海老原俊夫事件と川口大三郎事件──その共通点と相違点
、報告要旨
瀬戸宏
社会主義理論学会第100回研究会(2025.2.23)で行った報告の要旨。『社会主義理論学会会報』第90号(2025.4.20)掲載。この報告は近く論文化するが刊行まで媒体の事情で暫く時間がかかり、要旨でも約4000字あるので、ここに転載。第90号には同時に報告した河原省吾氏の「学生運動における大衆的実力闘争と喪の仕事―60年安保・10・8羽田・川口大三郎事件―」要旨も掲載。
近年樋田毅『彼は早稲田で死んだ』(文芸春秋、2021年)、代島治彦監督『ゲバルトの杜』(2024年公開)によって1972年川口大三郎事件(以下、敬称略)に注目が集まっている。2014年から川口大三郎君追悼資料室をネット上で開設して風化に抗してきた私としては、たいへん嬉しい。しかし川口事件の二年前に起きた海老原俊夫事件は、川口大三郎事件と多くの点で類似点があるにもかかわらず、ほとんど語られることがない。両者を比較し、川口事件の性格をより明確化したい。
海老原俊夫事件と川口大三郎事件は、共に新左翼党派による内ゲバ・リンチ殺人事件であり、類似点は多い。それは次の点に現れている。
1.発端の偶然性。海老原は帰宅途中で中核派に発見され、川口は事件当日革マル派のスパイに発見される。計画的に拉致・殺害したのではない。
2.両事件とも、党派対立がリンチ殺害の根本原因。
3.両事件ともリンチ現場が大学内、事実上の治外法権。大学当局と党派の癒着・放任。
4.リンチの残虐性。いずれも長時間の暴行によるショック死。
5.党派(中核派、革マル派)上部組織の関与。海老原事件、川口事件とも、中核派、革マル派の上部組織に連絡。
6.リンチ・暴行の論理。いずれも対立党派の人間には暴行をはたらいてもいい。
7.被害者のリンチ当初の抵抗と被害者のリンチ最終段階での屈服。
8.予期せざる死への狼狽。両事件とも被害者死亡は実行犯の予想を超えていた。
9.党派組織の責任回避。中核派は外部に沈黙、内部で緘口令、革マル派は一部の未熟な者の誤りと処理。
10.現在の党派組織の無関心。2020年8月、2022年11月の中核派機関紙『前進』革マル派機関紙『解放』のいずれにも、海老原俊夫、川口大三郎の名、関連記事はない。
しかし、両事件には相違点もある。
1.個人情報の量の相違。川口の個人情報は多いが、海老原はほとんどない。
2.リンチの時期、場所とリンチ実行犯の性格。海老原事件の実行犯に東教大生はいない。川口事件の実行犯はほぼ全員が早大生とりわけ一文二文学生(一文、二文自治会委役員)。
3.被害者在籍大学と党派の関係。中核・革マル派とも東京教育大ではさほど強くない。早大は革マルの拠点校。他党派、活動家から恨みをかうことも多い。
4.被害者と党派の関係。海老原は事件当時は自覚的な革マル派活動家。川口は中核派の集会に出たことはあったが中核に失望し、中核派とは無関係。川口事件自体はいわゆる誤爆。
海老原・川口事件とも厳密な意味での内ゲバ(武力衝突)死ではないが、海老原・川口事件とも中核・革マル対立がなければ起こりえないリンチ殺人事件。海老原は革マル派活動家であり、川口は革マル派が中核派のスパイと誤認する理由があった。川口が中核派ではないことを理由に川口は内ゲバ死ではないとする意見もあるが、対立党派の構成員であれば拉致し死に至る暴行をしていいのか。ゆがんだ左翼思想、学生活動家の一般学生からの分離、暴力へのマヒ、報復衝動への盲目的屈服などが原因の新左翼党派対立がもたらした死。不毛な党派対立を内ゲバとするなら両事件ともまぎれもない内ゲバ殺人事件。川口事件を内ゲバ殺人ではないとする主張は、他の内ゲバ事件への関心切り捨て、「早稲田大学」の特権化をもたらす。
報告では、戦後日本労働運動での内ゲバ事件や外国の内ゲバ(主に中国)にも簡単に触れたが、ここでは紙幅の都合で省略、
川口事件がもたらした早大・虐殺糾弾自治会再建運動の問題について、骨格に留まるが触れたい。報告者の瀬戸は1971年入学で、1972年度自治委員(2年Tクラス)、73年1月23日学生大会、同1月30日学生大会議長(議長団制)。また事件以前から社青同(日本社会主義青年同盟、いわゆる協会派)参加。瀬戸の運動に対する基本視点は、川口大三郎君追悼資料室掲載「運動の中・後期を振り返って考える」に記述。
根本的に、負けてすでに終了した運動である。「負けた軍隊はよく学ぶ」というが、敗北の現実を直視しそこから教訓を引き出しその後の人生と運動にどう生かしたかが重要である。運動の敗北・終了を認めることと、川口君の死や虐殺糾弾問題の風化を防ぎ、運動から教訓を引き出すことは別問題である。また50数年前の運動敗北の特定(個人)戦犯探し、糾弾は無意味、有害である。
瀬戸が認識している敗北の主要な原因は次の諸点である。主な敗因は革マル派の攻勢とそれを黙認した早大当局の姿勢だが、運動主体側にも敗因がある。
まず無定見な武装がある。1973年4月頃までは革マルの暴行を受ければかばってくれる見ず知らずの学生がいた。5月以降はそれがなくなった(瀬戸の実感)。武装を主張・実行した側は忘れているようだが、武装主張派は武装に批判的否定的な部分を口汚く罵っていた。武装自体があせりの産物だから、感情面でもあせりが表面に出るのであろう。しかし罵られた側には深く記憶に残る。
次に運動の分裂。1973年前期までは民青系・行動委系は対立しつつも協調があった。5月8日の行動委系が実行した総長団交は、民青拠点の8号館で開催されている。しかし後期(9月以降)に入って民青系は武装などを理由に運動分裂を選択し、11.8虐殺一周年集会は分裂。自治会執行部も自然消滅し、結集軸がなくなり運動に展望が見いだせず、一般クラス活動家は最終的に運動から離れる。一年間の闘争の疲労蓄積もあったか。
行動委系などには病的といっていい反民青感情があった。それと表裏一体で民青系にも強いセクト主義があった(当時の民青系活動家の相当数は後に共産党の非民主性を指摘し共産党を離党している)。救いは、今日の現実の運動では、新左翼系・共産党系双方がかつての行動を反省しつつあることである。
ここで武装の問題にも触れておきたい。まず一般的状況から。現実の成功した武力弾圧の多くは、1973年チリや1989年六四天安門事件などのように、運動主体の分裂・大衆との乖離、運動の縮小、社会的混乱など武力弾圧してもその後統治を維持できる見通しがついて発動される。したがって権力側が武力弾圧を始めれば、その時点で負けであり、いたずらな抵抗は犠牲者を増やすだけであり、逃げるか一時的に降伏して勢力を温存すべきである。逆に権力側に武力弾圧発動の充分な根拠や正統性が無い場合は、昨年韓国12月3日クーデターのように、暴力装置自体が機能しない(ソウル市民は武器は持たなかった)。抵抗の正統性、運動の統一と団結の維持などがあれば、民主主義がある程度定着している国では暴力装置の発動を封じ込められる。
1972、73年の早大の状況はどうか。「運動の中・後期を振り返って考える」を引用する。
「暴力性の肯定とその実行は、当時とその後の学生・一般社会に、川口君虐殺糾弾運動は新左翼内ゲバ対立の一部という印象をも形成させた。暴力性を肯定した部分は、運動の中・後期には実際にヘルメット姿で角材や鉄パイプを持って革マルと対峙したから、当人の意向とは関係なく外部からそう見られたのはやむを得まい。武装化を実行した部分は革マルのテロに対抗するためだ、と主張したが、武装襲撃のセミプロの革マルに急ごしらえ学生集団が武装したところで勝てる筈がないことは、当時でも明らかだった」。
武装反対が「逃げた」「傍観」という声には同意しがたい。無意味な衝突は避けたが(それでも革マルに時々殴られた)、学外からでも手段を講じてクラスと連絡をとり、会合を持って運動継続を図ってきた。人数的には非・反武装派は武装派より多かった筈である。
当面の結論だが、海老原俊夫事件・川口大三郎事件は共に内ゲバ殺人事件の代表的な例であると同時に、それを本格化させたものであり、今後も研究を続けなければならない。
既成左翼などが内ゲバ殺人などに無関心であるのはある程度理解できるが、内ゲバはそれを実行した部分(中核・革マル派ほか)だけではなく、実行しなかった左翼部分(社共既成左翼、新左翼の一部ほか)も原水協・原水禁分裂など不毛な対立・分裂は実行しており、組織論や心理的心情的には無縁ではない。(もちろん殺害などを実行しなかった点では天地の差がある。)従って死者への純粋な追悼の念と同時に、将来の運動での内ゲバ防止、あらゆる内ゲバに反対する姿勢の表れとしても、内ゲバ死者全体を弔わなければならない。