「うっ……!!」


 強烈な吐き気で目が覚めた

 胃の中から酸っぱいものが込み上げてくる
 慌てて立ち上がろうとすると、視界がぐらぐらと揺れた


 完全に二日酔いだ



「…う…うぅ……」


 口を押さえながら、
 ふらふらと歩く火波

 急ぎたいのに、いつもの半分程の歩幅でしか歩けない

 やっとトイレに辿り着いた頃には、
 既に歩く事は出来ず、半ば這うような形になっていた


 惨めだ
 こんな姿、誰にも見られたくない



 胃の中のものを全て吐き出す
 苦くて酸っぱい味が口の中に広がる

 吐いても吐いても、まだ足りない
 一向に治まらない吐き気に胃が痛み始める


 胃液混じりの唾液が唇からポタポタと滴り落ちた



「くっ…うぅ…っく……」


 涙が出てくる
 情けなさに消えてしまいたくなる


 ぐっと握ったコブシを叩きつけ、
 行き場のない感情を露にさせて

 いっそ全てを叫んでしまいたい衝動に駆られる
 けれど、絶え間なく襲ってくる吐き気に再びトイレを覗き込んだ


 その瞬間、


 ぴう〜〜〜〜〜〜……



 ウォッシュレットが作動した



「ぐはあああああああああああっ!!」



 どうやらコブシを叩きつけた場所が、
 ウォシュレットのボタンの場所だったらしい

 しかも水撃は火波の鼻を直撃した
 理不尽に殴られたトイレの逆襲だろうか





「げほっ…ごふ、ぐほっ!!」


 鼻から入った水が痛い
 どちらかといえば精神的な意味で

 この場合、口を押さえるべきなのか鼻を押さえるべきなのか
 いや、まずはウォシュレットを止めるのが先か


 しかし鼻が痛い
 しかも鼻に入った水が目や口から出てくる

 ウォシュレットで鼻洗浄する日が来るとは思わなかった


 もう、大惨事


 目からも鼻からも口からも、ポタポタポタ
 一向に流れが止まらない

 恐らく、今、鏡を見たら、
 自分の顔は凄い事になってるだろう





「…うえぇぇぇ……」


 思わず便器に顔を突っ込んで咽び泣く火波

 泣きっ面に蜂
 二日酔いにウォシュレット


 そして――――…



「……ほ、火波…どうしたのじゃ?」


 子鬼の襲来…もとい、シェルが様子を見に来た

 トイレでの不振な物音に起こされたらしい
 まだ少し声が寝ぼけている


「…二日酔いで…吐いていただけだ」

「ただ吐いていたにしては、
 切羽詰ったような声が聞こえたのじゃが…」


「…吐いていたらウォッシュレットが作動して、鼻に……」

「……………。」

「……………………。」

「…………ぷっ………ぷくく…く…」



 笑うな


 その状況を想像したのだろう

 必死に笑いを堪えている
 そして、ついに耐え切れずに吹き出すシェル

 思いっきり睨み返してやりたい
 しかし、このドロドロの顔を見せるわけにもいかない



「……ま、まぁ…大丈夫そうじゃな……」

「もう少し吐いたら楽になる
 わしは大丈夫だから、寝ていろ」

「…う、うむ…わかった…
 もう二日酔いになるまで飲むでないぞ」


 流石に吐いている現場に長居する気はないらしい
 最後に『お大事に』と言い残して、シェルは寝室へと戻っていった

 会話のなくなったトイレはシーンと静まり返る





「…………………うぅ……」


 最悪だ

 一番見られたくない相手に、
 一番情けない姿を見られた

 遣り切れない思いに耐え切れず、
 便器を抱きしめて咽び泣く


「うぅぅ…もう嫌だ…
 消してくれ…シェルの記憶を消してくれぇ…」


 ぐすぐす
 べそべそ

 涙が止まらない




「便器よ頼む…その水流で、
 シェルの記憶も洗い流してくれぇぇぇ…」


 今度は便器を拝み始める

 はっきり言ってゲロっている姿より、
 今のこの姿の方がずっと恥ずかしい



「うわああああ――――…!!
 わしの馬鹿、大馬鹿者っ!!
 恥ずかしくてシェルに顔が合わせられん…っ!!」


 ゴン、ゴン、ゴン

 自嘲気味に便器に顔を打ち付け始める
 もはや、自分が何をしたいのかすら理解出来ていないらしい

 彼の頭の中で、
 何かがプッツリと切れてしまった


 元々生真面目な輩ほど、
 キレてしまった時の収拾がつかなくなる

 そして、地味で目立たない輩に限って、
 予想もつかないような、とてつもない行動に出るものらしい




「いや、むしろわしをっ!!
 わしを流してくれ、綺麗さっぱりとっ!!
 こんな大馬鹿者で恥知らずなわしなんて…
 下水に流されてしまった方が良いんだああああああ!!!」


 衛生上、とても宜しくないことを叫びつつ、
 強引に便器の中に身体をねじり込もうとする火波


 便器にとっては良い迷惑である


 そもそもこんな大きなものが流れるはずがない
 そして、火波が便器と格闘しているその頃―――…







「……む〜…何やら騒がしいのぅ……」


 とりあえずベッドに横になったものの、
 トイレから聞こえてくる火波の叫びが気になって、
 なかなか寝付けないでいるシェルの姿があった

 時計を見ると、午前五時
 本来ならまだ寝ている時間だ



「…二日酔い…って、
 あんな風になるのじゃのぅ…」


 飲めばすぐに寝てしまうメルキゼ
 自分の酒量をしっかりと弁えているレンとゴールド
 そして、どんなに飲んでも酔わないザルのカーマイン

 不幸か幸いか…彼らのおかげで、
 今まで二日酔いと言うものを目の当たりにした事がなかった

 シェルは始めて見た二日酔いの現状に圧倒されていた




「辛い、と言う話は聞いていたが…
 まさかトイレで叫ぶほど辛いものだとは思わなかったのぅ…」


 普段大人しい火波がここまで取り乱すとは
 きっと想像を絶する苦しみに違いない

 恐ろしい…
 なんて恐ろしいんだ、二日酔い…!!


 火波が叫ぶ原因の大半が自分にあるとは夢にも思わないシェル

 大人になっても、絶対に酒量を過ぎる事だけはしないでおこう…
 火波の心情など露知らず、そう固く心に誓うシェルだった





「……水くらい飲ませるべきかのぅ…」


 やっぱり心配だ
 あんなに苦しそうな火波は始めて見た

 グラスにミネラルウオーターを注ぐと、
 物音を立てないようにトイレへと近付くシェル



「…ほ、火波…大丈夫か……?」


 ――――………。

 呼びかけても返事はない
 開いたままのドアの隙間から、中を窺ってみる


 そこには、
 ゲロまみれの男が便器を枕にして寝ていた

 どうやら一通り暴れた後、
 疲れ果てて眠ってしまったらしい




「………火波よ………」


 さて、これを一体どうしたものか

 出来れば自分は何も見なかったことにしておきたい
 恐らくそれが最も互いのダメージが少ない選択だろう

 それに、このまま放置しておくのが一番楽だ

 しかしそれではトイレが使えない
 …それは流石に不便だ



「…仕方あるまい…片付けるか…」


 火波の腕を摘んで持ち上げようとする

 …しかし、持ち上がらない
 どうやっても動かない


「……お、重い…っ…!!」


 自分の細腕では無理だ
 これを動かすのは不可能に近い

 刀でコンパクトサイズに切り分ければ持ち運びも出来るだろう
 しかしそれは人道的に考えても、かなり問題がある





「…仕方がない、起こすとするか…」


 持って来ていたグラスを手に取ると、
 その中身を火波の耳目掛けて注ぎ込む

 名付けて寝耳に水作戦
 …そのまんまだが、効果は絶大だ


 ちょろちょろちょろ――…


 程無くして



「うおおおおおっ!!??」


 ゲロまみれの大男が跳ね起きる

 突然の耳の刺激だ
 これは相当驚いただろう


 何せ、寝耳に水なのだから

 耳から流れるミネラルウォーターと、
 空のグラスを握り締めたまま仁王立ちするシェルを唖然と見比べている



「……おはよう、火波」

「あ、あ、ああ、お、おはよ…」


「…さて、まずは風呂に入って参れ
 色々と聞きたい事はあるが、話はそれからじゃ」

「……えっ…?」



 まだ状況を理解していないらしい火波

 そんな彼を強引に立たせると、
 そのままバスルームへと押し込む


 中で何かに躓いて転ぶような音が聞こえてきたが、
 所詮火波の事だ、あまり気にしない方が良いだろう

 …一先ず、一番大きな荷物はこれで片付いた





「…やれやれ…世話の焼ける大人じゃのぅ…」


 ふっ、と髪をかき上げ夜明けの空を眺める
 一仕事終えたせいで、すっかり目が冴えてしまった

 火波の痴態がしっかりと目に焼き付いてしまっている


「今度から、火波が酒を飲むときは監視せねばならぬのぅ…」


 火波がダメな大人である分、
 自分がしっかりとしなければ

 火波にとっては不名誉かつ屈辱でしかない闘志を燃やすシェル

 たった一度の失態がシェルの評価を地に落とす
 すっかりと反面教師になってしまった火波だった





 それから30分後――――…





「…本当に、すまなかった…」


 風呂から出るなり、
 謝罪全開モードに入った火波

 その背後には白旗の幻すら見える


 どうやら酔いはすっかり醒めたらしい
 いつも通りの火波に戻っている

 しかし平常心を取り戻すなり、
 シェルの怒りっぷりに気付いたらしい

 その巨大な図体は早くも萎縮し始めている



「…で、火波よ…
 説明してもらおうか…?」

「な、な、何を…だ…?」

「全てをじゃっ!!
 はっきり言って、お主は昨日から凄く変じゃぞ!?
 その辺の原因をしっかり説明して貰わねば気が済まぬわっ!!」


 くわっ!!
 ツリ目での睨み攻撃

 ヘビに睨まれたカエル状態の火波
 その姿は完全に脅え切っている



「突然怒ったり悲観的になったり…
 かと思えば自棄を起こす始末じゃぞ!?
 それに巻き込まれる拙者の身にもなってみたらどうじゃ!?」

「そ、そ、そうは言われても…
 わしにも、その…まぁ、色々と事情が…」


「ええい、はっきり言わぬかっ!!」

「ひいいっ…!!」




 言えるものなら、最初から口にしている

 でも、流石にこればかりは言えない
 どんな顔で、どんな口調で言えというのだ

 傷付くのは自分のプライドだけではない、
 今まで築いてきた関係も崩壊しかねないというのに


「…うぅぅ……」


 一体、どうすれば良いのか
 両手で頭を抱え込んで悩む火波

 すぐ傍らには阿修羅の形相で仁王立ちをしているシェルがいる

 こんな危機的に切羽詰った状況では、
 場を誤魔化せるような口上すら思い浮かばない



「ハッキリせぬか!!
 お主が変だったのは明らかじゃぞ!?
 厳密に言えば…拙者が霊に取り憑かれた後じゃな」


 それはそうだ
 あの事故の後、シェルへの想いに気付いたのだから

 一度気付いてしまえば、後はもう堕ちるだけだ
 今まで通りに接する事の難しさには匙を投げるしかない



「恐らく…拙者が取り憑かれている間に何かあったのじゃろう?
 一体、何があったのじゃ…説明してもらわねば、拙者も辛いのじゃよ…!!」

「……お前が…辛い……?」


「だって、あの事故の切っ掛けを作ったのは拙者じゃし…っ!!
 あのせいで火波に何かがあったのだと思うと、やはり責任を感じるのじゃ!!」

「……シェル……」


 彼が責任を感じてるなんて全く気付かなかった

 自分が勝手に惚れて、勝手に翻弄されているだけだ
 シェルが気に病む必要なんて微塵もない






「…お前は関係ない
 これは、わし自身の問題で―――…」

「それは嘘じゃな
 その証拠に、拙者と目を合わせないようにしておるではないか」


「うっ…そ、それは―――…」

「さあ吐け!!
 拙者に隠し事など出来ると思うでないぞ!!」



 鋭い

 今に始まった事ではないが、
 つくづく頭の切れる少年だ

 味方に付くと心強いが、
 こうして敵に回ると厄介な事この上ない


 元々洞察力が優れている上に、
 自分の性格をハッキリと把握されている

 シェルの言う通り、彼に隠し事をするのは至難の業だろう



 しかし、これだけはどうしても本当のことを言うわけにはいかない

 何とかして誤魔化さなければ、
 どんどん問題が複雑化していきそうだ

 しかし余程説得力のある嘘をつかない限り、
 彼を納得させるのは難しい


 それならば――――…





「わ、わかった
 本当の事を話す」

「…むぅ……?」


「正直に話すから、
 その仁王立ちを止めてくれ
 妙に迫力があって怖いんだ、その体勢」

「ほほう…?」


 疑ってる
 疑惑の眼差しだ

 仁王立ちはなくなったが、相変わらず視線は鋭い


 ……は、話し難い……

 背中を冷や汗が流れてゆく
 ここで見破られれば、それこそ破滅だ



「…では話してみるがよい」

「あ、ああ…」


 隣にシェルが座る
 あと数センチ移動すれば、指先が触れ合いそうだ

 至近距離からの眼差し
 …嫌でも意識してしまう

 今は、こんな事で喜んでいる場合ではないのに




「それで、乱心の原因は一体何なのじゃ?」

「…お前の言う通り、
 悪霊に取り憑かれた時が原因だ…
 あの霊たちを見て、少なからず衝撃を受けた」


 ぴく、とシェルの肩が揺れる

 少年の瞳が見る間に曇って行った
 細い指先が着物の袂を握り締める



「…そうか…やっぱり、拙者のせい……」

「それは違う!!
 本当に、お前のせいじゃないんだ!!」


「…じゃが…あの場所に、
 お主を連れて行ったのは――…」

「そんなものは、些細な事だ
 お前には見えないだろうが、
 霊なんてどこにでもいるものだ」


 嘘ではない
 事実、船の上でもセイレーンの霊に遭遇した

 その点に関してはシェルも異論はないらしく、
 黙って火波の話に耳を傾けている



「…わしがこうして実体を持てたのは、
 奇跡的な偶然が幾重にも重なったからだ
 あの時、一つでも歯車が狂っていたら、
 わしもあの霊たちのような姿になっていた

 絶命した時の姿のまま、永久に癒えぬ傷を抱えながら、
 命あるものを嫉み、同じ道に引きずり込もうとするあの姿…
 それがわし自身の姿に重なってな…平常心を保てなくなったんだ」

「――――……」


 シェルの反応を横目で窺う
 しかし彼は俯いたまま、黙り込んでしまった

 こうも反応が薄いと、何を言えば良いのかわからなくなる



「…し、シェル…?」


 怒っているのか、呆れているのか
 何でも良いからリアクションが欲しい

 失敗したのかどうかさえわからない状況では、
 下手にフォローする事すらできない


 信憑性の薄い嘘ならすぐに見破られる

 だから、シェルの理解の範疇を超えているであろう、
 死者からの視点で尤もらしく話してみたのだが―――…





「…火波…すまぬ……」

「うん…?」

「そう…だったのじゃな…
 拙者には想像もつかぬ世界じゃが、
 火波にとって、あの事故は人事ではなかったのじゃな…」


 神妙な表情で目を伏せるシェル
 火波の話を完全に信じたらしい

 事実を織り交ぜて話したのが功を成したのだろうか



「…火波の身体が残っていて…良かった…」


 ぎゅ

 突然手を握られて、
 思わず飛び上がる火波


「う、うわっ…!!
 し、し、シェルっ…!?」

「うむ…ちゃんと触れるのぅ…
 こうやって話したり触れ合えるのも、
 火波が実体を持って甦ってくれたおかげなのじゃな」



「えっ…あ、ああ…」

「もし火波に実態が無ければ、
 拙者の目にはお主の姿が見えぬ…
 存在にも気付かぬし、声も聞こえぬのじゃよな…」


 感慨深そうに、しげしげと握った火波の手を見つめるシェル

 火波が思った以上に、
 その言葉を重く受け止めているらしい



 火波が口にした言葉は、
 100パーセント嘘というわけではない

 それでもシェルを欺いたという事実に良心が痛む
 自分は未だに彼に本心を打ち明かしてはいない

 そして、それを打ち明かす気も無い







「…すっかり、夜が明けてしまったな…」


 罪悪感を打ち消すように、
 意識を窓の外へと向ける

 早朝だというのに、外は既に活気付いていた
 漁を終えた漁船が次々と汽笛を鳴らして入港してくる

 いつもと変わらない港町の朝だ



「…火波、カーマインたちの所へ行かぬか?
 昨日はあのまま帰ってしまったから、気になるのじゃ」

「そうだな…そうするか
 何か進展があったかも知れないしな」


 カーマインたちは上手くやっているだろうか
 そろそろ、何かしら成果が出ても良い頃だろう

 離れたシェルの手

 その寂しさを紛らわすかのように、
 火波は山小屋の二人へと意識を向け続けた


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