このコーナーは

 WW2が結成されるまでの経緯と
その後の活動を紹介しています


結成までのあらすじ
そして現在
 
Updated 2005/9/3

  WW2関連
(勝手連的草の根運動)
モータースポーツ関連
(WW2な出来事)
〜99年1月 マツダファンによるモータースポーツ支援活動の可能性について、不定期的ながら個人間メールで討議される。 広島市西区・アルパークのマツダグループ・ショールームに、地元チームのスーパー耐久シリーズ(S耐)参戦中のRX−7のレースカーが展示され、同時にスポンサーを募集する。
  寺田陽次郎氏率いるAutoExeが99年のル・マン出場マシンのエンジンをREからFord製V8にスイッチすると発表。
99年4月   99年スーパー耐久シリーズ(S耐)が開幕、昨期まで1台のみだったクラス3のRX−7が大幅に台数を増やす。(開幕戦エントリーは3台)
99年5月 マツダを応援するJacobins_Square(ジャコバン広場)HPが約1年の構想期間を経てついに開設される。 787B、RX−7・GTO、ランティスJTCC仕様などのレーシングカー展示も行なわれていた東京・M2ビルの「マツダロータリー世田谷」が閉館。
  鈴鹿でのS耐第3戦でRacingOn誌チームのビスコガンマRX−7がクラス3初優勝を飾る。
99年6月 3名のコアメンバーによって、「勝手連的草の根運動」と題したマツダのモータースポーツ活動の今後に関する本格的オンライン討議が始まる。 英国で開催されたグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにマツダのリーチ常務がル・マン優勝車の787Bを出展。自らもステアリングを握り、欧州で8年ぶりとなる55号車のREサウンドを披露する。
99年7月 コアメンバーが5名に。マツダワークスの復帰を願うプロジェクトの名称を「WW2」(ダブル・ダブル・ツー)とすることが正式決定。 株式会社マツダスピードがマツダ本社への業務統合とそれに伴なうモータースポーツ支援活動の打ち切りを発表する。
  全日本GT選手権にRX−7で参戦するオークラレーシングが「Thanks! MAZDASPEED」のメッセージをボディに貼りその功績を称える。
第1回WW2ミーティングを開催。
 ・活動主旨の確認
 ・今後の活動計画について
S耐・十勝24時間レースを制したビスコガンマRX−7が、クラス3のポイント争いの好位置につける。
99年8月 オンライン討議メンバーを増員。  
第2回WW2ミーティングを開催。
 ・具体的な支援活動について
 
「Jacobins_Square」HPにWW2のコーナーを新設し、同時にWW2掲示板も開設。  
99年9月   筑波で開催された「ロードスターフェスタ」にて歴代のREレーシングマシンが盛大なデモランを敢行。M.リーチ常務が再び787Bで激走を見せる。
99年10月 コアメンバーが6名に。 マツダのリーチ常務がヨーロッパフォード副社長として帰任することが決定。
99年11月 第一弾WW2ステッカーが完成。  
S耐に参戦するSSロイヤルチームに対し、最終戦SUGOに向けWW2初のサポートを実施する。(WW2ステッカーを4枚寄贈)  
99年12月 スポーツファクトリー広島主催TIサーキット走行会に参加したWW2メンバーが、帰りの山陽道・吉備SAで緊急ミーティングを開催。 日刊自動車新聞が「マツダが2005年にル・マン復帰」と一面にて報じる。
  広島市のアルパークのマツダグループ総合ショールームで「ロータリーとデザインの世界展」と題した企画展示が始まり、ル・マン優勝車の787B・55号車とIMSA仕様のRX−7が展示される。
00年1月   アルパークでの企画展示が好評につき期間延長されることに。
00年3月 SSロイヤルチームがスーパー耐久開幕戦、MINE500kmレースにWW2ステッカーを貼付して出場。ついにWW2の文字が公式戦デビューを飾る。 2000年スーパー耐久シリーズ、クラス3へエントリーするRX−7勢が増加し全5台に。決勝レースではRX−7同士の熾烈なバトルも見せる。
第二弾WW2ステッカーが完成。発起メンバー以外にも、WW2の主旨に賛同してくれた人達に有償で配布を開始する。  
00年4月   昨年のS耐クラス3覇者のBPビスコガンマRX−7が第2戦・仙台で今季初優勝を飾る。雨で苦戦した開幕戦の雪辱を果たしプレリュードを撃破。
00年5月   アルパークのマツダグループ総合ショールームが10年の歴史に幕を閉じ、閉鎖される。
00年6月 S耐第4戦・TI400kmレースでSSロイヤルチームが見事完走を果たす(クラス4位)。チームはこのレースから新宅文亮選手に代わり梶岡悟選手を起用する。  
スポーツファクトリー廣島にてWW2緊急ミーティングを開催。  
00年7月 第3回WW2ミーティングを開催。  
00年9月 WW2一周年記念MTGを山陽道・宮島SAにて開催、8人のメンバーが集結する。秘蔵のレーシングカー用ステッカーを公開&一部配布。 TV番組の収録のためマツダ・三次自動車試験場内をル・マン優勝車の787B(55号車)が走行。三次の山間に4ローターサウンドが久々に轟く。
00年10月   S耐最終戦・SUGOで圧勝したBPビスコガンマRX−7が2年連続のクラス3シリーズ優勝を決め、マツダ車に栄冠をもたらす。
00年11月 第三弾WW2ステッカーが完成。(緑・白・オレンジを各10枚ずつ) NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でマツダREによるル・マン挑戦の歴史が取り上げられ、全国的に反響を呼ぶ。また、テレビ朝日「カーグラフィックTV」でも787B試乗レポートが放送される。
マツダスピードの協力でル・マンビデオ上映会を開催。74年のシグマMC74参戦ドキュメント番組と、RX−7からMX−R01に至るまでのマツダのビデオライブラリーによって、ル・マン挑戦の歴史を一気に振り返る。 マツダは今後MAZDASPEEDブランドを積極的に商品に展開していく方針である〜と日刊自動車新聞が一面で報道。
SF広島主催のTIサーキット走行会終了後に山陽道・吉備SAにて第4回WW2ミーティングを開催。新メンバーが一気に4名も加入。
 ・来年の活動(案)について
 ・新ステッカースペックについて
 ・WW2忘年会の日程確認
 
00年12月 第1回「WW2忘年会」を広島市内で開催。メンバーをはじめ、SF広島・RJ廣島組合関係者を中心に多数の参加をいただく。  
01年1月 広島市内にて初の「WW2新年会」を開催。レーシングドライバーの新宅選手・桧井選手も揃って登場(^^)。 MAZDASPEEDが東京オートサロンにて「GT−C」よりもさらに戦闘的なエアロパーツをまとった「RX−7・Rスペック」を参考展示。
南区大洲の某駐車場でレーシングカー用ステッカーの再配布会を開催。同時にメンバー紹介ページ用の写真撮影も敢行。  
01年2月 TAX・シロ自動車玖珂店にて第5回WW2ミーティングを開催。十数人のメンバーが一同に会し、店長の前田さんのご好意で、MAZDAやROTARYの昔話を中心に夜遅くまで楽しい時間を過ごす。
「山賊」でのMTG・第二部ではWW2ステッカー・タイプB(仮称)の制作について討議。
 
01年3月 WW2メーリングリストを設置  
01年4月 広島&岡山のWW2メンバー7名でスーパー耐久開幕戦・MINEの決勝観戦ツアーを実施。SS.ROYAL号がノントラブルの快走を見せ147LAPを走破。 2001年スーパー耐久開幕戦・MINEのクラス3に5台のRX−7が出場。500kmのレースで全車完走を果たすが、クラス優勝は唯一のライバル車であるBMW M3にさらわれる。
WW2の諸活動の資金をプールするために「WW2基金」を設立  
01年5月 S耐第3戦・鈴鹿にSS.ROYALチームの18号車が参戦。見事6位入賞を飾り、シリーズポイントを12点に増やす。  
01年6月   787B・55号車がアメリカ(MNAO)で開催された全米のRX−7オーナーイベントに参加。10年経っても衰えない4ローターサウンドを力強く披露。
01年7月   十勝24時間レースを制したBPビスコガンマRX−7が再びS耐・3クラスのポイントランキング首位に踊り出る。
01年8月 S耐第6戦・TI(9月)にRX−7でエントリーすることになった広島の新チームをWW2がサポートすることが決定。車名は「WW2・RX−7」となり、WW2がマシンのカラーリングを担当することに。  
新チームのマシン製作の手伝いと現地でのスタッフサポート体制を協議するため、ドライバーの新宅選手を交えて緊急WW2ミーティングを開催。マシンのカラーリングについて大筋で合意。  
ついに大判WW2ステッカーの制作に着手。サブタイトルロゴを変更した「タイプB」。  
01年9月 S耐第6戦・TIに初出場した#78「WW2 RX−7」が初戦をクラス7位で完走。
WW2メンバーはマシンのカラーリング作業、PITクルー派遣(4名)、予選・決勝の応援など、チームを強力にサポート。決勝前PITウォークでは、WW2の活動内容を説明した「WW2プレスリリース」を準備、PITを訪れた観客に配布した。
マツダがモータースポーツ入門用ベース車両として「ロードスター・NR−A」のプロトタイプ車を公表。同時に、2002年5月から開催されるJAF公認NR−Aカテゴリーの「ロードスターワンメイクレース」を後援すると発表。
01年10月   BPビスコガンマRX−7がS耐第7戦・SUGOにて見事に3年連続のクラス3のチャンピオンを獲得。
01年11月 「WW2 RX−7」がS耐最終戦・SuperTEC(富士)に出場。再びWW2メンバー4名がサポートのためチームに帯同。フロントマスクを一新したマシンは4時間耐久を戦い抜き、完走34台中の20位(クラス6位)で、2戦連続となる完走を果たす。合計10ポイントを獲得して初シーズンを終了。  
01年12月 第2回「WW2忘年会」を広島市内で開催。  
02年1月 「WW2新年会」を広島市内で開催。 MAZDASPEEDがN1レース参戦を視野に入れて開発したという「RX−7・Rスペック」を、東京オートサロンに出展。
02年2月 2002年のチーム・テスタスポーツのS耐参戦計画に基づき、新宅選手/伊藤選手、Nukupee、こーぢさんでミニ・キックオフ会を開催。MINE、TI、富士の3戦参戦を想定し、ほぼ昨年並みのWW2サポートを検討することに。 寺田陽次郎氏率いるAutoExeが、4ローターエンジン搭載のマシンを製作し、2002年ル・マンの選考レースとなる米国・セブリング12時間レース(3月)に参戦することを発表。
ニューズ出版のRX−7マガジン(No.13)のS耐座談会のコーナーに伊藤選手が登場。「WW2」の参戦コンセプトについて、自動車雑誌で初めて披露(^^)。  
02年3月 2002年S耐開幕戦・MINEに出場した「WW2 RX−7」をサポート。MAZDASPEEDのRスペックエアロをまとった78号車は、決勝で一時クラスTOPを快走したもののハブトラブルで後退。クラス4位で完走を果たす。  
02年5月   マツダ鰍ェ支援する現行ロードスターNR−A(ナンバー付)によるワンメイクレース「Roadster Party Race」がつくばでスタート。マツダ本社による底辺モータースポーツ活動の支援が、車両提供というカタチでまずは再開される。
02年6月   寺田陽次郎選手が久々に4ローターエンジン(13J改)搭載車をル・マンの決勝グリッドへと導く。レース開始直後にアウトプットシャフトのトラブルでストップし、早々にリタイヤとなる。
02年9月 2002年S耐第6戦・TIで「WW2 ダンロップRX−7」をサポート。PITウォークでは、78号車をモチーフにしたチョロQを携えてファンの方がチームを訪問。精巧な出来映えと激励のメッセージに一同大感激。決勝はクラス5位で完走。 新・排ガス規制のため、3代目RX−7(FD3S)が8月末で生産中止に。1967年から続いてきたロータリー車の販売が一時的に途切れる。
02年11月   S耐・3クラスでRX−7が4年連続のチャンピオン獲得。
02年12月 チーム・テスタスポーツが来季S耐参戦に向けてマシンをダンロップのDIREZZAカラーへの変更することが決定。メンバーでカッティングシート剥がしを行ない、1年余りでWW2暫定カラーリングは姿を消すことに。  
03年4月   マツダから自然吸気ロータリーエンジン「RENESIS」を搭載した新型の4人乗りスポーツカーRX−8が発売される。
03年6月 S耐マシンのカラーリング変更に合わせ、WW2ステッカー「タイプB」をダンロップカラー3色で製作。(大&中サイズ)  
2003年S耐第4戦・MINEで「WW2ダンロップRX−7」をサポート。絶不調の予選からしぶとく決勝完走を果たす。  
03年7月 Kojiさん、muneさん、Nukupeeで緊急協議を行ない、S耐TI戦に向けてチーム・テスタスポーツのPIT看板の製作をスタート。  
03年8月   Pokka鈴鹿1000kmレースでプライベーターのRX−8がS耐クラスに出場。公式レース初登場で様々な初期トラブルに見舞われながら600km余りを走破し、チェッカーを受ける。
03年9月 2003年S耐第6戦・TIに出場した「WW2ダンロップRX−7」をサポート。決勝はクラス5位で完走。  
03年10月   マツダ鰍ェ、2004年からナンバー付RX−8(NR−A)によるワンメイクレースを開催すると発表。
03年11月 岡山市で開催されている「チェリッシュジムカーナinなださき」の最終戦にエントリーしたケタップさんがUクラスで6位に入賞、年間成績でもクラス17位タイにランクイン。  
04年3月   2004年のS耐クラス4にRX−8はエントリーせず、シリーズからの撤退が決定。
04年6月 しんぺーさんの快適サロンバス(MPV)を利用し、WW2メンバー5名でS耐MINE戦・観戦ツアーを敢行。RX−7勢はWET路面に苦戦し惨敗。  
04年9月 muneさんのデザイン監修&製作によるS耐用のPITストップボードが完成。  
2004年S耐第6戦・TIに出場した「WW2ダンロップRX−7」をサポート。こーぢさんも一時帰国して初日参加。決勝はクラス6位で完走し、初参戦以来の連続完走記録を7戦まで伸ばす。  
04年10月 アメリカ赴任中のこーぢさんが、SCA(SCCA)のジムカーナシリーズに”ゼッケン78”のロードスターで参戦開始。(^^)。  
04年11月 「チェリッシュジムカーナinなださき」の最終戦が終了。「WW2 オークラ FC−RX7」で参戦したT−eMさんが、年間成績でRクラス2位(最高位2位)、2年目となるケタップさんがUクラス5位(最高位2位)/Rクラス22位(最高位6位)の好成績を残す(^^)。  
05年3月   北米マツダがALMS(アメリカン・ルマン・シリーズ)への参戦を発表。仏・クラージュのシャシーに20Bエンジンを搭載し、LMP2クラスにBKモータースポーツからエントリー。マシンのカラーリングはCHARGEカラーを彷彿とさせるイエロー&ブルーのアーガイル模様を採用。
05年5月 WW2メンバー4名でS耐MINE戦の観戦ツアーを実施。2005年シーズンのクラス3の敵情視察を図る。RX−7勢はライバルに対し速さ&燃費ともに劣勢気味。 ALMS第3戦のミッドオハイオで、#8・クラージュマツダが参戦2戦目にしてクラス優勝の偉業を達成。
05年6月   ついにD.Station社から『ポールポジション1980−1991メモアール』がリリースされる。WW2にとってバイブル的な存在のPolePosition誌がCD−ROMで現代に蘇ることに。
05年9月 2005年S耐第6戦・TIに出場する「WW2ダンロップRX−7」のサポートを決定。  






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