「ほぅ…それでは、本気で危なかったのじゃな」



 詳しい話を聞いているうちに、
 予想外の深刻性にシェルは思わず顔を顰めた

 まさかメルキゼが殺意まで抱いていたとは思わなかった


「だが、メルキゼデクの怒りの原因が全くわからん
 心当たりが無いのが逆に怖くてな…まぁ、いつもの勘違いだとは思うが」

「勘違い…とは言っても…のぅ?
 あのお人好し男に殺意まで抱かれるとは…並大抵のことではないぞ?」


「ああ…だが、本当に心当たりが無いんだ」

「難儀なことよのぅ…
 カーマインが上手く誤解を解いてくれたらよいのじゃが
 まぁ、彼が戻ってきたら拙者の方からもフォローしておくから安心せい」


 彼の言葉に安堵を覚える火波
 シェルとカーマインの二人がかりでフォローして貰えれば大丈夫だろう

 安心してレモネードをすすっていると、程なくして玄関のドアが開かれた






「た、ただいま…」


「おお戻ったか
 それで…一体何がどうしたのじゃ?
 メルキゼデクの誤解は解けたと見て良いのか?」

 火波の心配というよりは、
 好奇心に突き動かされているのが見え見えのシェル


 しかし当の火波にしてみればシェルよりもメルキゼの反応のほうが気になって仕方がない

 メルキゼの表情を見た限りでは、
 誤解が解けてスッキリした…というようには見えなかった

 虫の居所が悪そうな、不貞腐れた感じの表情
 理解はしたけれど納得はしていない…といった感じだ


 ご機嫌斜めのメルキゼを前に、火波の方にも不安が残る



「…火波」

「なっ…な、な、何だ?」

「………すまない…悪かった」

「えっ…あ、ああ…」


 一応は謝罪の言葉を口にするメルキゼ

 でも…あまり反省しているようには見えない
 彼のこの機嫌の悪さは一体何事なのだろうか


「ええと…火波さん、本当にすみませんでした
 このバカが、とんだ失礼をして…お怪我はありませんでしたか?」

「あ、ああ…大丈夫だ
 それで、詳細を聞きたいんだが…」


 それを聞かないことには始まらない
 ついでにメルキゼが不機嫌な理由も知りたかった




「それが…その…
 このバカがヤキモチを焼いたみたいで…」

「……は?」

「まぁ、誤解は解けたんですけど…
 俺と火波さんを金輪際、
 絶対に二人っきりにはさせないって言って不貞腐れてるんですよ」

「……え…ええと……?」


 ちら、とメルキゼのほうに視線を向ける

 相変わらず頬を膨らませたままメルキゼは、
 火波と目が合った瞬間、更に不機嫌さに磨きをかけた



「…め、メルキゼデク…?
 お前が妬くような事は特に無いんだが…」

「…だって…カーマイン、火波のことばかり話すから…
 だからカーマインは私よりも火波の方が好きなのかと思って…」


「お前なぁ…さっきから説明してるだろ!!
 俺が火波さんに抱く好意と、お前に対する好意は根本的に違うんだって!!」

「…め、メルキゼデクよ…
 友情と愛情は違うものじゃぞ…?」


 まさかメルキゼが火波に妬いてるとは思わなかった
 意外な真相を知って度肝を抜かれるシェルと火波

 シェルにはまだフォローの言葉を口にするだけの余裕があったが、
 当の火波は既に言葉も出ないのか、口を半開きにしたまま硬直していた

 …まぁ、確かに衝撃的だろう…






「メルキゼデクよ、どうして火波にだけ妬くのじゃ?
 ゴールドやレンには全然妬くような素振りは見せんかったろうに…」

「だって…だって、ゴールドやレンたちには恋人がいたから!!
 だからどんなにカーマインと仲良くしていても、安心していられたんだ
 でも、火波にはこれと決まって相手がいるわけじゃないし…
 それにカーマインが私に不満を抱いていることは知っていたから!!
 だから経験豊富な火波のほうに行っちゃうんじゃないかって不安になって…」


 そのまま、その場に突っ伏して泣き始めるメルキゼデク
 流石に泣き出されてはこれ以上、咎の言葉をかけるわけにも行かない

 自然と視線はカーマインの方に集まってくる
 しかも、若干の非難を含んで



「…カーマインよ…
 お主が漏らした不満の声が、
 メルキゼを追い詰めたのではないか…?」

「恋人にしろ夫婦にしろ、必ず些細な不満は存在するものだ
 だがそれに対して一々不平不満を唱えていれば、いずれ溝が生じてくるものだぞ
 それに自分が相手に対して不満を抱いている時は、
 相手も自分に対して不満を抱いていると思うべきだ…」


 既婚者の火波が言うと凄く説得力がある
 しかもさり気なく夫婦円満の秘訣まで説いてくれた

 確かに晩生なメルキゼに対して不満があった
 でもメルキゼにもきっと、何かしら不満は抱いていたに違いない



 しかし言いたいことをすぐに口に出来る自分とは違って、
 引っ込み思案なところがあるメルキゼは何かと内に溜め込みやすい性格だった

 その辺も汲んでやるべきだったのに、自分の要求ばかりで完全に失念していた


 自分が不満を口にする度にメルキゼの中には不安な気持ちが溜まって行ったのだろう

 一度、親に捨てられた経験のある彼のことだ
 恐らく自分が文句を言う度に、再び捨てられるかも知れないという恐怖に陥っていたのだろう


 そして時間をかけて蓄積した負の感情が、たまたま今回のことが引き金になって爆発したのだ

 そうでなければここまで感情的になるとは思えない
 不安感と嫉妬が殺意に変わるまで追い詰めてしまった原因は自分にもある

 それなのに自分はメルキゼが誤解をしたと言って一方的に責めていた





「…ごめんな、メルキゼ
 俺、無神経に色々言っちゃって…」

「…………カーマイン……」


「な、何…?」

「私…疲れてしまって…
 少しの間、一人にさせて欲しい…」


「あっ…め、メルキゼ…」


 ふらふらと寝室の奥へと篭ってしまうメルキゼ

 追った方が良いのか、
 それとも彼の言う通り一人にしておいた方がいいのか



「ええと…火波さん、
 こういう時はどうしたら…」

「頃合を見て様子を窺うべきだな
 今はメルキゼデクの言う通り、一人になる時間を与えてやれ」


「は、はい…そうします
 でもメルキゼと顔を合わせたとき、何て声をかけたら良いか…
 それに、あいつに対して俺はどう接したら良いんでしょう…」

「言葉は何でも構わんさ
 せいぜい甘やかしてやれ」


「あ、甘やかす…って…」

「こういう時は相手に自分が一番想われているということを、
 身に染みて思い知らせてやるのが最も効果的だ
 メルキゼデクが喜ぶようなことをして機嫌取りをしてやるんだ
 まぁ、手法についてはお前自身が一番詳しいだろうから言わないが…」




 …メルキゼが一番好きなもの…
 それは二人きりで過ごす時間だ

 二人で並んで座って、何気の無い話をして
 たまに頭を撫ぜたり軽く唇を寄せて戯れる一時


 優しく抱きしめて耳元で一晩中愛を囁いて――…

 それこそ浮気なんて考えもつかなくなるように、
 胸焼けするくらい、たっぷりと甘い時間を持とう

 時間が空いてしまった今までの分を埋め尽くすくらいに


 火波に意見を聞いてよかった

 さすが人生経験が長いだけある
 今後も色々と頼りになりそうだ


 でも―――…




「…火波さんって…」

「うん…?」


「もしかして奥さんと喧嘩したとき、
 そうやって切り抜けていたりしたんですか…?」

「…………………。」



 気まずそうに黙り込む火波
 きっと、図星だろう


「…火波さんって…見かけによらず、
 意外と女性の扱いに手馴れてるんですね…凄いなぁ…」


 この人、地味そうに見えて実はけっこうやる

 彼が夫なら、きっと家庭も円満だったに違いない
 人生の先輩として尊敬の意を抱かずにはいられないカーマインだった







「ま、まぁ…わしの事はどうでもいいだろう
 それよりも今は―――…カーマイン、お前だ」

「えっ…ま、まだ何かありましたっけ…?」


 メルキゼのことで反省したばかりだというのに
 まだ何か落ち度があっただろうか…と、急に不安になる

 表情を曇らせるカーマインに、火波は微かな笑みを漏らした


「…違う違う、お前…当初の目的を忘れてるだろう?
 髪が酷い事になっているのではなかったか?」

「――――…あっ…」


 本気で忘れてた

 髪型なんて今まで滅多に気にしたことが無かったものだから、
 ついつい忘れがちになってしまう

 ずっとメルキゼのターバンを被りっぱなしでいるわけにも行かないだろうに




「ええと…じゃあ、ちょっと見てもらえますか…?」

「ああ、そのつもりだ
 それで…どんな感じにすれば良い?」


「……今の心境で言うと、
 いっそ頭を丸めてしまいたい気持ちなんですが…」

「ここでお前を坊主にしたら、
 それこそメルキゼデクの恨みを買いそうなんだが」



「た、確かに…
 ええと、じゃあ――…髪の量を少し減らして…
 髪がツノに絡まってるので、それを何とかして欲しいんですが…」

「わかった
 …じゃあ、この布を剥がしていいか?」


「お、お願いします…
 かなり壮絶な事になってると思いますけど…」



 火波の手が、カーマインが頭から被っていた布に伸びる

 彼はまだ知らない
 カーマインの頭に起きた惨劇を

 そして――――…



「……………………。」


 しーん

 絶句して固まる火波
 握っていたハサミを思わず取り落とした





「…あの…どうでしょうか…
 手の施しようというか…改善の余地はありますか…?」

「そ、そ、そう…だな…
 最善は尽くさせて貰うが…その、何と言うか…
 少し…いや、かなり部分的に短くなる事になるが…」


「この際、長さには拘りません
 外を歩けるような頭に戻してくれれば、
 もうそれ以上のことは望みませんから…」

「わ、わかった…
 何とか見られる形になるよう整えてみる…」



 切実な会話が繰り広げられる
 彼らを前に、当事者ではないシェルまでもが不安になってくる


「…のぅ、火波よ…後生じゃから、
 寝室から出てきたメルキゼが卒倒するような髪型にだけはしないでおくれ…」

「わ、わかってる…が…
 わしもツノの生えたロングなアフロヘアーを相手にするのは初めてだからな…
 というか、どうやったらこんなことになるんだ…?」


「メルキゼが手を下したらこうなったのじゃ」

「…あっ…ちょっと納得」


「はは…あははは…
 ち、ちなみにこの毛玉のどこかにリボンが数本入ってますんで…」

「…り、リボン!?
 えっ…ど、どこに…!?」


 毛玉の塊を掻き分け始める火波
 既に発掘作業と化している

 始める以前から長丁場の予感がする三人だった








 毛玉と格闘すること、たっぷり二時間後―――…



「な、何とか見られる形にはなったか…?」

「そ…そうじゃのぅ…
 元々跳ねる髪質じゃから、
 纏まりが無いのは仕方が無いしのぅ…」


「このリボンで結えば、多少は落ち着くだろうか…」

「その辺はプロとしてのお主の腕に掛かっておるのじゃが」


「と、とりあえず巻いてみるか…
 ええと…うわ、わ、いや、何とか――…ふんぬっ」



 …………。


 何か、凄く悪戦苦闘しているのがわかる
 ただ座っていることしか出来ないカーマインは無意識に身を縮めた

 でも、やっぱりプロの美容師は凄い
 ちゃんと形になって行くのがわかる


 あのゴワゴワした毛玉が、今では綺麗に無くなっていた



「…火波さんって、やっぱり凄いなぁ…」

「そう言ってくれるのは世界でお前だけだ」


「安心致せ、カーマイン
 今は純粋に感動しているじゃろうが、
 すぐにヘタレ部分ばかりが目に付くようになるのじゃ」

「…シェル…お前なぁ…
 ったく…反抗期真っ只中だな、この子供は…」


「このくらいが可愛いのじゃよ」

「どこがだっ!!
 というか自分で言うなっ!!」

「あっはっは」



 …いいコンビだ


 憎まれ口を叩き合いながらも、
 二人が会話を楽しんでいるのがわかる

 何だかんだ言いながらも、
 火波はシェルのことが可愛いのだろう


 シェルを見つめる火波の瞳は、
 カーマインに向けられるものとは違った優しさを帯びている

 …シェルがその事に気付いているのかどうかはわからないが



「…シェルも、いい人に出会ったな
 お前を置いて行ったこと、ずっと心残りだったんだけど…安心したよ」

「カーマインよ…これが本当にいい人か?
 地味じゃし存在感無いし…ヘタレな犬畜生じゃぞ?」

「……お前なぁ……」


「ふふっ…そうやって、本音で言いたい放題言い合える相手って実は凄く貴重なんだぞ?
 一見すると疎んじているようにも聞こえるんだけどさ、
 裏を返すと心を曝せるくらい信頼し合っているっていうことなんだからな」

「………むぅ……」


 恥ずかしかったらしい
 微かに頬の色が赤くなる

 口を突いて出る言葉とは裏腹に、表情は正直みたいだ






「か、カーマインは意地悪じゃ…
 それに拙者は別に、火波に心を曝しているわけでは…
 こやつはこう見えて邪悪じゃし、油断のならぬ相手じゃし…」

「ん〜…そうかな?
 でも、かなり肩の力抜いて話してるみたいだけどな
 シェルって自分が思ってる以上に火波さんのこと、好きなんじゃないか?」


 憎まれ口を叩くのも悪意からではなく、
 好意から来る戯れのようなものだ

 本当にいいコンビだ
 見ていても飽きないし


 ほのぼのと暖かいものを感じるカーマイン
 まるで友達のように仲のいい父と子のようだ…と、そう思った

 しかしシェルには違うニュアンスで伝わったらしい



「――――…!!!!!!!!?
 す、す、好きって…そ、そ、そんな筈がなかろうて!!!
 だっ、だ、だって、だって火波はヘタレじゃし、犬じゃし…っ…!!」

「…し、シェル…?
 何でそんなに取り乱すかな…」


「だ、だ、だって、カーマインが変なことを言うからじゃろうっ!!
 拙者は…ほ、火波の事なんか全然、これっぽっちも好いてはおらぬぞっ!?
 誰がこ、このようなヘタレで情けない根暗な小心者なんかを好きになるものかっ!!
 そっ、そ、それに…それ以前に、顔からしても拙者の好みのタイプではないし…っ!!」

「……あ―――…」


 顔云々で、ようやく悟ったカーマイン
 慌てて言葉を正す



「違う、違うって
 そっちの意味合いで言ったんじゃなくて…」

「えっ……あ…そ、そうか、そうじゃよな…!!
 あぁ驚いた…カーマインが酷い誤解をしているかと思ったのじゃよ
 こんなのが趣味なのだと思われたら、堪ったものではないからのぅ」


「こんなの…って言うけどさ、結構男前だと思うけどなぁ…
 背だって高いし、体格も良いし…妙齢の婦人たちには好かれるタイプだと思う」

「カーマインに言われても説得力が無いのぅ…
 お主、自分の恋人の美貌を踏まえた上で言っておるか?」



「…シェル…何度も言ってるが、
 わしとメルキゼデクを並べて考えること自体が間違ってるぞ…」

「まぁ、そうじゃな
 メルキゼと火波は月とスッポン、孔雀とカラス、猫男と犬男じゃからのぅ…」


 最後の例えだけは、そう違わない
 思わずそう心の中で突っ込むカーマインと火波

 ついでに言えば、どっちもヘタレ

 外見は全く対極のタイプだが、
 内面的な部分は意外と共通点が多いのかも知れない…







「…そろそろ、そのメルキゼデクに会いに行ってやる頃合じゃないか?」

 あれからもう、かなり経過している
 外はすっかり夜も更けて鳥の声も聞こえない


「メルキゼデクのことはお前に任せたからな
 わしらはもう退出するから、後は二人でよろしくやってくれ」

「そうじゃな…拙者もそろそろ眠くなってきたし…」


 炎で焦げ目のついた時計
 その針は既に日付けを変えていた

 保護者同伴とはいえ、子供が外を歩くには問題のある時刻だ



「あぁ、もうこんな時間か…
 ゴメンな、こんな夜中まで付き合わせて…」

「いや、拙者たちの方こそ長居して悪かったのぅ
 拙者たちのことは気にしないで、
 早くメルキゼに会いに行ってやっておくれ」


「ああ…うん、ありがとう
 じゃあ、また明日…な」

「うむ、また明日会おうぞ」


 欠伸を噛み殺しながら火波の後をついて行くシェル

 玄関のドアが閉まる音を確認してから、
 カーマインはメルキゼがいる寝室のドアをノックした




「…メルキゼ…?」


 ドアを開けてみる
 中は真っ暗だった

 微かな月明かりで、辛うじて彼がベッドに横たわっているのがわかる

 …もう眠ってしまったのだろうか
 それとも不貞寝しているだけだろうか

 ベッドに腰掛けると、そっと彼に触れてみる


「……メルキゼ…その、俺―――…っえ…!?」


 急激に襲ってきた眩暈
 ぐるりと視界が回転して目が回る

「わっ、わ、わ……!?」

 視界があまり利かないせいで方向感覚が無い

 ただ背中に当たる柔らかい感触で、
 辛うじて自分がベッドに横になっていることがわかる

 布団のおかげで身体に痛みは無い
 驚いたせいで心臓はかなり激しく脈打っていたが




「えっと…め、メルキゼ…?」


 何時の間にか起き上がっていたメルキゼ
 彼は何も言わず、横たわる自分を見下ろしていた

 手首が熱い
 メルキゼが手首を掴んでいる

 自分がベッドに倒れこんだのはメルキゼに引っ張られたせいだ…と、今更ながらに気付く


「な、なんだよ…危ないじゃないか
 それに明かりもつけないで――…ね、寝てたのか…?」

 平静を装いながら当り障りの無い話題から話し始める



 今のメルキゼの様子は明らかに変だ
 行為は妙に乱暴だし、先程から全く喋らない

 陰になっていて表情がわからないことが恐怖に拍車をかける


 怒っているのか、悲しんでいるのか…それすらもわからない

 どうして何も喋ってくれないのだろう
 せめて一言だけでも声を聞ければ安心できるのに


 不安で怖くて―――…無意識に身体が震え始める






「……め、メルキゼ…何か相槌打ってくれよ
 さっきから俺ばっかり話し―――…っ…ぐっ!?」


 息が詰まる
 胸に強い圧迫感

 一瞬頭の中が真っ白になる
 メルキゼの手が自分の胸の上に置かれていることに気付いたのは少し経ってからだった


「…お、おい…体重かけるなよ
 重いし…い、息が…苦しいって…!!」

 手を退けようとしても上手くいかない



 利き手の手首は相変わらず掴まれたままだし、
 胸を押さえつけられているせいで上体を起こすことが出来ないのだ

 左手では彼の手を払いのけることが出来なかった
 …仮に両手が使えたとしても、メルキゼの力には敵わないのだが――…

 だからといって無抵抗でいるのは苦しいし屈辱的だ
 それに彼の意図がわからない以上、されるがままになっているのは危険だった


「お、おい…聞こえてんのかよ…!!」


 メルキゼの返事は無い
 けれど、すっと胸の圧迫感が消えた

 体重をかけることだけは止めてくれたらしい
 しかし急に胸に流れ込んできた空気に咳き込んでしまう


 激しく咳き込みながらも何とか呼吸を整えていると、
 自分の息遣いに混じって金属の音が耳を掠めた

 カチャカチャと金属同士がぶつかる音
 聞いたことのある音だと思ったら、ベルトを外す音だった


 …が、それがわかったからといって安心は出来ない




「おっ…おい、何してんだよ…?」


 するりとシャツが引き抜かれる

 火波から借りたシャツはサイズが大きくて、
 留め金のベルトを外せば黙っていても肩からずり落ちそうになるのだ


 メルキゼは火波のシャツには興味が無いらしい
 剥ぎ取ったシャツを無造作に放り投げる

 シャツはベルトの金属が鈍い音を立ながら板張りの床に叩きつけられた



「こ、こら、借り物なんだから!!」

 反射的にメルキゼを嗜める
 …が、すぐにそんなことを気にする余裕も無くなった


 メルキゼの手が今度はズボンのベルトに掛かる

 当然ながらズボンもサイズが合っていない
 ぶかぶかのズボンは脱がすのも容易いが――…



「こっ…こら、こらっ!!
 お前はこういう事するヤツじゃなかっただろ!?」


 ここまでされてしまっては流石に抵抗せざるを得ない
 恥ずかしがり屋のくせに、普段は着替えすらまともに見られないくせに

 それなのに…そのメルキゼに着衣を剥ぎ取られているのは何故だろう
 あっという間に一糸纏わぬ姿にされてしまう


 しかしメルキゼは恥らうような素振りさえ見せない
 今日のメルキゼはまるで人が変わったかのようだ

 無駄だとわかってはいても、とにかく話し掛けずにはいられない






「な、何する気なんだ!?
 おい…何とか言えってば!!」


 声を荒げると、あっさりとメルキゼの身体は離れた
 このままメルキゼに突っかかるべきか、それとも服を拾いに行くべきか

 少し迷ったが、すぐに意識はメルキゼに引き寄せられる
 メルキゼは何を思ったのか、今度は自らの服を脱ぎ始めたのだ


「おっ、お、おいっ!?
 ちょっと待て、待てってば!!」

 ここまで来れば嫌でも先の展開を想像してしまう

 いよいよ身の危険を感じ始める
 剥き出しの肌に冷や汗が流れた



「い、いいかメルキゼ…よく聞けよ!?
 お前が何をしたいのか、とにかくそれだけは教えてくれ
 それさえ教えてくれたら俺は逃げも隠れもしないから、な、頼む」

 いや、実際はヤバい答えが返ってきたら逃げるつもりだけれど
 とにかくメルキゼの意図をはっきりさせないことには不安で仕方が無い

 震える声で何度も頼むと、
 ようやく折れたのかメルキゼが口を開く


「………カーマインの服を脱がせて……」

「あ、ああ…そうだな――…
 っていうかもう脱がされたよな」


「……そして、私も脱いで……」

「う、うん…そうだな
 それは見ててわかるんだけどさ」




 …問題は、その後だ


 日付けも変わった深夜
 ベッドの上で裸姿の恋人同士

 自分もメルキゼも子供じゃない
 この後の展開は充分過ぎるほど予測できてしまう


 …確かにメルキゼに抱かれたいと願っていた
 でも、こんな状況で、こんな空気では嫌だ

 もっと甘い空気の中で彼の優しさを感じながら抱かれたい
 今の乱暴で恐ろしいメルキゼには絶対に抱かれたくなかった


 けれどカーマインの意思に反して、
 メルキゼの腕はカーマインの身体を強引に引き寄せる



「…ひっ…め、メルキゼ…っ!!」

「………怯えているね
 カーマイン、私が怖い?」


「そりゃ怖いよ
 何されるかわかんないんだから
 …ちゃんと説明しろよ」

「……変なことはしないよ」


 いや、変なことって言われても…
 普段から変な行動ばかりしてる彼が言っても説得力無い

 しかも今日のメルキゼはいつもに増して変だし



「と、とにかく説明だけはしろ
 俺の服を脱がせて、お前も脱いで、その後お前は何をする気なんだ!?」

「……………カーマインに私の服を着せる」


 何で!?

 それこそサイズが合わな過ぎる
 メルキゼって実は、そういう趣向の持ち主なのだろうか

 例えるならそう、サイズの合わないワイシャツ姿に萌えるとか…そんな感じ?





「め、め、メルキゼ…お、お前…」

「…だって…嫌だったんだ」


「な、何が?」

「カーマインが火波のシャツを着ていたから
 そのせいで君から火波の臭いがして――…
 カーマインが火波の所有物になったみたいで不愉快だった」


「…………えーっと…?」

「だから私の服に着替えさせて、
 君の身体に私の臭いをつけたいと思って…」



 俺は犬にマーキングされる電柱か!?
 っていうか、こんな所で動物的本能を発揮しやがって…

 肩にかけられるメルキゼの服を眺めながら、
 何ともいえない複雑な感情が湧きあがるカーマイン


 彼には何もする気は無くて安全だという事実と、
 やっぱりメルキゼはメルキゼだったという安心感

 でも、ちょっと残念というか勿体無いというか…
 口に出して言い難い展開を期待していたのも事実で


 ホッとしながらも肩透かしを食らったカーマインだった



「ねえ、カーマイン」

「……なんだよ…」

 複雑な心境のカーマインとは対照的に、
 満足したのかすっかり機嫌を取り戻したメルキゼ

 恋人の身体から自分の匂いがするのが嬉しいらしい


「今日は朝まで、ここで一緒に寝てくれる…?」

「ああ、そのつもりだけど…」

「よかった…
 大胆なお願いだから、断られるかと思った…」



 いや、大胆ってお前…
 さっきまで人の服剥ぎ取ってた奴が言う台詞か?

 こいつって普段は大人しいくせに、
 感情や勢いに流されるとガラっと豹変するんだよな


 何度か目の当たりにしてるけど、その度に寿命が縮まる思いをする

 でも…それってつまり、
 人格が変わるくらいメルキゼも追い詰められてるって事で…




「…メルキゼ、ごめんな…」

 メルキゼの肩に手を回して背中をさする
 試合に負けた選手を慰める監督の姿みたいになったが、この際気にしない

 火波にも言われた通り、
 今は彼と過ごす時間をたくさん取るべきだろう


「ほら、もっとこっちに来いよ」

「……う、うん……」

 思う存分、甘えればいい
 不安な気持ちも忘れて眠りにつけるように

 頬を摺り寄せてくるメルキゼを抱きしめながら、
 カーマインは遅ればせながら当初の予定を開始した


 二人の夜はまだまだ長い








「―――…やれやれ、災難じゃったのぅ」


 すっかり暗くなった港町
 街灯と灯台の明かりを頼りに進む火波とシェル

 道行く人の姿は疎らだった


「………だが…わしは、
 メルキゼデクのことが少し羨ましい気がした」

「えっ…何でじゃ?」


「あの男には嫉妬して我を見失えるほど大切に思える相手がいるんだ
 彼を見ていると生前の自分を思い出してな…あの情熱が純粋に羨ましい」

 灯台の光を眺めながら静かに呟く火波

 悲しいのか寂しいのか…彼の表情から感情を読み取ることは出来なかった
 しかしその瞳は恐らく、二度と戻らない過去の日々を見つめているのだろう



「火波には…もう大切なものはないのか?」

「…………ああ、わしには…何も無い」

「…火波…」

 否定することも肯定することも出来ずに、
 シェルはそのまま黙り込む

 会話の途切れた夜道は静まり返って不気味なほどだった


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