POLE POSITION Vol.25

 〜We Won the Day〜 

(Page7を原文のまま掲載)



私たちは、ついに勝った。全ての結果論がそうであるように、いまになっていえば、筋書きどおりに、勝つべくして勝った。しかし、正直にいえば、最後の最後まで、勝てるとは信じられなかった。私たちはこれまでに、ル・マンで勝つことの、勝ち切ることの難しさを何度も見せつけられてきたからである。「ル・マンだけは特別だ。何が起きるかわからない」という思いは、ひとときも私たちから離れることがなかったのである。だが、もっと正直にいえば、私たちは、今年、ル・マンで勝つ可能性があることはわかっていた。4ローター・ロータリーエンジンは完璧なまでに熟成され、特有の耐久信頼性に加えて、パワーと燃費を大幅に改善していた。シャシーも、ブレーキローターをカーボン化するなど、一段と戦闘力を向上させていた。そして、ドライバーは、OBを含むF1パイロットをずらりと揃えることができた。私たちのコンピューターは、多くのシミュレーションを通じて、勝てる可能性のあることを、私たちに教えていたのである。

オーガナイズは、もちろん何の不安もなかった。ル・マンの町は、私たちにとって、もはや「我が町」同然だったし、レースウィークのスケジュールも、マツダスピードチーム全員が体で覚えていた。総勢120人にも及ぶ国際色豊かなスタッフは、ほとんどが顔なじみだったし、プロフェッショナルなまでのチームワークがすでにできあがっていた。この面で、何かのミスが起きることは、考えられなかった。今年、ロータリーエンジンによるル・マン挑戦最後の年に、私たちが劇的な勝利をおさめる可能性は、スタート以前に、少なくとも論理的には存在したのであった。

そして、いよいよレース当日。今年のル・マンは、何も起きないまま夜が過ぎ、朝を迎えた。少なくとも、私たちのチームには何も起きなかった。私たちの55番は、予定されたタイヤ交換と燃料補給を、たんたんと繰り返すのみであった。きっと、何かが起きる…という不安の中で、長い長い24時間が過ぎた。そして、勝った。大きな歓声があがった。たくさんの祝福の声が、私たちに寄せられた。そして、私たちはやっと気づいた。今年、ル・マンが用意した最もエキサイティングな出来事は、なんと、私たち自身が優勝することだったのだ。「ル・マンだけは特別だ。何が起きるかわからない」というル・マンの不文律は、今年もまた、確実に実行されたのであった。

興奮の時は過ぎた。ル・マンは、これまで私たちがそうしてきたように、本来、過去形としてでなく、つねに未来形として語られなければならない。私たちの「栄光」も、やがては、たった一行の「記録」へとその輝きを弱めるであろう。だから、私たちはすでに、私たちの新しい明日を語りはじめるべき時を迎えているのである。しかし、私たちのル・マン計画の、いわば「機関紙」として機能してきた『POLE POSITION』としては、その前に、私たちの「栄光」を当事者として総括しておかねばなるまい。私たちはいかにしてル・マンの勝利者となったか、その要因を確認するところから、明日への道ははじまると思うのである。

ル・マン勝利の要因、その第1は、きわめて平凡だが、それは、私たちが勝利を意志したことではないか。The WILL for WIN!私たちは、長く蓄積してきた経験の上に明確に勝利への挑戦を宣言した。この「勝利への意志」がなかったら、すべてははじまらなかったはずだ。のみならず、多くの困難を克服するエネルギーはそのすべてを、この挑戦する気概と、大橋チームマネージャー率いるマツダスピードチーム全員の情熱から供給されたのであった。第2の勝因も、言葉にすればあまりに当然すぎるが、それは「技術」に違いない。なかんずく、新技術の創造と完璧主義。私たちの技術陣は、ロータリーエンジンという世界中のどこにもお手本のない分野で、次々と勝つための新技術を創造した。同時に、その性能が100%発揮されるべく、信頼性の確保にこだわった。そして、まさに完璧なレベルで、それを熟成した。これを「技術の勝利」というに、何も憚ることはあるまい。第3の勝因は、ここからの順位づけには異論もあろうが、私たちは「国際性」をノミネートしたいと思う。私たちの勝利は、単に日本人だけの手で獲得したものではない。ロータリーエンジンそのものは、故ヴァンケル博士、つまりドイツ人の発明によるものである。シャシーの基本設計を担当したのは、イギリス人のナイジェル・ストラウド氏だし、チームのコンサルタントを務めてくれたジャッキー・イクス氏はベルギー人だ。その他、ドライバー、メカニックなどチーム全員の国籍を数えたら、おそらくは10本の指でも足りないのではなかろうか。つまり、私たちの勝利は、全世界的な広がりに支えられているのである。そして、そのことを、私たちは誇りとすべきだと考えている。現代とは、そういう時代だ。日本という殻に、もしも私たちが閉じこもっていたら、多分こういう結果にはならなかったと思うのである。

そしてもう一つ、最後につけ加えるとすれば、これも月並みではあるが、ローマならぬル・マンも、一日にしてはならずということ。覚えておられるであろうか?私たちが、私たちの名でル・マンを語りはじめたのは、つまりメーカーとして公式にコミットしたのは、あれは’81年のことであった。そして、ロータリーエンジン搭載車としての参加記録は、それ以前にも’70、’73、’74、’75、’79、’80の各年度に存在する。現在のマツダスピードの母体となった、当時はマツダオート東京のチームが初めてル・マンへ赴いたのは’74年。だから、この年を直接の起源とすれば、私たちの勝利は実に18年間、13回に及ぶ挑戦の末に実現したということになる。もちろん、ただ漫然と歴史を重ねるだけでは無意味だが、他に先駆けて事を起こす、その間に獲得された経験とノウハウを活用することの重要さは、やはり記憶に止めねばなるまい。

私たちがル・マンから学んだこと、それを私たちは「ル・マンスピリット」と呼びたい。そして、それを、これからの「マツダ・イズム」としていきたい。誇りを胸に、世界の人々と喜びを共有するために、つねに新しい価値をめざし、たゆまぬ創造と挑戦を続けたい。この大きな一歩は、テクノロジーのさらなる進歩のために!私たちは、これからの量産車の開発に、このマツダ・イズムを生かしてゆくことを誓う。それが、ル・マンで勝利した者の、いわば責任だと思うから。最後に、読者諸兄、私たちはこの「栄光のル・マン」のサクセスストーリーを、諸兄からいただいた声援への返礼として捧げる。私たちのル・マンは、つねに諸兄とともにあった。そのことに、最大の感謝を表したいのである。
The WILL for WIN

POLE POSITION ポールポジションvol.25
1991年9月1日発行
発行人:マツダ株式会社
編集室:アドインターナショナル