「うわ―――凄いね」


 地図では小さな水溜りくらいのスケールだった湖
 しかしそれは実際に見ると壮大な海原のようだった

 旅に出て一週間が過ぎた
 ようやく目印の湖―――これから山も越えなければ町には着かない
 まだまだ先は長いけれど、それでも毎日地道に進んではいる

 鈍っていた体も毎日のウォーキングで鍛えられ始めたらしい
 少しずつ引き締まってきた身体は日に焼けて健康的な色艶を放っている



「…泳げるかな…?」

 そんな事を思うのも体力に余裕の出てきた証拠だろう
 初日に足が痛いと大騒ぎしていたのが嘘の様だ

「もしかすると、モンスターが出て来るかも知れない
 まぁ日中なら大丈夫だろうが…あまり深いところへは行かないでくれ」

「モンスターかぁ…でも俺、森の中で恐竜を見たっきり化け物は見てないし…
 そんなに神経質にならなくてもさ、数的にはあまりいないんじゃないのかな?」

 もしかしたら例の御香が効いていたのかも知れないけれど
 でも本当に―――いっそ不安になるくらいに、危険な目に遭わず平穏なのだ
 モンスターどころか獣だって、メルキゼが狩りで捕ってくるのしか見た事が無い
 これなら北海道の山奥の方がずっと危険だ

「もう御香も切れたから…油断は出来ない
 用心しておくに越したことは無いと思うけれど」

「でも、お前だって水浴びくらいするだろ?」

 ふと気づくとメルキゼの髪先が濡れいていることがある
 どうやら俺が寝ている間に、こっそり身体を洗っているらしい

 あくまで憶測なのはメルキゼが無類の恥ずかしがり屋だからに尽きる
 共に旅を始めて一週間が経つというのに未だに俺の隣で寝る事が出来ない
 それどころか靴さえ脱ぐのを恥ずかしがる始末なのだ

 当然ながらそんな彼が俺の前で水浴びなんかする筈も無い
 しかし長い髪は相変わらず艶やかで身体からは微かに石鹸の香りがする
 だからやっぱり、俺の見ていないところでこそこそと身体を洗ってるのだろう…

 ――ちなみに俺が水浴びする時、彼は全身真っ赤になって隅の方で震えていた
 遠目からでもプルプル震えてるのがわかって思わず吹き出してしまったのは内緒である



「ほら、俺だってこんなに汗だくだし…ちょっと汗流そうよ?」

 …って誘っても、メルキゼの場合は絶対に拒否するんだよな…
 別に男同士なんだからそこまで過剰反応して恥ずかしがらなくても良いのに
 メルキゼ、そんなんじゃ銭湯にも行けないよ…

「何でそんなに恥ずかしがるかなぁ…
 ちょっと聞くけどさ、どの辺が恥ずかしいの?」

「…素肌をさらすのは…な…」

 もじもじと恥じらいのポーズ
 大和撫子も顔負け花も恥らう純真っぷりだ
 でもいい歳した男がそんなことしてても不気味なんだよなぁ…

「男同士だし一人だけ脱いでるってわけでもないし
 俺も脱ぐんだから立場は対等だろう?
 別に男の身体なんて自分ので見慣れてるんだし今更どうって事も無いよ?」

「まぁ…そう言ってしまえばそうなのだが…」

「そうだろ?
 ってわけで――――脱ごうな?」

「え」

 メルキゼのローブを指で軽くつまんで引っ張る
 …ちなみに本気で脱がせるつもりなんて無い
 ただ、あまりにも過剰反応するのが楽しくて―――要するにからかって遊んでるのだ

「わっ、あわわわっ!?」

 予想通り、飛び上がって慌てふためく姿に俺は吹き出した
 黙っていれば美形なのに…このギャップが物凄く笑える




「あー面白い」

「…わ、私で遊ばないでくれ…」

 肩でゼイゼイと息をしているのがまた味がある
 当然ながら、その顔はトマトのように赤い
 メルキゼって、こんなんで本当に大丈夫なんだろうか

「…お前ってさぁ…恋人が出来てもそういう反応返すの?」

 ちょっと心配である
 服装をまともにしたメルキゼは本当に格好良くて―――絶対にモテるだろう
 この先、女性に声をかけられることも珍しくなくなるに違いない
 そうなると、いつ恋人が出来てもおかしくはないわけなのだが―――

「こ、恋人って…そんな…私とは生涯無縁の存在だろうから…」

「そんなことないって…、お前は自覚無いだろうけどさ…
 お前はずっと一人で暮らしてたから好きな相手がいなかった、ってのはわかるよ
 でもさぁ、それでも自分の好みのタイプとかってのはあるだろう?
 恋人や奥さんにするんならこんな感じの娘がいいな―――って、考えたことってない?」

 俺くらいの年頃になると、少なからずそういう話題で盛り上がるものだ
 好みのタイプの女優の話をしたり、ちょっと気になる同級生の話をしたり―――
 まぁ俺には既に彼女がいたから専ら聞き役に徹していたわけだけれど…

「…私は恋人や妻を欲さない…今までも、これからも
 多くを望まず、夢を持たないこと―――それが日々平穏に過ごすことに繋がる
 何も期待しなければ傷つくことも無い…退屈な人生だが心の痛みも最小限に抑えられる」

「……って、寂しい事言うなよ……」

 確かに発作を抱えて孤独な生活が長年続けばネガティブになるのは判る
 けれど、今はもう森から出て外も歩けるようになったのだ
 まだまだこれから、いくらでも楽しい人生が待っている筈だ

「だが、事実そうすることで私は生き延びてきた
 孤独の辛さから逃れるために、ずっと自らに暗示をかけ続けてきた
 森の中を自由気ままに生きられる生活が私の至福なのだと…な
 ずっと人恋しかったが…一人でも生きていけるということを実証することでそれを否定してきた」



 水を汲んだ白い指から水滴が零れ落ちる
 メルキゼは野営の支度をしながら、淡々と言葉を続ける

「自分には誰も必要ないのだと、言い聞かせることで何とか生きてきた
 一人でも狩りが出来るから父親がいなくても大丈夫
 料理も掃除も出来るから母親がいなくても大丈夫
 生活に不自由していないから仲間がいなくても大丈夫…そうやって自分以外を拒絶してきた」

 けれど、実際は全然大丈夫じゃなかった
 それはメルキゼ自身が一番良くわかっているだろう



「…すまない…話が脱線してしまった…
 要するに私には恋人がいなくても大丈夫だ、と説明したかった」

 その説明が説得力皆無だということは彼自身も良くわかっているだろう
 しかし、そんな彼にかける言葉も見つからない俺は黙っていることしか出来なかった

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