「え…本当に良いんですか?」

「うむ、そなたしかおらぬのでな…有効に使ってやってくれたまえ」



 ある日の午後、俺は急にカイザルに呼び出された
 何事かと思って駆けつけると、そこには満面の笑みを浮かべたカイザルとリノライの姿
 そしてその周囲に積み重ねられた無数の画材……

「油彩が好きなのだろう? 遠慮せずに描くが良い
 どうせ城にあっても絵など描ける者などおらぬのだ
 そなたの思うがままに使うほうが、有意義というものであろう」

 カイザルはそういうと俺に油絵の具のセットを手渡す
 ずっしりとした重さと独特の香りが懐かしい

「絵が完成致しましたら、是非おっしゃって下さい
 作品を飾るための台や額縁を用意しておきますので…」

 リノライは笑顔で大量のカンバスを運ぶのを手伝ってくれた
 一通り部屋に画材が運び込まれると、そこは簡単なアトリエと化す

「すみません…何か、手間を掛けさせてしまって…」

「滅相もございません。それに画材も倉庫で埃をかぶっているよりも、貴方に使って頂いた方が喜ぶことでしょう」



 リノライが部屋から立ち去った後、俺は早速画材を物色し始めた
 絵の具の種類も筆の種類も豊富だ
 筆洗液と油壺もしっかりと満たされているし、パレットも程よい大きさで手に馴染む
 俺は木炭を手に取ると、真っ白なカンバスの上に曲線を描く

「久しぶりだな…この感触」

 異世界に来て、既に数ヶ月経つ
 もうずっと絵なんて描いていない
 それでも手はしっかりと絵の描き方を覚えているらしい
 すらすらと慣れた手つきでカンバスの上に下絵が描かれていく

 モデルがいなくても、しっかりと記憶の中に焼きついている
 穏やかな笑みをたたえた黄金の悪魔……

「微妙に垂れ目なんだよな…髪は真ん中から分けてて…」

 記憶を辿りながら木炭を滑らしているうちに、驚くほどの速さで下絵は完成していった
 普段から絵を描くスピードは決して遅くない方だった
 線は太く大雑把に引き、色はあまり重ねたりしない描き方だからだろう

 俺は太めの筆を手に取ると、ぺたぺたと色を乗せていく
 あまり細かいタッチで描くのは好きではない
 しかし、だからといって雑に描いているわけでは決して無いのだ
 丁寧に、一筆一筆心を込めて、カンバスの中の世界に生命を与えていく

 穏やかな笑みを湛えた恋人の姿が次第にはっきりとした輪郭を持ってそこに現れてくる


「よし、良い感じになってきたな」


「――――――絵を描いているのですか?」

 不意に背後から掛けられる声に、俺は飛び上がる
 よりによって、一番見られて恥ずかしい相手が来た
 俺は咄嗟に絵画の上に布をかけて隠す

「あれ…隠してしまうのですか?」

「か、完成するまで誰にも見せないのが俺のポリシーなんだ」

 正直なところ、完成してもゴールドには見せたくないのだが…
 だって、本人に見せるのは恥ずかしすぎる
 例えるなら、物真似の最中に本物が出てきた時のような気恥ずかしさとプレッシャーがあるのだ








「完成が楽しみなのです…見せてくださいね」

「あ、ああ。…ははは」

 俺は曖昧に笑って茶を濁した
 …カムフラージュ用にもう一枚、風景画でも描いておこうか…


「じゃあ、ボクはお風呂に入ってきます」

「…ゴールド、俺も一緒に入っていいか?
 絵の具で手も汚れてるし、夕食前に綺麗になっておきたい」

 外の景色は茜色に染まっている
 あと一時間もすれば夕食になるだろう

「絵を描くのはもういいのですか?」

「ああ、一度乾かす必要があるからな」

 本当は、もう殆ど完成してある
 後は少しだけ陰影を描き込むだけだ
 しかし俺はあえて黙っておいた





「へぇ〜ジュン君、絵もかけるんだねぇ…
 何の絵描いてるの? 完成したら俺にも見せてよ」

 夕食時、レンは俺の絵について興味津々だった
 その話にレグルスも楽しそうに混じってくる

「今度、レンの肖像画も描いてくれよ
 部屋に飾っておくだけで怪奇現象が次々と起こるぜ?」

 そんな物騒な呪いの絵を依頼するな
 でも確かにレンの絵なら何かが起こりそうな気もする
 試しに描いてみたいと思った自分自身が恐ろしい…

「ラップ音とかポルターガイストとか起こるかなぁ?」

 お前は悪霊か
 …ある意味近いものはあるかもしれないが
 そう考えて、俺は思わず苦笑を浮かべた





「月が綺麗だな…」

 城の屋上はテラスのようになっていて、リラックスできる空間になっている
 ここから見渡す城下町の風景は素晴らしいの一言に尽きる
 素朴な街灯の灯りに照らされて浮かび上がる深い色の海と微かな潮の音も素晴らしい

 ここで食後の一時を過ごすのが最近の日課だ

「少し休んだら、また絵を描くかな…」


「―――あら、絵描きさんでらっしゃるの?」


「うわぁっ!?」


 まさか独り言に返答されるなんて思っても見なかった
 俺の他に誰かいたのか……?

「あら驚かせてしまいました?
 ごめんなさいね、そんなつもりはなかったのですけれども」

 俺から少し離れたところで、柵に寄りかかって立っている人影がある
 距離的にはほんの数メートル…なぜ今まで気づかなかったのかが不思議だ

「……えっと……」

 城のメイドか何かだろうか
 淡い色の長い髪を綺麗に結い上げて巻いてある
 これでもかという位のナイスバディをチラリズム効果を狙ったセクシーな服が包んでいる
 少々化粧が濃くてキツい顔立ちをしているが、なかなかの美女だ

 しかし目の前の女性は明らかに今日初めて見る顔だ
 俺は数歩後ろに下がるといつでも逃げ出せるように身構える
 相手が女性、というだけで魔女と―――敵と認識するのは間違いかもしれないが


「警戒なさらないで…わたくしはカーンとは違いましてよ」

「カーン!?」

 その魔女の名前に俺の身体は過剰反応した
 いくら自分に攻撃してこないと言えども、彼女は確かに敵なのだ
 事実、ゴールドは彼女の攻撃を食らって怪我を負った

「わたくしはゴート、と申す魔女です…ほら、ツノがそれっぽいでしょう?
 どちらかといえば山羊というよりは羊のようだと思うところもあるのですけれども…ね」

 ゴートという名の魔女は長い髪を両手でかき上げて丸まったツノを見せた
 確かにヤギというかヒツジというか…そんな感じのツノだった
 その姿に俺は更に警戒心を強める

「―――魔女が何の用だ」

「…カーンの目的はセイレーンの末裔を――レン殿を葬ることです
 彼女は自分よりも強い男の存在を許すことが出来ませんのよ
 注意なさって下さい……大切な友人を失いたくないのであれば……」

「え……」

 ゴートは急に真顔になって俺に近付いた
 そして、耳元で囁く

「女王は―――クレージュ様は魔女の国を御創りになるつもりです
 そのためには、魔女よりも強い男の存在があってはならないと……
 お二人の王子が呪いをかけられたのも、それが理由ですわ
 ……それにしても、カーンが偶然セイレーンの存在を知ってしまったのは不運でしたわね」

「そんな話を俺にして、何のメリットがあるんだ?
 魔女たちにとって、これは機密情報なんじゃないのか…?」

 もしかすると、嘘の情報を流して混乱させる気なのかもしれない
 それとも油断させる手段なのか――――

 しかし、ゴートは微かに微笑んだだけで話を続ける

「クレージュ様がカーンに与えた任務はふたつ
 ひとつは伝説のセイレーンを亡き者とすること
 そして、もうひとつは第一王子の抹殺ですわ……」

「第一王子って…カイザルさんの兄貴か!?」

「ええ、彼は呪いをかけられ城を追放されましたが、確かに生きています
 クレージュ様の呪いによって第一王子の力は低級魔族並の力にまで落とされました
 しかし最近になって、その王子の力が増幅しているということが判明しました
 その力は限りなく強大なもので――――正直、魔女たちは危機感を抱き始めております」

「復讐を恐れているのか」

「わたくしたちを恨んでいる筈ですからね…男に生まれたというだけで追放されたのですから」

 ゴートは視線を逸らす
 居た堪れないような、深い悲しみを湛えたような瞳が月の光に輝いた

「第一王子の所在は未だ不明です…どこかに身を隠して復讐の機会を窺っているのでしょう…
 わたくしにも第一王子の力量は判りかねますが―――しかしおひとりで魔女と戦うのは無謀ですわ
 そして、セイレーンも……強大なる力を秘めておきながらも、未だその力は覚醒されておりませんし…」

「――――何が言いたい?」

「第一王子を探し出すのです……カーンよりも先に
 そして、セイレーンと力を合わせて魔女の軍隊を倒して下さいませ
 争いは醜いですが、クレージュ様の野望を阻止するには……それしかございません」

 ゴートは俺の両手を握り締める
 そして、強い意思を秘めた瞳で真っ直ぐに見つめてきた

「二人が出会ったところで、まとめて始末しようって魂胆か?
 俺が魔女の話を鵜呑みにして信じきるような奴に見えるか…?」

「わたくしは貴方を信じておりますわ
 たとえ今は信じてもらえないとしても―――信じる心はいつか通じると、そう願っております」

 ゴートは真新しい紙に書かれた地図を俺に手渡すと、はにかむ様に微笑む
 その瞳は今までに見た魔女には無い光を持ち、どこまでも澄んでいる







「…魔女は敵だろう…何故、手助けをする?」

「そうね…動機は…正義の心なんて大層なものは、わたくしにはありませんし―――単純に同情…かしら? 
 生まれてずっと拷問室と地下牢の往復ばかり…親の顔も知らない、名前すら授けられなかった哀れな王子にね」

「名前すら、って…」

「第一王子には名前がありませんのよ…誰も王子の名を口にしないことに疑問を抱きませんでした?」

 言われてみれば、確かにそうだ
 以前カイザルに兄の話を聞いたとき―――普通、真っ先に教えられる筈の名前が無かった
 名前を言わなかったのは、そもそも名前を付けられていなかったからなのか……

「でも、だとしたら…名前もわからない相手を探すことになるな…」

「そんなに悲観的にならないで…手掛かりはありましてよ?
 第一王子は追放の際、手に王家の紋章を持っておられましたから
 金と銀の細工でアイニオス≠ニ描かれた紋章です…それが唯一の手掛かりですわ」

 …売り飛ばしていたら打つ手なし、ということか…

「でも、何でわざわざ俺に言う?
 カイザルさんやリノライさんに言った方が良いだろう」

「貴方が一番、魔女に対して警戒心が薄いと思ったのよ
 それに―――わたくし、趣味で少しばかり占いをするのですけれど…
 どうやら第一王子は人間と深いつながりを持つようだという結果が出ましたから」

「深いつながりって…」

「細かいことは判りませんが…例えば、人間の家で匿われているとか…」

 なるほど
 確かに人間が関係しているなら俺が相手した方が警戒されにくいかもしれない

「…信用するか否かは貴方次第ですけれど…ね、坊や」

「―――ぼ、坊やって…」

 俺、一応二十歳…のつもりなんだが
 まぁ目の前の魔女に比べれば確かに若いかもしれないが

「ほほほ…冗談よ。こんなオバサンの長話につき合わせて御免なさいね?
 わたくしが話したいことは全て伝えましたから、そろそろお暇しますわ……」

 魔女は軽やかに笑いながら、霧のように姿を消した
 これも瞬間移動の魔法なのだろう
 俺は幻を相手に話していたような、何とも複雑な気分になりながらもその場を後にした


「…だからって、坊やはないだろう…あの年増魔女」


 俺はちょっぴり傷付いていた

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