「…あまり根を詰め過ぎても良くないわね
 今日はもう休んで、また明日続きに取り掛かりましょう」


 リャンティーアの一声で、その場にいた全員が息を吐く

 窓の外は既に白み始めている
 眠気と疲労はピークに達していた


 シェルは欠伸を噛み殺しながら立ち上がった
 しかし微かな眩暈を感じて火波のマントにしがみ付く

「…大丈夫か?」

「うむ…行こうか」

 この小屋に5人も寝泊りする事はできない
 火波とシェルはここから一番近い宿を長期予約していた




「…それでは、拙者どもは失礼致す…」

「ええ、明日目が覚めたらまた来て頂戴
 二人ともお疲れ様―――…お休みなさい」


 一時の静寂が訪れる
 しかしリャンティーアは再び道具袋をあさり始めた

 メルキゼは不思議そうに首を傾げる


「…リャンティーア、眠らないの?」

「アンタは先に寝てて頂戴
 ちょっとだけ済ましておきたい事があるの」

「でも、もう朝になるけれど…
 少しだけでも休んでからの方が良いよ」


「気遣ってくれてありがとう
 でもね、あの二人がいつ来るかわからないから
 ちょっとだけ…彼らの前ではやり難い作業なのよ」

「…そう…なんだ……
 でも無理だけはしないで
 ―――…じゃあ、おやすみ」

 自分にはわからないような、何かの事情があるのだろう
 そう納得したメルキゼは部屋を後にした

 今度こそ本当の静寂が訪れた




 誰もいなくなった部屋で、リャンティーアは袋から小さな包みを取り出した
 それを包んでいる白い布には夥しい量の血痕が滲んでいる

 鋭い刃のような吸血鬼の牙
 火波がシェルの目を盗んで、自ら圧し折った物だ


 想像を絶する激痛だっただろう
 それは痛々しい程の血痕が物語っている

 それでも火波は痛みを億尾にも出そうとはしなかった
 口内に溢れる血をシェルから隠れながら何度も拭っていた



「…流石に…シェルの前でこれは出せないわよ…」

 シェルにだけは、絶対に見せるわけには行かない
 無理矢理折られた二本の牙はその衝撃で所々が罅割れている

 哀しくなるほど、あまりにも痛々し過ぎる


 リャンティーアはその前で祈りを捧げた
 ――…火波に対する敬意と感謝を称して

 責任は重大だ
 絶対に失敗するわけには行かない


「…大丈夫よ…だって、皆が付いてるんだもの
 絶対に成功させてみせるわ―――…待っててね、カーマイン…」


 リャンティーアは決意を新たにすると、再び道具袋に向き合った







「……疲れただろう?
 今だけは全てを忘れて眠ると良い」

 ベッドに横たわるシェルに火波は静かに声をかける

 未だ眠りに包まれている町は物音ひとつしない
 青白い空は不気味なまでの沈黙を保っている


「…火波…」

「ん…?」

「巻き込んで、ごめん…
 カーマインと火波は何の関係も無いのに…こんな時間まで付き合わせた」

「別に…これは自分の意思だ
 お前が気に病む必要は無い」


 くしゃ、とシェルの前髪を鷲掴むように撫ぜる

 今日は色々な事が有り過ぎた
 精神的にもかなり参っているのだろう

 とにかく今は休んで欲しかった


「―――…さあ、もう寝ろ
 明日もカーマインの為に頑張るのだろう?」

「…ん…」

 瞳を閉じさせると、程無くして寝息が聞こえ始める
 シェルが深い眠りに落ちたのを確認してから、火波もベッドに横になった

 身体は疲れていたが、なかなか睡魔は訪れなかった




 遠くで汽笛が聞こえる
 市場の喧騒、子供たちのはしゃぐ声、カモメの歌

 強い日差しが目蓋を焼く


「―――…ん…んん…」


 やっと眠れたと思った矢先、町の喧騒に起こされる
 それでも時計を見ると数時間が経っていた

 多少眠り足りない気はしたが、それでも火波は目を覚ました


 寝不足なのは自分だけじゃない
 自分より年下の若者たちがこれほど頑張っているのだ

 一人で惰眠を貪っているのも気が引ける




「む、起きたか
 おはよう、火波」

 先に起きて身支度を済ませていたらしい
 シェルは外の景色を眺めながら火波が目覚めるのを待っていた


「今日は珍しく寝坊したな
 まぁ、拙者は寝顔を堪能させて貰って嬉しい限りじゃが」

「…見ていないで、起こせよ…」

 何て悪趣味な
 舌打ちしようとして――…口の中に違和感を感じる


 あぁ、そうだった
 いつもは舌先に当たる牙が無い

 牙の代わりに鈍い痛みがそこを支配していた




「…はぁ…」

 思わず漏れる溜息
 後悔はしていないが―――…気が重い


 そんな火波の心中など知る筈も無く
 シェルは彼のベッドに腰を下ろすと、その頬をぺちぺちと叩く

「朝から辛気臭い顔をするでない
 ほれ、早く起きて支度を―――…」

 ぴた、とその手と言葉が止まる
 軽く眉を顰めて火波の顔を覗きこんだ


「……ん…何だ?」

「火波、唇に血がついてる」

「………っ!!」

 咄嗟に唇を押さえる火波


 見られないように気を遣っていた筈だったが、
 どうやら寝ている間に血が流れたらしい

 火波は血の気が引いて行くのを感じながら、精一杯平静を保って誤魔化した



「…寝ている間に舌を噛んだみたいだな
 だが口の中の傷はすぐに治る…大丈夫だ」

「ふむ…そうか
 それなら心配ないのぅ」

「ああ、大丈夫だ
 顔を洗ってくる…待ってろ」


 火波は立ち上がると、シェルから逃げるように洗面所へ向かった







「…何と言うか…禍々しいのぅ…」


 昼過ぎの森の中
 再び小屋を訪れた二人は、変わり果てたその空気に思わず足を止めた

 煙突から止め処なく溢れる紫色の煙
 家の中には巨大なツボが置かれ、異様な香りが漂っていた


「…り、リャン…?」

「やっと来たわね
 丁度良かった、そこの草を取って来て頂戴」

 ツボの中身を巨大な棒で掻き混ぜながら少女が手招きをする
 テーブルの上に置かれた謎の草を手渡すと、リャンティーアは躊躇いなくそれを投げ入れた


 ごぼぼぼぼ…

 ツボの中から今度は赤黒い煙が噴出した
 部屋の空気は何かが焦げたような、それでいて生臭い香りが立ち込める




「…初めてリャンの魔女らしい所を見たのぅ…」

「それって褒め言葉よね?
 アタシは魔法の研究よりアイテムを使った実験の方が好きなのよ
 魔法を使えないような人間や低級魔族でもね、
 充分に戦ったり傷を治したりできるような効力を持つアイテムを作り出すのがアタシの夢よ」

 リャンティーアはそう言うと分厚い魔法書を取り出した

「これ、アタシが学校で使ってる教科書なんだけど
 色々な薬の作り方や実験方法が書いてあるのよ
 この中から自分に合った分野を選んで専攻していくの
 魔法の唱え方やモンスターの作り方なんかも書いてあるわ」


「…頑張っておるのじゃな…
 拙者に学はないが、応援しておるぞ」

「ありがと、シェル
 いつかアタシの実力が認められて大魔女の称号を貰えたら…
 称号授与のパーティーにアンタたちを招待してあげるわね」

 リャンティーアはそう言って微笑むと、再びツボを掻き混ぜ始めた




「…それで、拙者どもは何を手伝ったらいいのじゃ?」

「火波はメルキゼデクと二人で薪を集めて来て頂戴
 出来るだけ沢山お願いね、力仕事はお得意でしょう?
 シェルはこれ―――…このページに書いてある魔法陣を石版に書き写して」

「…魔法陣とはまたレトロじゃのぅ…」

「発動は遅いけど、魔方陣が消えない限り効力が続くのよ
 長丁場になるような時にはこっちの方が使い勝手が良いわ
 それにディサ国ナンバー2、陣雷のリノライもその名の通り魔方陣のエキスパートだし」

 実力者のお墨付きらしい


「成程のぅ…
 インクはこれで良いのか?」

「ええ、お願い」


 それぞれが与えられた指示通り行動を開始する

 火波とメルキゼは部屋を後にし、
 リャンティーアはツボに向かって何かの呪文を唱え始める


 シェルは机に向かって魔方陣の模写を開始した

 複雑な形の魔方陣は書き写す事自体が困難だ
 シェルは集中力を高める為に深く呼吸を繰り返した


 黙々と時間だけが流れて行く―――…









 乾いた枝がカラカラと音を立てる

 森の中なだけあって落ちている枝は多いが、小ぶりなものばかりだ
 こんなもの、火に投げ入れれば一瞬で燃え尽きてしまうだろう

 これを焚きつけするとなると、一体どれだけの量を集めれば良いのか

 森は広いとは言え、気の遠くなるような話だ
 想像するだけで火波は眩暈と疲労感に襲われた


「はぁ…根気と腰痛との勝負だな…」

 ぼやきながら、それでも火波は一本一本枝を拾い集めた

 しかし単調な作業は飽きが来るのも早い
 話でもしていなければ、とてもではないが続けられない

 火波は周囲を見渡してメルキゼの姿を探した



 薄暗い森の中でもメルキゼの華やかな容姿は目立つ

 彼の周囲だけ空気が違っているようにさえ見える
 常人とは何かが違うオーラのようなものが出ているらしい

 程無くして目当ての人物を見つけると、火波は彼に近付いた


 遠目からでも、その美貌は確認できた
 あのシェルが絶賛するだけの事はある

 男に対して美人だとか綺麗だとかいう言葉を投げかける事に抵抗があったが、
 メルキゼを前に、火波は彼の容姿を表す言葉が他に見つけられなかった

 この100年余り生きてきた中でも、彼ほど美しい美貌を持った者を見た事がない



「シェルの奴…この男とわしを比べる時点で間違ってるだろ…」

 散々人相が悪いだの、不細工だのと言われて不満は募っていたが、
 比較されている相手が相手なだけに、どうでも良くなってしまった

 そもそも桁が違いすぎる
 比べられたからと言って何の感情も湧いてこない

 火波にとってメルキゼはどこか遠い次元にいる存在だった



 ふわ、と長い髪が靡く

 メルキゼの身体がくるりと弧を描いた
 その瞬間、キラキラと木漏れ日が輝いたかのように見えた


 そして――――…



 みしっ



 何かが軋む音
 我に返った火波は周囲を見渡した

 しかし土砂崩れの余波も、モンスターの気配もない

 けれど鈍い音は尚も続く
 それどころか、次第に音量を増して行った



 みし…みしみしみし―――――…



 ばきっ




 一際大きな音が上がる
 その瞬間、メルキゼの周囲の木々が一斉に倒れ掛かってきた

 それも、火波を目掛けて


「うっ…うわあああああああああああああああ―――…っ!!」


 なんで、よりによって自分の所に
 火波は悲鳴を上げながら一目散に逃げ出した



 どさっ
 めきっ

 どどどどど……


 ずしん




「……ひぃ〜…」


 間一髪で直撃を免れる
 木々は盛大な音を立てながら折り重なるように倒れて行った


「な、何が起こったんだ…」

 土埃の舞う中、腰を抜かした火波は唖然と倒れた木を見つめていた

 その数4〜5本
 この下敷きになっていたらと思うと全身の血が凍りそうだ





「――――…火波っ!!」


 メルキゼが駆け寄ってくる
 腕を引いてもらって、何とか立ち上がった


「火波、大丈夫!?」

「あ、ああ…」

「本当にごめんね、火波…
 森の暗い雰囲気と同化していたから、存在に全く気付かなかった」

「…………………。」


 何か酷い事言われた気がする
 …が、メルキゼの表情を見る限り悪気がないのは明らかだ

 火波は気を取り直して彼に訊ねる




「…一体、何が起こった?」

「薪を作っていたんだ
 拾い集めるより早いと思って…」

「つ、作るって…」

「木が密集している所に立って、回し蹴り

「…………。」


 まさに力技

 あの一回転は回し蹴りだったらしい
 あまりにも優雅で気付かなかった



「じゃ、あとは丸太を持ち運びやすい大きさに折って運ぼうか」

 無茶言うな
 どんだけ怪力なんだお前は


 が、



「――――…ハァッ!!」


 ごきっ

 メルキゼの放ったドロップキックが丸太を真っ二つに寸断した



「………………。」


 そうだった
 ショックで感覚が麻痺していたが、

 回し蹴りで大量の木を薙倒す時点で尋常じゃない
 この怪力なら、確かに丸太も折れるだろう





「さあ、火波も手伝って」

ごめん無理


 オオカミの姿になれば出来るかも知れない
 しかし人の姿を取っている現段階では絶対に不可能だ

 火波は白旗を掲げた




「じゃあ、抱いて

はい?



 思わず聞き返す
 ついに聴力まで逝ったか

 目が点になっている火波に、メルキゼは笑顔で折った丸太を手渡した


「はい」

「えっ…?
 あ、ああ―――…丸太を抱けという事か…」


 あー…びっくりした
 危うく道を踏み外す所だった




「もう一回折るから、
 しっかり持ってて欲しい」

「ああ」

「間違って火波に当たったら―――…謝る


 謝って済むかぁ!!



「おい…頼むから、わしを真っ二つにするなよ!?」

「大丈夫、私は傷を治す力も持ってるから」


 そういう問題じゃない



「火波、リラックス、リラックス」

「…はいはい
 メルキゼデク、お前は顔に似合わず怪力なんだな」

「うん、そう
 どんな敵も一撃で息の根を止めるのが私の戦闘スタイル
 一撃必殺がモットーなんだ…必ず殺すと書いて必殺、良く出来た言葉だと思う」


 今、そんな話聞きたくない




「じゃあ、さくっとやってしまおう
 最後に軽く火で炙って水分を飛ばしたら完成だ」

「あ、ああ…」

 一瞬、切断された挙句に火炙りにされる自分の姿が脳裏に浮かんだ火波
 丸太と自分の姿を重ね合わせている時点で既にヤバい



「…な、なら早々に済ませ―――…」

「うん」



 ばきっ



「うぎゃあああああああああああっ!!」

 火波の目の前をメルキゼの一撃が掠めた
 粉々になった木片がぱらぱらと舞い落ちる

 心臓が口から飛び出そうだ


「おっ、お、お前なぁっ!!
 言葉の途中で実行するなっ!!
 頼むから空気を読んでくれ、空気をっ!!」

「ごめんね、火波」

「………………。」


 一点の曇りも無い、真摯な瞳で謝られる

 悪気が無いのが逆に困る所だ
 彼に他意が無いのが理解出来るからこそ、どう対応して良いかわからない

 これがシェルだったら、意図的だとわかるから皮肉の一つでも言ってやれるのに




「…つ、疲れる…」

 火波にとっては力仕事というより、
 度胸と忍耐力、そして精神力を鍛える修行となっている


 その後も、数度にわたって火波の悲鳴が響き渡った


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