「…それで、火波さんと何があったんだ?」


 少し落ち着いてきたシェルを椅子に座らせて、
 温めたミルクを差し出してみる

 大人しくそれを受け取ったシェルだったが、
 火波の名を聞いた途端に再び表情を曇らせた

 それでも、ぽつりぽつり言葉を紡ぎ始める



「………火波が……朝帰りした…」

「へぇ…火波さん、やるなぁ
 そうだよな、顔も良いしモテて当然だな」

「……ん……」

「まだ若いんだし、これからいくらでも人生やり直せるもんな
 いっそこの街で恋人でも作って、釣りでもしながら家庭を築くのも悪くないかもな」

「…………………。」


「考えてみれば勿体無いよな、あの容姿でフリーなんて
 せっかくの色男なんだから、もっと色々遊べばいいんだ」

「………………やだ……」

「―――…へっ…?」


 机に突っ伏して、
 再びべそべそと泣き出すシェル

 歳のわりに大人びている少年が、
 こうやってぐずっている姿自体が珍しい

 精神年齢はある意味メルキゼよりも上という認識をしていただけに
 カーマインはシェルの豹変ぶりに驚きを隠せない




「…シェル、どうしたんだ…?」

「………火波が…火波がモテたら嫌だ……」

「――…はぁ?
 だってシェル、自分で言ってなかったか?
 火波も恋人の一人くらい作れば良いのに――…って」

「…言った…でも、火波はそんな気は無いって…
 拙者も本当に作る筈が無いって思っておったし、
 今までだって全く女の影も無かったし…なのに、なのに……!!」


 そういって頬を拭う少年を前に、
 カーマインはシェルの涙の理由に見当をつけた

 つまり―――…



「…そっか、お兄ちゃんを取られちゃった気分なんだな」

「………う…っ…?」

「火波さんってシェルにとっては保護者だけど、
 関係的には歳の離れた兄弟みたいなものだったろ?
 仲の良いお兄ちゃんを知らない女の人に取られちゃって、
 それでヤキモチを焼いてるってわけなんだな?」

「………………。」


 悔しそうに唇を噛み締めるシェル
 どうやら図星だったらしい

 …初めて子供らしい一面を見た気がする





「……火波は…拙者より、その女の方が好きなのじゃろうか……」

「比べようが無いと思うけどな
 火波さんはシェルの事も好きだと思う
 ただ、仲間として好きっていうのと、
 恋人として好きっていうのとでは似て非なるものだし…」


「……嫌…嫌じゃ……
 火波に恋人なんて…嫌……」

「…シェル…?」

「……嫌じゃ……
 その女に逢ったら、拙者は何をするかわからぬ…っ!!」

「お、おいおい…落ち着けよ、な?」



 一向に泣き止まないシェルに、
 カーマインは首を傾げる

 シェルがそんなに火波に執着しているとは思わなかった

 大きな瞳が涙で腫れている
 悲しみに濡れた孤独を湛えた瞳

 その瞳は以前、どこかで見たことがあった



 そう―――…あれは確か、
 自分とメルキゼデクが互いの想いを確かめ合う前

 些細な事ですれ違っていた恋心

 悲しい瞳で『自分の恋は実らない』と何度も口にしていたメルキゼ
 嫉妬と孤独、そして抑制の出来ない程の愛に狂っていたあの瞳


 ……似ている……

 そんなまさか、という考えと、
 でも、もしかしたら――…という考えが葛藤を起こす


 しかし、憶測を立てていても仕方が無い
 目の前の本人に直接聞いた方が早いだろう

 訊ねるには勇気が要るが――…






「……あの、さ……シェルって……」

「…うむ……?」

「……もしかして、火波さんのこと…好き?」

「………………。」


 無言のまま首を左右に振るシェル
 そして力の無い声で、搾り出すように言葉を吐き出す

 苦々しい表情は年端の行かない少年が浮かべるにはあまりにも苦しそうだった



「……火波は…好みではない……
 頼りないし、ヘタレで気が弱くて……」

「それで?」

「……要領も悪いし、地味じゃし……
 あんな男に拙者が惚れるわけがないじゃろう……」


「……そっか」

「そう…じゃ…
 火波よりも顔が良くて、強くて…
 とにかく、もっと良い男が拙者の理想なんじゃ
 だから…火波には惚れぬ…あの男は拙者の好みではない…」


 今まで何度も口にした言葉
 いつもは何気なく聞き流していたその言葉
 しかしその中からカーマインは一つの確信を得る

 シェルが繰り返していた『火波より良い男』という言葉
 火波より上であることを基準とした、その意味をカーマインはようやく知った



「火波さんよりいい男、か…
 そうだよな、そうじゃないと駄目なんだよな
 火波さんを忘れるためには、そうするしかなかったんだな」

「………ぅ………」

「やっぱり好きだったんだな、火波さんのこと」


「うわあああああああああああん!!!」

 その途端、堰を切ったように泣き伏すシェル
 心の内を見透かされて、今まで築き上げていたものが一斉に崩れ始めた





「でも…でも、火波は…っ…!!
 火波は子供も男も愛する趣味は無いって…!!
 だから絶対に火波だけには惚れないでおこうって…そう思ってたのに…!!」

「………好きになっちゃったんだ?」

「認めたくなかった!!
 だから何かと理由をつけて火波を見下しておったのに…」


「まぁ…仕方が無いよ
 自分の心にだけは嘘はつけないから
 シェル自身だって、それはわかっていたんだろ?」


 何度も頷くシェル
 火波の事は騙せても、シェル自身はそうは行かない

 少年は悔しそうに唇を噛む




「……認めない…認めるわけには行かないのじゃ…
 愛しては貰えぬとわかっている相手に惚れ込んでも…仕方が無い…
 こんな想いを抱えたままでは…あまりにも…あまりにも拙者が惨めではないか…!!」


 それが理由

 初めから実らないと理解していたからこそ否定するしかなかった
 認めてしまえば、更に苦しくなるとわかっていたから


「…そっか…そうだったんだな…」

「だから…だから、火波の事は好きではない…
 そうとでも思わなければ…辛くて、火波と一緒に居られぬ…」



 愛されてはいなくても、火波が大切にしてくれている事はわかっていた

 だから不満や苦しみも抑えて平静を保つ事ができていた
 少なくとも今の自分の立場を受け入れることは出来ていた


 しかし、火波に愛する人ができたら―――…

 平静なんて保っていられる筈が無い
 火波に愛される存在がいることが許せない


 男の身では絶対に得ることが叶わない彼の愛

 …嫉妬で狂う
 相手の女を切り刻んで、どこまでも堕ちて行くだろう





「…火波に知られたら…仲間としての立場も危うくなる…
 だから…カーマイン、頼むから火波には何も―――…」

「ああ…わかってる
 俺は何も言わないし、言う気も無いけど…
 でも、シェルと火波さんの距離が近付く事を祈ってるよ」

「…………ありがとう………」


 寂しそうに微笑むシェル

 子供だと思っていたけれど、その表情は自分よりずっと大人びていて
 彼がどれだけ苦しんできたのか、その切なさを嫌でも感じさせる



 自分ではどうする事もできない
 シェル自身も誰かの助けを得る事は望んでいない

 これはシェルと火波の問題だ


 いくら可愛い弟分が苦しんでいても、
 ここは自分の出る幕ではないのだ

 もどかしいけれど、それが現実




「……黙って出てきたのじゃ……」

「…うん……?」

「火波…心配しておるじゃろうか…
 いや、それより怒ってるやも知れぬな…」


「メルキゼがフォローしてると思うけど…
 火波さんのことが気になるなら、宿に行こうか?」

「…ん……落ち着くまで、少し待って……」

「ああ、ゆっくりして良いからな…」


 平常心を取り戻そうとカップに口を付けるシェル
 その姿が妙に悲しく見えてカーマインは思わず目を逸らした








「街を歩くのも久しぶりだなぁ…」



 シェルと二人で港町を歩く

 一応ツノや翼は消してはあるが、
 念を入れてフード付きのローブで姿を覆い隠している


 慣れないローブ姿で歩きにくそうだが、
 それでも久しぶりの喧騒にカーマインは楽しそうだった

 …シェルを気遣って、意図的に明るく振舞っているのかも知れないが



「ここの宿じゃ…」

「へぇ…見晴らしが良さそうだな」

「うむ、夜になれば灯台の明かりが綺麗なのじゃ
 火波もここからの景色は気に入っておってのぅ…」


 毎晩シェルは火波と夜景を眺めて過ごしているのだろうか

 その時のシェルの心情を思うと、
 胸の中に苦いものが広がってくる

 しかし当のシェルは先ほどの涙は片鱗も見せず、
 飄々とした表情で勝手知ったる宿の中を進んで行く




「……ただいま―――…」


 鍵は開いていた

 ドアを開いて中を覗き込むと、
 そこには見知った男の影が二つ

 先に振り返ったのはメルキゼデクだった



「…あ…カーマインたちも来たんだ
 外に出て大丈夫だった?」

「ん…まぁな
 それで、何話してた?」


「うん、ちょっとね…
 ええと…火波がシェルに話があるっていうから…
 来て早々悪いけれど、邪魔にならないよう外に出ていよう?」

「……えっ……あ、ああ…でも、えーと……」




 シェルの事情を知っているだけに、
 今二人きりにしていいのか躊躇われる

 しかしシェルは顔色ひとつ変えずに目で頷いた


「行こう、カーマイン」

「……じ、じゃあ…ちょっと外歩いてくるから……」

「うむ、すまぬな
 それと…送ってくれてありがとう」

「…あ、ああ……
 後でまた来るから…」


 シェルが心配で堪らない
 こうなってはこの部屋に留まる事もできない

 カーマインは後ろ髪引かれる思いを抱きながら、
 メルキゼに連れられて部屋から立ち去っていった







 メルキゼとカーマインが居なくなると、
 狭い宿の一室の中はしんと静まり返る

 気まずい空気にシェルは内心冷や汗をかく
 正直言って、カーマインたちに傍に居て欲しかった


 しかしこれは自分たちの問題だ
 下手にカーマインたちを巻き込んで迷惑をかけたくない

 シェルは出来る限り平静を装って火波に向き合う



「……その…勝手に出歩いて悪かったとは思う」

「…いや、わしもメルキゼデクに咎められた
 非はわしのほうにあるから、お前が謝る必要は無い」


「…え……?
 火波が…メルキゼに怒られた?」

「……ああ……」


 一体何故?
 どんな理由で?

 いや、それよりも―――…




「……ちと…見てみたかったのぅ、その光景……」

「……おい……」

「いや、何となく気になってのぅ
 メルキゼに説教される姿が想像がつかなくて…
 一体、何と言って怒られたのじゃ?」


「…お前を…もっと大切にしろと釘を刺された
 確かにわしは、お前を何かと危険な目に遭わせている
 お前の保護者を名乗っておきながらこのザマだ…我ながら情けない」

「……お主が情けないのは今に始まった事ではないじゃろう」



「ああ…わかってる
 メルキゼデクとずっと話していた」

「…うん……?」


「シェル、お前は――…
 わしに何か望む事はないか?」

「……は……?」

「いや、わしは不器用だから…な
 そのせいでお前にストレスを与えていると窘められた
 だからもっとお前の意見を聞いて、我侭に付き合ってやれと言われたんだ」

「…えっ…」


 メルキゼは気付いていたのだろうか
 火波には完璧に隠し通せていた、胸に抱く欲求の不満を

 お世辞にも、そんなに洞察力があるタイプには見えなかったが―――…




「…ああそうか、野生の勘というやつか」

「……うん?」

「い、いや、何でもない」


「そうか…?
 言いたい事は我慢するな
 わしのせいで、ストレスが溜まっていたのだろう?」

「……ええと……」



 確かに原因は火波だ

 しかし彼の解釈と現実には大きな語弊がある
 シェルは別に火波自身に対して不満を抱いていたわけではない


 だが、それを彼に説明するのは至難の業だ
 忍んだ恋心がストレスの原因だ――…とは流石に言えない

 結局何も言えず、俯くしかなかった



「…口の減らないガキだと思っていたが…
 お前なりに気を遣っていたというわけか…」

 シェルの無断外出の理由を、
 ストレスが爆発した故の反抗だと思い込んでいる火波

 実際は爆発したのはストレスではなく、火波への想いなのだが――…
 今はただひたすらにそれを押さえ込むしかない







「……何かと難しい年頃なのじゃよ、拙者も」

「そうか…そうだな…
 だが、わしにだけは気を遣うな
 わしに余計な気を回すくらいなら、
 その分をメルキゼデクやカーマインに還元してやれ」

「……うむ……」


「お前の我侭に付き合うのも…たまにはいい
 だから、言いたい事は包み隠さずわしに言え
 わしに出来る事なら何でもしてやるから――…言ってみろ」

「………………。」


 言ってやろうか
 本当に言ってやろうか

 ここで正直に『火波が欲しい』と言ってやれば、
 目の前の男はどんな反応をするだろうか




「―――…火波……」

「ああ…何だ?」


 ………。

 ………………。

 ―――――…言える筈がない



「…ええと……そ、外に出ぬか?」

「ああ…そうだな
 良い天気だ…室内で過ごすのは勿体無い」


 咄嗟に誤魔化したせいで、
 外出する羽目になってしまった

 ……失敗した

 火波も朝帰りで疲れている筈なのに
 そのせいかいつもより顔色も悪く見える

 この状態の火波に外を歩かせるのは酷というものだ




「あ、い、いや、別に無理をせんでも…」

「無理などしていない
 支度をしてくるから待ってろ」

「………う…うむ………」


 そうだった
 この話の流れで火波が自分の誘いを拒める筈がない

 無理をさせてしまうという罪悪感と、
 それでも我侭を聞いて貰えるという優越感が込み上げて来る



「今日は少し冷えそうだな…厚着して行くか」

 火波が着替え始める
 今まで着ていたものを肩から滑り落とすその仕草が艶かしい


 青白い肌に濡れた赤い瞳
 首筋をくすぐる漆黒の髪

 ただ着替えているだけなのに誘っているように見える

 今までは普通に見ることが出来ていたのに、
 先ほどのカーマインとの会話のせいで妙に意識してしまうのだ


 ……直視できない

 身体が熱を帯びてくるのを感じ、
 シェルは慌てて火波から視線を逸らせた





「…で、では、外で待っておるぞ」

「ああ…すぐ行くから、
 一人であまり遠くへ行くなよ」

「う、うむ…」


 火波から逃げるように部屋を後にする



 ……危なかった

 あのまま火波の着替えを見ていたら、
 欲望の押さえが利かなくなっていたはずだ

 あの白い肌を貪って、自分の所有印をつけたい
 そんな欲求が湧き上がってきて、シェルは思わず顔を赤らめた


 冷たい潮風に身を任せ、
 身体に燻る熱を冷まそうと試みる


 火波が来るまでに、いつもの自分に戻っていなければ








「…はぁ……」


 良い天気だ
 しかし空とは対照的にシェルの心は晴れない

 ぼんやりと宙を眺めながら、
 何度目かもわからない溜息を吐く



「浮かない顔してどうしたの?」

「――――…!?」


 突然肩を叩かれて飛び上がるシェル

 しかし肩に置かれた手は暖かく、
 声も火波のもにしてはトーンも口調も軽い

 火波はもっと落ち着いた低い声の持ち主だ



「…だ、だ、誰じゃ…!?」

 咄嗟に手を振り払い、振り返って相手を睨みつける

 今日は刀を持ってきた
 普通の町人相手なら引けを取らない


「おっと、怖い怖い…刀しまってよ
 可愛い子がいるな〜って思って声かけただけなんだから」





 ……ただのナンパらしい
 魔物や物取りの類でなくて助かった

 ほっと一安心するのも束の間、
 再びシェルは身構える


 まだ恋に不慣れな少年は、
 当然ながらナンパされるのも初めての経験

 ……どう対処してよいのかわからない



「本当に可愛いね、君
 男の子…だよね?」

「そ、そうじゃ!!
 だから何だというのじゃ!?」


「ん〜…別に?
 男の子でも女の子でも、子供でも年寄りでも、
 可愛ければそれでいいんだわ、俺」

「……そ、そう……」


 それはそれで嫌だ
 こういう軽いタイプは好きではない

 やっぱり自分は火波が好きなのだ




「うん、というわけでデートしよっか」

「はあ!?」

「俺さ、いい店知ってるんだ
 絶対退屈させないから、行こ?」


「い、行かぬっ!!
 拙者は先約があるのじゃ!!」

「俺と遊んだ方が楽しいって」



 その根拠は一体何処にあるのか
 強引さに腹が立つというより呆れてしまう


 シェルは目の前の男に一瞥をくれた

 …背格好は火波とそう変わらない
 恐らく年齢も二十代後半から三十代前半にかけて


 意図的に無造作に整えられた亜麻色の髪が潮風に靡いている

 シルバーのアクセサリーが首や腕など、
 至る所に飾り付けられていてジャラジャラと音が鳴っていた




 …顔は悪くはない
 しかし火波と比べると見劣りする

 小奇麗だし服のセンスも火波より垢抜けている
 髪からも整髪剤の香りがして身だしなみに気を遣っているのがわかる

 そして、何よりお洒落だ


 ――…火波もこのくらいファッションに気を遣えばいいのに


 いや、この際髪だけでもいい
 せめてワックスで髪を整えるだけでも

 下手に着替えさせても似合わない事はわかっている
 だからせめて髪だけでも何とかして欲しい

 元の素材は良いのだから、
 似合う髪形にすれば見違えるはず―――…




「…どうしたの?
 ぼーっとしてないで、早く行こ?」

「えっ……あ、いや……」


 無意識のうちに思考が火波へと向かっていた

 ちらりと宿の入り口を見やる
 まだ火波は来ない

 やけに時間が長く感じる



「こ、断るっ!!
 拙者には先約があるのじゃ!!」

「そんなこと言わないで遊ぼうよ
 …優しく言ってるうちに言う事を聞いておいた方が身のためだよ?」


 突然シェルの腕を掴むと、目の前の男は歯を見せて笑う

 しかしその手はじわじわと力が込められてきて、
 すぐに腕が千切られそうなほどの圧力がかけられる


「いっ…痛っ!!
 いたたたたた…!!」

「そっか、じゃあ行こうよ
 一緒に来てくれるなら優しく扱うから」


「ふ、ふざけるでないっ!!
 迷惑だと言っておるのがわからぬのか――――…痛っ!!」

「腕、折れちゃうよ?」

「その前にお主の腕を斬り捨てるっ!!」


 いい加減にキレてくる

 こっちは腕を折られるかと思ったのだ
 正当防衛と言えば少々斬り付けても許されるだろう




「拙者は本気じゃからな!!
 早くこの手を放さなければ斬り付けるぞ!!」

「あぁ、流石にそれは困るかな」

「ならば早く放せっ!!」

「ん〜…要するに凶器が無くなれば良いんだよね」

「……は……?」


 次の瞬間、さっと男の手が腰に伸びたかと思うと、
 しっかりと結わえていた筈の刀が数メートル離れた場所で音を立てる

 あまりのスピードに言葉も出ない
 まるで刀が瞬間移動したかのような錯覚を覚える

 目の前で手品を見せられているようだ
 この素早さはどう見ても素人のものではなかった



「な、な、な…何で……」

「手先は器用なんだ
 すれ違い様に財布を失敬することも出来るよ」

「それは犯罪じゃっ!!」


 反射的に突っ込みを入れながらも、
 シェルは背筋に冷や汗が伝ってゆくのを感じていた

 …武器の刀が無い


 そして目の前の男は思っていたよりもずっと危険な存在らしい
 考えてみれば目の前に刀を突き出されても顔色一つ変えなかった

 自分が敵う相手ではないことに薄々気付き始める
 もしかすると武器を奪われていなくても勝算は無かったかも知れない





「さあ、何処に行こうか?
 景色の良い所にでも出掛けようか?
 それとも美味しいものでも食べに行く?
 うーん…でもせっかくのホテル街だから、俺たちも休憩しちゃおうか?」

「…は、はぁ…?」


「この辺って旅人用の宿屋が多いけどさ、
 少し行くとカップル用のご休憩場も多いんだ
 俺のお勧めに連れて行ってあげるからお楽しみに」

「ま…待て!!
 待て待て待てっ!!
 朝っぱらから子供をラブホに連れ込むでないっ!!」



「さぁ、行くよ
 腕が折れる前に着けば良いね」

「痛ぁ―――…っ!!
 う、腕…腕を放せぇっ!!」


 下手に動けは本気で腕が圧し折られそうだ
 男の指先が食い込む腕は血流が遮られ、青く変色している

 もしかしなくても危機的な状況
 こんなときに限って周囲には通行人の一人すら見当たらない


 …それよりも、普通は真っ先に助けに来てくれそうな保護者はどうしたのか



「ほ、火波…っ…
 何をしておるのじゃ、あの男はっ…!!」


 どれだけ待たせるのか
 こっちはこんなにも恐ろしい目に遭っているというのに

 …火波が疲れていることはわかっている
 吸血鬼である彼が朝に弱いこともわかっている

 それでも恨まずにはいられない




「じゃあ、そろそろ行こうか」

「絶対に行かぬっ!!
 全身の骨が砕けても行くものかっ!!」

「我侭な子だなぁ…
 まぁ、我侭美少年っていうのも悪くないけど
 …歩いていくのが嫌なら俺が運んで行ってあげるよ」


 ふわりと身体が浮く

 男の腕に抱き上げられている事に気付き、
 シェルは反射的に悲鳴を上げた




「―――…シェル、そこにいるのか?」


 随分と久しぶりな気がする低い男の声
 赤いマントが視界に映ると同時にシェルは叫んだ


「遅いわっ!!」

「こんな路地の方に行ったらわからないだろう
 こっちだってお前を探していて―――…っと、誰だ?」



 当然といえば当然の疑問を投げかける火波

 見知らぬ男に抱きかかえられているシェル
 心なしかシェルの顔色が悪い


 具合でも悪くなったところを通行人に介抱されていたのだろうか
 目の前の状況からそんな考えが浮かぶ

 しかし変色したシェルの腕に気付いた瞬間に火波は顔色を変えた
 それと同時に見慣れた刀が地面に転がっている事に気付く



「シェル……っ!!」

 足元の刀を手に取ると、
 火波は目の前の男に向かってそれを振り下ろす


「おっと」

 ひょい、とそれをかわす男
 しかしその隙を見てシェルは腕の中から逃げ出した

 そして本能的に安全な男の腕の中へ飛び込む




「……大丈夫か?」

「大丈夫なものか!!
 危うく腕が砕けるところじゃったわ!!」


 ぎゅっと抱きしめてくれる腕に涙腺が緩む
 体温の無い火波の腕が何故か温かく感じる

 しかし男の不適に笑う声を聞き、
 身体の奥底から不快感が込み上げて来る


「……シェル、離れていろ」


 火波が目の前の男を睨みつける
 張り詰めた空気を察したシェルは大人しく火波から離れた

 これ以上心配は掛けられない
 シェルは火波を気にしながらも宿の中へと駆け込んだ






 部屋に戻って内側からしっかりと鍵をかける

 窓から外を見下ろしても、
 この位置から二人の姿を見ることはできなかった


「……火波……」


 自分の姿を見てどう思ったのだろう

 助けてくれたのは嬉しい
 しかし…手のかかる子供だと呆れられた可能性もある


 一言の弁解をする暇さえなかった

 普段から恋人が欲しい素振りを見せていたのが悔やまれる
 もし火波に、自分の方からあの男を誘ったのだと思われていたら

 ………最悪だ




「ど、どうしよう…」


 嫌われたくない

 見知らぬ男に襲われた恐怖よりも、
 火波に見限られる方がずっと怖い


 …今頃、火波はあの男と何を話しているのだろう

 自分の為に怒ってくれているなら嬉しい
 しかし―――…

 嫌な考えが先走る
 状況が目に見えないからこそ不安になる



 悪い考えを払拭しようと周囲を見渡す
 ふと視界に入ったのは変色した自分の腕

 はっきりと残った痣は青黒く痛々しい
 しかし全くと言って良いほど痛みを感じないのは何故だろう


 腕を掴まれていた時はあんなに痛かったのに
 痣を指で押してみても痛みの欠片すら感じない

 …感覚が麻痺してしまったのだろうか


「……………。」


 感覚の無い腕が今は恨めしい
 痛みで気を紛らわす事もできない

 頭の中は火波のことしか浮かんでこなかった
 しかも思考は悪い方へと進んで行く




「…火波……!!」


 とにかく逢いたい
 咄嗟に立ち上がる

 …しかし、すぐに今の状況を思い出す
 今、自分が飛び出していっても邪魔になるだけだ


 もう少しだけ時間を置こう
 五分―――…いや、三分後に二人の様子を窺いに行こう

 シェルは火波に見限られていない事を祈りながら時計の秒針を見つめていた


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