気持ちとは裏腹に、
 その日の朝は随分すっきりと目が覚めた

 隣を見ると既に火波の姿は無い

 ただ、微かに聞こえるシャワーの水音が、
 彼の居場所を教えてくれていた



「火波め…いつもは適当にあしらうくせに、
 昨夜のあの豹変っぷりは何だったのじゃ…」


 未だに信じられない
 まさか、こんな事になってしまうなんて

 しかも…誘われかけた

 あの時もし自分が首を縦に振っていたら、
 恐らく今頃は火波の腕の中で気だるい朝の一時を過ごしていただろう



「…あ、ありえぬ…」


 想像力の限界
 考えただけで眩暈がしてきた

 しかし実は夢でした――…というオチを期待したくても、
 ここまで鮮明に記憶している夢もそう無いだろう

 昨夜の出来事は、紛れもない現実なのだ






「……起きていたか」

「ひゃっ…!?」


 突然背後から声が掛かる
 振り返ると、いつの間にかそこには火波が立っていた

 どうやら気配を消して戻って来たらしい

 起こさないようにと気を遣ってくれていたのか、
 それとも単に悪戯心が湧いただけなのかどうかはわからないが…



「お、驚かすでない」

 胸が鼓動を早める

 昨日の今日だ
 流石に火波と顔を合わせ難い


 しかし当の火波は涼しい顔で濡れた髪を拭いている

 意識しているのは自分だけらしい
 平然としている火波を前に妙に気恥ずかしくなった



「顔を洗って着替えて来い
 今日はこれから買い物に行くぞ」

「えっ…う、うむ」


 いっそ憎いほど平然
 いつもの彼とまるで変わらない

 もしかすると、本当に昨夜のことは夢だったのではないかとさえ思えてくる


「…ほ、火波…」

「どうした?」


「…いや…何というか…
 そうじゃ、帰りにカーマインの所へ寄っておくれ
 ちょっと話があってのぅ…構わぬか?」

「ああ、わかった
 手土産でも買って行くか」


 何の変哲も無い、いつも通りの会話
 もしかすると本当に夢オチかも知れない

 例え夢オチでなかったとしても、
 『酔ってただけでした』というオチなら充分にありえる

 だとするとホッとしたような、少し残念なような…複雑な心境だ



 シェルが着替え終える頃には
 既に火波は出掛ける準備が出来ていた

 指先で部屋の鍵を玩びながら、
 火波はのんびりと時間を潰している


「す、すまぬ…待たせたのぅ
 今日は寝坊してしまったようじゃ…」

「いや…わしが早く起き過ぎただけだ」


 淡々とそう答えると、
 火波はマントを翻して歩き始める

 慌ててその後を追うシェル


 今日の火波は妙に行動的だ
 心なしか機嫌も良さそうな気がする

 いや、そんなことよりも
 あれだけ飲んだのに二日酔いにもなっていない

 珍しい事もあるものだと妙に関心するシェルだった







 ぐぅ…きゅるるる…


「……ぁ…」

 シェルから盛大な音が鳴る

 思わず顔を赤らめる少年に、
 火波が微かに唇の端を上げた


「先に朝食だな」

「す、すまぬ…」


 昨夜は寝るのが遅かったせいか、
 いつもより早く空腹感が訪れている

 一日が始まって早々、格好がつかない
 火波が小食なだけに自分が妙に食い意地が張っているように見えてしまう




「この辺の店に入るか
 お前は確かパンより米派だったな…粥は食えるか?」

「…拙者、もう食せれば何でも良い…」


 火波に連れられて目に付いた店に入る
 市場の一角にあるその店は小さいながらも活気のある声が響いてくる

 朝食時より少し遅めの時間だったせいか、
 店内は思ったよりも閑散としていた

 どうやら活気があるのは店員だけらしい
 若い店員が威勢よく声をかけながらメニューを運んでくる



 ここは粥屋らしい

 飲んだ翌日だからだろうか、
 それとなく胃に優しいものを選んでいる


 空きっ腹を抱えたシェルには少々物足りない

 卵粥をオーダーする火波の隣りで、
 シェルは少しでもボリュームのあるものを探す


「ええと…鮭粥と、豆腐と卵焼きと…佃煮…」


 即効で消化されそうなメニューばかりだ
 後で小腹が空くのが目に見えている

 …後でリンゴでも剥いて貰おう



 ぼんやりと外から聞こえてくる喧騒に耳を傾けていると、
 新たな来客があったのか店員が再び威勢の良い声を上げる

 何気なくそっちに視線を向けると、
 この場にはあまりにも不釣合いな人物の存在に気付く


 火波も気付いたのか一瞬驚いた表情を浮かべる
 …が、すぐに気を取り直して彼らに向かって手を振った

 向こうもそれに気付いたのか手を振り返してくる






「シェル、火波さん、おはようございます
 珍しいですね…こんな所で会うなんて」

 フードつきのローブを目深に被った青年が笑顔で隣に座る

 彼――…カーマインの場合、
 こうして町を出歩く事自体が珍しい


「もう大丈夫なのか?」

「ええ…昨日も大丈夫だったし、
 そろそろ街に出ても良い頃合かと思ったんです」


 水を運んできた店員とも普通に会話をするカーマイン

 まだフードを外すことには抵抗があるらしいが、
 この調子ならすぐに順応する事だろう

 元々カーマインは適応力が高いのだ



「市場なら人通りも多いし、
 カーマインも目立たないと思って…でも、不安だ…」

 おずおずとカーマインの隣に座るメルキゼ

 周囲に対する警戒心からか、
 しきりに周りを見渡している

 彼の方はまだまだ恋人が心配らしい


「良くこんな店を選んだのぅ…」

「小さな店の方が良いかと思って
 でも、まさかシェルたちに会うとは思わなかった」



 見知った顔を見て安心したのか、
 少しずつメルキゼの表情も和らぎ始める

 運ばれて来た食事を取り囲みながら、
 少し遅めの朝食会が始まった


 交わされる他愛も無い会話

 家の中程ではないが、
 それなりにリラックスした空気になる



 ――――…が



 ちら

 ちらっ


 横目で盗み見るような視線を感じる
 視線の主はメルキゼと、カーマイン

 何事かと彼らの方を向くと、サッと視線が外されてしまう



「……………。」

 居心地が悪い
 一体、何なんだ

 心当たりの無い火波は向かいに座るシェルに耳打ちする




「な、なぁ…シェル…
 わし何かしただろうか?
 何故か二人から視線を感じるんだが…」

「あぁ…アレじゃろう?
 やはり気になるんじゃろうな」


「な…何がだ?」

「昨日のセーラー服男事件」

「――――…!!!!!!」


 すっかり忘れていた

 そうだ
 そうだった

 涼しい顔して粥なんか啜っていられる立場じゃなかった



「…あ、あの、な、カーマイン…
 昨日のアレには理由があってだな…」

「………ほ、火波さん…!!」


「ん、な、何だ?」

「大丈夫です…大丈夫ですよ、火波さん!!
 メルキゼだって最初はドレスの女装キャラでした
 でも俺には猫耳のオカマを愛せるだけの度量があります
 だから――…セーラー服マニアの犬男とだって友情、育めます!!」


 曇りの無い真っ直ぐな視線が、今は辛い


 というより『セーラー服マニアの犬男』って…
 やっぱりそういう方面に認識されてしまったらしい

 何が哀しいって、その奇抜なキャラが
 当たり前のように受け入れられているということが哀しい



「…あ、いや…それは誤解だ
 別にセーラー服マニアというわけじゃなくてだな…」

「女装全般的にOKなんですか」


 いや、あの…『OKなんですか』って…

 せめて語尾に『?』を付けてくれ
 そんな断定的な言い方しないでくれ…!!


 完璧に女装趣味だと思われている
 この誤解はそう易々とは解けないだろう

 がっくりと落ち込む火波







「そ、そういえばカーマインよ
 お主らはこれから予定はあるのか?」

 シェルが話題を変えてくれる
 彼なりの助け舟らしい


「メルキゼが食料品の買出しがしたいってさ
 だから俺、荷物持ち手伝うって言ってるんだけど…」

「だ、駄目だって言ってるじゃないか
 だって米とか酒とか…重たいものばかりだから…」


「あのなぁ…
 俺だってそのくらい運べるって!!
 シェルやリャンよりは力も強い筈だぞ?」

「で、でも…
 何かあったら困るよ…
 それに力仕事は私の得意分野だし…」



 食い下がるメルキゼ

 メルキゼはカーマインに、
 箸より重い物は持たせたくないらしい

 恋人を溺愛するあまり過保護になり過ぎているようだ
 しかし、火波にはメルキゼの気持ちも理解できる


 自分だって重いとわかっているものを、
 わざわざシェルに手伝わせて運ばせたいとは思わない

 自分が力自慢なら尚更の事だろう




「…メルキゼデク、わしが手伝おうか」

「えっ…そんな、悪いですよ!!
 火波さんにはいつもお世話になってるのに…」


「いや、こっちこそ世話になっているからな
 それにわしの方がメルキゼも遠慮なく買い込む事が出来るだろう?」

「そ、そう…だね
 じゃあ火波にお願いするよ
 本当は油や洗剤も買いたかったんだ」


 さも安心したかのように笑みを浮かべるメルキゼに、
 カーマインは不機嫌そうに頬を膨らませる

 慌てて火波がフォローに入る



「カーマイン、シェルがお前に話があるそうだ
 相談事ならわしらが席を外した方がいいと思ってな
 すまないが買出しの間、相手をしていて貰えないだろうか?」

「えっ…シェル、そうなの?」

「うむ、実は食事が終わったら、
 カーマインの所へ向かう予定だったのじゃ」


 そういうことなら…と、
 納得の表情を浮かべるカーマイン

 どうやら機嫌を損ねずに済みそうだ



「じゃあ…ここじゃ落ち着かないな
 話をするなら、公園にでも行こうか?」

「う、うむ…」

「よし、じゃあ行こう」


 可愛い弟分に頼られていることを知って、
 途端に使命感が湧き上がってきたらしい

 膨れっ面から一変して、
 その表情は優しい兄貴分のものへと変わっている



「…それじゃあ…私たちも行こうか」

「そうだな…まぁ、大丈夫…か…」


 元気良く外へ飛び出していく二人の姿を見送りながら、
 火波とメルキゼは微笑ましくも一抹の不安を拭い去れない複雑な心境を感じていた







「それで、話って何?」


 まだ午前中のせいか公園に人は疎らだった

 適当なベンチを見つけて腰掛けると、
 カーマインは早速シェルと向き合う


「……もしかして、火波さんとの事?」

「う、うむ…」


 昨日の今日だ
 シェルが話したい事なんて安易に予想がつく



「俺もさ、気になってたんだ
 昨日の朝…あんな事があったのに、
 シェルたちの傍に居てやれなかったから…」


 真っ直ぐ視線でシェルを見つめるカーマイン
 彼なりに心配してくれていたらしい

 火波以外にも自分を気遣ってくれる人がいるのだ
 カーマインの存在が何だかとても大きく感じる




「…カーマイン…」

「俺の知らない間に一体火波さんに何があったんだって
 その辺の事情が気になって昨夜はあまり眠れなかったんだ」


 そっちかい


「…まぁ…確かに、
 尋常ではない有様にはなっておったが…」

「もう…さ、驚きを通り越して、
 一種の感動を覚えちゃったよ、俺」


 ドアを開けたら根暗セーラー男のお出迎え
 とりあえずインパクトの凄まじさは相当なものだっただろう

 下手をすれば新手の精神攻撃とも受け取られかねない
 まぁ…現実的に考えてここまで捨て身な戦法を取る輩はいないだろうが



「朝のあの流れから、一体どんな遣り取りがあったら、
 火波さんがセーラー服を着る展開になるのかまるで想像がつかないんだ」

「まぁ…普通はそうじゃろうな…」

「…で、何があったわけよ?」


 興味津々に瞳を輝かせるカーマイン

 心配<好奇心という本心が丸見えだ
 …というか、本当に心配してくれているのかどうかも怪しい


「フリーマーケットで特大サイズのセーラー服を買わされたのじゃよ
 押し売り同然じゃから火波の意思で買ったわけではないし、
 袖を通す羽目になったのも拙者が原因じゃから決して火波の趣味では――…」

「そっか…まぁ、切っ掛けなんてそんなものだよな」


 何の切っ掛けだ

 というか頼む
 誤解を解かせてくれ



「…か、カーマイン…」

「そんな劇的なドラマみたいな展開が起こらなくてもさ、
 もっと日常的な偶然やトラブルから人生観って変わるものなんだよな
 …うんうん―――…これなら納得できる」


 そこで納得するな


「いや、そうではなくて…」

「火波さんが目覚めた理由は理解できたよ」


 いや、目覚めてないから!!
 理解どころか誤解への道を突っ走ってるから!!


 思考が柔軟なのにも程がある
 オタク脳、恐るべし


「…火波よ…すまぬ…
 拙者にはカーマインの誤解を解くだけの力は無いようじゃ…」


 火波にセーラーを着るよう迫ったのは自分だ
 一応その事に責任を関していたシェル

 こっそりカーマインの誤解を解いて罪滅ぼしをしようと思っていたが…


 ダメだ
 相手が悪すぎる


 遠く離れた火波に向かって、
 心の中でそっと手を合わせるシェルだった








「…それでシェルの方は?
 火波さんとの関係に進展はあったのか?」

「う、うむ…
 まぁ…進展というか…」


 ようやく当初の目的の話題に到達できた
 火波には悪いが自分の事情を先に片付けさせて貰おう

 とにかく現状を相談しないことには、どうしようもない



「へぇ…好きだって伝えられたのか?
 とりあえず仲が深まった切っ掛けが知りたいな」

「……告白はまだしておらぬ
 ただ昨夜…その、拙者が…火波に…」


 流石に口にするのは気恥ずかしい
 火波の唇の感触を思い出して頬が熱くなる

 カーマインの顔がまともに見れなくて、
 シェルは彼から視線を外しながら小声で呟いた



「……火波に…く、口付けを…してしまったのじゃ…」

「へぇ…それってやっぱり、
 セーラー服姿に興奮して?


 絶対違う

 そして何が『やっぱり』だ!!
 どこまで想像力逞しいんだ



「…そ、それで…
 まぁ色々とあって…じゃな…」

「うんうん、それから?」


「何故か拙者が火波に、
 少年の魅力を教えることになってしまって…」

「じゃあ半ズボン用意しなきゃな


 ちょっと待った
 他に言う事はないの!?



「白いソックスと、膝には絆創膏だな
 とりあえず定番のショタスタイルで攻めて行こうか」

 そのナチュラルなノリは一体何?

 というか、頼む
 少しは疑問を持ってくれ


 普通は『どうしてそんな事に?』とか聞くんじゃないか…?
 なのに何故、第一声が『半ズボン』という事に…

 もう奥が深すぎて計り知れない






「要はノンケの火波さんを、
 ショタ趣味に目覚めさせてモノにしようって事だろ?」


 解釈があまりにもストレート過ぎる

 ここまでハッキリ言われてしまったら、
 もう他に何も言えなくなってしまう



「……う、うむ…
 大筋でそんな感じじゃ…」

「よし、ここは腐男子の俺に任せろ!!
 腐敗を極めた人生経験でお前を助けてやる!!」


 何だかとても頼りになりそうな、
 しかし決して頼ってはいけないような、そんな響きだ



「じゃあ、まずはシェル自身がショタの魅力を知る所から始めなきゃな
 ショタと一言で表現しても、そのジャンルは数多くあるんだ
 まぁ大きく分けて素直系かツンデレ系だけど属性は更に細かく――…」


 まずい
 ショタ語りが始まった

 長丁場になるかと思うと、早くもげんなりして来る
 そんなシェルに突然カーマインが真顔で向かい合う





「…なぁ、シェル…
 一つだけお前に聞いておきたいんだ」

「な、何じゃ…?」


「心構えって言うかさ、
 覚悟は出来てるのかな…って」

「か、か、覚悟…?」



 軽い今までのノリから打って変わって重い雰囲気になる

 カーマインが言う『覚悟』の意味を考えてみる
 自然と答えは昨夜の火波との会話へと結びついた


 自分がこれから行おうとしていることは、
 言葉を言い換えれば火波を誘惑するということだ

 火波から性的対象として見られた時、
 自分は逃げずに彼を受け入れることが出来るのか――…


 きっと、カーマインはその覚悟が自分にあるのかどうかを聞いているのだ



「…か、カーマイン…」

「シェル…単刀直入に聞くけどさ
 お前、火波さんの事――…」


「う、うむ…」

「…火波さんの事、
 お兄ちゃんって呼べるか?


 無理です

 というか、
 突然何を言い出すんだ



「か、か、カーマイン…?」

「上目遣いで『火波お兄ちゃん』くらい言えなきゃ、
 ショタマスターとはいえないぞ!?」


 別に極めなくていい
 そんな覚悟は要らん…!!



 心の中で力の限り叫ぶシェル

 カーマインは自分をどんな方向へ導こうとしているのか
 下手に学がある分、始末に終えない


 特定の分野に限り凄まじい知識や能力を見せるが、
 それと同時に暴走するのがオタクという生き物だった

 使命感と好奇心に瞳を輝かせるカーマインを前に、
 じんわりと疲労が溜まって行くのを感じるシェルだった


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