割烹旅館
赤間神社のそぱで、散歩と歩かずに、くずれかけた塀に行く手を阻まれた。団長は屏の壊れたところに立てかけてあるはしごを指さした。わたしたちは“春帆楼”の裏庭に入ろうとしていたのだ。
七十年あまり前、一八九五年、七十三歳の李鴻章は馬関の“春帆楼”で『馬関条約』に署名したのである。わたしたちは、一八九四年の“甲午戦争”で、中国の北洋海軍がどのように一敗地にまみれたか、どのくらい名将兵士が英雄的に戦って犠牲となったか。何隻の艦船が黄海の海底に沈んだかを、もちろん知っている。不平等な『馬関条約』によって、中国は台湾、彭湖、二億両の賠償金を失い、多くの関税の権利を失ったことも、知っている。最も重要なことは、自大盲目の夢も醒めたということである。
“春帆楼”は半洋式の建物で、一階と二階しかない。正門の両側の柱には、それぞれ異なった宇体で、ただし、“春帆楼”とのみ書いた木製の看板か掛かっている。わたしたちが入ろうとすると、中の人にさえぎられた。そこはもう旅館になっており、歴史的資料か見たかったら、となりの“日清講和談判記念館”へ行くように、というのだ。
その記念館は小さく古びていた。入口はしまっていて、女子事務員は開けると出ていった。薄暗いあかりの下で、かぴくさくほこりまみれの小部屋のなかで、歴史の幽霊ひとつひとつがまだかすかにさまよっているかのように思われた。
部屋の中央には、その時署名が行われた長づくえか置かれ、つくえの両側にはそれぞれ赤いクッションの椅子が五つ置かれていた。椅子の後ろには紙片があり、その椅子に座った者の名前と役職が書かれていた。李鴻章とその息子の李経方は机の一方の一番め二番めに座り、日本代表の伊藤博文と陸奥宗光はかれらの向かいに座った。そのほかは、それぞれの通訳、秘書、参事官であった。
部屋の四隅にはガラスケースが置かれていて、なかには衣服や油絵が陳列してあった。説明がなかったので、衣服は誰のものかわからなかった。しかし油絵は眼を刺した。すべて中国人は卑屈に膝を屈し、日本人は傲然と見下げているという図柄で、説明するまでもなく、わたしたちにもわかった。旅行団の団員たちは期せずして怒りの気持ちを表した。日本人を罵る者もいれば、李鴻章を罵る者もいた。壁に掛けてある『馬関条約』の複製を目をこらして見ていると、熱いものが胸にこみあげてくるのがわかった。近代史を読むたびにいつも感じるあれで、ただ、今回のははるかに強いにすぎないのだI。
記念館を出ても、耳にはまだ団員の罵声が響いていた。
「売国奴李鴻章!」ああ!後世が歴史上の人物に下す評価は、時には本当に理性的ではないこともある。李鴻章は“甲午戦争”については、確かに責任を負わなければならない。しかし、弱小国の外交交渉メンバーとして、彼に努めてなにほどのことができたのであろう。ましてや、交渉の途中で、彼は刺客に撃たれたのだ。七十三歳の老臣が、国家の大事に影響がでるのを避けるために、弾丸を摘出しようとはせず、左頬に弾を残したまま、ひきつづき会議に臨んだことを思えぱ、かれに“売国奴”の帽子をかぶせるのは。いきすぎではないだろうか。
一言も発せず、わたしは、“春帆楼”の正門通路に沿って通りへと急いだ。観光バスに乗る前に、もう一度振り返って見てみよう。大きな大理石の石碑が路に立っていて、“史蹟春帆”‘の宇の下には、“割烹旅館”の四宇が小さく刻まれていた。割烹、割り烹る。七十数年前ここでおきた一切が書きつくされている。日本のわが国への行為も描きつくされている!
わたしは日本語の“割烹”がどんな意味か調べないまま、黙って写真をとると車に乗り、下関を離れた。割烹旅館−春帆楼。私は一生忘れないだろう!
記恨館
一九七一年八月六日、午後、台風は去ったが雨風が続くなか、わたしは広島“平和記念広場”へ足をふみいれた。
この日は日本人にとって痛ましい日であろう。広場の草は青く、石はまばゆいばかりに白く、二十六年前の血や肉と灰が混じりあったおそるべき色彩をとっくに覆いつくしていた。慰霊塔のそばで、中年以上の口本人が涙をぬぐっていた。二十六歳以下の日本人が笑い戯れてもいた。この不釣り合いは、未来の日本が悲劇を再演する原動力になるかもしれない、と思われた。
広場の端の川辺に立って、対岸のあの原爆投下後ただひとつ残った建物の残骸を見ていると、疑いの念を禁じることができなかった。このぼろぼろの丸屋根と全身傷だらけの枠ぐみのみのドームが二十六年間日本人に与えてきたものは、侵略戦争をおこすべきではなかったという悔悟なのか、二度と戦争があってはならないという警戒なのか、それとも外国の自国にたいする残忍への恨みなのか。その暗く荒々しい姿を見ると、恨み多く悔い改めが少ないという印象を直観的に受けるであろう。
“平和記念資料館”は、記念広場の中心的な建築物である。暗い灰色、細長いそれは横たわる棺桶のようである。前の噴水の水しぷきは、まるで一対の白い蝋燭と何本かの線香である。その日は原爆二十六周年記念口であったためであろう。資料館見学の人でたいへん混みあっていた。そして、外国人旅行客のほか、いちばん多いのはやはり日本人であった。
館内には広鳥被爆後の惨状の記録すべてが保存してある。巨大な写真から、爆発の中心部で。熱によって消滅してしまった人の残した影や、熱風で皮膚や肉がただれたぼろぎれのようになってしまった死傷者を見ることができる。ガラススケースのなかには、ぼろぼろの器具や死者が着ていた衣服が置かれている。
入れば人に吐き気をおこし肌に粟を生じさせる館内には、すべて日本人がどのように外国人に殺されたかという痕跡ばかりで、この惨劇を引きおこした原因を追及する資料はまったく見当らない。日本人の若い母親が子供を連れて、あの恐ろしいものの前に立ち、ことこまかに当時の惨状を説明していた。しかし、日本の侵略の野心が、この惨劇の真の下手人であることに触れる者がいるのだろうか。自分の国は当然受けなければならない罪があるという者がいるのだろうか。広大な中国の大地で、日本軍が中国人民におこなった暴虐を描く者がいるのだろうか。
若い世代は、二十六年前の一閃の閃光がただちに七万人以上の日本人を焼きころしたことを知っている。しかし、はるか四、五十年前から、日本の軍人が何回も罪なき中国人を殺してきたことは知らないのだ。七万?八年の抗日戦争中、剣、砲火、軍靴のもとで死んでいったわが同胞は、わずか七万なのだろうか。私には強い偏見があるのかもしれない。この記念館は恨みを記憶する石碑であり、そこには悔い改める文字の一つも刻まれてはいないのだ!
人道的な立場に立てば、原子爆弾で死んだ七万の日本の平民を、わたしは痛ましくおもう。しかし、日本軍国主義者の侵略の野心と、人民に意識的に“悔い無く恨み有り”という観念を注ぎこむ国家の教育手段に対しては、許すことができない。二千年以上にわたって伝わってきた寛大思想はわたしたち中国人の心に横だわっており、恨みをたやすく忘れさせている。しかし、血の恨みに満ちた悲劇の民族と顔をあわせて、わたしたちはあの悲痛な遭遇を決してあっさりと忘れさるべきではない。
もっとも、いたずらな根の浅い恨みは、決して日本に対処するよい方法ではない。なぜなら、一時の血気の勇は、骨にまでしみこんだ仇討ちの念に対抗するすべがないからだ。わたしかちが防衛に努め向上に励んでのみ、他人の野心を押さえつけることができるのである。したがって、健康な肉体と精神、正しい思考能力、豊かな学識。勤勉な労働態度……はすべて抗日の基本的条件である。わたしたちが必要なのはこれらであり。記恨館をもう一つ作る必要はないのだ!
資料館を離れる前に、出口で記念帳に“Peace”"No More"と書いている人がいるのを見た。わたしは唖然とせざるをえなかった。これらの文字はあまりにも軽率に書かれており。このような場所におかれて、まるで哀れなピエロのようだからである↑
長崎は今日も雨だった
はるか四百年前、長崎。この雨の多い港は、オランダやその他多くの西洋国家の船によって開港させられた。外国人は日本にキリスト教、新式の機械、科学知識、洋式の器具をもたらした。同時に、女性を棄てることも。
港に臨む小高い山に登りさえすれば、日本が最初に西洋文化を受けいれた姿の素描をみることができる。なぜなら、そこには日本で最も古い大浦天主堂があるからである。天主堂は保存状態がたいへん良い。おそらく原爆後に補修したのであろう。異人館がある。中に展示してあるのはすべて西洋から最初に伝わったものや資料で、西洋の技術を受けいれそれを改良・改善した日本人技術者のロウ人形もある。最初の日本人写真家とそのふるびた木製カメラを見て、また今日の日本製のカメラの発達を思うと、オランダ人は自分がこのような出藍の弟子をもとうとは夢にも思わなかったことは間違いないだろう。その山には、外国人旅行客が最も興味を感じる蝶々夫人の旧居もある。
長崎は今日も雨だった。わたしは傘をさして、わずかにうつむいて子供をあやしながら港を指さしている蝶々夫人の銅像へと歩いていった。精緻かつ繊細な洋館の前に着いて、このあわれな女性が、どのように手すりにもたれかけ夕暮を数え、故郷に帰りまた飛来する燕を数え、おびただしい船の帆を数えて日々をおくったかを想像した。
ちょうど想像にひたっている時、ある友人が憤激にみちて洋館から駆けてきて、私を中にひっぱりこんだ。実は、ここは『蝶々夫人』の作者『Mr.Glover』の邸宅で、彼の妻は日本人であった。(訳者注、『蝶々夫人』の作者はピエール・ロチである。)
だが、蝶々夫人と同じ境遇をおくったのであろうか。わたしには確かめる時間はなかった。中の広間や寝室は作者の生前と同じように飾りつけられていたが、これも私の興味をひかなかった。それで、ひととおり見て、ひきあげようと思った。しかし。友人は歯ぎしりしながら客間の丸テーブルの食卓を指さし、また壁の説明の文を指した。
わたしは、事は単純でないことかわかった。もともと丸テーブルは船の大きな舵を使っており、そしてこの舵は甲午戦争の時。清国海軍提督丁汝昌の旗艦であった定遠号の舵なのだった。一八九五年二月、定遠号は作戦中に日本軍の砲火に撃沈された。惨敗ではあったか、壮烈といっていいだろう。しかし。かつては船の進行を制御した舵が、敵の手におちて、くやしくも客間の食卓になっているのである。それは、ほんとうに屈辱的なことである。心のなかの憤りで、しばらく声を出すこともできなかった。
雨の中、山を下り、長崎の“原爆記念広場”に向って出発した。ちょうど八月九日の原爆二十六周年記念にあたっていたが、わたしたちは午後に着いたので、記念式典は終わり、人の群れも散っていた。そのうえ規模は広島に劣り、団貝たちにはそこで時間をすごす興味はなかった。わたしと三人の団員は、団長が決めた二十分以内にもどってくるという条件で、少し離れた“長崎国際文化会館”へ急ぎ、二階の“原爆資料館”を見た。果たして、資料も雰囲気も広島には遠く及ばず、時間の関係もあって一回りしてすぐそこを離れた。
観光バスが広場を離れ、広場に座している永久平和の象徴である長崎平和祈念像から遠ざかっていった。雨のなか、それは永遠に平和を祈るために目を閉じ。左手は横にまっすぐ伸ばして平和を示し、右手は上にあげて人々に世界第二の原子爆弾はこの上空から投下されたということを告げていた。
わたしは、この像は滑稽で、人を粛然とさせるところがない、と思った。
長崎はゆっくりと遠ざかっていく。団長はもの悲しげな歌を歌った。題名は、
長崎は今日も雨だった。
小思について
瀬戸宏
ここに訳出した三編は香港の著名な女性エッセイスト、小思のエッセイ集『日影行』からとったものである。
小思は一九七一年夏、約一ヶ月日本を旅行し、香港に帰った後、その日本印象記を香港の新聞に寄稿した。
題名の“日影行”はあるいは自分の見たものは日本の幻影にすぎないかもしれないが、それはぜひ読者に伝えたいものだ、という意図でつけられたものである。
小思が『日影行』を執筆した一九七一年、香港ではちょうど釣魚台(日本名は尖閣列島)の帰属をめぐり、釣魚台は中国の領土であるという観点から知識人を中心に激しい反日運動が展開されていた。尖閣列島の帰属の正否についてはここでは触れないが、この運動は、それまでイギリスの直轄植民地として植民地イデオロギーを注入され非中国人化されていた香港知識人の民族意識の覚醒として、大きな意義をもっている。このような背景があるために、『日影行』には強い民族意識があふれ、そしてこの民族意識はかつて中国を侵略した日本に対する厳しい糾弾となって現れている。言葉を換えるなら、小思ら香港知識人は日本を糾弾することによって中国人としての自覚を獲得していったのである。
小思は七四年に再末日し。京都大学で一年間の留学生活を送った。この時の体験は、小思の日本に対する印象を変えたようで、それ以後発表された日本に対するエッセイの調子はずっと穏やかなものになった。しかし、そうではあっても、『日影行』の諸編での日木批判が日木の批判されるべき一面を確かに撃っていることも間違いない事実であろう。
八五年、中国国内で小思のエッセイ集『小葉の願い』が出版されたが、そこに『日影行』の諸編がすべて収録されていることから、小思自身も今日『日影行』を否定すべきものとは考えていないことかわかる。
小思は、一九三九年に香港で生まれ、香港で育ち、香港中文大学という中国語で教育を行なうことをモットーとしている大学を卒業した。この経歴からわかるように、小思は常に香港人の立場から思考し、エッセイを執筆している。彼女のエッセイには、香港を情愛をこめて描いたものも少なくない。
小思の木名は盧璋鑾、香港中文大学で中国文学を講じている篤実な硯代中国文学研究者でもある。その専攻テーマも、日中戦争中の香港における中国作家の活動という、香港人という自己の基盤にたったものである。(長崎総合科学大学講師)