それから数時間後…


 宿の一室の様子は豹変していた
 少年は呆れ顔でその有様を一瞥する

 目の前に転がる空き缶
 じめじめとした空気


 そして、しみったれた酔っ払い


 シャワーを終えた火波は、
 そのまま自棄酒モードへと突入した

 どうやらシャワーを浴びても気分転換は出来なかったらしい


 むしろ改めて自分の痴態を見つめ直してしまったらしく、
 更なる重厚感を持った暗雲を背負って出てきた

 濡れたままの髪が、その姿の惨めさに拍車をかける




「…うぅ…どうせわしなんて…」


 窓すらない壁に向かって涙混じりに愚痴をこぼし、
 酒を煽るその姿の惨めさにシェルの目頭は熱くなる

 この男が自分の父親では無くて本当に良かった
 そう思う一方で、しかしこの男が自分の保護者を名乗っていることに一抹の疑問と不安を覚える


「…また二日酔いになるぞ…?」

 何て学習能力の無い…

 また苦しい思いをするとわかっている筈なのに
 己の酒量もわきまえている筈なのに



「…お主は悲しい程、酒に弱いのじゃぞ…?
 そんなペースで飲むのは自虐行為としか思えぬが…」

「飲ませてくれ…
 もう飲まずにいられないんだ…」


「自棄酒を煽る程ショックだったか…?」

「唯一…唯一、わしと真っ当に接してくれていたカーマインに…
 カーマインに、あんな酸っぱい痴態を曝してしまったんだぞ…?
 これで彼の純粋な瞳がもうわしに向けられる事は無いんだ…っ…」


 いや、純粋な瞳と言われても
 そもそもカーマインは純粋な心の持ち主とは言い難くて

 …そもそも彼は自他共に認める不健全上等・オタク腐男子なのだが




「…あの大きな澄んだ瞳はもう帰って来ない…
 今度からわしに向けられるのは軽蔑の冷たい視線なんだ…」

「いや、むしろコスプレイヤー仲間として
 親近感を抱いた視線で受け入れられると思うのじゃが…」


「わしの頼れる大人の男というイメージが…」

「いや、お主にそういうイメージを抱いておる輩は誰もおらぬぞ?」


「だがわしがセーラー服を着ていたという事実は、
 しっかりと、確実に奴らの記憶に残ってしまったんだ!!
 明日から一体、どんな顔をして奴らに会えばいいんだ…!!」

「ユリィのようなキャラで行ってみてはどうじゃ?
 ここはいっそ、カマキャラとして新たなデビューをした方が潔いぞ?」

「そんな破滅行為出来るかっ!!」


 ぐびぐび

 ビールの空き缶が増えて行く
 恐らく明日はトイレと仲良しになっている事だろう






「…やれやれ…湿っぽい男じゃのぅ」

 相手にしていられない
 少年は足早にその場を後にする


 …が、もう日も暮れてきている

 今から特に出来る事も少ないので、
 とりあえずシャワーを浴びに浴室に向かうシェル

 先程まで火波が使っていた浴室は、まだシャンプーの香りが残っていた



「…ふー…相変わらずのダメ男じゃなぁ…」


 二日酔い街道まっしぐらの火波に呆れ果てるシェル

 付き合っていられない、と思う一方で、
 しかし、だからこそ自分がしっかりとついていてやらなければ、とも思う


 要領の悪さ、運の悪さに加えたヘタレっぷり
 外見の逞しさとは裏腹にニワトリにすら嘲笑されるような気の弱さ

 それでいて、すぐに落ち込み酒に逃げるという悪い癖の持ち主



「…なんで拙者、あんな男に惚れたんじゃろ…?」


 火波の欠点ばかりが目に付く
 それでも…だからこそ、放っておけないのだ

 もしかすると最大の貧乏くじを引いてしまったのは、
 こんなヘタレに本気で惚れ込んでしまった自分なのではないだろうか


「あぁ…拙者にまで火波の不幸体質が感染してしまったのじゃろうか…
 この後、酔っ払いの介抱が待っていると思うだけで疲れてくるのぅ…」



 二日酔いの無様な姿のまま放置してやりたいところだが、
 愛する男がゲロまみれで便器を抱いて寝ている姿を二度も見るのは切ない

 それに、ここで恩を売っておいた方が利益が高い
 この事をネタにして火波を苛めて遊ぶことも出来る


 この労力の採算を合わせる為には、
 火波に一体何で穴埋めをして貰えば良いか

 計算高くしたたかな少年は、最も効果的な案は何かと考えをめぐらせる




 不意に公園での彼の姿が思い浮かんだ

 彼にしては珍しい悪戯っぽい笑顔
 そして低い声で、耳元で囁かれたあの一言

 ――人気のない暗い場所でなら戯れに唇を重ねても良い――…


「………っ…!!」

 一気に体温が上昇した

 あれは冗談だと頭では理解できているのに、
 どうしても冗談として受け流せない自分がいる


「馬鹿か拙者は…
 冗談を真に受けて火波にキスでも迫るつもりか…?」


 無理だ
 絶対に無理だ

 そんな事を彼の前で口走ろうものなら、
 それこそ次の瞬間から火波にどんな顔で会えば良いのかわからなくなる




「…じゃが、火波が泥酔した状態なら唇の一つくらい奪うことは容易い――…」


 ………。

 ……………。


「―――…って何を考えておるのじゃ拙者はっ!!」


 一瞬、本気で考えた自分が許せない

 流石にそこまで追い詰められてはいない
 いくらなんでも寝込みを襲う程、切羽詰ってはいない――…はずだ


 そう自分に言い聞かせながら、
 シャワーで身体を洗い流す

 身体が温まって、ようやく心が落ち着いた頃には既にかなりの時間が経っていた





「さて…そろそろ酔っ払いの回収に行くかのぅ…」


 棚の上に乗せていたタオルに手を伸ばす
 すると指先に何か硬いものが触れた

 明らかにタオルの感触とは違う冷たくて硬い素材


「……むぅ……?」


 手繰り寄せてみると、それは火波のサスペンダーだった


 握ってみると、微かに湿り気がある
 どうやらここで洗濯をして乾かしていたらしい

 乾き具合から察するに、恐らく今朝方洗ったものだと思われる
 てっきり朝帰りの際、女の元に忘れてきたと思っていたのだが――…


「……そうか…火波にそんな甲斐性、無かったか……」


 ほっとすると同時に、
 朝傷ついていた自分が滑稽に思えてくる

 …それでもとりあえず詳しい話を聞こうと、
 念の為にサスペンダーを握ったまま火波の元へと向かった





 シェルがシャワーを済ませて出てきたとき、
 火波は既にベッドに横たわっていた

 どうやら酔った挙句に眠ってしまったらしい


「…火波、火波、起きておくれ〜」


 ゆさゆさ

 だめもとで揺すってみると、
 火波がうっすらと目を開く



「……ぅ…ん……?」

「このサスペンダーは、どうしたのじゃ?」

「……ぁ…んぁ…?」


 言葉になっていない返事が返ってくる

 どうやら寝ぼけているらしい
 その上、酔っているので更にタチが悪い



「お、おい火波、寝るな!!
 昨夜…というか昨夜から夜明けにかけて!!
 一体何があったのか話すのじゃ!!」

「……んん…昨夜ぁ……んー…」


 一応、話は通じているらしい
 考え込むように首を傾げる火波

 昨夜の事を思い出しているのか、
 それとも単に眠いだけなのか微妙なところだ


 …後者ではない事を祈るしかないシェル





「…昨夜は…海で忍者に誘われて…」

「……お、おい…また忍者か?
 何でそう、忍者にばっかり絡まれるのじゃ…」


「ん…忍者と酒飲んで…部屋中を走って…
 相談に乗ってもらって…吐いて…風呂借りて…」

「走って…って、どんな状況じゃ、それは…」



 相変わらず珍しい災難に見舞われる男だ
 しかしその忍者とやらも、散々だった事だろう


「……吐いて汚れたサスペンダー…袋に入れて帰って…
 …お前がいなくなって…メルキゼが来て…話しながら洗濯して…」

「いや、もう良い
 大まかな流れは理解できた…筈じゃ」



 火波の朝帰りの原因が女ではなかった


 それがわかっただけで充分な収穫だった
 少なくとも現時点で、恋のライバルの影は見当たらない

 今はまだ火波の隣りを独占できる




「ふふっ…起こして悪かったのぅ
 もう眠っても良いから安心して寝ておくれ」


 胸のつっかえが取れて、急に上機嫌になるシェル
 鼻歌交じりに自主的に部屋の片付けを始める

 床に転がった空き缶を捨て、
 酔っていたせいか乱雑に畳まれていた衣類を綺麗に畳み直す

 そして火波のサスペンダーを窓際に干すと、
 自分も寝間着に着替えてベッドに向かった



「今夜は夢見も良さそうじゃのぅ…」

 これで夢に火波が出て来てくれれば言う事無し
 そして、出来る事なら公園での戯れの続きを――…


「…わ、わわわ…!!」

 思わず火波と唇を重ねる自分の姿を想像してしまい、
 慌ててその想像を振り払うシェル

 どうやら口達者な少年は想像力も逞しいらしい



「…はぁ…火波が、あんな事を言うからじゃ…」

 赤く火照り始めた頬を手の甲で冷やしながら、
 シェルは火波に恨みを吐く


 すっかり陽の落ちた外
 薄暗い部屋の中

 当然、自分と火波の二人っきり
 しかもここは寝室――…

 こんな状況では、嫌でも意識してしまう


 恨めしげな視線を火波に向ける
 しかし当の火波は既に眠りに落ちているらしかった




「――――……。」


 浴室での考えが再び蘇る

 火波が熟睡している状態なら、
 こっそり唇を重ねても気付かれないかも知れない…


 そんな事をしてはいけない

 心ではそうとわかってはいても、
 どうしても好奇心の方が勝ってしまう


 少しだけ
 一瞬、唇に触れるだけだ

 そう自分の心に言い訳を繰り返す


 忍び足で火波の傍らに寄ると、
 極力音を立てないように、その顔を覗き込んだ



 いつもは青白い顔がアルコールのせいか、
 少しだけ赤みを帯びている気がする

 規則正しい寝息が頬にかかって、シェルは動悸が早まるのを感じていた


 しっかりと火波の瞳が閉じられている事を確認する

 …大丈夫、眠っている
 熟睡しているのか寝返りを打つ気配さえ無い


 ……今なら、気付かれない―――…



 そう思った途端に緊張してきた
 震える指先がじっとりと汗ばんでくる

 今ならまだ引き返せる――…が、
 ここまで来て何もしないで逃げるのもプライドが許さない


 シェルはゆっくりと、その唇に顔を寄せて行く

 吐息で起こしてしまうかも知れない
 そう思うと呼吸をすることさえ出来なかった


 こんなに近くで火波の顔を見るのは初めてだ
 緊張に震えながら、シェルは火波の唇に自らの唇を重ねてみる

 火波の唇は、ひんやりと冷たかった
 少し乾いているが思っていたよりも、ずっと柔らかい



 触れるだけ、ただ重ねているだけの口付け

 それでも満足だ
 こうして触れているという事実だけで満ち足りている


 本当ならば、いつまでもこうしていたい

 しかし呼吸が苦しくなってきた
 息を止め続けているのも、もう限界だった


 …名残惜しい


 しかしリスクを考えれば離れるしかない
 ここで彼に気付かれてしまえば全てが終わってしまう

 後ろ髪引かれる思いを断ち切るように、
 シェルは素早く彼から離れた


 すぐ隣りにある自分のベッドに乗ると、
 胸いっぱいに空気を吸い込む

 …苦しかった

 こんなに苦しい思いをしたけれど、
 それ以上に幸せな気分だった


 自然と顔がにやけて行く





 初めての口付け

 しかも火波と
 …本当に、してしまった


 その事実を再認識して、
 今更ながらに羞恥心が込み上げて来る

 確認しなくてもわかる、
 今の自分はメルキゼ顔負けの赤面っぷりだろう


 鼓動が激しい
 まるで時計台の鐘が激しく打ち鳴らされているようだ

 心臓の音が全身に響き渡っている



 あんなに冷たい唇でも、シェルに火をつけるのは容易い

 嬉しくて恥ずかしくて…どうしたら良いのかわからない
 今更ながらに自分の大胆な行動が信じられなかった


 時計の針は、もうかなり進んでいる

 もう寝なければと思っていても、
 こんなに舞い上がって興奮した状態で眠れる自信が無い

 昨晩眠っていないにもかかわらず、
 睡魔が訪れる兆しは全く見られなかった


 …いっそ、眠らなくても良いかも知れない
 この余韻に浸りながら一晩過ごすのも悪くない気がした


 こんなに幸せな気分なのだ
 眠ってしまうのが勿体無い

 どうせなら火波の寝顔をもう一度楽しもうと振り返る



 ……心臓が止まるかと思った


 閉じていた筈の火波の目が、しっかりと開かれている
 薄暗い闇の中、血のように赤い瞳が自分を見据えていた

 上半身を起こした状態で、
 火波は無言のまま見つめてくる


 火波は起きていたのだ
 絶対に知られてはいけない行為を知られてしまった

 火照っていた熱が、一気に失われて行く




「…シェル」


 静寂を破る低い声
 シェルの身体がびくりと反応する

 怒っているのか、不快感を感じているのか
 表情からも、声のトーンからも判別できない


 何の感情もこもっていない気もするし、
 強い怒りの感情を押し殺しているような気もした

 しかしその声はシェルを萎縮させるのには充分だった


「…お前…今、何をした…?」

「――――…っ…!!」


 責めるような眼差し
 それとも怒りか軽蔑か

 火波の視線が怖い


 胸が先程までとは違った鼓動を打ち始める
 緊張ではなく、今度は恐怖で全身が震える

 背筋を冷たい汗が伝った
 喉が引き攣って言葉が出てこない


 恐怖と後悔に全身を凍りつかせながら、
 シェルは頭の中が真っ白になって行くのを感じていた―――…


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