「うわあ…!!」


 見事な変貌を遂げた恋人を前に、
 感嘆の声を上げて目を輝かせるカーマイン

 ダークグレーのスーツと赤いネクタイ、そして銀縁のメガネ
 びしっとスーツで決めたその姿は知的な雰囲気を醸し出している


「…ど、どう…?」

「すっごくイイよ!!
 ちょっと服を変えただけで別人みたいだ…!!」


 興奮も露なカーマイン

 見ているだけでは物足りなくなったのか、
 その手がメルキゼデクに伸びる

 メガネの角度を変えてみたり、ネクタイの結び方を変えてみたり
 やがて服だけではなく髪型まで色々と弄りだしたカーマインを前にメルキゼは苦笑を浮かべる




「…ねぇ、カーマイン
 私で人形遊びをしていない…?」

「あはは…バレた?
 でも、本当にお前、凄く格好良いよ」


「そ、そう…?
 気に入ってくれたのなら私も嬉しいのだけれど…」

「気に入ったよ、凄く
 でも…どうせならもう少しサービスして欲しいな」


「…えっ…サービスって…?」

「こんな風に、ぎゅ〜って」


 そういうとカーマインは両手で抱きしめるジェスチャーをする

 途端に真っ赤に染まるメルキゼ
 どんなにコスプレをしようと、当然ながら中身までは変わらない




「は、恥ずかしいよ…」

「ちょっとだけで良いからさ」

「…う、うん…じゃあ、少しだけ…」


 メルキゼがカーマインの背後に回る
 正面から抱き締めるのは恥ずかしいらしい

 おずおずと回された手は少し震えている
 カーマインの腕ごと、すっぽりと包み込むように抱き締めた



「こ、これで…良い?」

「ん…もう少し強く」

「う、うん…この位かな…
 苦しかったら遠慮なく言って欲しい」


「大丈夫、苦しくない」

「そ、そう…?」

「ああ…お前の体って、
 暖かくて気持ちが良いな」



 メルキゼの胸に体重を預けると、
 そのまま目を閉じて幸せそうに笑うカーマイン

 恥ずかしそうに頬を染めながらも嬉しそうに微笑むメルキゼ
 ゆったりと流れる恋人たちの時間


 この場は完璧に二人だけの世界になっていた





「…わしらの存在…忘れられてないか…?」

「完全にお邪魔虫じゃのぅ…」


 蚊帳の外に追いやられたシェルと火波
 こうも露骨に見せ付けられては揶揄めいた言葉すらかけ難い

 なんとも居心地の悪い空間に取り残されたものだ



「…席、外した方が良くないか…?」

「そうじゃのぅ…仕方がないか
 本当はもう少し見ていたかったのじゃが…邪魔しても悪いしのぅ」


「……じゃあ…行くか」

「うむ…そうじゃな」


 気配を殺しつつ、速やかにこの場を立ち去るのが最も賢明な判断だ
 まるで夜逃げをするかのように物音一つ立てずに家を抜け出すシェルと火波

 逃げ足ばかりが上達しているような気がするのは気のせい…だと思いたい






「あぁ…胸焼けするかと思った」


 げんなりとした表情で息を吐く火波
 イチャつくのも結構だが、少しは人目を気にしろと言いたい

 言いたいのだが――…面と向かってそれを口にする度胸を持ち合わせていないのも事実だ



「やれやれ…さて、どこで時間を潰すか…」

「んー…そうじゃのぅ
 海でも見に行かぬか?」

「人の多い場所は苦手なんだが」


「ならば人の寄り付かぬ海へ行けば良いじゃろう?
 この森を少し進めば滅多に人の寄り付かぬ崖があるのじゃよ
 話によれば静かに海を見ることの出来る穴場的なスポットらしいのじゃ」

「…良くそんな場所を知っているな…」

「ふふん、恐れ入ったか」



 このまま小屋の外で突っ立っていても仕方がない
 何もしないでいるよりは、シェルと一緒に海でも見ている方が良いだろう

 導かれるがままに火波はシェルの後を付いて行く
 しかし、一体いつの間にそんな情報を仕入れたのだろうか


 話の出所が気になる
 何となく嫌な予感がするのだ

 そしてその場に到着した時、その嫌な予感が的中したことを思い知った





「…おい、シェル…」

「どうしたのじゃ?」

「どうしたもこうしたも…
 よりによって、何でこんな場所を選ぶんだお前は…」


 切り立った岩場が聳え立つ鋭い地形が続いている
 激しい波飛沫がぶつかり合い、声もかき消されそうになる

 岬というより崖
 崖というより断崖絶壁

 人の姿どころか、鳥の一匹、虫の一匹すら見当たらない
 代わりにその場を埋め尽くしているものは―――…この世に存在してはいけない者達だった



「ここは穴場的な自殺の名所なのじゃよ
 地元の者は呪われた場所だといって寄り付かぬらしいのじゃが…」

「やっぱりな…呪縛霊で埋め尽くされているぞ
 お前は見えないからいいだろうが、わしには見えるんだ」


 頭から血を流したり、身体の半分が潰れていたり
 お世辞にも見ていて良い気分のする姿の霊は一人もいない

 というより、物凄く不快だ
 正直言って―――…ちょっと怖い



「あぁ…誰もおらぬ静かな海じゃのぅ…」

「いや、わしには大量の霊が見えてるんだが…」


 しかも海そのものが死者たちの血で赤く染まっている

 霊の手が崖の底から手招きしているのがはっきり見えた
 手招きされているのは―――…シェルだ

 やがて血みどろの手はシェルの肩や腕に伸び始める



「…っ…こ、こら、離れろ!!」

 慌ててその手を振り払う火波
 しかし霊の姿が見えていない当のシェルは首を傾げるばかりだった


「何じゃ…蚊でもおったか?」

「お前は…呑気なものだな
 魂を奪われるところだったんだぞ」

「そう言われてものぅ…」



 実感が湧かないらしい
 まぁ、見えていないのだから仕方がないのかも知れないが…

 しかし狙われているのは明らかなのだ


 執拗に霊の手はシェルを目掛けて伸びてくる
 明らかに彼らはシェルを自分たちの仲間にしようとしている

 …ちなみに、既に死者である火波は、
 最初から仲間とみなされているのか感心を持たれていない




「あぁ…海が、綺麗じゃのぅ…」

「いや、明らかに呪われているぞ
 この海は危険だから早く―――…って、こら!!」


 ふらふらと歩き始めたシェル
 その足は明らかに崖へと向かっている

 影の底では血の海の中から霊の手が手招きをしていた


 霊の力で吸い寄せられている
 やがて一体の霊がシェルの姿と重なった

 霊の一部がシェルに憑いたのだ



「あぁ…呼ばれておる…
 拙者も行かねば――…」

「行くなっ!!
 行ったら死ぬぞっ!!」


「ここから飛び降りれば楽になれる…
 この先には、きっと楽しい世界が――…」

「こらシェルっ!!
 正気に戻れっ!!」


 崖に飛び込もうとするシェルを慌てて引き寄せる
 間一髪間に合った…が、まだ終わったわけではない

 未だに取り憑かれたままの少年は目の焦点が合っていなかった
 ぶつぶつと不吉な言葉を呟きつつ、火波の腕から抜け出そうとする

 この手を解かれたら最後、シェルの身体は崖の底へと転落して行くだろう






「くっ…霊め、出て行け!!
 お前たちにシェルの魂は渡さんぞ!!」


 言って聞くような連中ではない
 それはわかっているが、だからといって黙っているわけにもいかない

 ここで負けたらシェルの命が失われる


 しかし―――…自分と違って霊には実体がない
 実体が無い相手にどう戦えというのだ

 物理的な攻撃はすり抜けてしまうし、何よりシェルの身体をも巻き込みかねない



「シェル…頼むから暴れるなっ…!!」


 崖から飛び降りようとする少年の身体を何とか押さえ込みながら、一歩ずつ後退りする
 とにかく少しでもこの場から離れなければシェルが危ない

 抵抗を続けるシェルの手が火波の身体に幾筋もの傷を付けた
 ぎりぎりと食い込む爪が焼け付くような痛みを生み出す


「…っ…お前を助けるためにしているんだぞ…っ…!!」


 彼自身の意思ではない…それは理解しているが、腹立たしい
 唯一の救いは刀を小屋の中に置いてきた事だけだ

 傷だらけの腕でシェルの身体を担ぎ上げると火波は走り出した
 どこに向かっているのかもわからないまま、とにかく安全な場所を探す




 この状態で町の中に行くわけにはいかない


 シェルの口からは、とても人のものとは思えないような悲鳴が上がっていた
 普段の少年の声とは明らかに違う―――…彼に憑依した霊の声なのだろう

 早く霊を追い出さなければシェルが危ない
 しかしその方法などわかるはずも無い


 聖書の一節どころか賛美歌すら知らない火波には霊を鎮める手だてが無い

 メルキゼかカーマインなら何か知っていたかもしれないが、
 彼らのいる小屋からはかなり遠く離れてしまった


「くっ…どうすれば…」

 暴れるシェルを押さえ込みながら、
 火波は藁にも縋る思いで空を仰いだ

 その瞬間、



 ぼふっ


 足元が盛大な粉塵を巻き上げて爆発した

 シェルを抱きかかえたまま、
 爆風に巻き込まれて吹っ飛ぶ火波


 幸い、ほんの数メートルの高さだ

 落ちて死ぬ高さではない
 受身の姿勢を崩さずに保って着地できれば、怪我一つ負わないだろう

 ―――…が、その場合シェルが自分の下敷きになる可能性がある

 落下の重力に自分の体重が加われば、シェルの体が潰されてしまう
 止むを得ず受身の姿勢を崩して、自らの体を下にする



 べしょ


 我ながら最低最悪な姿勢で落下した
 なにも顔面から着地することないだろうに…

 まさに泣きっ面に蜂の状況だ
 不幸中の幸いは、この無様な姿がシェルの記憶に残らない事だろう…



「痛っ…うぅ〜…」

 目から火花が飛び散るような衝撃
 顔中がズキズキと痛む

 多少の打撲と擦り傷くらいは出来ているはずだ
 それでもシェルの体を離さなかったのは執念のおかげだろう

 しかし――――…


「い、今の爆発は一体…」


 まさか地雷でも埋まっていたのだろうか
 しかし火薬による爆発なら、大怪我をしていた筈だ

 それに、微かに漂う薬の香り
 明らかに人工的に起こされた爆発だ


 しかし、それならば何の為に―――…?


 助けが来たとは考えにくい
 自分たちを助けるつもりなら、そもそも爆発に巻き込んだりはしないだろう

 しかし、かといって敵の出現とも考えにくい
 この爆発は数メートルほど身体を吹き飛ばす威力はあるが致命傷を与えるほどの威力はない


 武器として使用する為の物ではない事は明らかだ
 攻撃するつもりがあるなら直接武器で向かってきた方が遥かに効率が良い

 シェルの体を全身で押さえ込みながら火波は必死に考えを巡らせる


 敵でもない、味方でもない
 それ以前に本当に自分たちを狙って起こされた爆発である証拠もない

 考えられる可能性は――――…



「…何かの…事故、か…?」


 周囲を見渡す
 木々の間から黒い人影が駆け寄ってくるのが見えた

 敵か見方かわからない

 戦闘体勢を取るべきなのだろうが、
 シェルを押さえ込むので精一杯だ


 とにかく、一刻も早くこちらに戦う意思が無い事を伝えなければ
 向こうが襲ってくれば成す術もない

 話が通じる相手である事を祈りながら火波は口を開く
 ―――…が、それよりも早く向こうの方から声をかけてきた





「すっ…すんません!!
 煙玉の配合を間違えてしもうて…」


 慌てた様子で駆け寄ってくるのは黒い服を着た男だった
 地味な黒装束と、それに似使わない派手に飾った栗色の髪

 その姿には見覚えがあった


「…遊羅……?」

 その名を呼ぶと、相手の方も気付いたらしい

「ほ、火波か!?」



 彼の表情が一瞬和らぐ
 しかし尋常ではない様子に再び彼の表情が強張った


「遊羅、話は後だ!!
 手を貸してくれ!!」

 遊羅は火波とシェルの姿を交互に見る

 火波の全身に痛々しく残る引っ掻き傷
 鬼のような形相で火波を睨みつけているシェル
 そして殺気混じりの張り詰めた空気

 遊羅はこの状況から全て悟ったという表情で頷いた




「…痴話喧嘩か」

違うわっ!!


「さては火波、浮気でもしたな?」

「するかアホっ!!」


「いや、隠さなくても良いって
 こういう時は下手に言い訳してもダメさ
 ひたすら土下座して謝り倒すしか―――…」

「違うと言ってるだろうが!!
 この早とちり忍者がっ!!」


 わかってる
 遊羅がこういう男なのはわかっている

 でも―――…今はその勘違いに付き合っている余裕がない



「悪霊に憑依されているんだ!!
 海の…岬に蔓延っている霊の一部だ!!
 遊羅、この子から霊を追い出す方法は…!!」

「あ、悪霊っ!?
 崖のところの霊――…となると、一筋縄には行かねぇわ!!
 岬にいる悪霊の親玉を退治しない限り、この霊たちも大人しくならねぇ!!」


 先程見た大量の霊たち
 あの中に、彼らの親玉がいるらしい

 しかし…そこまで戻るだけの余裕も無い
 シェル一人を押さえ込むので精一杯だ



「な、何とかならないのか…っ!?」

「オラが親玉を退治してくるからさ!!
 火波はその子に、これ飲ませて待っててくれや!!」


 遊羅が何かを放り投げる
 小さなビンに入った透明の液体


「これは…?」

「教会で汲んだ聖水っ!!
 これ飲ませれば霊にダメージ与えられっから!!
 聖水で弱らせたところで親玉を倒せば、コイツも同時に片付けられっからよ!!」


 そう言うや否や、遊羅は岬目掛けて走って行く
 本当に足が速い…一瞬で姿が見えなくなった

 忍者に霊の退治が出来るのかどうかは謎だが、
 ああ見えても殺しのプロだ

 恐らく何かの方法があるのだろう
 不安は尽きないが今は遊羅を信じるしかない




「…聖水、か…」


 妙に透き通った水だ

 陽光を反射してキラキラ輝いている
 ビンを通しても聖なる力が伝わってきた


 確かにこれは悪霊が嫌がるだろう
 邪悪な者は聖なる力に弱い

 シェルの口から聖水を流し込めば、
 彼に取り付いた悪霊は堪らずにその身体から逃げ出すだろう


 しかし―――…

 自分も邪悪な魔物だ
 正直言って、聖水には触れたくもない

 というより触れた場合、ただでは済まないという確信がある



「…ったく…シェルめ…
 この借りは倍にして返してもらうからな…!!」


 シェルの体を押し倒すと、その上に覆い被さる火波

 第三者から見れば誤解を受けそうな姿だが、
 体重を使ってシェルを押さえ込まなければ手が使えない


 自分の体を重石にして、聖水のビンを手に取る
 流石に重いのかシェルの苦しそうな呻き声が聞こえた

 この声は悪霊が出しているものなのか、
 それともシェル自身のものなのか――…

 …恐らく両者のものである可能性が大だ



 聖水の蓋を開けてシェルの口元へ持っていく
 しかし彼は聖水を近付けただけで悲鳴を上げて激しく暴れだした

 衝撃にビンを取り落としそうになる


「こ、こらっ!!
 暴れるんじゃない、こぼれるだろうっ!!」


 いや、多少こぼれる分には特に問題はない
 ただ自分の肌に触れたら困るのだ

 火波自身もアンデットだ
 聖水に触れれば当然ながらダメージを受ける

 聖水ごときで致命傷を受けるような身体はしていないが、
 それでも出来る事なら無傷で事を済ませたいというのが心情だ





「ほら、飲め!!」


 当然ながら飲む筈がない

 ビンを口元へ近付けた途端、
 シェルは悲鳴を上げ続けていた口を固く閉じてしまった


「くっ…」


 まるで頑丈な糸で縫いつけたかのようだ
 指で唇を抉じ開けようとするが思った以上に力が強い

 それに下手をすると指を食い千切られそうだ


 聖水を警戒してか先程まで暴れていたのが嘘のように静かになった
 それだけが唯一の救いだった―――…が、事態は何も変わらない

 唇と瞳を閉じたシェルは全身を硬直させて微動だにしない



 いっそ鼻でもつまんでやろうかとも思ったが、
 悪霊が窒息でダメージを受けるとも考えにくい

 むしろシェル本体の方が危険な状態になるだろう


 ビンの口をシェルの唇に押し付ける
 聖水がシェルの唇を濡らす―――…が、特に反応はない

 外側からではダメージを与えられないらしい
 やはり口の中へ流し込むしかないのだ


 しかし―――…



「どうしろと…」


 この状態で、どうやったら飲ませることが出来るのか
 手段が見つからずに途方に暮れる

 しかし、そうしている間にもシェルの顔色はどんどん悪くなって行く
 シェルの生命力が悪霊によって吸い取られている証だ

 このままではシェルの魂が奪われる
 もう、あまり時間はない


「シェル…シェル!!
 頼むから口を開いてくれ!!」


 焦りだけが募って行く
 色を失った唇に責め立てられている錯覚に陥った

 青白くなった頬は火波の肌の色と大差ない
 確実に死へと向かっている少年の姿に背筋が凍る



「…シェル…」


 その肌に触れてみる
 皮の手袋越しに微かな温もりを感じた

 暖かくて気持ちがいい

 もっと温もりを感じたくて、
 額に頬に手を這わせた


 不意に彼の白い首筋が目に入る

 鮮やかな色の髪が、その滑らかな肌を際立たせている
 以前はこの首筋を見る度に牙を立てたい衝動に駆られていた


 強い魔力を持つエルフの――…シェルの血はあまりにも魅力的だった

 甘い血の香りの記憶が蘇える
 暖かくて生命力に溢れた深紅の血―――…




「………………」


 ふと、ある考えが頭を過ぎる

 白い首筋
 全身を駆け巡る血潮


 成功するかどうかはわからない
 それに、リスクがあまりにも大き過ぎる

 しかし――――…迷っている暇はなかった



「…シェル…許せ」


 火波は謝罪の言葉を口にすると、
 少し躊躇いながらもシェルの首筋に牙を立てた

 その瞬間、赤い飛沫が飛び散る
 二人の肌も生い茂る草葉も赤く染まった


「きゃあぁぁ―――…っ!!」

 シェルの口から耳を劈く悲鳴が上がる
 悪霊の発する悲鳴ではなく、シェル自身のものだった

 たとえシェル自身の意識は無くても、
 取り憑かれ身を支配された状態であっても、
 その身に受けた痛みはシェル自身に向かうらしい


 再び暴れだしたシェル

 その身体を全身で押さえ込みながら、
 火波は再び聖水のビンを手に取った



「お前一人に傷を負わせる事はしないからな」

 神聖な力を秘めた聖水

 それはアンデットにとっては濃硫酸に匹敵する
 一滴でも触れれば、そこから焼け爛れて崩れ落ちて行く


 しかし躊躇している時間はない
 火波は意を決すると、その聖水を口に含んだ



「…くっ…!!」


 痛みが走る

 口の中が燃えるように熱い
 焼けた皮膚が剥がれて血が溢れた


 吐き出したくなる衝動を抑えて、
 火波は先程牙を立てたシェルの首筋に再び口付ける

 そして、その傷口から口の中のものを注ぎ込んだ


 血流に乗って聖水がシェルの全身を駆け巡る
 それと同時にシェルの取り憑いた霊が苦しみだす

 やがてシェルの輪郭が二重に重なり、
 その内の一つが中に舞い上がる

 シェルに取り憑いていた悪霊が、その体から飛び出た


 …若い女性の霊だった

 彼女は目に涙を浮かべながら自分とシェルを交互に見比べた後、
 何かを諦めた表情で、岬のある方向へと飛び立って行ってしまった

 再び森の中に静寂が訪れる
 遊羅は無事、悪霊の親玉を退治したらしい




「…シェル、大丈夫か…?」


 ぐったりと動かない少年を抱き起こす
 瞳は閉じられたまま微動だにしない

 まずは呼吸を確かめた
 指先を舐めて、シェルの口元に近付ける


 微かな吐息
 弱々しいものの、呼吸はできている

 脈もしっかりしていた
 どうやら気絶しているだけのようだ

 火波が思った以上に、この少年の生命力は強いらしい



「…ったく…心配かけて…このガキは……」


 ようやく愚痴がこぼせるだけの余裕が出てくる
 しかし、安心した拍子に緊張の糸が切れたらしい

 眩暈と共に全身がずっしりと重くなる


 火波は耐え切れずに、ゴロリとその場に寝転んだ
 …疲労のあまり、倒れ込んだと言った方が近いかも知れない

 森の中で大の字に寝そべるなんて至極危険な行為だが、とにかく体力が限界だった


「…想像以上に効くな…聖水…」

 口に含んだ聖水は火波の体にも吸収された
 冷たい筈の体が熱に浮かされたかのように熱い

 額には汗が滲んで、体の節々が痛んだ



「…生前…インフルエンザで寝込んだ事を思い出すな…」


 体に吸収された聖水は、火波にとってウイルスのようなものだ
 全身を駆け巡る有害物質に悲鳴を上げているらしい

 この状況を改善させるためにはワクチン使うのが最も手っ取り早い
 自分にとって最大の薬、それは勿論血液だ


 しかし、ここでシェルの血を舐めれば更に状況が悪化するだろう
 何せシェルの血に聖水を吹き込んだのは他ならぬ自分なのだから

 …仕方がない
 自然治癒に身を任せるしかないようだ

 幸い、体内に取り込んだ聖水は少量だ
 数日もすれば聖水の効果は消えてなくなるだろう





「…はぁ…何故、いつも唐突に厄介事に見舞われるのだろうな…」

 昔から運が無いといわれ続けて来た
 トラブルを呼び起こす体質でもあるのだろうか


「…たまには…一つくらい、良い事があってもいいだろう…」

「ま、そんな悲観的にならんでも」


 一人で愚痴をこぼしていた筈なのに、突然相槌が入る

 シェルの声より低い男の声
 妙に緊張感のない気楽なその声には聞き覚えがある



「…遊羅…」

「火波、どした?
 そんな所で寝てると風邪引くぞ?」


「……少し疲れただけだ」

「ん、そっか
 それなら良いんだけどよ
 隣りで寝てる子は――…?」


 あぁ、そういえば紹介していなかった
 悠長に紹介している余裕も無かったのだが

 彼は恩人だ
 紹介しておくべきだろう

 …いや、それよりも礼を言うのが先だ




「…先程は、世話になったな…感謝する
 遊羅のおかげで大事には至らなかった
 今は気絶しているが…すぐに目覚めるだろう」

「そっか、無事だったか
 良かったなぁ…初めて人助けできた」


 黒装束で顔も体も覆われている遊羅
 それでも微かに細められた瞳が彼が微笑んでいる事を教えてくれる

 良い人だ
 …少なくとも、火波はそう思っている


 何度か顔を合わせているからだろうか
 彼に対する警戒心は殆どなかった

 相手はアサシン―――…殺しのプロだ
 怪しいどころか最も警戒しなければならない相手だと言うのに




「…となり…座るか?」


 何で、そんな事を言ってしまったのだろう
 気絶しているシェルを担ぎ上げて、宿に戻ればいいのに


 体調が悪くても、それくらいは出来るはずだ

 今からでも遅くはない
 適当に礼を言って、すぐに立ち去ればいい

 自分と係わる相手をこれ以上増やすなんて――…



「…その子、連れて帰らなくていいのかい?
 早くベッドに寝かせてあげた方が良いと思うんだけどなぁ」


 そうだ
 その通りだ

 ここは言葉に甘えて、一刻も早く帰るべきだ

 また逢おう、と
 今度礼をさせてくれ、と

 社交的な挨拶を交わして―――…



「………少しだけ…付き合ってくれないか…?」

「…えっ…?」

「少しだけで良い
 話を聞いて欲しい…」


 驚く遊羅
 火波自身も驚いた

 何故、自分は突然こんな事を言い出しているのだろう
 頭で考えている事と、口に出している事が矛盾している


 そもそも、一体自分は何の話を始める気だ
 自分で発している言葉なのに、全く理解ができない



「…遊羅…その…何と言うか……」

「…………………。」


 少し考え込む素振りを見せる遊羅
 しかし、再び目を細めて笑うと彼は自分の隣りに腰を下ろした





「…さては火波…
 なぁんか…悩んでんな?」

「………えっ……?」

「抱え込んでんじゃないんかな
 この子とか、他の仲間や友達には相談できないような悩み」


 …悩み…?

 そんなもの、大量にあるに決まっている
 自分の存在こそが悩みそのものだといっても良い

 しかし…別に、遊羅に相談を持ちかけるつもりは無い筈だ


 大体、その理由がわからない

 何度か顔を合わせただけの男に悩みを打ち明けるなんて馬鹿げている
 ずっと行動を共にしてきているシェルに頼った方が自然な行為だと思う



 しかし…自分は、確かに遊羅に話を聞いて貰いたがっている
 カーマインにも、メルキゼデクにも、当然シェルにも言えなかった話を

 何故だろう
 どうして、自分はこの男を―――…?


 何か理由があるはずだ
 しかし、その理由がわからない

 頭ではなく本能的に感じているのだろうか
 彼なら…いや、彼にしか相談できないのだ、と


 ――…怖い
 次に自分が何を口にするのか、怖かった




「…んー…そうだなぁ
 ま、オラで良ければ相談に乗るさ」

「……あ、ありがとう……」


「そこの彼女が起きるまで付き合うさ
 オラは自由気ままな独り身――…ヒマなんだ、実際」

「……………!!」


 熱っぽかった意識が急に覚醒する

 今、遊羅は何と言った?
 シェルに対して―――…『彼女』…?



「可愛い子だなぁ
 大切にしてやらないとダメだぞ、火波」


 …そうだ…

 遊羅は自分とシェルを見て『痴話喧嘩』と言ったのだ
 つまり彼の目には自分とシェルが恋人同士に見ている

 遊羅はシェルの事を少年ではなく、少女だと思い込んでいるのだ



「―――――……。」


 自分が何を相談しようとしたのか
 何故、遊羅を頼ろうとしたのか

 その全てが、わかった気がした


 シェルが男だと知っているメルキゼデクやカーマインには相談できない
 勿論、シェル自身に打ち明けるなど言語道断だ

 しかし、シェルを少女だと思い込んでいる遊羅になら
 遊羅相手になら、男同士と言うタブーから目を逸らす事ができる


 いっそ、シェルが本当に少女であってくれれば―――…




「………………」

「ど、どしたんだ!?
 さっきから急に黙り込んで…」


「………何か…恐ろしい考えにぶつかりそうな気がする……」

「は…はぁ…?」


「…こ、これ以上考えては駄目だ
 身が破滅する…自分が許せなくなる」

「い、いや、そんな深刻にならなくても…」



「……最悪だ……」

「ほ、ほ、火波っ!?」


 頭を抱え込んで自己嫌悪
 ふと浮かんでしまった答えに泣き叫びたくなる

 絶対に思ってはならない事
 もう二度と抱いてはならない感情

 完全に手放したと思っていたのに、
 まだ心の底で眠っている事に気付いてしまった


 しかも――…よりによって、一番タチの悪い相手に!!





「……ほ、火波…どしたんだ?
 いつもにも増して、顔色が悪い気がすんだけど…?」

「…………き、気のせいだ……」


「そ、そか…?」

「思い違いだ!!
 こんなの嘘だ、わしは認めない!!
 何も知らないし気付いていない…そうだ、そうだとも!!」


「ほ、ほ、火波ぃっ!?」

 遊羅が驚いている
 しかし、他人に構っている余裕が無かった


「…そうだ…気のせいだ…
 ダメージを受けたせいで混乱しているだけだ…」



 否定をすればするほど、切なくなる
 それでも認めるわけにはいかない

 再び心を凍りつかせて
 下らない感情は投げ捨てなければ

 さもないと―――…本当に、取り返しのつかないことになる


 自分自身が何度も口にしていた筈だ
 二度目は耐えられない、と

 今度こそ本当に―――…人としての心が砕けてしまう




「…ほ、火波…疲れてるだろ?
 言ってる事が意味わからねぇだよ…」

「………す、すまない……」


 自分でも意味がわからない
 頭の中が混乱していて真っ白だ

 ただ一つだけ確信を持っていえる事は、
 シェルと必要以上に接するのは危険だ、と言う事だけだった


「帰って、休んだ方が良いさ
 これ―――…オラが今、泊ってる宿の住所
 相談に乗って欲しい事があったら、いつでも来てくれていいから」


 宿の住所が書かれたメモを手渡される

 自分の連絡先も伝えるべきだろう
 しかし、混乱した頭では宿泊先の住所さえ思い出せなかった



「…す、すまない…
 近いうちに改めて礼を――…」

「あー…じゃあ、飲みに行こう
 気になってる店があるんだわ」

「あ、ああ」

「じゃ、オラはもう帰るな」


 かなり気を遣わせたのだろう

 不自然なほどに愛想笑いを振りまいて、
 遊羅はどこへとも無く消えていった



「――――……。」


 残ったのは意識を失ったままのシェルと、
 そして抜け殻のようになった自分の姿

 頭の中は空っぽのままだ
 これ以上何も考えたくなかった

 考えが浮かぶのが怖かった


「…シェル…わしは…わしは―――…」


 可愛くないガキ
 生意気で、口達者で
 人をけなしてばかりで腹立たしい事この上ない

 彼をそう思う気持ちに間違いは無い―――…筈だ


 それに自分は女が好きだ

 女性の柔らかい肌、口紅に彩られた唇
 豊かな胸に、曲線を抱く身体のライン

 成熟した大人の女が好きだ
 子供を愛する趣味も、男を愛する趣味も無い


 しかし―――…シェルは子供であり、更に男だ




「シェル…わしは―――…」


 わしは

 認めたくないが…



 変態だったらしい



「い…嫌だ!!」

 ホモショタで、更にマゾ


 不死身の変態という、
 あまりにも悲しすぎる自分に気がついてしまった



「……あ、頭が痛くなってきた……」


 やっぱり認めるわけにはいかない
 自分の心が何と言おうと、シェルは自分の仲間

 それ以上でも以下でもない―――…


 この関係を貫く、永遠に
 心も感情も全て凍りつかせて封じ込めてやる

 そうでもしなければ、あまりにも自分が悲しい


 ズキズキと痛む頭を抑えながら、
 火波はシェルの背負うと宿に向かって歩き始めた

 相変わらず頭の中は混乱を極めていて
 どこをどう歩いてきたのか…それすらも覚えていなかった


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