歌が聞こえる


 波と共に流れてくる哀しい歌声だ
 火波は目を覚ますと、その声に意識を集中させる

 殺気は感じられない
 それでも何か胸騒ぎがする
 声が聞こえてくるのは外――…つまり、海からだ

 周囲は照明が消され、しんと静まり返っている
 船員も乗客も、皆眠りについている時刻だ

 火波は腕の中で眠りについているシェルを横たえると、その場を後にした
 すぐ戻るから、と呟いて



「――…くっ…」

 甲板に出た途端、激しく揺れる足場にバランスを崩す
 海はまるで何かに狂ったかのように波高く荒れていた

 しかし、荒れた海に反して風妙に静かだった
 空は雲も少なく、満月が青白い光を放ってる

「…妙だな…」

 嵐でもないのに、海が荒れすぎている
 異常としか言いようの無い現象に火波は眉を顰めた

 火波はシェルたちの会話を思い起こす
 確か、モンスターや魔女の類いの仕業では無いとの事だった
 しかし明らかに第三者の手が加えられているとしか思えない異常現象


 火波は瞳を閉じて気配を探った

 …しかし、周囲には何の気配も感じない
 魔力の断片すら感じ取る事ができなかった

 しかし――…


「…成程…これでは、奴らにはわからないか…」

 火波の瞳は、しっかりとその歌声の主を捉えていた
 それは海の上を彷徨う人の姿だった

 気配も無い、魔力も無い…普通の者なら気付く筈もない存在
 それは本来はこの世にいてはならない存在だ

 半分透けたその姿は、目の前の人影が既に命を失っている事を告げていた
 生ある者には見る事も感ずる事も叶わぬ死者の姿
 どんなに強い魔力を持っていようとも、霊感を持たなければその存在に気付く事は出来ない

 既に命を失っている火波だからこそ、その姿を捉える事が出来たのだ


「…浮遊霊か…?」

 この世に未練を残し、肉体を失ってもなお現世に留まる魂
 その存在は誰にも気付かれる事なく、ただ永久に彷徨い続ける運命にあるのが殆どだ

 しかし、果たしてこの異常現象が浮遊霊の仕業なのだろうか
 どちらにしろ、同じ死者としてこのままにしては置けない
 確かめてみる価値はあるだろう

 火波は細く息を吐きながら、全身を弛緩させる
 両手を広げて、夜空に羽ばたく漆黒の翼をイメージさせた

 全身を駆け巡る冷たい血
 そして燃える様に熱い火の魔力が体内で暴れ始める


「――…くぅ…っ……うぅ……」

 …苦しい…痛い…

 全身の骨格が砕け散るような苦痛が火波を襲う
 何度と無く経験した痛みだが、一向に慣れることが無い

「…はぁ…はぁ…っ……」

 額を流れる幾筋もの汗
 マントを両手で握り締めて苦痛の波が去るのを待つ

 痛みに歪んだ顔
 瞳には微かに涙が浮かんでいた


「う…っ…うぐ…」

 全身が軋む痛みに意識が遠のく
 しかし、やがてその苦痛も峠を越すもので

「…………はぁ…っ……」

 額の汗を拭って、姿勢を正す
 荒い呼吸を整えながら、火波はそっと身体に手を這わせる

 その腕には今まで無かった筈の翼が存在していた

 吸血鬼になって得た火波の特技
 夜空を舞う漆黒の翼を持つコウモリに姿を変えたのだ

 未だ痛みの残る腕
 しかし火波は自らの身体に鞭打つかのようにその翼を飛翔させる

 そのまま宙を舞うと、火波は夜空に羽ばたいた




「死して尚、留まる者よ
 お前は何を望んで海を彷徨う…?」

 火波は幽霊のすぐ隣りに降り立つ
 足元は荒れる海なので羽ばたき続けなければならないのが億劫だった
 しかし――…その姿を間近で見るなり、そんな事などどうでも良くなる


「……お前は……」

 その瞬間、火波は悟った

 海が荒れる理由を
 そして異常現象の真相を


 目の前の幽霊は、女性だった

 美人と言うよりは可愛いと表現した方が良い容姿
 ふくよかな肢体を包む薄紫色のシンプルなドレスが良く似合っている

 大きな瞳は透き通るような青緑色
 長い黒髪は癖毛なのだろうか、無造作に波打ち潮風に揺れていた

 可愛い娘だと、素直にそう思った
 幽霊にしておくのが惜しい程だ


 しかし、その姿は明らかに一般市民の魔族ではなかった

 しなやかな背と、豊かな黒髪の中から淡く輝く翼が生えている
 美しいグラデーションを描く水鳥の翼だ

 火波の脳裏に、絶滅した筈の種族の名が浮かぶ

「…セイレーン…」

 海の守り神とされていた種族
 セイレーンが海面に降り立つと激しく波立ち船を沈めるという
 そしてその力は世界中に及び、至る所で異常現象を引き起こすとされていた

 しかし遥か昔に絶滅し、今では伝説となっている筈だ
 まさかこの目で見る日が来るなんて夢にも思わなかった

 それは哀しい霊としての姿であったが―――…


「…わしの名は火波
 お前はセイレーンだな?
 差し支えなければ名を教えてくれないか」

 返事が返ってくるかどうか以前に、言葉が通じるかどうかもわからない
 それでも、何とか意思の疎通を図らなくては

 海が荒れている理由は、ここにセイレーンの霊がいたからだ
 しかし、この場から追い払うだけでは何の解決にもならない

 火波が持つ火の力なら倒そうと思えば可能だろう
 しかし、物理的手段に訴えるのは最後の手段にしたかった

 霊体となって彷徨うのは、この世に未練があるからだ
 出来れば彼女の未練を断ち切らせて、成仏させてやりたかった

 現世に縛り付けられる辛さは、火波もその身をもって知っていたから――…



「…あなたも、成仏できないの…?」

 彼女は涙を湛えた瞳で火波を見つめる
 胸が締め付けられそうな程に、その姿は悲しみに包まれていた

「わしは、甦った死者――…吸血鬼だ
 不老不死として朽ち果てる事も天へ召される事も叶わぬ身
 …お前は伝説のセイレーンだな
 何故、成仏出来ずに彷徨い続ける…?」

 彼女は頷くとその翼を微かに震わせる
 全身が深い悲しみの色に染まっていた

 …笑えばさぞかし美しいだろうに


「私は――…エレン
 生き別れた子供を捜しているの」

「…子供、か…」

 火波の胸が、微かな痛みを訴える
 彼女――…エレンの辛さが理解できるような気がした

「…海賊に襲われたの…子供を奪われたわ
 だから私は嵐を起こして海賊船を沈めたの
 セイレーンは海に沈んだくらいじゃ死なないから大丈夫だと思ったの
 海賊たちが全員溺死した後で、私は子供の姿を探したわ…でも――…」

 はらはらと、エレンの瞳から涙が零れ落ちる
 その悲壮感漂う表情から火波は事情を察した

 どんなに捜しても、子供は見つからなかったのだ


「夜も寝ないで、海を捜して歩いたわ
 でも…どんなに捜しても何の手がかりも得られなかった
 無理が祟ったのね…やがて私の身体は力尽きて滅んで行った
 それでもあの子を見つけるまでは天に昇るわけには行かないの――…」

 彼女の透けた足は、ボロボロになって原形を留めていなかった
 それでも、痛みも気にならない程に子供を想っているのだろう

 生きているかどうかもわからない、我が子を


「こんなに捜しているのに見つからないなんて…
 きっと波にさらわれて、何処かの岸に流れ着いてしまったのよ
 誰か心優しい人に拾われてくれていたら良いのだけれど、
 もし悪人に拾われて、辛い目に遭っていたらと思うと私は――…」

 それが彼女が成仏出来ない理由
 母として、絶対に諦める事など出来ない

 彼女はこのまま子供の姿を求めて永久に彷徨い続けるのだろう


「あの子は絶対に海の近くにいる筈なのよ
 セイレーンと海は互いに呼び合うものだから…」

 しかし、それでも子供は見つからない
 望みが限りなく薄い事は彼女自身が一番良く理解しているだろう


「…強い火の魔力を感じるわ
 ねぇ、貴方は私を倒すつもりなの…?」

 火波は首を横に振る
 本当は倒してしまうのが一番楽な手段だろう

 しかし、火波にはそれが出来ない
 ――…出来る筈もなかった


「わしには、お前を責める事は出来ない
 だが…こっちにも譲れない事情があるんだ
 このままでは海が荒れて船が進めない…それでは困る」

 エレンの事は不憫に思うし同情する
 しかし、こっちも人の命が掛かっているのだ



「…わかったわ…ごめんなさいね
 暫くの間、この辺から立ち去っているわ
 少し時間が掛かるかも知れないけれど…」

「子供探しの邪魔をしてすまないな
 残念だが、わしに出来る事は何もないんだ
 だが…お前を倒す事は絶対にしないでおこう」

 エレンは黙って頷いた
 頬を伝う涙は一向に乾く気配を見せない


 火波には何もしてやれる事がない
 彼女をそっとしておく事しか出来なかった

 火波の胸に苦いものが広がる
 無い袖は振れないが――…何とも後味が悪いものになった


「今度はあの辺りを探してみようかしら…
 あの子の瞳と同じ…青緑色の海辺を――…」

 ふらふらとエレンは海面を歩き出す
 既に原形を留めていない血だらけの足で


「…レン…レン…何処に行っちゃったの…?
 お母さんはここにいるのよ…ずっと貴方を捜しているのよ…」

 彼女の足跡には微かに赤いものが混ざっていた
 しかしそれも、波に揺られて見えなくなる

 永久に彼女は子供を捜し歩き続けるのだろう
 悲しい母親の霊は夜明けの空の下、月夜と共に消えていった――…


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