それは、一通の電子メールから始まった。 帰宅した彼を待っていたのは、雑多なジャンクメール。半ばうんざりしながらも、彼はそれらにざっと目を通し、不要な文書をごみ箱へ捨てる。そんな機械的な作業を繰り返す彼の手が、一通の文書の上でピタリと止まった。
瞬きする間も惜しむように一気に読み終えた彼は、右手でマウスを握りしめたまま、暫く凝固したように動けなかった。視線は何度も何度もその本文をトレースする。 時計の秒針がたっぷりと六回を廻り終えた頃、彼はようやく右手を緩め、深い溜息と共に椅子の背もたれに寄りかかった。 「綾波……」 その名を最後に口にしたのは、一体いつだったか。 されども、一時たりともその名を忘れたことはなかった。記憶の片隅から消えることはなかった。 彼女に最後に会ったのはいつだったか。 覚えているのは、橙色の海の中。全てが満たされた、そして全てに見放された海の中。それは確かに甘い死の世界。そこで彼は、確かに、彼女とひとつになったのだった。 だが今となってはそれも、曖昧な記憶でしかない。そもそもそれは、現実だったのだろうか。それとも虚構だったのだろうか。今の彼にはそれさえも、わからなくなっていた。 少しばかり落ち着いた彼は、何度も何度も書き直して、ようやく一通の返信メールを書き上げた。一字一字を再度確認した後、送信マークの付いたアイコンをクリックすると、デスクトップを飾るキャラクターが『メールを送ったよ』と報告した。その声が、今日に限っては何故かとても煩く感じた。
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