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              曹禺は“そうぐう”か“そうぐ”か
                                                 
                         瀬戸宏 
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 現代中国を代表する劇作家である曹禺は、一般に“そうぐう”と日本語読みされる。『日本大百科全書』(小学館、1994年)、『世界大百科事典』(平凡社、2007年改訂新版)など日本の代表的百科事典は曹禺の項でみな“そうぐう”と読んでいる。私自身も、『中国の現代演劇』など自分の著書で“そうぐう”とルビをふった。しかし“そうぐ”と読んでいる文献・資料を時々みかける。禺を“ぐう”と読むか“ぐ”と読むかの問題が生じるのは、人名など中国の固有名詞を日本語読みするみ時は、音読みの漢音で読むという原則があり、禺の音読み漢音は“ぐ”だからである。この問題を考えてみたい。
 
 中国の固有名詞を日本語読みする時は、音読みの漢音で読むという原則は、いつ成立したのだろうか。
 
 日本語の中の漢字の読み方に、中国から伝わった音に基づく音読みと、日本語独自の音を漢字に当てた訓読みの二つがあり、音読みはさらに呉音、漢音、唐音に分かれることは、広く知られている。曹禺の読みに関しては、訓読や音読み・唐音は無関係なので今回は触れない。問題になるのは、まず呉音・漢音である。私は日本語史の専門家ではないが、沖森卓也『日本の漢字1600年の歴史』など専門家の先行研究に依拠して、両者の概略を確認したい。
 
 呉音とは、朝鮮(百済)経由で日本に漢字が伝わった時に入ってきた音とされる。日本に漢籍がもたらされたのは4世紀後半から5世紀初めに在位した応神天皇の時代と言われる。呉音は名前の通り、当時の南朝が存在していた中国江南地方の音とも、後の漢音と比べて漢音以外の地方発音の総称とも言う。これ以後、呉音は特に仏教と結びついて日本で広く普及していった。
 
 それに対して漢音は、630年から始まる遣唐使によって飛鳥時代末期から平安時代初期に伝えられた唐の首都長安の発音である。呉音が伝わってからすでに二、三百年が経過していた。当時の日本人が、首都の発音を正統な中国音と考えたのは自然なことであった。そして、漢籍は漢音で読むべきだ、という意識が生じる。しかしすでに数百年の歴史を持つ呉音を排除することはなかなかできなかった。このため、当時の政府が直接介入して漢音を普及させることになる。
 
 大宝律令(701年)で確立した官僚養成機関の大学寮では、すでに漢音が義務化されていたという。はっきりしているのは、桓武天皇が平安遷都(794年)直前の792年に出した漢音推奨の勅である。また約100年後の菅原道真(845〜903)も漢音を用いるよう朝廷に上奏して受け入れられたという。菅原道真以降には、漢音を使用すべきだという議論は見当たらないようなので、中国の事物は漢音で読むという原則は、9世紀後半には確立していたと思われる。ただし、呉音は特に仏教と堅く結びついていたので、呉音を完全に排斥することはできなかった。こうして日本語では呉音・漢音という読みが併存していくことになるが、ここではこれ以上述べない。ただ、中国の事物は漢音で読むという原則の確立は、天皇の勅など国家の言語介入の直接の産物であることは、記憶しておいてよい。
 
 しかし禺の読みは、呉音・漢音の別では解決しない。私の調査では、以下の漢和辞典は、禺については呉音を記さないか、呉音・漢音を区別していない。(禺の漢音には“ぎょう”“ご”もあるが、近年の漢和辞典は“ぎょう”“ご”を採っていないものも多い。)
 
 ではなぜ“ぐう”という読みが生じるのか。実は音読みには慣用音という読みがある。「呉音・漢音・唐音のいずれでもなく、日本で広く使われている漢字音。「消耗」の「耗こう」を「もう」、「情緒」の「緒しょ」を「ちょ」と読む類。」(『大辞林』)である。禺の場合、遭遇の遇など“ぐう”と読む似た字があるので、“ぐう”が慣用音として生まれたのであろう。
 
 日本の現代的な漢和辞典は、1903年初版刊行の三省堂編集所編『漢和大辞典』(三省堂)から始まるとされる。『漢和大辞典』は禺の音読みとして“グ”“ギョウ”“ゴ”しかあげていない。1917年初版の上田万年ほか編『大字典』(啓成社)は戦前最も普及した漢和辞典とされるが、やはり禺の音読みとして“グ”“ギョウ”しか挙げていない。漢和辞典の代表とされる諸橋轍次著『大漢和辞典』の禺を収録した第8巻(大修館、1958年)も禺の音読みは“グ”“ギョウ”だけである。(編、著の別は原著に従う。あらゆる漢和辞典は、読みの表記はカタカナのため、引用はそれに従う。)
 
 しかし『大漢和辞典』第8巻の翌年に刊行された貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編『角川漢和中辞典』(角川書店、1959年)は禺の慣用音として“グウ”を採録している。私が調べた限りでは、これが漢和辞典に禺の読みとして“グウ”が採録された最初である。
 
 これ以後、ほとんどの漢和辞典で“グウ”を禺の慣用音として採録している。“グウ”を採録していないのは、諸橋轍次, 鎌田正, 米山寅太郎著『広漢和辞典』(大修館書店、1982年)、白川静著『字通』(平凡社、1996年)ぐらいである。そして『字通』以後に刊行された漢和辞典は、それ以前の漢和辞典の重版・改訂版を除くと、すべて“グウ”を禺の慣用音として採録している。『大漢和辞典』を刊行した大修館書店刊行の漢和辞典すら、諸橋轍次が著者から外れた鎌田正, 米山寅太郎著『大修館漢語新辞典』(2001年)、同『新漢語林』(2004年)では、“グウ”を採録しているのである。
 
 こうしてみると、21世紀の日本では“ぐう”は 禺の慣用音として広く認知されているといってよいであろう。
 
 実際にも、漢音で読むという原則から外れた中国人人名の日本語読みは、いくつもある。たとえば、胡適は漢音では“こせき”だが、一般には“こてき”が通用している。これらを考えながら本文タイトルの問いに戻ると、曹禺を“そうぐう”と音読みすることは何ら問題ないと言えるであろう。
 
 漢字の読みを考えていくと、中国の固有名詞の日本語音読みには、重慶を“じゅうけい”と読む(漢字本来の読みなら“ちょうけい”)など不思議なものも多いが、これらは別の機会に譲りたい。

                      (『中国文芸研究会会報』508・509号、2024年3月31日原載)