白い布


 目を覚まして、真っ先に視界に入ったのがそれだった
 シーツでもカーテンでもない白い布

 一体それが何であるか
 深く考えもせずに、何気なくそれを引っ張った


「―――…うわぁっ!!!」


 突然あがる悲鳴
 驚いたのと同時に、寝ぼけていた意識も覚醒した

 手に掴んだ柔らかい感触
 鼻腔をくすぐる爽やかな香り

 そして、目の前の事態を前に状況を理解した


「……す、すまぬ……」

「…お、お、お前…お前はっ…!!!」


 目の前には黒髪の男
 白い顔が、今は微かに赤みを帯びている

 わなわなと震える肢体から
 ぽたぽたと落ちる水滴たち

 一糸纏わぬ姿の火波がそこにいた



「…新手の嫌がらせか?」

「だから、すまぬと申しておろうに…」


 明らかに入浴直後の火波
 自分の手に残った湿ったバスタオル

 流石に少し気まずい
 火波の腰に巻いていたタオルを奪ってしまったのだ



「……返す」

「ああ」


 タオルを腰に巻きなおす火波
 その表情は見るからに不機嫌そうだ

 タオルを一枚奪ったくらいで心の狭い男だ


 先程までは、それほど表情も険しくなかったのに
 少なくとも、一緒に海を見ていたときまでは―――…

 …あれ…そういえばいつの間に……



「…ほ、火波…」

「何だ?」


「その…拙者、いつ宿に戻ってきたのじゃろう?
 記憶がどうも曖昧なのじゃが…なにか、あったのじゃろうか…?」

「…………」


 ぎろり

 鋭い視線が返ってきた
 怒りと恨みが混ざった視線だ



「…そ、そう睨むでない…」

「睨みたくもなるだろう
 お前のせいで、この有様だ」


 火波がくるりと背を向ける
 そこには無数の引っかき傷が走っていた

 相当力を込めたらしい
 傷は血が滲むほど深い




「ね、猫にでも襲われたか……?」

「………お前、自分の指を見てみろ」


 指…?

 まさか、という嫌な考えが浮かぶ

 思い出そうとしても何も思い出せない
 どうしていつも、肝心な時に限って記憶が無いのだろう

 恐る恐る自分の両手を開くと、
 そこには乾いた血がべっとりと付着していた


 特に指先―――…爪の間に大量の血が入り込んでいる
 鼻をほじった際に鼻血が――…などという意見は通用しないだろう

 明らかに火波を引っかいたのは自分だ



「……な、何があったのじゃ……?」

「自殺の名所で霊に取り憑かれたガキと死闘を繰り広げたんだ」

「……………。」

 そんなバカな

 否定したくても記憶が無いのだから仕方がない
 むしろ憑依されていたから記憶が無かったのだと納得してしまう


「そ、その傷…本当に拙者がやったのじゃな…」

「お前の意思ではないがな
 身体はお前だったが中身は霊に支配されていた」




 自分の意思ではなくても、
 自分の手が火波を傷付けたことに違いは無い

 罪悪感がズッシリと圧し掛かる

「……すまぬ…元凶は拙者じゃ
 拙者が、あのような場所にさえ行かなければ…」

「過ぎた事は仕方がない
 次を気をつければ良いだけの事だ
 それに―――…お前も傷を負った
 お前の首筋に傷をつけたのはわしだ」

「むっ…?
 そ、そういわれて見れば…首の辺りが傷むのぅ」


 鏡で確認してみる

 包帯が巻かれていて傷は見えなかった
 しかし、その部分が怪我をしているのは明らかだ


 火波の言う通り、大変だったのだろう

 自分が火波に襲い掛かったのなら、
 この傷は正当防衛ということになる

 火波は悪くない





「ふぅ…そうだったのか…
 散々な目に遭ったのじゃのぅ…」

「溜息を吐きたいのは、わしの方なんだがな…」


「ま、これも人生経験じゃ
 一度くらい犬に噛まれてみるのも有りじゃな
 それにこの程度の傷で済んで助かったと言うべきじゃろう」

「……確かに傷は小さいが…
 一応、消毒はマメにしておけよ…?」


「…うむ、そうじゃな
 狂犬病予防の注射を打っているようには見えぬしのぅ…」

「いや、そんな病気持ってないし…
 それに…そもそも、わし…犬じゃないし…」


 普段はもう少し強いツッコミが返って来るところだが、
 流石に怪我をさせた手前強く言う事もできないらしい

 弱々しく反論した後、
 火波は着替えるために寝室を後にした

 その足取りが少しフラついているのが気になる



「…悪い事をしたのぅ…火波よ、すまぬ…」

 もう一度、謝罪の言葉を口にすると、
 血にまみれた指を洗うためにシェルはベッドから起き上がった






「もう、起き上がっていて大丈夫なのか?」


 元気に動き回るシェル
 先程までのぐったりとした姿からは想像もつかない

 洗濯を終えた服をたたんだり、荷物の整理をしたり
 いつも以上にパタパタと行動的に見えるのは気のせいだろうか


「…かなり体力を消耗している筈だ
 自覚は無いかも知れないが危険な状態だった
 大事を取って、今日は横になっていた方が良い」

「大丈夫じゃよ
 それに…妙に身体が軽いのじゃ
 身体の中の邪気が洗われたような気分と申すかのぅ…」



「…性格の悪さも洗い流されてくれれば良かったんだが…」

「………何か言ったか?」


「いや、別に
 …とにかく、今日はもう出掛けないからな
 部屋の中で―――…できればベッドの中で大人しくしていろ」

「…つまらぬのぅ…」


 文句を言いながらも罪の意識があるらしい
 とりあえず大人しくベッドに腰掛けるシェル

 …しかし、ヒマだ





「…そうじゃ…
 カーマインから渡された宿題、
 この際にやってみるかのぅ…」

「………宿題…?」


 初耳だ
 カーマインから勉強を教わっていたのか…

 確かに大学生の彼なら、
 シェルの年齢程度の勉強を見てやることはできるだろう



「以前、ノートに問題を書いてもらったのじゃよ
 暇な時にでもやろうと思っていたのじゃが…良い機会じゃ」

「ふぅん…教科は?」


「国語の文章問題と数学と――…まぁ、色々じゃ」

「…そうか、まぁ頑張れ
 高校生の勉強なら見てやれる
 わからないことがあれば聞いてくれ」


「……火波、お主……勉強できるのか?」

 疑惑の眼差し
 少なからずカチンと来る


「失礼なガキだな…
 一応、専門学校は出ているぞ
 国語と数学の成績もそれほど悪くは無かった」

 …特に良かったわけでもないが
 それでも一応、平均点は取っていた



「ふむ…それではお手並み拝見と行こうかのぅ
 この例題1を解いてみておくれ」

「……わしがやるのか……?」


 シェルに出された宿題だろうに
 …まぁ、最初の一問は解き方を教えてやるのにも丁度良いか

 たまには勉強ができる所を見せて、
 シェルからの評価を上げてやるのも良いかも知れない



「所詮は高校生の問題だ
 因数分解も方程式も記憶している」

「そこまで言い切っておきながら、
 答えを間違ったら凄く恥ずかしいぞ、お主…」

「……うっ……
 た、たぶん、大丈夫だ」


「それでは例題を読み上げるぞ?」

「あ、ああ…」

 少し不安になってきた
 これ、もし間違ったら本気で良い恥さらしだ

 たぶん間違えないと思うが…





「机の上にリンゴが2つあります
 皿の上にはバナナが3本あります」


 それ、本当に数学か?

 なんだか小学校のレベルみたいだが…
 もしかして、わし…バカにされてる?



「…こら、ちゃんと聞いておるか?」

「………はいはい
 リンゴが2つでバナナが3本だな」


 もうヤケだ

 とにかくどんな問題だろうと、
 解答を間違うわけには行かない

 まずは簡単に頭の体操だと考えれば良い



「みっちゃんがリンゴを1つ食べました
 たっくんがバナナを2本食べました」

「ふんふん…
 リンゴがマイナス1で、
 バナナがマイナス2だな?」


「お母さんがリンゴを1箱持ってきました
 以上の事を踏まえた上で、
 机の表面積を求めなさい


 リンゴとバナナ関係ねぇ!!




「…シェル…これは本当に数学か?
 それともクイズ要素の強いトンチ勝負か?」

「頭の柔軟力を試す問題じゃよ
 頭の固いお主には少々難しかったようじゃな」

「普通の問題は無いのか、普通のはっ!!」



「では教科を変えるかのぅ
 国語の文章問題はどうじゃ?」

 簡単な文章が載っていて、
 そこから出題されるやつだ

 昔、何度もやった記憶がある


「ああ、これは入試でも良く使うからな
 読解力は常に鍛えておいた方が良い」

「ふむ…それでは火波、例文を読んでおくれ」

「わかった
 しっかり聞いていろよ」


 ノートを受け取ると、ページをめくる
 何だか学生時代に戻った気分だ

 青春時代を思い出して少し嬉しい
 小さくならんだ最初の行を声を出して読み始めた




「武雄は雅史をベッドに押し倒すと、
 ベルトを引き抜き下着ごとズボンを引き下ろした
 武雄は荒いと息を雅史の耳元にかけると、その手を―――…」


 ………………。

 ……………………。


「………おい………」

「あぁ、すまぬ間違えた
 これはリャンティーアとリレー小説に使っておるノートじゃった」


 断言できる
 絶対わざとだ


「…火波にBL小説を音読させる作戦、大成功じゃな…」

「下らない作戦を立てるなっ!!
 お前はOLにセクハラするエロ係長かっ!?」


「ちょっとしたお遊びじゃよ
 こっちが本物の文章問題じゃ
 中に詩が書いておるから朗読しておくれ」

「…ったく…」


 遊ばれてる
 思いっきり、玩具にされてる

 そして見事に策にはまっている自分が切ない




「これは詩の一部が抜けておってな
 この中に当てはまる適切な言葉を前後の内容から考えるのじゃ」

「…や、やっと普通の勉強っぽくなってきたな」


「では読んでおくれ」

「ああ…わかった
 詩は一定のリズムに乗って書かれているからな
 字数や表現の使いまわしに気をつけて聞いていろよ」

「うむ、心得た」


 正直言って、詩にはあまり良い思い出が無い
 でもシェルの勉強のためだ

 火波はページをめくると、そこに書いてある詩を朗読し始めた




「Hei☆ そこのホットなネコちゃんたち☆
 オイラは陽気なポエマーZだZE☆ ひゃっはっはあ!!
 今日はゴキゲンなソングを疲労しちゃうんだZE☆ ひゃっほー☆」


「………………。」

「…………………………。」


 ぽと

 火波の手からノートが滑り落ちた
 彼の身体は耳の先まで真っ赤に染まっている

 その指先が震えて見えるのは気のせいではないだろう



「………つ、続きは…?」

「…………聞きたいか…?
 本当に…続きが聞きたいのか…?」


 じわり
 火波の目じりに光るものが見える


「な、なにも泣かんでも…」

「……何となく…
 こういうオチが来るような気はしてたんだ……」



「そ、その…す、すまぬ…」

「……もう読まんぞ
 誰が何と言おうと、これ以上読まんぞ」

「いや、もう充分じゃ
 むしろ三行も読むとは思わんかった」


 未だかつて、ここまで痛々しく響く『ひゃっほー☆』という歓声を聞いたことがあっただろうか

 あまりに痛々しい姿に笑い飛ばすこともできない
 …とりあえず、真顔の棒読みでこの詩を読んだ火波に乾杯






「…わし、もう文章は読まないからな」

「う、うむ…その方が良いじゃろうな
 では拙者が読むから、わからない箇所を教えておくれ」

「………少しくらいは自分で考えるんだぞ」


 すっかり御機嫌斜めの吸血鬼

 頭から布団をかぶって不貞寝を始めた
 それでも一応、質問を受け付ける気はあるらしい

 …なんとも律儀な男である



「妻子ある男、俊郎と不倫関係にあるOLの咲子
 俊郎はあくまでも咲子とは遊びと割り切っての付き合いだが、
 当の咲子は俊郎に本気で、やがて彼の子供を身篭ってしまう

 この時、俊郎、その妻、咲子にそれぞれ何という言葉をかけるのが最も適切か
 また、この事態を全て丸く収める方法を述べなさい
 40字以上60字以内の文章で述べなさい(句読点は除く)」


 弁護士を呼べ


 それ以前に、ここまで来たら既に
 国語の勉強の範疇を超えている気がする



「な…なんなんだ、この泥沼劇は…」

「火波、お主…
 まさか身に覚えが?」


 ねぇよ!!

 自営業の理髪店に、
 アフター5・禁断のオフィス劇場があってたまるか



「これ、明らかに高校生の問題じゃないだろうっ!!」

「明らかにフィクションとわかる文章問題より、
 このようにリアリティ溢れる内容の方が感情移入しやすいじゃろうて
 このくらいの内容で驚いているようじゃ、まだまだじゃなぁ火波よ…」


「高校生がこんなものに感情移入するなっ!!
 …いや、そもそもこの問題作った奴、誰だっ!?」

「カーマインに決まってるじゃろう
 読解力に加え、身近なトラブルの解消法も学べる
 まさに一石二鳥に学べる効率の良いテキストではないか」


「いや、色々と問題があるぞ…」

「というわけで模範解答を頼む
 全てを丸く治める素晴らしき回答を頼むぞ」


 無茶言うな





「…最近の若い者にはついて行けん…」

「答えが一つの問題はつまらぬ
 柔軟な頭で考えて自分ならではの
 言葉で回答する事こそが必要なのじゃよ」

「まぁ…確かにそれは一理あるが…」


「そうじゃろう?
 例えば『スズメが三羽います。アヒルは何羽いますか?』
 というような練習問題を解かせるような学校も必要じゃろうて」

「それはお笑い芸人育成学校か…?」

「ふっ…そうジト目をするでない
 今や個性の時代じゃぞ?
 自分の魅力を極限にまで磨き上げるべきじゃ」


 お前の魅力はお笑い要素なのか!?
 というかシェルは既に外見からしても個性的過ぎるような気が…!!




「…というわけで、共に個性を磨こうではないか」

「わしは個性云々以前に、
 まずは存在感を出す手段を学びたい…」


 目の前にいる相手にすら認識されない影の薄さ
 誰でもいいから、これを改善する方法を教えて欲しい

 深紅のマントで存在感をアピールしているにもかかわらず、
 未だに仲間たちから忘れられ、置いてけぼりを食らう日々



「…お主…自分で言ってて悲しくならぬか…?」

「…………ちょっと泣けてきた…な」


 自分が目立たないんじゃない
 アクの強過ぎるメンバーに囲まれているせいで目立たないんだ

 そうとでも思わなければ、本気で切な過ぎる



「鈴のついた首輪でもつけてみたらどうじゃ?
 音で存在感をアピールすることが―――…」

「猫じゃあるまいし…」

「いや、牛やヒツジも首にベルを付けておるし…
 お主が首に付けても特に問題は無いと思うのじゃが…」

「…………………。」


 人扱いして下さい





「そういえばお主の為に、先程買った物があるのじゃ
 大した物ではないが―――…昼間の侘びも兼ねて受け取っておくれ」

「先程…って、
 もしかしなくても例の店…だよな…?」


 嫌な予感
 凄く嫌な予感

 どうせ人をバカにしたような屈辱的な代物が出てくるに違いない



「そこまで身構えんでも…」

「身構えるに決まっているだろう
 たまには学習能力がある所も見せなくてはな」

「……失礼な男じゃのぅ
 ほれ、難癖つける前にブツを見るが良い」


 シェルが袂から小さな袋を取り出す
 手の平に乗るくらいの、本当に小さな袋だ

 しかし…よくぞ憑依中に紛失しなかったものだ


 袋を開けてみると、小さなビンが転がってくる
 先程の聖水を連想させて、少し身構えるが――…

 しかし、このビンからは聖なる力は感じない





「……これは…何だ?」


 ビンの裏を見てみる

 何かが書かれているが、
 この辺りで使われている文字ではない


 古い字である上に妙に崩してある
 火波には読む事ができなかった

 しかし、この深緑色のインクは見覚えがある



「…これは妖精が好んで使うインクだな?」

「うむ、ニンフという妖精お手製のフレグランスじゃ
 大人の男の身だしなみとして、持ち歩くのも良いじゃろう?」


「フレグランス…?
 だが、これはどう見ても錠剤だが…」

 ビンの中は液体ではなく、
 錠剤がぎっしりと詰まっている

 どう見ても、香りが良いようには見えない



「これは飲むフレグランスじゃ
 飲むことによって、全身から香りを発するのじゃよ」

「…成程、な…
 最近はそういうものが出回っているのか…」


 蓋を開けて香りを嗅いでみる

 植物から抽出したものなのだろう
 人工の物ではない、自然な香りが立ち込める


「落ち着いた花の香り…だな」

「どうじゃ?」

「ああ…悪くない」

 シェルにしては気が利く
 いつもこうであってくれれば良いのだが





「…だが、何故フレグランスなんだ?」

「昼頃までは良いのじゃがな
 ほれ、お主も良い歳した男じゃし…」

「……うん……?」

「夕方近くなると、お主からほんのりと加齢臭が――…」



 ガーン…!!!

 さり気ない一言でも、
 その内容によっては百語の罵詈雑言より傷つく事がある

 しかもそれが、好きな相手からだと尚更である



「わ…わし、クサいか!?
 そんなに臭っていたか!?」


 入浴する際に脱いだ服を取り出すと、
 それに鼻をくっつけて臭いを嗅ぎだす火波

 神妙な顔で襟元や脇の辺りの臭いをチェックしている


 冗談抜きで犬っぽい姿だが、
 この際、そんな事には構っていられない

 それよりもシェルに言われた一言の方がずっと深刻なのだ



「――――……。」

 ちょっとした冗談のつもりだったのに、真に受け止められてしまった
 流石に悪いと思ったシェルは否定の言葉を発しようと口を開く

 しかし、それよりも早く火波の方が言葉を発してしまった




「小さいとか下手だとか早いとか言われるより、
 クサいと言われる方がショックが大きいな…」


 さらりと爆弾発言
 開きかけたシェルの口が思わず閉じられる


「………………。」


 早いのか…

 思わず顔が引きつるシェル
 まさか三拍子揃ってるとは思わなかった

 もう体臭がどうとか言ってられる状況じゃない

 致命的




「火波…なんて不憫な…」


 その瞬間、ある恐ろしい考えがシェルの脳裏を過ぎる
 小さくて、早くて、下手―――…と来れば!!

 まさか…
 まさか―――…!!




「……ほ、火波……」

「うん…?」


 ……………。

 流石に面と向かっては聞けない
 もし聞いたとして、肯定する意見が帰ってきた場合、リアクションにも困る


「………い、いや、何でもないのじゃ……」

「…そ、そう…か…?」


 ザラザラとフレグランスを口に放り込む火波
 その視線は泳いでいる

 どうやらまだ気にしているらしい
 更に上からコロンをふりかけている

 今更冗談だとは言えなくなっていた



「……逆に香水臭くなるぞ、お主……」

「加齢臭を漂わせているよりマシだろう」


「どうせなら他の部分の身だしなみにも気を遣って欲しいのぅ
 例えば服装とか…もう少し明るい服を選んでみても―――…」

「わし、カジュアルな服は似合わないんだ
 パステルカラーのシャツなんか着た日にはもう…最悪だぞ」


「髪型の野暮ったさも改善の余地があると思うが…」

「……結ってみようか?」



 テーブルの上に乗っていた輪ゴムを手に取ると、
 無理矢理ひっ詰めて、かなり強引なポニーテールを作る火波

 零れ落ちた髪がパラパラと耳やうなじにかかる


「………………。」


 どうしよう
 物凄く違和感

 こいつ誰?状態

 スッキリとした火波は既に火波ではない
 火波は野暮ったいからこそ火波らしい

 恐らくカジュアルな服が似合わないのも、同じような理由だろう






「…その…すまぬ、拙者が悪かった…」

「なにも…謝る事ないだろう…」

「しかし…拙者にも罪悪感が…」

「…………………。」


 どんよりとした空気を背負って、
 どこからか缶ビールを取り出す火波

 今度は自棄酒モードに入るつもりらしい


「こ、こら火波
 自棄酒は身体に悪いのじゃぞ」

「身体に良かろうが悪かろうが、わしには関係ない
 そもそも、わしが健康に気を遣って何の意味がある?」


「…ま、まぁ…既に死んでおるしのぅ…」

 この場合、何と声をかければ良いのか言葉に詰まる
 既に死んでいる相手に『健康に気を遣え』というのも変な話だ

 それ以前に死人とこうして会話をしている時点で有り得ない状況なのだが



「…死んでいるけれど生きている、
 しかし生きながらに死んでいる…
 我ながら中途半端な存在だな、まったく…」

「つまり半生タイプ
 ステーキで言うならばレア常態じゃな」

「そんな一言で片付けないでくれ…
 悩んでいる自分が滑稽に思えてくる」


「…何か悩みでもあるのか?」

「悩みだらけだっ!!
 お前のせいだぞ、畜生っ!!」


 ぐびぐびと喉を鳴らしてビールを煽る火波

 本気で自棄酒を始めるつもりだろうか
 このまま悪酔いでもされたら、後始末が大変だ

 流石にそれは嫌だ




「ほ、火波よ…
 酒に溺れる姿を見せるのは、
 子供の教育上、宜しくないと思うのじゃが…」

「ああ、そうだ!!
 わしは最低な大人なんだっ!!
 どうせわしなんて…わしなんて…っ!!」


 だんっ!!

 ビール缶がサイドテーブルに叩きつけられる
 そして自己嫌悪混じりの愚痴が始まった

 この男、既に酔ってると見た
 しかも相当、酒癖が悪い

 まさか絡み上戸だったとは…



「…火波よ…お主…
 ビール半分でここまで酔えるのか…?」

「違うっ!!
 わしは酔ってない…
 ただ、ちょっと荒れてるだけだっ!!」


「………………。」

 余計タチが悪い



「うぅ…どうせ、わしなんて…
 最低な奴だ…どうしようもない、ヘタレでダメな奴だ…」

「い、いや、そんな今更な事を愚痴らんでも…
 お主がヘタレでダメな男であるのは今に始まった事では――…」


 しまった
 フォローになってない

 それよりも、まともに相手を続けていて良いのだろうか

 下手に絡まれるより、
 さっさと避難した方が賢い気がする





「…え、ええと……
 拙者…少し出掛けて――…」

「寝ていろと言っただろうガキがっ!!」

「ひょわわわっ☆」


 世界が反転して、
 顔面からベッドにダイブ

 柔らかい羽毛布団で助かった



「…ほ、火波よ…
 足払いは反則じゃぞ…」

「お前が大人しく寝ていないからだろうっ!!
 あんな事があったんだ、大事を取って寝ているべきだ」


「そ、その大事があって寝ているべき相手に、
 足払いをかけて捩じ伏せるのは得策なのじゃろうか…」

「減らず口を叩くなっ!!
 誰のせいで今日は、しなくてもいい戦闘と怪我をしたと思ってるんだ!!」


「うっ…そ、それを言われると耳が痛いのじゃが…」

「わかったなら、大人しく寝ていろ!!」

「……むぅ……」



 言いたい事はあるが、
 今の火波は珍しく荒れモードだ

 自分の知らない間に何か嫌な事でもあったのだろう
 詳しく聞き出したいが、今のこの状況では難しそうだ


 それに下手に刺激して怒鳴られたくない

 明日になれば火波も落ち着いているだろう
 その時にじっくりと聞き出せば良いだけのことだ



「な、ならば拙者は寝るから…」

「………………。」

 無言で背を向ける火波
 本気で彼の様子がおかしい

 いつもなら言葉少なめでも『おやすみ』と言ってくれる筈なのに


 …煮え切らない

 何か事情があるのだろうが、
 巻き込まれた自分は良い迷惑だ


「火波め…覚えておくのじゃ…
 明日になれば形勢逆転じゃ…
 たっぷりと苛めてやる…覚悟しておくのじゃ……」

 恨みの言葉が止まらない

 ふつふつと湧き出る怒りを抑えながら、
 明日のリベンジに備えて眠りにつくシェルだった







 頭がふらついて目が回る
 手に持っていた空き缶が滑り落ちて床に転がった


「……うぅ……」


 大して強くもないのに、つい飲み過ぎてしまった

 後悔はしていない
 どうしても飲みたい気分だった

 飲まずにはいられなかった



「……痛…っ……」


 頭が痛む
 吐き気までもよおして来る

 顔を上げると、窓ガラスに自分の顔が映って見えた

 情けない
 あまりにも惨めな男の顔

 何もかもが嫌になってくる


「…無様…だな…
 本当に、救いようも無い馬鹿だ…」

 自棄酒を煽った上に悪酔いを起こし、
 そんな自分に自己嫌悪に陥る火波はいつもに増して暗かった





「…シェル…
 わしはダメな男だ…」

 シェルから『何を今更』という言葉が返ってきそうな愚痴だが、
 既にベッドの中で眠りについている彼の耳には届かない

 宿の一室から夜空を眺めつつ、
 思う存分愚痴をこぼして暗いムードに浸る火波


「…シェル…シェル…」


 その姿は恋人に捨てられた哀れな失恋男

 暗い
 あまりにも暗い

 捨てられたわけでもないのに、この暗さ
 これで本当に玉砕でもしたら、どうなる事か予測不可能




「わしは…この程度の演技も出来ないのか…」


 眠り続けるシェルを見つめながら、ずっとイメージトレーニングをしていた

 今まで通りの仕草、今まで通りの表情で彼と接しようと
 この想いに気付かれないように、不信感を持たれないように平静に接しようと


 ところが、実際はどうだ

 腰のタオルを剥ぎ取られるという、
 想像を遥かに超えた不意打ちの展開から始まった

 この瞬間、イメージトレーニングも心の平静も、全てが綺麗に吹っ飛んだ



 パニックに陥った頭を無表情で誤魔化しながら、
 何とか持ち直そうと彼の勉強に付き合おうとしたら、
 意味のわからない問題ばかりで意気消沈

 更にクサいとまで言われてしまってはもう、立ち直れない
 挙句の果てに自棄酒を煽ってシェルに当り散らす始末






 想いを封じ込めるどころか、完璧に振り回されている
 抑えようとすればする程に膨らんで溢れ出して来る

 ここまで感情がコントロール出来ないのは初めての経験だ

 心の中では完璧なポーカーフェイスが出来ていた筈なのに、
 いざ実物のシェルが目の前に現れると、全く思い通りに行かない


 目の前で動き回る等身大のシェルに、
 そして自分の意思通りに動いてくれない自分自身に困惑する

 こんな時は一体、どうすれば良いのか…


 誰かに頼りたい
 どうすれば良いのか、誰かに相談したい




 真っ先に浮かんだのはカーマインの姿

 素直で礼儀正しくて、自分の悩みにも真摯に相談に乗ってくれそうだ
 彼の柔軟な発想力と、見かけによらない知識の多さも大いに頼りがいがある


 しかし―――…彼と二人きりになるチャンスがなかなか訪れない

 カーマインにべったりと懐いているシェル自身が一番の問題だ
 それにメルキゼデクも必要以上に自分には目を光らせている


 …色恋沙汰には婦女子の方が鋭い意見をくれるだろうか

 しかしリャンティーアは話好きの所がある
 相談した内容がシェルに筒抜けになる可能性も否めない



 いっそメルキゼデクに――――…いや、論外だ
 何を言われるか…予測出来ないからこそ恐ろしさが計り知れない


 そういえば以前、自分がシェルに対して恋愛感情を抱いていると誤解された事があった


 最初はその誤解っぷりを面白おかしく見ていたシェルだったが、
 後に二人の根気のある説明によって、ようやく誤解が解けたのだった

 あの当時は冗談じゃないと思ったが、今となっては笑えない事態だ
 …もしかすると、メルキゼデクには先を見通す能力があるのだろうか…



「こんな事になるなら、無理に誤解を解かずに
 色々と手を貸してもらえばよかったな…」

 今更、『やっぱり好きになっちゃいました』と言っても信憑性が無い


「…他に、誰かいただろうか…」


 記憶を遡ってみる
 お世辞にも知り合いは少ない

 すぐに数名の顔が脳裏に浮かんだ



「………ユリィ………?」


 ダメだ

 頼りにはなりそうだが、係わりたくない
 精神的ストレスで疲労困憊になるのが目に見えている

 しかも、もれなくセーロスの手料理付きになるだろう
 しかしそうなると死活問題になってくる



「やはり…ここは遊羅しかいないか…?」


 彼ならシェルを女性に置き換えて話す事ができる
 その分、こちらとしても相談しやすい

 しかし―――…万が一、シェルの性別がバレてしまったら
 数少ない友達を失う事を覚悟しなくてはならないだろう



「うぅ〜…」

 頭を抱えて悩む
 どの選択肢を選んでもリスクが高すぎる

 結局、空が白み始めても答えは出ず、
 足元に転がる空き缶だけが増えていった


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