「あ〜…もう、ダメ……」


 体力が尽きた俺は、その場に座り込んだ
 家に引きこもっていたツケがこんな所に現れるとは……
 まだ数百メートルしか走っていない
 見紛う事無き明らかな運動不足だった

「大丈夫だよな、森の中だし…そう簡単に見つからない…と思う…」

 ちょっと不安だったがこれ以上走るのも無理だった
 ただでさえ運動不足な上に空腹で力が出ないのだ


「……休もう……」

 俺は大の字になって寝っ転がった
 爪先から、じんわりと痺れに似た疲労感が押し寄せてくる
 涼しい風が火照った頬を優しく撫で上げて疲れを癒してくれた

「…気持ち良い…こんなの久しぶりだな…」

 夏の終わり―――北海道の夏は短いのだ
 そして秋が来ると長い長い極寒の冬の到来だ
 色付き始めた木の葉は瞬く間に地へ還り、やがて一面の銀世界が支配する季節が訪れる


「こんな体力で雪掻き出来るのかな…」

 札幌と言えども少し郊外に出ただけで豪雪地帯となる
 家の周囲に積もった雪を取り除かなければ陸の孤島になってしまうのだが―――……
 ちょっとサボっただけでも玄関が埋まって窓からの出入りを余儀なくされるのだ
 この調子では今年は家ごと埋まりそうな予感がする



「……体力つけなきゃなぁ……」

 生活の中心にいた恋人を失って
 自分が今までどうやって生きていたのかを忘れてしまった
 何もかもが嫌になって引きこもり、孤立していった

 けれど、このキャンプで自分を変えられる知れない
 そんな期待を少なからず抱いていた
 暗い穴で暮らすような生活から抜け出して、元の世界で生きたいと
 たとえ要はその場にいなくても、新しい生きがいを探せる―――そんな勇気を求めて


 ……まだ全てを受け入れて、受け止め、乗り越える力も勇気も無い
 それでも、少しずつ―――…一歩ずつでもいいから歩いていこう

 この広い森にいると、少なからずそんな気分になる
 大自然の大いなる力が、干乾びて殻に閉じこもった心に潤いを与えてくれているのかも知れない

「……自然っていいなぁ……ここにいるだけで力を分けてもらえてる気がする……」

 森の香りを胸いっぱいに吸い込む
 キャンプ初日には気付かなかった想いと心―――それを、森の自然が教えてくれた

 それだけでもキャンプに来て良かったと思える
 まぁ…有り余るほどのハプニングもあったのだが……

「―――で、後はどうやって帰るか……だな」

 それが一番の難関だ
 現在位置もわからない常態では、どうしようもない
 もしかしたら遭難しているのかも知れないが、山奥とは言え無人島ではない
 麓まで行けば、きっと道路の一本も通っている筈だ


「さて、じゃぁ出発するかな!!」

 体力が回復した俺は勢いよく立ち上がる
 こういうときは下手に考えるよりも勢いに任せたほうが良いのだ
 それが若者の特権でもあるのだから


 ――――ところが



「ああ、やっと見つけた」

 背後から急に声を掛けられる
 小屋にいた男のものだった

「……げっ」

 どうやら自分を追いかけてきたらしい
 しかし一体何故!?

 やっぱり想像通り犯罪組織絡みだったのだろうか
 だとすると、まさか―――証拠隠滅のために俺を消そうと!?

「……あの、何か御用で……?」

 警戒心バリバで俺は尋ねる
 右足を半歩後退させて、いつでも回れ右して逃げられる体制をとる
 拳銃を突きつけられたら終わりだが、そうでなければ若い自分のほうが有利だろう
 ……ちょっと体力面では自信が無いのが悲しいが……

 男の表情は相変わらず長い髪に隠れていて見えない
 それがより一層の恐怖心と不信感を駆り立てた


「……用…と言うか、忘れ物」

 男は手に握っていたのだろう、小物を俺の前に突き出した
 ボールチェーンに繋がれたフェルト製のマスコット人形―――

「……あ……俺の人形……」

 それは俺のカーマイン人形だった
 何で彼が持っているのか、という不審な心境とうわー恥ずかしいモノ見られた、という心境の板挟み
 ゴツいニューハーフが可愛らしい人形を持っているという姿もなかなか異様だ
 ちょっと似合っているような、全然似合って無いような―――微妙なところだ







 まぁ俺の忘れ物を届けてくれたのは確かなようだし……あまり悪く言うのもどうだろう
 もしかすると、ただ単に日本の山奥暮らしに憧れて移住してきた外人なだけかも知れない
 ドレス姿なのは生活のために夜のバイトをしているとか、ひょっとすると国の民族衣装というオチもあるかも…

 再度親切にしてもらうことで、急にプラス思考になる単純な俺だった


「わざわざすみません」

「いや、それより…君は山を下る気…?」

 そうするしか無いだろう、どう見ても
 他の手段があれば聞かせて欲しいところだ

「え…あ、はい、とりあえず道を探してるんですけど―――下の方に道はありますか?」

 これで無いといわれたら脱力だ
 まぁそうなったら彼に森の出口を教えてもらえば良いだけのことだけれど


「…道は無い…けど、小さな村があるから…」

「あ、村があるんですか」

 じゃあ、その村に行って電話を借りてタクシーを呼べば帰れる
 予想に反して、かなり帰宅するのは簡単のようだ
 この調子なら今日中に家に帰ることが出来る

「どうもありがとうございます!! 村の方に行ってみます」

「ん…気をつけて…凶暴なのが多いから」

 凶暴なの、とは―――イノシシとか鹿のことだろう
 確かに野生の動物は凶暴だ
 人間のいる所でもお構い無しに来るのは体感済みだ


「…ところで君、後ろの気配には気付いているのか…?」

「後ろの気配? 何かいるんですか?」

 俺は首だけ後ろに向けて振り返ってみた
 もしかしてまたイノシシや鹿がいたりするんだろうか
 身を硬くして恐る恐る視線をさまよわせて見る―――が、何もいなかった
 足元を見ても動物どころか虫すら見当たらない

「何もいませんよ」

 もしかして、彼なりの冗談だったのだろうか
 しかし目の前の男は顔を顰めて、指をさした



「…もう少し、私の方へ来ると良い…そう、その辺だ
 そこからもう一度後ろを振り返るとわかる……視線は気持ち上の方」

 そう言うからには、何か珍しいものがあるのだろう
 俺は言われるままに数歩進み、振り返った


 ―――最初、やっぱり何かわからなかった

 けれど、良く見てみると…俺の目線の少し上のほうに大きな何かが―――

「えっ…これ……」

 大きな目玉?
 そして、その下を滑るように視線を落とすと真っ赤に裂けた口が見えた
 鋭い牙と血のような色をした舌が陽光を反射する

 ………えーっと、何て言うんだっけ、これ………
 昔、こんな感じの生き物を本で見た記憶がある

 そう…あの生物と目の前の生き物は良く似ていた
 俺の記憶が告げるその生物の名前は―――しかし常識的に考えてそれはありえない

 ありえないが――――これはどう見たって――――……



「…き、き、恐竜……っ!?」



 巨大な身体、鋭い牙
 以前に本で見た太古の生物、恐竜―――が、目の前にいた









 まだ幼い頃、俺は恐竜が好きだった
 あの頃はワクワクとした気持ちで、好奇心と憧れの思いで本を見たものだ

 しかし今はとてもじゃないが、そんな心境になれない
 だって、あくまで本や映像としてみるからこそ楽しいのだ



「実物が出てこられたって……どうすりゃいいんじゃ――――――!!!」

 本気でどうすればいいのだこれはっ!!
 山中で恐竜に出会った場合の対処法なんて誰が想像する!?

「はわわわわわ………!!」

 咄嗟に両手両足をバタバタ動かすが、だから何だというのだ
 逃げなきゃ、と思うのに……逃げるのが恐い
 走ったら追いかけてきそうで―――足が動かない


「……ほら、な…? 後ろに…いただろう?」

 目の前の男は勝ち誇ったように踏ん反り返っている
 確かにいた
 彼の言ったことは正しい
 正しいが――――信じたくないぃぃ――――っ!!!


「ど、ど、どうすんですかっ!! こんなの出てきちゃって!?」

「逃げるか倒すか隠れるか」

「冷静に言うな―――――!!」

 ―――って、こうして話している間に頭からガブリと来られてはたまらない!!
 俺は下ってきた山道を、今度は死に物狂いで逆走した
 火事場の馬鹿力だろう、オリンピックにさえ出られそうなスピードだ

 俺の後ろをドレス姿の大男が数歩遅れてついてくる
 その男の後ろを恐竜がドタドタと追いかけてきた

「うわぁ――着いてくんなぁ――――っ!! 特に恐竜――――っ!!」

 男は俺の後を追いながら手を高く掲げて叫ぶ

「君っ!! 人形の忘れ物―――っ!!」










 それどころじゃねぇ!!


「君、左に曲がるといい!! 私の家がある!!」

「わかりましたっ!!」

 言われたとおりに曲がると、彼の家はすぐに見つかった
 家に隠れて、やり過ごせというのだろう
 確かに逃げ切るのも無理そうだし戦うなんて論外だ


 俺は足が発火しそうなほど高速で動かし、彼の家へ飛び込んだ
 そのまま寝室へ向かうと、ベッドに隠れて息を潜める

 心臓がバクバク―――破裂しそうだ
 けれど恐怖心で全身がガタガタふるえている
 走って熱いはずなのに身体は冷え切って寒い


 何で…何で俺、こんな事になってるんだ――――っ!?


 しかし、その疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった


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