ぼへ――――……


 朝、目覚めたシェルは
 寝ぼけた頭で天井を見つめていた


 頭に浮かぶのは昨夜の出来事
 冷たいけれど、燃えるように熱かった彼との口付け

 あんなに満ち足りた気持ちで眠りにつけたのは初めてだ


 本当に幸せで
 火波の姿が夢の中にまで出てきたほどだ

 夢の中の火波も優しくて
 大きな手の平で自分を包み込んでくれた



 しかし、シェルが起きた時には既に火波の姿は無くて

 あれは本当に現実だったのか
 どこからが夢で、どこまでが現実だったのか

 その境目が付かなくなっていた


「………むぅ……」


 火波に確認を取れば、すっきりするのだろう

 しかし―――…昨日の今日である
 ちょっと…顔を合わせるのが気恥ずかしい


 火波がいる場所はわかっている

 少し遠くでカチャカチャと食器の触れ合う音がする
 恐らく朝食の用意をしているのだろう

 食事の用意が整えば、火波は自分を起こしに来る
 そのとき、自分はどのような顔をすれば良いのか――…





「シェル」

「ひょわあああっ!?」


 突然掛けられた声に飛び上がる

 振り返るとそこには、
 柱から顔だけひょっこりと出して、こっちを見ている火波


 こんな状態では気配を感じることなど出来ない

 不意打ちだ
 こっちはまだ心の準備が出来ていないのに



「な、な、なんじゃっ!?」

「いや、なかなか起きて来ないから」

「い、い、い、今、起きようと思っておったのじゃっ!!」


 ガバッと勢いよく飛び起きると、
 火波と極力視線を合わせないように洗面所へ駆け込む

 恥ずかしくて、彼の顔が見られない




「……はぁぁぁ……」


 冷水で顔を洗って、ようやく落ち着く
 火照った頬も少しだけ冷えてきた

 こんな自分を、火波は絶対に不審に思っている筈だ
 訊ねられた場合、何と言って答えれば良いのだろう


 いや、それ以前に
 どうやって火波と顔を合わせれば良いのか

 もうすぐ朝食だ
 ずっと洗面所にいるわけにも行かない
 その前に火波が呼びに来るだろうが…



「あぁぁ…ど、どうすれば良いのじゃ…っ…!!」

「シェル――…!!
 朝食、出来たぞ!!」


 ドアの向こうからタイミング良く響く火波の声

 しかし、このドアを開ける勇気が出ない
 火波の顔が恥ずかしくて見られない

 ………が



 ぐぅ〜…きゅるるるる……

 盛大な音が鳴る
 朝食という言葉に自分の胃はしっかりと反応していた


「うぅ…拙者の馬鹿…」

 どんな時でも食欲旺盛
 これはこれで恥ずかしい


 結局、空腹に耐え兼ねてドアを開くシェルだった






 テーブルの上には昨日、シェルが買って来た惣菜が並んでいた

 他にも火波が今朝作ったと見られる、
 出来立ての味噌汁が白い湯気を立てている


「ほら、冷めるぞ」

「う、うむ…」


 ギクシャクと椅子に座る

 緊張で強張っているのか、
 身体の関節がギシギシと音を立てた


 少し間を置いて、火波も椅子を引く
 彼と視線を合わせないように微妙に顔を背けるシェル

 しかし――――…



「……痛っ……!!」


 突然上がる火波の悲鳴
 反射的に火波の方へと顔を向けるシェル

 しまった…と思ったが、
 それよりも火波の方が心配だ


「ど、ど、どうしたのじゃっ!?」

「うぅ…し、尻が……」

「……尻…?」


 顔を顰めながら、自らの尻をさする火波

 椅子の上に画鋲でも落ちていたのか
 それともまさか―――…痔?




「尻を…?
 一体、どうしたのじゃ?」

「どうって…昨夜、お前がやったんだろう」


「…………は?」

「お前が昨夜、わしに3回も…
 おかげで尻が痛くて痛くて…」


 …待て
 その、3回というリアルな数字は何!?

 昨夜の自分、
 一体火波に何をした!?



「きっ…記憶が…っ…」


 覚えていない
 全く身に覚えが無い

 しかし―――…


 現に目の前には尻の痛みを訴える火波
 そして彼が口にする妙に現実的な数字

 これはもう決定的としか言えない



 …犯ったのか?
 しかも3回も…っ!?

 実は凄くイイ思いをしていたのに、
 それを綺麗さっぱり忘れてしまっているのか!?


 も…勿体無いっ…!!

 ―――…じゃなくて!!
 とにかく火波に確認しなくてはっ!!






「ほ、火波ッ!!」

「…な、何だ…?」


「さ…っ…昨夜の事を、詳しくっ…!!」

「詳しく――…って、お前…覚えていないのか?」


「う、うむ…すまぬ……」

「…ったく…仕方が無い…
 じゃあ教えてやる、昨夜お前がわしに何をしたかを」



 ゴクリ、と喉を鳴らすシェル

 聞くのが怖い
 しかし聞かないままだと気になってしょうがない


「…昨夜、お前が先に眠りに付いたのは覚えているか?」

「う、うむ…何となく…」


「問題はその後だ
 事もあろうにお前は、このわしを3回も――…」

「う、うむ…」




「3回も寝返りで蹴り落としたんだぞ!!」

「………………は?」


「あの硬いフローリングの上に!!
 お前は3回もわしを蹴ってベッドから落としたんだ!!
 しかも全部見事に尻から落ちて…
 おかげでわしの尻は青痣だらけだ!!」

「……………………あぁ……そう……」


 フローリングの床がいかに硬かったかを熱弁し始める火波

 しかし―――…
 もう、そんな事はシェルの耳に入らない

 それどころではなくなっていた



「…あぅぅぅぅ…っ…!!」


 …自分は…一体、何を想像して……っ…!!

 かーっと頬が熱くなる
 とてつもない事を考えていた自分が恥ずかしい


 ここがベッドの上だったら、
 間違いなく転げ回っていただろう

 朝から恥の連続だ






「……まぁ、そういう事だ」


 言いたかった事を全て吐き出せたのか、
 妙にスッキリした顔で再び椅子に腰をかける火波

 …当のシェルは途中から全く聞いていなかったわけだが


「じゃあ、気を取り直して食事にしようか」

「……うむ……」



 少し疲れた表情でシェルは箸を手に取る

 すっかり気が抜けてしまった
 そのおかげで、普通に火波の顔を見られるようになったが…


 火波と恋人同士になった途端、
 ここまで飛躍した妄想をするようになるとは

 もう自己嫌悪を通り越して呆れてしまう



「味噌汁、美味いだろう?
 ダシに昆布と海老の殻を使ってみたんだ
 メルキゼデクから美味いダシのとり方を教わって――…」


 今度は味噌汁について語り始める

 料理が上手く行った事が嬉しいのか、
 火波にしては珍しく朝から饒舌だ

 シェルは適当に相槌を打ちながら食事を続ける




「……あ……」


 ちらり、と火波の白い歯が覗く
 そして赤く艶やかな舌も

 ドクン、と胸が大きな音を立てた


 火波と交わした口付け
 あの時の事が鮮明に蘇る

 触れ合ってカチリと音を立てた歯
 口内を蹂躙した、しなやかな舌の感触――…



「はわわわわっ…!!」


 自分は一体、何を考えているのか
 慌てて脳裏に浮かんだ光景を振り払う

 食事中に
 しかも朝が始まって早々に

 自分で自分を叱責する
 しかし胸の鼓動は治まらない



 駄目だと思えば思うほど、
 火波の事を意識してしまう

 彼の唇から目が離せない
 唇から微かに見える赤い舌が妙に艶めかしい

 彼は至って普通に食事を続けているだけだというのに


 どんどん体温が上昇して行く
 きっと、今の自分は茹蛸のように赤面している事だろう

 何とか雑念を振り払おうと、
 目の前のおかずに箸を伸ばす



 色も鮮やかな、真っ赤な辛子明太子
 好物を口にすれば雑念も消えるだろう

 そう思って、シェルはそれを丸ごと口に放り込んだ


 口の中に広がる刺激的な辛さ
 適度な塩味と鼻腔を駆け巡る磯の香り

 そして――――…






「――――――…っ!?」


 声にならない悲鳴
 シェルは思わず両手で口を押さえた

 明太子は薄い袋状の膜の中に無数の卵が包まれている
 それを丸ごと口に入れたのが誤算だった


 つるつるとした薄い袋の食感
 それを吸った時の感触

 それは―――…まさに、火波の舌そのもの!!



 大きさといい、
 柔らかさといい、見事なまでにそっくりだ

 ひんやりと冷たいのがまた、
 体温の無い火波を忠実に再現している


 火波との口付けを忘れようと思って食べたのに

 まさかその行為そのものが、
 昨夜の口付けをリアルに再現してしまうなんて…!!

 思わぬ伏兵の存在に軽く混乱を起こすシェル



 吐き出す事も出来ず、
 しかし火波を連想してしまった手前、
 歯を立てて食い千切る事も躊躇われる

 けれど、このまま口に含み続けるわけにも行かない


「もがっ…はぐぐぐぐ…っ…」


 結局、口を手で押さえたまま悶絶するシェル
 火波に口付けをされているような錯覚にまで陥ってきた

 全身が沸騰したかのように熱い
 心臓はあまりの鼓動に破裂しそうだ




「――――…大丈夫か?」


 コトリ、と目の前にグラスが置かれる
 そして火波はそれに並々と水を注ぎ始めた

 彼は水を注ぎ終えると、
 それをシェルに差し出してくる


「顔が真っ赤だぞ
 そんなに激辛だったのか?」

「―――――…。」



 まぁ…普通は辛子明太子を口に入れて、
 その途端に顔を赤くさせた場合、辛かったのだと思うだろう

 まさか火波の舌に似ていたから――…なんて言える筈もない


 言われた方もリアクションに困るだろう
 なので火波の想像のままにしておく事にする

 これが辛子明太子で本当に助かった
 普通の明太子だったら言い訳が出来ない所だった


 シェルはグラスを受け取ると、
 その水で口の中のものを全て飲み干す

 そして、わざとらしく舌を出して見せた





「あ〜…からかったぁ〜…」

「あんな食い方をするからだ
 誰も取らないから、ゆっくり食え」


 呆れ顔を浮かべる火波

 胃腸の弱い彼は、普段からあまり刺激物を口にしない
 なのでこの辛子明太子はシェルが一人で消費する事になる


 しかし―――…


 明太子の食感から口付けを連想してしまったシェル

 一度そう感じてしまうと、
 なかなかそれを払拭する事が出来ない


 それから暫くの間

 明太子を口にする度に火波の幻影に悶絶する症状、
 名付けて『明太子症候群』に悩まされる日が続く事になる





「……ふー……」


 食後のお茶を片手に、まったりと息を吐くシェル
 ようやく平常心が戻ってきた

 このまま一日、平穏無事に過ごせれば良いのだが


「…なぁ、シェル…」

「む…どうした?」

「今日、これから出掛けないか?
 程好く曇っていて外出日和なんだが」


 曇りの日が外出日和とは

 いかにも吸血鬼らしい発言に、
 思わずシェルの頬が綻ぶ



「ふむ…そうじゃな
 拙者は別に構わぬが…
 何か目的でもあるのか?」

「ああ…とりあえず、
 デートでもしてみようかと」


 ――――…ぶぴっ

 シェルが吹き出したお茶は、
 正面に座る火波の顔面を見事に直撃した


「………おい…水鉄砲か、お前は」

「だ、だ、だって、お主っ…!!
 い、今、衝撃的な発言が…っ!!」


 つい昨夜、恋人が出来たばかりのシェル
 当然ながら今までにデートなんかした事がない

 嬉し恥ずかし、初デート!!




「はわわわわわっ…!!」

「お、おい…そんなに取り乱すような事か?」

「だ、だって、デートって…!!
 拙者は…拙者は――…っ…!!」


「……うん…?」

「な、何を着ていけば良いのじゃ…っ!?
 拙者…一張羅など持っておらぬし…っ!!」


 ずるっ、とその場で盛大に態勢を崩す火波



「…おいおい…そんなお高いデートはしないぞ?
 そのままで良いんだ、そのままで
 それに、お前とわしで今更めかし込む必要も無いだろう」


 一緒に住んでいるんだし…という火波の言葉に、
 確かにそれも一理あると頷くシェル

 しかし、それでもこのままでは気が済まない



「じ、じゃあ…せめて美容院で髪を…!!」

「目の前にお前の専属美容師がいるわけだが」

「…はうっ…!!」


 …忘れてた
 綺麗さっぱり忘れてた


「…御髪…お切り致しますか、お客様?」

「い、い、いや、遠慮させておくれ…」


 突然のデート発言で、
 ただでさえ動悸が激しいのだ

 この状態で更に火波に髪を触られた日には、
 羞恥で憤死し兼ねない勢いだ




「……じ…じゃあ…
 せ、せ、せめてシャワーを……」

「ああ…わしも、丁度そう思っていた所だ
 奇遇だな、折角だから一緒に入らないか?」

「どええええええええええええっ!?」


「…髪、洗ってやるぞ
 本職だからな、結構自信あるんだ」

「い、い、いいいいや、え、遠慮させてもらうっ…!!」


 ぶんっ、ぶんっ、ぶんっ!!
 首が吹っ飛びそうな勢いで首を横に振るシェル


 それはまだ早い
 幾ら何でも早過ぎるっ!!

 初デートすらまだだというのにっ!!




「………嫌か?」

「あ、あ、ああのあの、嫌とか、そういうわけでは…っ!!
 で、でも、でも拙者…拙者は、その何と言うか、ええと…っ!!」


 もう自分で何が言いたいのかわからない
 焦りと混乱が絶頂に達する

 その瞬間、


「…………ぷっ……くく…っ……」


 火波の唇から微かな息が漏れた
 よく見ると、彼の肩が微かに震えている

 しかしやがて耐え切れなくなったのか、
 彼は腹を抱えると盛大な笑い声を上げ始めた


 一瞬、呆気に取られたシェル
 しかしすぐに状況を把握する




「…火波…っ…
 お主、拙者で遊んでおったな!?」

「す、すまない…っ…
 お前の反応が面白くて、ついっ…」

「うぅ〜っ…!!」


 謝りながらも、
 相変わらず声は笑いに震えている

 火波の冗談だったと知って、
 羞恥ではなく、今度は悔しさで顔を赤く染めるシェル

 あの火波に揶揄られたというのが屈辱だ



「むぅ〜っ!!
 お、覚えておれ〜…っ!!」

「あははははは…
 だから、悪かったって」

「笑いながら謝られても説得力無い〜っ!!」


 顔で拗ねて見せるものの、
 内心では一安心のシェル

 正直言って、冗談で助かった




 それでも

 火波とこういう冗談を交わせるという、
 今のこの現状が信じられない


 それに―――…
 火波が少し、明るくなった気がする

 暗く沈んで俯きがちだった彼が、
 こうやって笑顔を見せているなんて



 …そして


 彼を変えたのは、自分
 自分の存在が火波の性格を変えたのだ

 それは憶測ではなく、確信だった


 嬉しい
 火波が自分の影響で変わって行く事が嬉しい

 思わず顔がにやけてしまう



「………し、シェル……?」

 膨れっ面が急に笑顔になったのを不審がる火波
 慌てて表情を戻すシェル


「な、何でもないのじゃ
 し…シャワー、先に使わせて貰うぞ」


 それでも緩みそうになる頬を隠すように、
 シェルは火波に背を向ける

 そして早足で浴室へと向かった


 シャワーを浴びながら、
 シェルはこれからの事に思いを馳せる

 頭の中は既に彼とのデートの事で一杯だった


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