吹雪などに見舞われたらもう、致命的なのでは…



「…まぁ…そんなボロ屋だからこそ、
 彼らが住み着いても誰も何も言わないのだろうが…
 雪の重みで小屋が潰れでもしたら目も当てられないな」

「雪に関することならカーマインが何とかしてそうじゃが…」


「ああ、確か北国出身だとか…
 とにかく何か出来る事があれば手伝わせて貰おう」

「うむ…そうじゃな
 小屋の修復や補強くらいなら手伝えるじゃろう」

「…小屋が潰れていなければ、の話だが…」



 そんな会話をしている内に、
 何となくカーマインたちが心配になってくる

 自然と急ぎ足になりながら森へと向かう


 この時期の森は人の往来が全くないらしい
 人の足跡すらない山道は、真っ直ぐに進む事さえ困難だ

 既に火波の膝の位置まで雪が降り持っている
 火波は足元の雪を踏み固めながら後ろに続くシェルの為に道を作る



「それにしても歩き難いな
 スキーでも用意したいくらいだ」

「いや、それは止めておいた方が賢明じゃ
 お主の場合、巨大雪ダルマとなって山頂から転げ落ちる光景が目に浮かぶ」


「……うっ…」

「そして、そのまま冬眠中のクマの巣穴に突っ込むオチまで見える」

「………うぅぅ…」

 反論できない
 そんな自分が、ちょっと切なくなる火波だった






「…………………。」


 言葉が出ない状況、というのはこういう状況の事を言うのだろうか

 目的地に辿り着いたシェルと火波は、
 一言も言葉を発せないまま、その光景を見守っていた


 本来ならば小屋が建ってる筈の場所
 しかし――…二人の視界には小屋の姿はない

 かわりに視界に映るもの、
 それは巨大な雪山のような物体



「…あ、火波…とシェル
 遊びに来てくれたの?」

 来訪者に気付いたメルキゼが手を振ってくる

 住処が雪山と化したわりには、
 いつもと変わらない平然とした表情だ


「…め、メルキゼデク…これは、一体…」

「うん…?
 何がどうしたの?」


「な、何が…って…
 この小屋の有様は一体何なんだ?」

「ああ…埋めたんだ」


「…う、埋めた!?
 埋まった…じゃなくて、埋めた!?」

「うん、カーマインと二人がかりで」


 …眩暈がしてきた
 カーマインがついていながら、何故こんな事態に…



「あっ…いらっしゃい」

 二人の来訪に気付いたらしいカーマインが駆け寄ってくる
 彼の表情もメルキゼと同様に平然としたものだった

 そんなカーマインにシェルが遠慮がちに問いかける


「のぅ、カーマインよ…
 何ゆえに小屋を雪で埋めたのじゃ…?」

「あぁ…かまくらって知ってる?
 雪で作った洞窟みたいなやつなんだけどさ」


「う、うむ…知っておるが…」

「あれの要領だよ
 小屋の周りに雪を積み上げて巨大なかまくらにしたんだ」



「…は…?」

「かまくらの中って実は意外と暖かくてさ
 しかも頑丈だから小屋の補強にもなるし
 これで吹雪が来ようが嵐が来ようが安全だ」


「……だ、大丈夫なのか…?
 その、中で火を焚いたりするのじゃろう…?」

「ああ勿論大丈夫
 俺が住んでた故郷でも、
 冬になるとかまくらの中で鍋とかやってたし
 ほら、ちゃんと上に煙突が出てるだろ?」


 カーマインが雪山…もとい、かまくらを指差す
 そこには、確かに煙を吐き出す煙突の姿があった



「というわけで、今日は俺が故郷の鍋料理を作ってやるからな
 本当は後で呼びに行こうかと思ってたんだけど…
 シェルたちの方から来てくれて手間が省けたよ」

「そ、それは…どうも…」


 歯を見せて屈託なく笑うカーマイン
 慣れた手付きでメルキゼと二人で鍋の仕込を始める

 普段と何ら変わりのない、いつもの二人だ


「………た、逞しい…な……」

「…うむ…そうじゃな…
 カーマインらしいと言えば、カーマインらしいのじゃが…」


 どんな嵐が来ようと、吹雪が来ようと
 カーマインさえいれば何とかなる気がする

 巨大なかまくらを前に、
 もう苦笑しか浮べる事ができないシェルと火波だった


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