川口大三郎事件:「大学当局の庇護」を頼みとする革マル派が早稲田大学で最悪の暴力行為を繰り広げた
北極星がシュチェチン上空を飛ぶ
この文章は中国のネット掲示板知呼に掲載されたものを、日本語に翻訳したものである。文末に2024年6月20日に掲載とある。中国で川口君事件をある程度具体的に紹介した最初の文章であろう。掲載者は北極星がシュチェチン上空を飛ぶ(北極星飛過什切青)というハンドル名で、詳細は不明である。シュチェチンはチャーチルが鉄のカーテンの起点と呼んだことで知られるポーランドの都市名であろうが、詳細はやはり不明である。翻訳は、原文をgoogl翻訳で機械翻訳し、管理人が訳文を点検・修正して定稿とした。中国語原文(文字テキストのみ)を
添付する。掲示板原文のURLは文末に掲載してある。ただし知呼に入会しなければ全文を読むことはできない。(管理人)
掲載誌
・ Global-1968
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川口大三郎事件:50年以上を隔てた反響
1972年11月9日の朝、東京大学医学部附属病院前で遺体が発見された。遺体は容赦なく殴打され、体には40カ所以上の傷があり、腕は骨折して骨が露出していた。この事件は世論の激しい抗議を引き起こした。捜査によると、遺体は早稲田大学文学部の学生だった川口大三郎だった。前日の午後2時頃、早稲田大学で、革マル派のメンバーが文学部の学生である川口大三郎を中核派のスパイと間違えて縛り上げ、文学部内の学生会室に連行して8時間にわたる拷問の末、殺害した。
それから50年以上経った2024年5月25日、代島治彦監督は川口大三郎事件を題材にしたドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜
彼は早稲田で死んだ』(文字通り「暴力の森 早稲田で死す」という意味で、「杜」とは神社を取り囲む神秘的な森のこと)を制作し、全国公開された。この映画の公開は、日本の新左翼の間で新たな波紋を巻き起こした。
最も広く知られた発言の一つは、元日本赤軍メンバーの重信房子によるものだった。
「3月中旬、代島晴彦監督に『ゲバルトの杜
早稲田で死んだ』の試写会に誘われました。高齢の目撃者の証言を中心に、綿密な事実検証を通して、真に衝撃的な事件を描き出していました。抽象的な党派批判や内ゲバではなく、当時の人々が様々な避けられない理由でどのように争っていたのかを、残酷なまでに克明に描き出しており、胸を打たれました。映画の最後には、革マル派に属し、川口を迫害した学生の一人、佐竹が書いた「謝罪文」が出てきます。「尊厳を失って生きる人々を解放できなかった」――これは「転向」ではなく「良心の告白」です。私たちの時代の闘い方の欠陥は、常に「すべきこと」に囚われ、いかにして誠実な精神を自発的に育むかを考えなかったことにあります。
当時、私たちはパレスチナの戦闘員たちと共に戦っていました。彼らは全く異なる境遇にありながら、「まず人道主義者であり、それから革命家である」という決意を持っていました。
肉体的に弱いゲリラ部隊が、アメリカ、ヨーロッパ、シオニズム、そしてイスラエルといった巨大な敵を打ち負かすためには、政治的対決が不可欠です。戦闘員たちが人道主義者となるためには、軍事的暴力の限界と負の影響を理解し、それでもなお武器を取らざるを得ないという現実を受け入れなければなりません。
映画を見ながら、私はパレスチナでの戦闘で学んだことを考えました。解放と革命とは、差別と抑圧による痛みと怒りから人間の尊厳を守るための闘いであり、希望を抱き続けることでのみ勝利を得られるのです。
映画を見ながら、私はパレスチナでの戦闘で学んだことを考えました。「何があっても生き続けろ!」。監督はこの考えを映画に、そして「何があっても生き続けろ!」と訴えるパレスチナ人の声に込めたのだと思います。」
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しかし、もっと「関心のある」中核派活動家の中には、中核・革マル紛争から遠く離れた重信房子とは異なる意見を表明した者もいた。早稲田大学中核派マル学同出身で、中核派元政治局員・機関紙『前進』編集長(2006年に中核派を離脱)で、中核派と革マル派の党派闘争で2度逮捕された水谷保孝は『情況』や『人民新聞』に寄稿し、代島の党派闘争に関する偽善的で歪曲された“内ゲバ史観”を批判した。彼は、川口大三郎事件は「左翼の内ゲバ」ではなく、「左翼」と呼ぶに値しない革マル派による暴力行為であると主張した。
6月6日、中核派関西派(「前進派」と呼ばれる中央派とは区別される)は機関紙『未来』に論評を掲載し、代島氏が革マル派との正当な闘争を「内ゲバ」と糾弾していると非難した。
元赤軍派員の高原浩之も水谷の記事を読んだ後、水谷の見解に賛同し、「内ゲバ」と形容することは革マル派の残虐行為を免罪しようとする試みに等しいと考えた。
実際、川口大三郎事件が「内ゲバ」に該当するかどうかは、当時、主流メディアの間でさえも意見が分かれていた。川口大三郎事件が最初に発生した際、毎日新聞はこれを「内ゲバ殺人」と表現した。しかし、事態が明らかになるにつれ、11月11日の報道では「リンチ殺人」に変更された。
革マル派による隠蔽
革マル派は当初、自己弁護を試みた。事件発生当日の11月9日、革マル派全学連は緊急声明を発表し、次のように主張した。
「11月8日、中核派の学生である川口大三郎が死亡する事件が起きた。これは、我々が彼にスパイ活動の自己批判を求めていた最中に起こったものである。我々全学連は、この不幸な事件を遺憾に思う。労働者階級全体の前で責任を認めることは、我々の階級的義務である。」
革マル派の声明は、核心的な問題を完全に回避し、「暴行の意図はあったものの、殺害の意図はなかった」と主張し、襲撃中に突然のショックで死亡したと主張した。革マル派は、これを暴力の問題ではなく、「暴力が適切に制御されていないこと」の問題として認め、自己批判を行った。その後、批判の焦点を「国家権力」「日本共産党」「中核派」へと転換し、さらに『全学連通信』において、事件全体が日本の国家権力によって捏造されたと非難し続けた。
この結果は早稲田大学の学生を納得させることはできず、学内で革マル派への反発が高まり、広範な非難が巻き起こった。11月11日、革マル派はまず『全学連通信』において、全学連委員長馬場素明の辞任声明を掲載し、その後、記者会見を開いて馬場の辞任を発表した。しかし、革マル派は、核心的な問題への言及を避け続け、これは「左翼内部の内紛」であり、この状況において暴力に対して「安易な否定的態度」を取るべきではないと繰り返し強調し、自らの行動は「防衛的」であるとさえ主張した。革マル派の指導者、土門肇は、朝日新聞のインタビューで、「革マル派にとって、自己武装は不可欠だ」と繰り返し強調し、「相手に肉体的な苦痛を与えることが目的ではなく、行為の犯罪性を自覚させることが目的だ。殴打は反省を促すための手段に過ぎない」と述べた。
一方、「全学連通信」が声を上げ続ける一方で、革マル派の主要機関紙である『解放』は沈黙を守った。約1か月後の12月5日、同誌は第二面の記事で川口大三郎事件についてごまかしながら言及した。
(川口)は中核派の活動家であり、彼らの活動を支援していた。当日、彼は周辺地域でスパイ活動を行っていた…川口君は急死した。…全学連に対する各派の破壊工作に断固として反対しなければならない…
12月15日号の『解放』は依然として、革マル派は中核派と日本共産党の攻撃に対処するために武装する必要があると主張していた。1973年1月1日号の『解放』はさらに踏み込み、革マル派によるこれまでの「自己批判」は「その基本路線をさらに強化し、その正しさを改めて証明した」と自画自賛し、当時の学生たちの反抗運動は「右翼的、民青的」なものであったと強調した。
学生自治会の「早稲田解放闘争」
革マル派は「右翼・民青的運動」と呼んだが、実際には学生による反革マル運動であった。
早稲田大学は三つの闘争、「三次の早稲田闘争」を経験した。1965年に始まった第一次早稲田闘争は、どの党派にも属さない幅広い学生主体の「早稲田大学全学生共闘会議」(早大全共闘)が中心であった。この騒乱の波は1966年7月までに徐々に沈静化した。1969年、無党派の「反戦連合」が学生会館を占拠し、「第二次早稲田闘争」として知られる事件が発生した。日本共産党・民青派は、大学当局および機動隊と協力し、封鎖を強制的に解除し、闘争を鎮圧した。川口大三郎事件を契機に、第三次早稲田闘争が勃発した。
1972年11月28日、理工学部を除く全学部の学生が革マル派への憤りを募らせ、学生大会を開催した。そこで、革マル派自治会執行部の解散と、自治会再建のための臨時執行委員会の選出が宣言された。しかし、学生主導の組織であった臨時執行委員会は、すぐに内部対立に陥った。1973年、入学式における抗議活動の組織方法をめぐり、臨時執行委員会内で意見の相違が生じた。一方の派は黒ヘルメットの着用と会場占拠を要求し、もう一方の派は静かなデモを行うべきだと主張した。
革マル派を庇護する早稲田大学当局
事態が深刻化するにつれ、早稲田大学当局も介入した。早稲田大学総長村井資長は当初、幅広い参加者による「団交大会」を開催すると約束していたが、混乱を理由に約束を撤回した。1973年5月、講義中に反革マル派の学生が教室に押し入り、村井総長を拉致した。
こうして、革マル派に対する学生たちの怒りは早稲田大学当局へと転嫁された。実際には、革マル派による早稲田大学における長期的な支配は、大学当局の黙認、宥和、そして奨励・支援と切り離せないものだった。革マル派が支配する学生自治会は、会議室に各種の鉄棒や木の棒を無法に保管することができた。反革マル派学生が再建自治会を設立した後も、早稲田大学はこれを認めず、依然として革マル派が支配する社会科学部と商学部に自治会費を支払い続けた。さらには、革マル派がキャンパス内で「早稲田祭」を開催することを許可し、その収益はすべて革マル派の手に渡った。そのため、当時の学生の間では「KKT」という呼称が生まれた。革マルのK、機動隊(機動部隊)のK、そして当局のT――この3つは共謀し、結託していたのである。
早稲田大学が革マル派を強く支持した理由については様々な説明がある。最も有力な説明の一つ(高木正幸らの指摘)は、早稲田大学が革マル派を利用して日本共産党民青や他の新左翼派を排除しようとしたというものである。
結局、KKTの反撃に直面した再建自治会は、1973年4月頃、徐々に消滅していった。これが村井の拉致につながった。川口殺害から1周年にあたる1973年11月8日、第三次早稲田闘争は事実上終結した。早稲田全学生行動委員会(WAC)などの自治組織は依然として闘争を続け、一時は早稲田大学図書館を占拠したが、KKTの鉄の三角形を崩すことはできなかった。早稲田大学と革マル派の蜜月時代は長く続いた。
怒りの中核派
川口は結局のところ中核派の一員だったのか?答えはイエスでありノーである。川口は1972年4月頃、中核派の狭山闘争集会に参加し、その後も中核派の勉強会に出席していたものの、中核派の一員とは程遠い存在であった。9月頃までには、川口は中核派との接触を断っていた。しかし、不幸にも彼は革マル派の標的とされた。
しかし、中核派はその後の対応においてこの点を意図的に回避し、事実上、川口を死後に「中心人物」と位置付けた。11月13日には、中核派の機関紙『前進』が、4月28日の沖縄デー抗議行動以降の川口の一連の「積極的行動」を捏造し、彼が積極的に関与していたとさえ主張した。川口の葬儀には中核派の関係者が多数参列し、11月20日には「川口同志」という表現さえ使用された。
一方、中核派は法政大学のメンバーを早稲田大学に動員し続け、早稲田大学で活動し、学生自治会に直接関与し、革マル派に共同で対抗した。
冷淡な日本共産党
1972年11月10日、『赤旗』は川口大三郎事件について、「『革マル』がリンチ殺人 早大構内 中核系の学生死ぬ??」という非常に冷淡な見出しで報じ、トロツキストの「残忍な本性が露呈した」と断言した。一般的に、主要メディアは故人への敬意から、川口を「川口大三郎さん」または「川口大三郎君」と呼ぶのが通例である。しかし、『赤旗』は記事全体を通して「川口大三郎」という敬称抜きの呼称を用いていた。日本共産党は、中核派関係者の死者に対してしばしば冷淡な態度を取り、多くの批判を浴びた。「常に平等を唱えながら、被害者が彼らと対立すると、無視する」などといった批判もあった。
『赤旗』はその後も川口事件を追及・報道し続けました。早稲田大学の学生が反乱を起こした後、11月18日付の『赤旗』に「『都の西北』大合唱 いまや行動の時 故川口君の学生葬開く」という記事が掲載され、初めて「川口大三郎君」という呼称が使用された。しかし、翌日の日曜版では、「『中核派』の川口大三郎」という呼称に戻った。
日本共産党は、『赤旗』が川口の母親にインタビューを行い、「大三郎は中核派ではない」と発言して、やっと川口は中核派メンバーではないことに気が付いた。しかし、『赤旗』は、この用語の使用について謝罪も訂正もせず、一貫してこの責任を問うことを避けてきた。
1973年2月3日、日本共産党衆議院議員の松本善明は国会でこの問題を取り上げ、文部省と国家公安委員会の「怠慢責任」について説明を求めた。24日には、山原健次郎が再びこの問題を取り上げ、文部省に圧力をかけた。日本共産党の基本戦略は、川口事件を機に学校の隠蔽工作を暴露し、「トロツキスト」の妨害を排除することで、大学における民青の影響力を拡大することだった。
その他および結語
川口大三郎事件については、他の組織からも一連の論評が発表された。11月21日、第四インターナショナル日本支部は『世界革命』紙の一面に川口大三郎の残虐な殺害に抗議する声明を掲載した。11月28日には、社会主義青年同盟解放派に属する早稲田反帝学生評議会が、革マル派の残虐行為に抗議し、学生自治会の再建を求める文書を発表した。解放派はその後、早稲田大学生による自治会再建運動に参加し、社会主義青年同盟協会派の早稲田大学班も早稲田自治委員会の抵抗運動に参加した。
しかし、これらの抵抗運動は、革マル派が早稲田に垂れ込める「圧政の雲」を払拭するには至らなかった。革マル派の激しい攻撃と大学当局の庇護の下、早稲田大学の学生たちの抵抗は最終的に失敗に終わった。
だが、この問題に関して、藤野豊らはさらに踏み込み、もし川口が法政大学に入学していたら中核派からいじめを受けたであろうかと問いかけた。結局のところ、「内ゲバ」はもはや特定の党派や特定の大学に限定されたものではなく、運動全体に共通する問題となっていた。
日本の新左翼運動の歴史において、「内ゲバ」の問題は一貫して批判されてきた。梅本克己はこの点について、革命はまず「権力の暴力」を拒絶しなければならないとし、「他者への暴力に次第に麻痺していくことは、決して『権力に屈しない』ことの表現ではない」と述べている。こうした不屈の魂は次第に麻痺し、心は「内ゲバ」の中で荒廃していく。彼は、「内ゲバ」の問題は本質的に「特権意識」であると信じていた。つまり、私は正しく、あなたは間違っている、私は絶対であり、他者は否定されなければならない、私は「前衛」であるがゆえに、他者にはできないことができる、という意識である。そして、この「特権」は一種の「大衆的軽蔑」でもあるのだ。
さらに、日本の新左翼運動は、日本の労働者階級や労働争議とは本質的に乖離しており、日本の経済成長期においても、労働者大衆に深く浸透し、真の革命を成し遂げるための条件を欠いていた。ある意味で、「内ゲバ」は常に日本の新左翼運動の「先天性疾患」であり、「小ブルジョア急進主義」イデオロギーの産物であった。
おそらく、今日の日本の新左翼運動の中で、この問題を最も深く理解しているのは重信房子であろう。日本赤軍はおそらく新左翼運動の中で生存の危機に直面した恵まれない人々のために真に戦った唯一の組織だった。彼らの洞察は、確かに今日の新左翼によって熟考され研究される価値がある。
「解放と革命は、差別と抑圧の痛みと怒りから人間の尊厳を勝ち取る闘いであり、希望を抱くことによってのみ勝利を得ることができる。」
(参考:
[1]5月25日公開!『ゲバルトの杜
彼は早稲田で死んだ』はとても重たい映画だ。
編集日 2024-06-20 23:13・上海