そろ〜り


 息を殺し、足音を立てないよう靴も脱いだ
 忍者顔負けの忍び足で向かうは宿の自室

 ――――…かちゃ

 やけに大きく感じる鍵の音
 物音が立つたびにビクビクと周囲を探る

 気分はすっかりコソ泥だ



「………随分と早いお帰りじゃな」

「ひぃいいいいいいっ!!!!」


 突然降りかかる少年の声

 弾かれたように巨体が飛び上がる
 その顔は見る間に青ざめ恐怖の色が滲んでいた




「…し、し、シェル…っ…!!
 ち、ちちちち違う、これには理由があって…っ!!!!」

 目の前には見るからにご機嫌斜めの美少年
 鋭く目を尖らせ仁王立ちで火波を睨み付けている


 阿修羅の如く怒りの形相を浮かべるシェルを前に完全に怯えきる火波

 その姿はまさにヘビに睨まれたカエル
 今にも尻尾を丸めて服従のポーズを取り出しそうな勢いだ



「なにが『すぐ戻るつもり』じゃ!!
 財布も持たずに一晩中、一体何処をふらついておった!?」

「そ、それは…その……
 わしにも事情があって…」


 窓の外は既に明るい
 時計は午前六時を指している

 結局あのまま熟睡してしまったのだ
 途中で何度か遊羅は起こそうとしてくれたらしいが、全く起きなかったらしい


 ようやく目覚めたときは強烈な頭痛と吐き気を伴っていた
 そしてその場で胃のものを全てリバース

 一通り吐き終えた後、遊羅に片づけを任せてシャワー室へと駆け込んだ
 そのまま全力疾走で宿に向かい、現在に至る




「…ほぅ…事情か…
 ならば何があったか説明してもらおうか?」

「…あ…いや、ええと……」


 流石に『忍者に尻を狙われてました』とは言えない
 まして『酔い潰れて寝ていた』などとは絶対に口外出来ない

 つい先日、酒量を窘められたばかりだ
 これでまた悪酔いしたと知られたら何を言われるかわかったものじゃない


 これ以上シェルからの評価を下げる事はしたくなかった



「……トラブルに巻き込まれていたんだ
 そのせいで、なかなか宿に戻る事ができなかった」

「…なんじゃ…またか?
 全くお主ときたら、いつも災難続きじゃな」


 災難に見舞われるのは日常茶飯事
 信憑性があったのか、シェルもすんなりと信じた

 もはやこれは体質だと思われている節があるようだ

 内心複雑なものを感じながらも、
 一先ずほっと胸を撫で下ろす火波






「…心配かけて悪かった
 本当にすぐ戻るつもりでいたんだ」

「……全くじゃ…心配したぞ……」


 俯いたシェルの顔に影が浮かぶ
 そこで初めて彼の目の下に隈が出来ている事を知る

 火波の帰りを待って一晩中起きていたらしい
 その姿を想像して、胸の中に愛しさが湧き上がる


 ……好きだ
 やっぱりシェルの事が好きなのだ
 遊羅には悪いが、自分の気持ちに嘘はつけない



「…シェル…本当に、悪かった…」


 抱き締めたい

 その衝動を抑えてシェルに腕を伸ばす
 柔らかい髪を指先で撫ぜて欲望を散らせる

 頭を撫ぜるまでの行為なら大丈夫
 それ以上になると流石に疑いを持たれてしまうが


「……疲れたな…少し休もうか」


 あまり触れていても疑われそうだ

 名残惜しいがシェルから手を離すと、
 わざとらしく欠伸をしながらベッドへと向かう

 シェルの表情を見ることが出来なかった
 勘の鋭い少年の瞳に、心の内を見透かされそうで怖かった








「……………。」


 信じられない

 シェルはすぐに自らの考えを否定した
 しかし火波の様子は明らかにいつもと違う


 振り返ると既に火波はベッドに横たわっている

 今なら起こして問い詰める事ができる
 しかし――…問い詰めて一体どうしようというのだ

 それに自分の思い違いということもある
 むしろ、そうであって欲しいという願いが強い


 だが――――…



「……火波…サスペンダー、していなかった……」


 いつも身に着けているベルトと一体化したサスペンダー

 上半身を露出させている事が多い彼
 白い肌に革の装飾は良く映える


 シェルは火波がそれを身に着けていない事に一目で気がついた

 昨夜、部屋を出たときには確かに身に着けていた筈だ
 それなのに、帰って来たときにはそれが無かった




 頑丈な皮のサスペンダーは、そう簡単に外れるものではない
 もし外れるとしたら、それは火波が意図的に外そうとしたときだ

 しかし…サスペンダーを外したという事は、
 同時にズボンを脱いだという事でもある

 意図的にどこかで服を脱いだと考えるのが普通だろう
 そして再び服を着る際にサスペンダーを身に着けるのを忘れたのだ


 …一体、何処で?
 そして何のために?

 当然の疑問が頭を過ぎる
 そして、その答えは薄々感づいていた



 ふわりと香った石鹸
 湿り気を残した髪から漂うシャンプーの香り

 どちらもこの宿に備え付けられているものとは違う香りだ
 ここではない別の場所で火波が入浴を済ませてきたのは間違いない


 …そして、決定的な朝帰り
 嫌でも思考は一つの答えを導き出そうとする




 その腕で火波は抱いたのだ
 自分の知らない女を

 夜が明けるまで同じベッドで寝ていたのだろうか
 もしかすると入浴も一緒に済ませたのかも知れない


 火波だって大人の男だ
 それに今は恋人もいないフリーの状態

 恋人を作る気は無いといっていた彼だが、
 一夜限りの相手を探す事はあるのかも知れない

 火波の容姿なら女の方から誘ってくることもあるだろう



「…………っ…!!」


 見知らぬ女を抱く火波を想像して、
 シェルは込み上げる苦いものに歯を食いしばった

 ふつふつと湧き上がるのは理由もわからない怒り


 火波は悪い事などしていないのに
 どうして、裏切られた気がするのか

 視界が滲むのは何故なのか
 この感情は一体何なのか



 …頭の中が混乱している

 無性に外の空気が吸いたくなった
 火波と同じ空気の中にいるのが辛かった

 宿の窓は嵌め殺しだ
 しかし一人での外出は固く禁じられている




「……知った事か…!!」


 感情に任せてシェルは外へ飛び出す

 晴天の空が憎らしい
 目に映るもの全てが不快だった


 とにかく少しでも火波から離れたい
 その一心で賑わう朝市の中を駆けてゆく

 自分が何処をどう走っているのかさえわからない

 しかし―――…どうやら足は、
 無意識のうちに通い慣れた道を選んでいたようだ


 視界の端に古びた小屋が映る






「……あれっ…シェル…?」


 先に気付いたのはカーマインだった
 のんびりとシェルに向かって歩を進める

 しかし、すぐに異変に気がついたのか表情を一変させてシェルに駆け寄った



「お、おい、何があったんだ!?」

「……あ……カーマイン…」


 そこで初めてカーマインの存在に気付いたのか、
 シェルは一瞬驚いた表情を浮かべる

 …が、次の瞬間カーマインの胸で盛大に泣き始めた

 反射的にその身体を抱き寄せるカーマインと、
 泣きじゃくるシェルを前にどうして良いかわからずオロオロするメルキゼ



「……シェル…一人で来たのだろうか…?」

「…みたいだな…
 火波さんと喧嘩でもした?」


 火波、という言葉にシェルが反応する
 泣き腫らした目で睨みつけると、

「あんな男、知らぬわっ!!」

 そして再びカーマインの胸に顔を埋めて泣きじゃくる



 顔を見合わせるメルキゼとカーマイン
 どうやら朝っぱらから喧嘩をしたらしい

 話を聞きたくても、今この状態のシェルに話を聞くのは酷だろう


「…なぁ、メルキゼ…
 とりあえずここは俺に任せて、さ……」

「う、うん…火波に事情を聞きに行って来るよ…」

「ん…悪いけど頼むわ」


 カーマインがシェルを連れて小屋の中へ入るのを確認してから、
 メルキゼは火波が泊まる宿へと走って行った

 …今日も朝から波乱の予感である


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