「……失礼する」


 突然背後から声が掛かる
 誰かが入ってきたらしい

 残念ながらノワールの声ではなかった
 振り返るとそこには見覚えのある緑色の竜


「あ…バルバ殿」

「…バルバ…だと…?」

 元々釣り上がっている竜の目が一層険しくなる
 見るからに気分を害している
 何か失言でもしただろうか


「あ、あの…?」

「貴様ぁっ!!
 事もあろうにあのスカしたインテリ男と俺を間違うとは!!」

「えっ…あ、あ、もしかしてセリ殿ですか!?」

「どこからどう見ても俺だろうっ!!
 貴様、まさかわざとではないだろうな!?」

「め、滅相もございません!!
 どうかご無礼をお許し下さい、私には貴方がたの見分けがつかなくて…!!」


「―――…なんだと…?
 我らの見分けがつかぬ…?」

「ひぃぃ…っ…お、お許し下さいっ…!!」

 怒りの剣幕に全身の血が引いてゆく
 衝動的に一撃を加えられれば、人の身など容易く砕けるだろう
 冷や汗と恐怖にバランスを崩しかける
 しかし自分より先にバランスを崩したのはセリの方だった




「…まさか…そのようなことが…
 貴様…まさか俺と王子の区別がつかぬなどというのではないだろうな!?」

「い、いえ!!
 流石にあれはわかりますっ!!」

「そ、そうか…よし、それなら良い」

「は…はあ…」


「しかしこれは由々しき問題だ
 一刻も早く王に報告せねば…」

「あ、あの、セリ殿…っ!?」

「俺は王の御前へ向かう
 貴様はここで大人しくしていろ」

「…あっ…」


 すぐにその姿は見えなくなる
 見た目より足が速い
 歩幅がそもそも違うのだから当然か

 しかし空気が明らかに変わった
 何かひと騒動起きなければいいのだが
 セオフィラスは嫌な予感を胸に抱きながら報告書と向き合った







「………?」

 ふと顔を上げる
 何か妙な音が聞こえ始めた
 ひた、ひた、ひた、と素足で廊下を歩くような音だ
 竜の足音でないことは断言できる

 これはむしろ人の足音のような―――…
 セオフィラスは立ち上がると恐る恐る部屋の外を覗き見た


「あっ……!!」

 まさかと思い目をこすって見直す
 しかしやはりそこには確かに人の姿があった
 何故だろう
 この島に人は存在しないはずなのに
 幻でも見ているのだろうか

 人は静かに近付いてくる
 歳の頃は14、15
 気の強そうな眼差しの少年だった
 肩まで伸びた髪がさらさらと揺れている


「あ、あ、あの…?」

「…どうだ?」

「は、はい!?」

「その目にこの姿はどう映る?」

「えっ…ど、ど、どうって…」


 唐突過ぎる状況に面食らう
 しかし聞かれたからには答えなければならない
 改めて目の前の少年を見つめるセオフィラス

 細い腕、細い足
 大きな瞳に薄い唇
 まるで少女ような美少年
 とても可愛らしい少年だ


「さあ、どうだ!?」

「えっと…か、可愛いです…けど…」

「なっ…!!」


 絶句
 口を半開きにしたまま固まる美少年
 しかしその顔は見る間に赤く茹で上がってゆく
 流石に『かわいい』は問題があったかもしれない

 男に対する褒め言葉ではない
 フォローの言葉を捜し始めるセオフィラス
 しかしその前に美少年のほうが口を開いた




「ば、ば、バカを言うな!!
 貴様何を考えているっ!!
 そ、そんな戯言にこの俺がっ…!!」

「―――…何を騒いでいるのですか」

「うわっ」

 突然現れる第三者
 今度は背の高い男―――…勿論人の形をしている
 一体何故突然人が現れ始めたのだろう
 何かがおかしい


「ど、どうして、人が!?
 この島には人がいないはずでは!?」

「何も聞いていないのですか?
 …こら、説明なさいと言っておいたでしょう!!」

「お、俺もそのつもりだった!!
 だが奴の口が妙なことを言い始めて…!!」

「あ、あの…?」



「セオフィラス殿、驚かせてしまったようで申し訳ございません
 私は今朝方案内役を勤めさせて頂きましたラキオバと申します
 セリからの報告を受け、試験的に人の姿を模してみたのですが…」

「えっ…ら、ラキオバ殿!?」

「はい、人の形になればセオフィラス殿の目にも判別がつくのではないかと…
 妖術を応用し、竜の姿から人へと姿を変えてみました
 それでセオフィラス殿、私とセリの判別はつきますでしょうか…?」

「えっ…セリ…殿?」

「こちらの少年がそうです
 また何か失礼があったようで…申し訳ございません
 後できつく叱っておきますのでどうかお許し下さい」



「ち、違う、俺の非ではない!!」

「はいはい、言い訳は後で聞かせて頂きます
 それでセオフィラス殿、いかがでしょうか?」

「え、ええと…はい、人型なら判別がつきます」

「それではセオフィラス殿の前では人型を模すように致しましょう
 試みは成功と見てよさそうですね…王に報告してまいります
 セリ、セオフィラス殿を客室に案内して差し上げてください…くれぐれも失礼の無いように」


 セリに一瞥をくれるとさっさと出て行くラキオバ
 どうやらセリよりラキオバのほうが上位らしい
 単に年上という理由だからかもしれないが




「……貴様のせいだからな…」

「も、申し訳ございません
 私の方から弁解しておきますので…」

「…ったく今日は厄日だ…
 さっさと来い、俺は早く仕事を終わらせて寝たいんだ」

「まだ眠るには早いような気も致しますが…」

「今の内に寝ておかなければ体が持たない
 貴様のせいで今夜は寝かせて貰えそうにない」

「…えっ…?」

「………なんでもない
 こっちだ、さっさと行くぞ」



 先導するセリの後を追う
 同じ人型である今、体格で勝るセオフィラスのほうが足が速い
 歩調を合わせながら隣に並ぶと自然と会話が生まれる

「人の姿はいかがですか?」

「……足が短くて小さい分、遅いな…実用的とはとてもではないが言えない
 貴様らも難儀な生き物だ…ったく、これほど長々と歩くのは久しぶりのことだ」

「人の足のほうが小回りが利きますよ
 それに足元の些細な幸せも見つかります」

「………?
 貴様の言っていることが解せない…一体、何を見つけるというのだ?」



「だから、小さな幸せです
 足元に咲く色取り取りの花、季節の訪れを告げる虫、キラキラと輝く水溜り――…
 貴方たちワイバーンの目線で見るのとは一味も二味も違うと思います
 セリ殿は人の目線になって何か新たな発見はありませんでしたか?」

「…そういえば…意外と石が落ちているものだな
 普段は気にも留めていないのだが、こうして人の足で歩くと邪魔に感じる」

「そ、それは幸せというのとは少し――…」

「たまには悪くも無い、新鮮といえば新鮮だ
 …さあ着いたぞ…ここが貴様の部屋となる」


 案内されたのは比較的綺麗に片付いた部屋だった
 …部屋といってもやはり穴なのだが
 ノワールの部屋との違いといえば中央に植物の葉が敷いてあることだろう
 しかしそれが一体何を意味するのかがわからない





「セリ殿、この葉は一体―――…」

「その上に座れ」

「は、はい…」

 何か意味があるのだろう
 敷き詰められた大量の葉の上に正座をするセオフィラス
 摘みたての葉なのか柔らかい感触がする
 ほのかに香る青臭い香りが薄暗い穴の中でも気を落ち着かせてくれる


「あ、あの…座りました」

「そうだな」

「あの…そ、それで?
 この上に座って一体何を…?」

「貴様のウロコの一枚も無い軟弱な肉体でこの地面に居座るのは酷だと思った
 だから柔らかい葉を敷いたまでだ――…特に意味は無い」

「…………。」

 要するに葉で作ったクッションだったらしい
 セリなりの気遣いなのだろう―――…が、素直には言えなかったらしい
 それでも心配りが純粋に嬉しかった





「セリ殿、ありがとうございます」

 久しぶりに足を休めることが出来る
 両足を伸ばすと柔らかい葉の感触を楽しんだ
 彼は草の上に座ったことがあるのだろうか
 人の皮膚を通して感じる柔らかな感触をセリにも教えたい

「セリ殿もこちらで一緒に休みませんか?」

 誘ってから思い出す
 そういえばセリはもう眠りたいと言っていた
 しかし意外にもセリは頷くとセオフィラスの隣りに腰を下ろした


「…貴様に聞きたい…
 王子のこと、貴様はどう思う?」

「ノワール王子のことですか?
 そうですね…こう言っては気を悪くされるかもしれませんが、とても愛嬌のあるお方だと…」

「……貴様は…気の多い奴だな…」

「えっ…?」

「貴様の目にはこの世の全てのものが可愛く映るのではあるまいな!?」

「い、いえ、そのようなことは…」




「ラキオバから聞いている通り我々の中には貴様らに好意的な連中も少なくは無い
 貴様の言動を過剰に受け取る連中も出てくることだろう――…誤解を招くことはするな
 下手に気を持たせる言動で貴様が痛い目を被っても同情の余地は無い、心しておくことだ」

「な、なっ…そ、そのようなことは…っ!!」

「どこまでも愚かな生き物だな、まさか自覚無しとは…ならば教えてやる
 貴様らの体臭は我々にとって食指を刺激する香りだ…媚薬に匹敵するほどに
 そんな香りを巻き散らかして歩いている上に更に見え透いた世辞で我々を心惑わせる気か?
 貴様の視線、声、仕草…その全てが我らの心をかき乱すことを自覚しなければ面倒なことになるぞ」

「えっ…ま、まさか、そのような…」

「とにかく俺は忠告はしたからな、あとは貴様自身が対処しろ
 貴様は自分自身を竜を誘うフェロモンの塊だと思え」



「……お、思えませんっ…!!」

「弁えなければ泣きを見るのは貴様自身だ
 先にいった通り俺は貴様ら人が大嫌いだ、貴様が襲われようが決して助けはしない
 曲りなりにも騎士の名を語るならば自分の身は自分で守ることだな」

「セリ殿っ…!!」

「最後にもう一つだけ忠告しておいてやる…王子にだけは決して甘い言葉をかけるな
 王子はその呪いにより我々一族から疎まれてきた…故に愛情というものを知らない男だ
 貴様の社交的な世辞の一つにも過剰反応するのが見て取れる
 気があると勘違いされてからでは遅い、誤解を招かないためにも王子に親身に接することはするな」

「……セリ殿、それは―――…」

「生半可な同情心は逆に王子を傷つける…それは互いのためにもならないだろう」


 それだけ言うとセリは背を向け部屋を出て行ってしまう
 セリの足音が聞こえなくなるまでセオフィラスは放心していた

 彼の言った言葉が信じられない



「…まさか…そんな―――…」

 一体どうすればいいのか
 自分の身は大丈夫なのか
 トカゲに組み敷かれるくらいなら任務を放棄する道を選ぶだろう

 様々な不安と心配が胸の中を渦巻く
 柔らかな草の上に寝転がる
 口をついて出るのは暗いため息ばかり

 野宿に比べれば心地よい寝所だったがその晩セオフィラスに睡魔が訪れることは無かった







「――――…以上で説明は終了しましたが何か質問は?」

「え、ええと…少々お待ち下さい」


 報告書に書き込んだ内容を見直しながらペンを走らせる
 随分と大量の情報が集まった
 この内容を軽く編集するだけで既に本の数冊分にはなるだろう

 セオフィラスにはワイバーンの調査という任務も与えられている
 目的の祈り場へ向かう前に面倒ごとは済ませてしまいたかった
 王にも納得がいくまで調べてから旅立つように言われていたので言葉に甘えたのだ

 それに互いに理解を深め合うためにも暫くはこの場に留まった方が良いとも考えられる
 セリのように人に対して敵対心を持つ竜と打ち解けあうには
 僅かな間でも時間を共有したほうが良いというラキオバの意見を参考にしたのだ



「それではワイバーンが扱う魔法と我々が扱う魔法ではどのような違いがあるのか――…」

「根本的に違いますね…少し長くなりそうなので向こうに座ってお話ししましょう」

 バルバは飽きもせずにセオフィラスの質問に付き合ってくれている
 丁寧な口調と落ち着いた大人の雰囲気が学生時代に世話になった教師の姿を思い出させる
 緑色をしていた竜は今では物腰の柔らかそうな学者風の男の姿を模していた

 東方の古代衣装に身を包み長い髪を結わえ眼鏡の奥の瞳で優しく見つめてくる
 見たところ年齢は自分よりも上―――…騎士団長と同じくらいだろうか
 そう思うだけでバルバに対して親近感のようなものが湧き上がってくる




「竜というのはモンスターのような外見をしていますが本質的なところでは妖精に近いといえます
 我々は魔と妖精の中間的な存在――…妖魔と呼ばれる存在で魔法ではなく妖術を扱います」

「それでは力の本質そのものが我々とは異なっているんですね
 これは妖魔の文献と照らし合わせる必要があります…参考になりました、ありがとうございます」

「いいえ…少しでもお役に立てたなら幸いです
 少しでも貴方たちと仲良くなりたいと思っています…太古の時代の頃のように」


 優しい笑顔を向けられる度に好意的に感じてしまう
 時折冗談を交えながら饒舌に話しかけてくる彼は心地よい時間を提供してくれる
 純粋に彼と過ごす時間が好きだった

 ふと視線が合う
 眼鏡の奥の瞳が優しい
 セオフィラスもつられて微笑む
 暖かくてゆっくりと空気が流れてゆく



「…バルバ殿、貴方と過ごす時間はとても心地が良いです
 若い頃に世話になった恩師の事を思い出すからでしょうか――…」

「それは光栄な事だと喜ばなければなりませんね
 私との時間を望んでいると受け取っても宜しい…のですよね?」

「ええ、勿論です
 もっと貴方とお話させて頂きたいと思っています」

 そう言うとバルバはセオフィラスの肩に腕を回す
 穏やかな微笑を浮かべたまま彼は距離を縮めてくる


「…ば、バルバ殿…?」

「じっとしていて」

「は、はい」

 言われるまま動きを止めるセオフィラス
 無言のままバルバの行動を見守る
 騎士としての条件反射なのか目上や年上の言葉には無条件に従ってしまう

 元々長いものには大人しく巻かれている下っ端騎士である
 しかしそれが仇となる事も少なからずあるもので

 ―――…ちゅ
 バルバの唇とセオフィラスの唇が重なる
 少し荒れてザラザラした皮膚は少し冷たい



「………………………」

 唇の冷たさにセオフィラスの頭も冷え切る
 そのまま全身の血液が熱を失ったかのように冷めて行く
 目の前にいる男は人の形をしているものの正体は大嫌いなトカゲ

 そのトカゲに唇を奪われたというショックに血の気が引いて行く
 ぐらりと視界が歪んで意識が飛びそうになる
 すかさずバルバの腕がセオフィラスの身体を抱きとめた


「おっと危ない…セオフィラス殿、大丈夫ですか?」

 聞かれても答える余裕が無い
 とりあえず『大丈夫じゃない』と言ってやりたいが全身が引きつって声が出てこない
 声を出すよりも先にバルバの腕の中から逃げた方が先決

 そう思って身を捩っても竜の力を持つ彼の腕はびくともしない
 トカゲの腕の中から抜け出せないという状況がセオフィラスを混乱に陥れた
 顔色をなくしてパニックに陥っているセオフィラスを前にバルバは実に楽しそうな笑みを浮かべる



「大丈夫ではないようですね…どうも顔色がよろしくない
 今、私の寝床へお連れしますので横になってお休み下さい」

 ずるずると身体がバルバの部屋へと引きずり込まれる
 彼の瞳が明らかに欲望の光を宿している事にセオフィラスは震え上がった
 このままバルバに身を任せていたら酷い目に遭わされる

 この後の運命を想像したセオフィラスは死に物狂いの抵抗で身を守る
 思い通りに身体が動き声も元通り出せるようになっていたのは奇跡としか思えない


「お、お止め下さいバルバ殿っ!!」

「誘ったのはセオフィラス殿の方です
 思わせぶりな言動で私を誘惑しておきながら逃げるつもりですか?」

「ご、ご、誤解…誤解です…!!
 私は決してそのような意は抱いておりませんっ!!」

 セリの忠告の意味を改めて思い知る
 皮肉っぽく笑う少年の姿が脳裏に過ぎるが今はそれどころではない
 バルバの冷たい舌がセオフィラスの首筋を舐め上げる
 長く鋭い爪を持った指先が鎧の隙間を擽るように潜り込んでくる



「うあ…あ、あ…!!」

 冷や汗で全身がじっとりと濡れてくる
 不快感に胃の中がキリキリと痛み始めた
 このままではいけない
 何とかして窮地を逃れる手段を探さなければ―――…


「…バルバ…殿…お、お止め下さい…!!」

 セオフィラスは手に持っていた書類をバルバ目掛けて投げつける
 こんなもので彼の動きを封じられるとは思わない
 ただ少しでも戒めが緩めばその隙を付いて逃げる事ができる


「…っ…!!」

 突然顔面を狙って投げつけられた書類
 咄嗟に顔を庇うバルバはセオフィラスを戒めていた腕を離した
 その隙にその身を突き飛ばし脱兎のごとく逃げ出すセオフィラス
 竜の姿で追ってこられたら逃げ切る事は不可能

 しかし諦めたのかバルバが追ってくるような気配は感じられない
 安堵と共に恐怖が全身を駆け巡る
 一人で部屋に戻る気にはなれない
 しかし襲われた直後に他の竜の元へ足を運ぶ気にもなれない
 今はこの恐怖と傷ついた自尊心を一刻も早く癒したかった


「…………王子………」

 癒し、という言葉から真っ先に浮かんだのは竜族の王子の姿
 今は竜の姿なんて見たくも無いがノワールは別だ
 どうしても彼らと同じ種族だとは思えないその姿は充分癒し効果を持っている
 暖かく柔らかいその身体を撫ぜて愛嬌のある瞳を見つめていれば気分転換になる

 一目だけで良い
 この気持ちを払拭さえ出来れば
 セオフィラスはノワールの姿を求め薄暗い洞窟を小走りで進んだ