[児島宏子の奄美日記]


皆様、旧年の非礼とご無沙汰をお詫び申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様のご健康とご活躍を祈っております。ご報告のつもりで拙文を認めました。


母を想う

 どこからか母がふと、顔をのぞかせるような気がしてならない。

 母の非在を認めたくないという“気”のようなものが全身隅々に広がる…

母親を早く亡くした友人知人が思い浮かぶ。ひいては戦争や災害、事故や病で、あまりにも早すぎる別れの途に発った地球上の母たちに思いをいたしてみる…

 第二次世界大戦をくぐりぬけ、持病で苦しむ娘(私)を看病し、舅と姑を看取り、家でも外でも一心に働き続けた母。そんな彼女から一度も愚痴を耳にしたことがなかった。父を非難することも、境遇をかこつこともさらさらなかった。耐えているという風情もなかった。

 祖父が亡くなってから父は社会活動家になり、一家の収入は激減したらしい。ある夕食時に突然電気が消えた。3ヶ月以上電気料金を滞納していた結果だった。母はこともなげに、黙って手早くローソクを灯した。貧しげな食卓に鴇色の光が注がれた。揺らめく小さな炎、微妙に異なる層を成す光輪… なんだか胸がときめいてきた… これは今から思えば湯浅誠氏が語る“貧困”ではなく、微笑が自ずと表出してくる“貧乏”なのだろう。

 ご近所の昌久そば屋さん、今はもうなくなった常盤さんの八百屋、雑貨屋さんなど、西荻界隈で母は付けで買い物していたらしい。父の友人がやって来れば、自分の着物をもって質屋に駆け込み、酒を買ってきたとか。こういうことを“けなげな”という風ではなく、ごくありふれたことのようにやっていた。よほど父に惚れ込んでいたのか、父が信奉する思想信条にぞっこんだったのか定かではないが。こんなキャラクターが後に区会議員になったときに役立ったのだろう。いろいろな方、ことに女性たちが何かと相談にみえて、後に“駆け込み寺”という呼び名までもらうようになっていた…

 自分の大らかさや足りなさを、「子どものとき母の実家の寺の欄干から落ちて頭脳が混濁したからよ。今でもその部分がへこんでいるの」などとまことしやかに説明していた。繊細さの欠如から、もしどなたかを傷つけていましたら、どうかお許しくださるようお願いいたします。

 いずれにしても母は芯から善良で、同じく善意あふれる人々に接し囲まれていたせいか、大らかに信じていた。「この世は必ずよりよいものにできる」と。残念ながら私は彼女の確信にたどりつけない。だが、その確信こそ母からの贈物だと思っている。ユーリー・ノルシュテインは母のことを、笑いながらいつも呼びかけていた。今なお…「勢能(せの)子さん、あなたは、あらゆる時代のあらゆる国のあらゆる民族の母」 ユーラから電話があって「勢能子さんが磨いてくれた私の靴は、以後誰も磨いてくれない、いや、その方がいい。このままにしておきたい…」 ソクーロフ、ことサーシャはなぜか母と私が理想的に強く愛し合っていると激しく思い込んでいる。彼が思うほどではなく、かなり喧嘩もしてきたが… 女同士は母娘でも、難しい面があるよね、小さな鏡を見ているみたいだものね、おかあさん! でも、不肖の娘は寂しがっているよ!

津軽のりんご 児島せの子絵

”母は人様から何かいただくと、まずスケッチした。
これは盛岡に住んでいた私の姑、ガンマこと宮 静枝から
送られてきた岩手のリンゴ。彼女はなぜかクリスマスの日に
三途の川を渡った。すばらしく機知に富んでいたガンマらしい
ことかもしれない。彼女たちとの別れは生まれて初めての辛い経験… 合掌”


[児島宏子の奄美日記]