本能の人




  目覚し時計の音に僕は目を覚ました。また今日が来てしまった。なぜいつもいつ
もやって来るのは今日で、昨日とかおとといではないのだろう。僕は目覚し時計を
叩いてベルを止めた。途端に静かで重い時間が僕を押し流そうと迫ってくるのを感
じた。
「きょう」僕は口に出して言ってみた。「きょう」KYOの音が耳に快い。「きょ
う」少し声を大きくしてみた。するとさらに気持ちよくなった。僕は嬉しくなって
どんどん声を大きくし「きょう!」「きょう!!」「きょう!!!」と叫んだ。な
んだか楽しくてしかたがない。僕はベッドの上に立ち上がって、叫びながらどすん
どすんと飛び跳ねた。
  ベッドから床の上に飛び降りたところで、僕はふと何かを思い出しそうになった。
いったい何を思い出しそうになったのだろう。僕はもどかしく感じて身体をよじっ
た。強くよじれば思い出せるのではないかと思って、何度も繰り返して強く強く左
右に身体をよじった。しかしそのうちに僕はなぜ身体をよじっていたのか忘れてし
まった。
  しばらくの間、僕はそのままぼんやりと床の上に立ちつくしていた。どのくらい
そうしていたのかはわからない。突然の尻の痛みに僕は我にかえった。思わず僕は
「ほおーっ」と叫んでしまった。
  振り返ると背後に母親が立っていた。「何を大声で騒いでるの。近所に聞こえる
でしょう。みっともないわまったくもう馬鹿なんだから」なんだかよくわからない
けれど僕に対して怒っているようだ。その歪んだ顔を見ているうちに僕は急に腹が
立ってきた。「なにおう」と大声で喚いた。「ばかって、腹が立つんだぞ。ばかは
僕は怒るんだぞう。おおお」
「いいかげんにしなさい」彼女は今度は僕の頭を平手で思い切り叩いた。「痛い」
僕はたまらず頭を抱えて蹲った。両眼から涙がぼたぼたと落ち、足もとの床に点々
とまるい跡をつくった。
「ぼやっとしてないで早く着替えなさい。遅れるじゃないの」
  そう言って彼女は傍らの箪笥から服を出してベッドの上に放り投げるとすぐに出
て行ってしまった。そこでしかたなく僕は着ていたパジャマを床に脱ぎ散らかし、
彼女の出した服を着て部屋を出た。
  台所に下りていくと朝食の準備ができていた。今日は大根の味噌汁に卵焼き、た
くあんにご飯というごくふつうの朝食だった。僕はテーブルについてさっそく食べ
はじめた。
  父親は、会社の始業時刻にはまだずいぶんと余裕がある筈なのにすでに家を出て
しまっていた。だいたい父親は帰りも遅いし、休日もよく出勤したり接待ゴルフに
行ったりしているので、家で父親と顔を合わせることはあまりないのだ。
  隣の居間のほうからテレビの音が聞こえてくる。芸能人の誰それが熱愛中だの別
れただの不倫しただのという「ニュース」を興奮して喋りまくるレポーターとかコ
メンテイターなどと称する人々の声が僕のささくれた鼓膜を震わせる。
  それを聞き流しながら味噌汁を啜っているとき、不意に、これを二階の窓から撒
布したらどうなるだろうという考えが頭に浮かんだ。短冊に刻まれた新鮮な大根と、
近所に一軒だけ残っている豆腐屋で買ってくる手作りの絹ごし豆腐の入った、母親
の手作りの熱い熱い味噌汁が、往来を通る人々に降りかかる。そして味噌汁は、そ
の途端に美味なる食物であることをやめ、汚れをもたらすただの厄介ものへと変化
してしまうのだ。
  その考えは僕を興奮させた。そこで僕は、椀の中に入っている味噌汁を飲み干し
てから新たに熱い味噌汁をいっぱいに入れた。それからもうひとつ新しい椀をとっ
てそれにもなみなみと味噌汁を入れて、それらを持って二階へとあがっていった。
母親が背後から何か言ったが聞き取れなかった。僕は「姉ちゃんに持って行く」と
怒鳴り返して階段をのぼり、家の前の道路に面している部屋に入った。
  そこは姉の部屋だ。むっと酸っぱい匂いが鼻を突く。姉はまだベッドの上で頭を
抱えて蹲っている。夕べの酒がかなり残っているらしい。彼女にはよくあることだ。
どうやら大学生というのは泥酔するのが仕事らしい。
  僕は彼女を一瞥しただけでまっすぐに窓の前に向かった。僕はいったん両手の椀
を机の上に置き、鍵を開けて窓をひらいた。少し湿気を含んだ新鮮な空気が流れ込
んでくる。眼下には車がなんとかすれ違える程度の広さの舗装道路がある。ときど
き靴音を立ててサラリーマンやOLらしき人々が足早に通り過ぎていく。
  僕はふたたびふたつの椀を持ち、タイミングを狙った。右手から三十歳くらいの
サラリーマン、そして左手からは近所に住んでいるらしい中年女が服を着せ飾り立
てたマルチーズをつれて歩いてくる。僕は頭の中ですばやく位置関係を計算し、ち
ょうど二人+一匹が窓の真下あたりですれ違うことを確認する。チャンスだ。僕は
息を詰めて眼下を凝視した。足音が左右から近づいてくる。視界の両隅に人影が映
り、そして全員がぴったりと視界の中心部に入った。
  僕はまず右手の椀の中身を思い切りぶちまけた。味噌汁はあやまたずサラリーマ
ンの頭にまともに命中した。「$@☆◆♂∞!」〇・五秒後、彼は表記不能の叫び
声を上げて躍り上がった。「はーはーあーあぢあぢ」彼は気の触れた猫が踊りなが
ら顔を洗っているかのごとくものすごい勢いで手で顔を拭った。
  すかさず僕はもうひとつもぶちまけた。それは中年女の頭を直撃した。「≦♀±
★〒£◎!!」彼女は絶叫し、両手を振り上げて飛び上がった。その勢いで、マル
チーズが激しく引っ張られ首吊り状態となってぶら下がった。犬はぎゃんぎゃん吠
えて激しくあばれたが、それ以上に中年女のほうがあまりにも取り乱していて犬の
現状にまったく気づかず、さらに彼女が紐を持ったまま手を大きく振り回すので、
可哀相な犬は首を吊られたまま右へ左へと大きく揺れ、ますます首輪が喉元に深く
食い込んで口から泡を吹きはじめた。
  僕はその光景を眺め、狙いどおりに「食物」が「汚物」へと変貌する瞬間を目の
当たりにしたことと、加えて彼らの珍妙な踊り、それに犬の首吊りを目撃できたこ
とに深く満足した。すると腹の底から自然と笑いが押し寄せてきて、僕は窓を開け
たまま大声でげらげらと笑った。
  階段を駆け上がってくる凄まじい足音がして誰かが部屋に飛び込んできた。振り
向くとそれは母親だった。彼女はたまたま手近にあった姉のルイ・ヴュトンの赤い
バッグを掴むと思い切り僕に投げつけた。しかしそれは僕がよけるまでもなく狙い
がそれ、開いたままの窓から外へ飛び出した。
「ぎゃああああああああああああああああああああああっ」
  豚が絞め殺されるがごとき破壊的な絶叫に僕と母親は息を呑んで凝固した。それ
は姉の声だった。いつのまにかベッドの上に起き上がっている。その顔は、ただで
さえ造作にいささか問題があるところにもってきて、それを覆い隠し無理矢理に理
想の容貌へと変身させるために塗られた厚化粧を落とさないまま寝込んでしまった
こともあってもはや正視するに耐えない代物であり、まさに凄惨としか言いようの
ないものだった。一面に塗りたくった白塗りが細かくけば立ち、また彼女の両眼は
もうこれ以上は広がらないというところまで広がっていてその縁は真っ赤である。
目尻は吊り上がり、額にはごつごつとした岩のような皺が深く刻まれている。僕は
あまりの恐ろしさに震え上がり、つい「ば、化け物」と口に出してしまった。しか
し姉の耳にはその言葉は入っていないようだった。
「どうしてくれるのよあのバッグ」彼女は吼えた。「あれ八万円もするのよ」
「なによ」母親が負けずに叫び返す。「取ってくりゃいいでしょ自分で」
「なんであたしが取ってこなきゃいけないのよ。お母さんが放り投げたんでしょ。
お母さん取ってきてよ」
「あたし嫌よ」
「なんでよ。自分でやったんだから取ってきなさいよ」
「あたしのじゃないもん」
「何言ってんのよ。ときどきあたしに黙って勝手に使ってるの知ってるんだからね」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないの。まったくこんな意地汚い娘に育てたつもりは
ないんだけどねえ」
「何よそれ」彼女の声のヴォルテージがさらに上がった。まだ声が大きくなるのか
よおい。どういう喉してるんだ。血が出るぞ。
「あんたの子だからこういう風になったのよ。だいたい顔もでかくて不細工だし胴
は長いし胸はないしくびれはないし腰ばかり大きくて脚は太いし短いしおまけにO
脚だし、とどめに頭も悪いじゃないの。ぜんぶあんたそっくりよ。あんたのせいよ」
「な、なにを」母親が急に吃りはじめた。「あ、あ、ああんた、のの、よよよよよ
よような子ここここここ」両手を前に突き出して激しく上下に動いている。キョン
シーかお前は。「こ、殺す」彼女はそのままの姿勢で姉に向かって突進した。姉は
二日酔いなど完全に吹き飛んだようだ。確かな足取りでベッドの上にすばやく立ち
上がると、そのまま両手を広げ、いきなり母親に向かってダイブした。僕はさすが
にこれには驚いた。足元はフローリング、つまり板張りなのだ。プロレスのマット
とはわけが違うのだ。
  案の定、ふたりはもつれあって転倒し、揃って頭を床にうちつけた。物凄い大音
響が響き渡って家全体がぐらぐらと揺れた。僕は叫んだ。「馬鹿野郎、この家は欠
陥住宅だ。あまり揺らすと崩れて死ぬぞ」
  しかしふたりとも気を失ってしまったので返事はなかった。やれやれ。頭のいか
れた親姉妹を持つと苦労する。この家でまともなのは僕だけだしな。ちょっと頭を
打ったみたいだけど、この程度ならまあ死ぬことはないだろう。逆に、もしかした
らショックで少しはましな頭になるかも知れない。
  僕はふたりをそのままにして階下へと降り、朝食の残りを平らげると鞄を掴んで
玄関のドアを開けた。
  すると目の前にさっき僕が味噌汁をぶっかけたふたりが立ちはだかっていた。か
まわず通り抜けようとするとサラリーマンが僕の肩を乱暴に押さえた。僕はその手
を振り払った。
「なんだてめえ。臭えんだよ。触んなよ」
「て、てめえだと」サラリーマンの両眼ががっと見開かれた。「いきなりひとに味
噌汁をぶっかけておいて、てめえ呼ばわりするのか」
中年女のほうも眉間にいやな皺を浮きたたせ、ねばりつく声で僕を詰った。「ほ
んとに非常識な。どうしてくれるのよこの服。クリーニング代出しなさいよ」
「まったくだ。おれのスーツもむちゃくちゃだ。これは十五万円もするんだぞ。染
みでも残ったら弁償だからな」
  なんだ、結局は金か。僕はうんざりした。それから突如として激烈な怒りが突き
上げてきた。
「うるせえこの糞野郎」僕は喚きながら思いっ切りサラリーマンを突き飛ばした。
彼は大きくバランスを崩して吹っ飛び、貧弱だがいちおう鉄でできている門扉に激
しくぶつかって転倒した。僕はさらに無茶苦茶に彼を蹴りつけ、彼が塀ぎわに丸く
蹲って動かなくなるまでそれをやめなかった。
  ようやく彼が静かになったので僕はもうひとりの中年女性を見た。彼女は地面に
べったりと座り込んでおり、あきらかに怯えていた。その表情を見て僕はむらむら
と欲情した。あらためて見ると、彼女は顔立ち自体は決して悪くなかった。それに
大柄で、乳房もかなり大きく、まさに僕の好みだ。それが年齢による微妙な崩れの
ために逆に淫蕩な雰囲気を醸し出している。
  僕はその場でベルトをはずし、ズボンを脱ぎ捨てた。僕のペニスはブリーフを突
き破らんばかりに屹立し、疼痛を覚えるほどにこちこちに固まっていた。彼女は両
眼を見ひらいて僕の股間を凝視している。その表情には拒絶の色はそれほど見られ
ない。そこで僕は堂々と彼女の目の前に進み出、一息にブリーフをおろした。ペニ
スの先がブリーフに一瞬ひっかかり、そして勢いよくばちんと僕の腹に当たった。
  彼女の眼に淫乱の光がよぎったのを僕は見逃さなかった。僕は彼女の頭を両手で
鷲掴みにすると、その口の中に僕のペニスを一気に突っ込んだ。ペニスはさほどの
抵抗を受けることもなく、意外なほどすんなりと根元まで口の中に吸い込まれた。
気がつくと彼女は自分から舌を使いはじめていた。くそ、こいつ楽しんでやがる。
僕は内心で舌打ちしたが、しかし今や主導権は僕から彼女へと移っていた。なにし
ろ相手は人妻である。何百回何千回という性行為を経験してきているつわものなの
だ。たかだか数える程度の女しか知らない高校生の僕にかなうわけがない。僕はあ
っという間に彼女の口の中に射精した。
  しかし彼女はまだ僕を離さない。彼女はすっかり僕の出したものを飲み干し、き
れいにペニスを舐めてから立ち上がるとスカートをまくりあげた。意外にもパンテ
ィは黒。僕はそれを見てまた興奮した。彼女は僕に見せつけるようにゆっくりと腰
を振りながらそれを脱ぎ、門扉に手をついて尻を突き出した。外陰唇が大きくはみ
出した性器がまっすぐに僕のほうを向いている。その中心部はぬめぬめと粘液で光
り輝いている。それに逆らうことはもう僕にはできない。僕は引き寄せられるよう
に彼女に近づき、ためらいなく後ろから彼女の膣の中に自分のペニスを挿入した。
挿入の瞬間、彼女は大きく息を吐いて背中をよじった。僕が動きはじめると、それ
にあわせて彼女は大きく腰を動かした。そのたびに門扉ががちゃがちゃと音をたて
る。ときどき人が通りかかるが、目の前で交わっている僕たちを見て、みんな一瞬
足を止め、すぐにそそくさと眼をそらして立ち去ってしまう。どうしてみんな、何
か悪いものを見たというような表情をするのだろう。みんなやってることじゃない
か。僕は誰に見られようがかまわず激しく動き、彼女は太い声で何度も絶叫した。
  結局、僕は彼女の中に三回射精した。最後には彼女はすっかり足腰が立たなくな
ったらしく、ずるずると崩れ落ちて動けなくなってしまった。僕はまだ幾分硬いペ
ニスを抜き、すぐにブリーフとズボンを穿くと鞄を拾い上げて門を出た。
  塀の向こう側には近所の暇な連中が何人も張り付いていた。連中は僕が急に出て
きたので隠れることもできず、慌ててお互いに顔を見合わせて急にお喋りらしきも
のをはじめた。ついさっきまでは話し声ひとつしていなかったのに。よく見ると男
の中にはズボンの前を膨らませたままの奴がいる。馬鹿な奴らだ。僕が近づいてい
くと、おどおどとして逃げようとする。僕は怒鳴った。
「この糞じじいに糞ばばあ。てめえらキンタマもおまんこもとっくに干からびて粉
吹いてるんだろうが。この変態覗き屋のなまあたたかい腐ったガマガエルどもめ、
とっとと家に帰って暗い眼で尻でも舐めあってろ」
  彼らは凝固したまま僕を見ていた。僕は彼らをそのまま放っておいてすたすたと
駅に向かって歩いていった。いつまでもあんな連中に付き合ってはいられないのだ。
そう思って腕時計を見ると、もうどうあがいても遅刻は免れないという時間となっ
てしまっていることがわかった。僕はカッとした。すぐに踵を返して家の前に戻る
と、まだ連中がだらだらと残っていた。その中に、僕が特に嫌っているさえない中
年男が立っているのが見えたので、僕は彼に狙いを定め、助走して勢いをつけると
強く踏み切って大きく跳躍し、そして彼の背中を思い切り蹴り飛ばした。
「ぐお」
  中年男は妙な音を喉の奥から発すると三メートルほど吹っ飛び、そして僕の家の
門扉の横に激突してばったりと倒れた。その振動で門扉に取り付けてある郵便受け
に差し込まれていた新聞がぱたりと地面に落ちた。
「あーっ」僕は慌てて駆け寄った。その拍子に、勢い余って自分の足で新聞を蹴っ
飛ばしてしまった。「ああーっ」
  僕は指先でそっと新聞を拾い上げた。ついさっきまで印刷したてで奇麗だったは
ずのそれは、アスファルトの地面と、その上に散らばっている土や小石で激しくこ
すられ、見る影もなく汚れてしまっていた。角も折れ曲がり、しかも、全体を横切
る大きな折れ目まで入ってしまっていた。これはたぶん、僕自身が蹴ってしまった
時についたものだ。とりもなおさず僕が自分でやってしまったのだ。そう思うと僕
は泣きたいほど悲しくなった。僕はその新聞を地面に落とした。新聞はアスファル
トの上で重く乾いた音をたてた。その音が僕を余計に悲しませる。それをふたたび
拾い上げる。見ると、さっきよりもさらに折れ目や傷が増えている。自分がやった
のだ。僕はさらに悲しくなり、ふたたびそれを地面に落とす。その動作を繰り返す
うちに、僕の口からは呻き声とも泣き声ともつかない声が漏れはじめた。勝手に腹
の底から声が噴き出してくるのだ。自分の声に反応し、悲しみが急に大きく膨張す
る。しぜんと声量が急激にあがり、僕はいつしか言葉にならぬ甲高い声で絶叫して
いた。叫びながら僕は何度も何度も新聞を地面に叩きつけ続けた。
  ふと我に返ると、新聞はもはやただの汚いずたぼろの紙の塊に過ぎなくなってい
た。頭がぼうっとして、もうどうでもいいという気分になっていた。僕は新聞を投
げ捨て、周囲を見回した。あの中年男はまだぶっ倒れており、微かに唸り声をあげ
ている。他の連中はどうやら逃げてしまったらしく誰もいなかった。僕は脳味噌が
熱く膨れたような感覚を抱えたまま鞄を拾い上げ、駅に向かって歩き出した。

  ようやく授業が終わった。今日も教師の言うことは一言半句たりとも理解できな
かった。どの科目でも、聞いているうちにだんだんその言葉がばらばらになってき
てただの「音」としか感じられなくなり、その意味することなどまるでわからなく
なってしまうのだ。それを聞いて意味を理解し、なおかつちゃんと教師に対して反
応しているクラス・メートたちの姿を見ていると、こいつらはいったい何語を喋っ
ているんだろうという気になる。日本語だなんて到底思えないのだ。僕以外の連中
は皆、僕にはわからない別の言語を使っていて、それを操れないのは僕ひとりなの
ではないか。これではまるで異星人だ。
  僕は大きな音をたててロッカーに教科書を放り込んだ。背後でひそひそと何か囁
きあう女の子の声が聞こえる。ちらりと一瞥すると彼女たちは話をやめた。僕は彼
女たちの顔をじっと見詰めた。そのうちに化けの皮が剥がれて顔が異星人に戻るの
ではないかと思ったのだ。しかし彼女たちはお互いに視線をやりとりすると席を立
ち、どこかに行ってしまった。僕は彼女たちのいた席に行き、そこらの机を蹴り倒
した。鉄と木の打ち当たるものすごい音がして、教室の中の空気が凝固した。僕は
その重い空気の中で考えた。こんなところにいつまでもだらだらと居続けるのは時
間の無駄だ。・・・その瞬間僕は、授業が全部終わるまで教室に居残る必要などど
こにもないのだということに気づいた。あんな不可解な言葉だか記号だかが寄せ集
まったものなど知らなくたって別に構わないのだ。現実に、あんなものをまったく
知らなくても僕はこうして生きていられる。それにどうせ僕は異星人だ。クラス・
メートは全員エイリアンだ。いつか殺さなければならないだろうな。殺す。殺す。
などと呟きながら僕は殆ど何も入っていない鞄を掴み、教室を出た。
  学校を飛び出したものの、とくにどこに行くあてもない。家に帰っても余計に疲
れるだけだ。どうしようどうしようと思いつつ駅に着き定期券で改札を通り、気が
つくと家のある街へ向かう電車に乗っていた。もはや身体が覚え込んでしまってい
るのだろう。
  車内はそれなりに混んでいた。いったいこのへんの電車というものは、ガラガラ
に空くことなんてあるんだろうか。以前、急に電車を降りたくなくなって終点まで
行き、駅の近くの川べりで真夜中までぼうっと過ごしてから帰ったことがあったけ
れど、帰宅する時の車内も凄まじい混み方だった。もうほとんど終電だったはずな
のだが、見事にぎっちりと乗客が詰まっていた。しかもその多くが泥酔したおやじ
どもであり、何とも胸の悪くなる酸っぱい悪臭が車内に充満していた。そう言えば
あの時も誰かを殴ったか何かしたような気がするがもうよく覚えていない。
  そんなことを思い出しつつぼんやりとドアの近くの手すりに掴まって立っている
と、ふと僕の背中に何かがこつこつと当たるのに気づいた。窓の反射を利用して背
後を窺うと、僕と同じくらいの背丈のスーツ姿の男が僕に密着するように立ち、僕
の背中を台にしてマンガ雑誌を読んでいるのだった。混んでいるとは言ってもそん
なに密着しなければならないほどではない。だいたい彼の背後にはけっこう広くス
ペースが空いているのだ。なんでわざわざそんなにひとにくっついてくるんだよ、
ちゃんと他にスペースはあるだろうが、と僕は少し腹を立てた。そもそも、断りも
なく勝手にひとの背中を書見台にするなんてどういう了見だ。そこで僕は軽く身じ
ろぎをして意思表示をした。しかし鈍感なこの男はまったく気づかない。それで僕
は仕方なく、肩と背中を大きく動かして本を押しやった。これならさすがに気づく
だろうと思ったのだ。すると、気づくことは気づいたが、なんと逆に本の角を強く
押しつけてくるという反抗的態度に出てきた。僕は少し切れかけ、肘と肩で強く相
手を押した。すると彼は逆に脚を踏ん張り、全身をわざと硬直させて絶対に動くま
いとした。僕はそこで本気で腹を立てた。僕は後ろを振り返ると、その男の読んで
いたマンガ雑誌を思いっきり足元へと叩き落としてやった。
  正面から見ると、彼は虚勢と傲慢とがないまぜになっている下品な顔をした、し
かも見るからに身だしなみに気をつかっていないと知れる、悪臭を放つ中年男だっ
た。こんな品のない頭の悪そうなおやじに喧嘩を売られた自分が悲しくなり、そし
てそれによって僕はますます逆上した。「なんだおい」などと彼が言いかけたとこ
ろを襟首をぐいと掴み、素早く体勢を入れ換えてそのまま彼を激しくドアに叩きつ
けた。彼の肩にかかっていた、安物の革のショルダー・バッグがその拍子に床に落
ち、僕はそれを片足で踏みつけた。それを見て彼の両眼は大きくひらき、両手をぎ
こちなくあげて僕に掴みかかろうとした。僕はその手を振り払うと距離を取り、ふ
たたび突進してくるところを狙いを定めて左ストレートを顔面にまともにぶち込ん
だ。カウンターで入ったので手応えは充分だった。瞬時にして彼の眼から光が消え、
彼はその場で膝から崩れ落ちた。女性の短い悲鳴がいくつかあがるのが聞こえた。
僕は、あまりにあっけなく相手がダウンしてしまったので怒りが収まりきらず、床
に倒れている男の腹をさらに二度、強く蹴り上げた。それから僕はペニスを引っ張
り出し、彼の身体をめがけて放尿した。僕の小便は量が多く、あっという間に彼を
びしょ濡れにすると床を伝って流れ出し、車両の揺れとともにあちこちに放射状に
広がった。乗客たちはどよめきつつ、その黄色い液体から何とか逃げようと必死に
踊った。僕はその珍妙な踊りを見て、なおも放尿を続けながら大声で笑った。
  放尿がようやく終わったところでちょうど電車が僕の降りる駅に着いたので、僕
は彼を放ったまま電車から降りた。今日はもうこのままおとなしく家に帰って、風
呂入って飯食ってさっさと寝てしまおう。ろくなことがない。

  夢を見た。学校の夢だ。僕は校庭にひとりで立っている。学校の校舎はなぜか木
造の古そうなものに変わっていた。実際は鉄筋コンクリートの殺風景な校舎なのだ。
真ん中にぽっかりと時計塔が突き出ている。そこには丸いアナログの時計盤がひと
つ取りつけられている。・・・ぼんやりと眺めていると、その時計塔が急に横に膨
張しはじめた。その下にある校舎には変化がないのだが時計塔だけが左右に伸びは
じめたのだ。それとともに時計盤が二個、四個、八個とどんどん増殖をはじめ、い
つの間にか何十個もの時計盤が横一列にずらりと並ぶ奇天烈な建造物と化してしま
った。次の瞬間、時計盤がいっせいに十二時を指し、あたりにけたたましいベルと
チャイムの音が響き渡った。じゃんじゃんじゃんじゃんじゃんじゃんじゃんじゃん
きんこんかんこんきんけんこん。同時に周囲の地面からは一瞬にして大量の曼珠沙
華の花が湧き出して咲き乱れ、また正面の出入口からは学校の制服を着た無数の魑
魅魍魎どもがドアをぶち破り、雪崩を打って外に飛び出してきた。どういうわけか
全員僕をめがけて一直線に走ってくる。ぐんぐん迫ってくるその無数の化け物ども
の恐ろしい顔を見て僕は腰を抜かしてしまった。逃げようと思うが足腰が立たない。
なぜこんなときに。彼方からまがまがしく生臭い息の塊が押し寄せてくるのをはっ
きりと感じ、僕は恐怖のあまり声を限りに絶叫した。
  そこで眼が覚めた。僕は汗をびっしょりかいて布団を跳ねとばしていた。息が荒
い。時計を見るとまだ午前五時だった。制服姿の魑魅魍魎の姿がまざまざと思い出
され、僕は震えあがった。もう今日は学校に行くのはやめようと決め、また布団を
かぶって寝ようとしたが、神経が昂ぶってしまっていてうまく寝られない。だいた
い汗で布団が湿っぽくなってしまっていて気持ち悪いのだ。それでも、無理矢理に
眼をつぶってじっとしているうちに、半覚半睡の状態にまで持ち込むことになんと
か成功した。しばらくの間、僕はふわふわと生温かいその極楽を楽しんだ。もう今
日はこのままで一日を過ごそう。ぼんやりした頭の隅でそんなことを考えながらう
つらうつらとしていると、突然足音高く誰かが階段をのぼってきて部屋のドアをば
たんと開けた。
「いつまで寝てるの。はやく起きなさい」
  母親だった。うるせえなあ。僕はその声を無視して動かずにいた。すると彼女は
部屋に入ってきて、乱暴に僕の肩を掴んで揺すりはじめた。僕はかっとして跳ね起
き、いきなり怒鳴りつけた。
「うるせえ。今日は休む」
  それだけ喚くと、僕はまた布団を頭からかぶって丸くなった。すると母親が僕よ
りもさらに大きな声で何やら叫びながら、布団の上から僕を両手で叩きはじめた。
何を言っているのかはまったくわからない。ほとんど獣の咆哮に近いものと言って
よかった。まあ叩かれているとは言っても布団の上からだし、それに所詮は四十女
の力であるから、痛くもなんともない。そこで僕は彼女が叩くのに任せてそのまま
寝転がっていた。
  しばらくして彼女は叩くのをやめた。やれやれようやく諦めたかと思い、あらた
めてゆっくり寝ようなどと考えていると、なんだか部屋の隅でがたがたと変な音が
する。何の音だろうかと訝しむ間もなく、突然肩のあたりを激しい衝撃が襲った。
なにごとかと驚いている間にも、その衝撃はさらに幾度も繰り返された。たまらず
眼を開けて起き上がると、そこに見えたのは、椅子を頭上高々と振りかぶっている
母親の姿だった。
「わ」僕もさすがにこれには肝を潰した。「何考えてるんだおい。俺を殺す気か」
「当たり前よ」彼女は蛇の眼で僕を見下ろして叫んだ。「あんたなんか私の子じゃ
ない。だから殺す」
「そんな無茶苦茶な」僕は声を裏返して叫び返した。「あんたの子じゃない奴はみ
んな殺すのか」
「そうよ」彼女は笑いだした。「私の子じゃない餓鬼は私の子じゃないんだから全
部ぶち殺してやる。世界の子は全部あたしの子。みんなあたしの手で息の根を止め
てやるんだから。ぎぎ」
  さすがに僕は身の危険を感じたので、布団を彼女めがけて大きく跳ね飛ばすと、
その陰に隠れるようにしてベッドを抜け出し、布団越しに彼女を思い切り突き飛ば
してそのまま階段を駆け降りた。頭上から金属をこすり合わせるような絶叫が聞こ
えてきたが、僕はそれを無視し、たまたま玄関にあった靴を突っかけて外に飛び出
した。
  しばらく走り続け、家から充分離れたと判断したところで僕は立ち止まった。危
ないところだった。暫くは家に戻らないほうがいいかも知れない。寝込みを襲われ、
気がついたら死んでいた、などということにもなりかねない。どこかに寝る場所を
確保しなければなるまいな。面倒なことだ。
  ふと、すれ違う人々が僕のことをじろじろと見ていくのに気づいた。何だ。そん
なに僕の格好が珍しいのか。そのとき僕は、着古してかなりよれよれとなりしかも
黄ばんでいる白のTシャツにBVDの白のブリーフ、それにいつも学校に行く時に
履く黒の革靴を素足に突っかけているという姿だった。別にぼろりと出しているわ
けでもなく、隠すところはちゃんと隠している。何もおかしいところはないじゃな
いか。そう思って僕は腹を立てた。ひとを見世物か何かを見るような目で見やがっ
て。僕は、たまたまその時すれ違いざまに僕を見てわずかに眉をひそめたOLらし
き若い女性の腕を後ろから掴んだ。
「何だおまえ。俺を見て嫌な顔をしたな」
  彼女は一瞬、凄まじい嫌悪と怯えの混じった表情を見せた。眉間に激しく痙攣が
走り、まるで僕の手が黴菌だらけであると感じているかのように思わぬ力で僕の手
を振りほどこうとした。これは絶対に逃がすわけにはいかない。
「おい。なんだその眼は。まるで黴菌でも見るような眼だな。そんなに俺が汚いか。
汚いのがいやか。俺を馬鹿にしているんだろう。え。そうだろう」
  彼女は無言で首を激しく横に振った。しかし彼女が絶対に僕と視線を合わさない
ようにしていることに僕はとうに気づいている。彼女の表情、態度、雰囲気のすべ
ては、彼女が僕のことを汚い気違いと思い、嫌悪し、一刻も早く僕から離れたいと
願っていることを露骨に示している。僕はますます興奮して、左手で彼女の手首を
がっちりと握りしめ、右手で髪を鷲掴みにした。もう絶対に逃がすものか。犯して
犯して犯し抜いてやる。それも考えられる限り変態な方法で犯してやる。思わずき
き、という笑いが歯の間からほとばしり出てしまう。
  僕は彼女を無理矢理に近くへ引き寄せ、さらに様々に言い募った。そのうちに、
僕はだんだん彼女を苛めている自分に酔っていることに気づいた。そうか、女を苛
めるのはこんなに甘美なことだったのか。自分のペニスが固くなってきているのを
自覚しつつ僕はさらに彼女に汚い言葉を浴びせかけた。彼女は僕の股間の盛り上が
りに気づき、もはや恐怖を隠しもせずに必死の形相で逃げようとする。しかし不思
議なことに声はまったく立てない。ただ、激しい息の音が響きわたるだけだ。その
音に僕はますます硬く勃起した。
  どこかに物陰はないか。僕はせわしなく辺りを窺った。しかしそこは住宅地の真
ん中であり、周囲は建て売りの家々が立ち並ぶばかりだ。さすがによその家の庭で
やってしまうというのには抵抗があった。
  そこで僕はその場で右手を彼女の髪から離し、片手だけでブリーフを引きおろそ
うとした。ところが裾が勃起したペニスに引っ掛かってしまいうまく脱ぐことがで
きない。早く犯したいという獣欲と手早くやらなければという焦りとに追い立てら
れているためかなおさらうまくいかない。しばし片手で悪戦苦闘したあげく、よう
やくのことで僕はペニスを裾からはずし、一気に膝までずり下ろした。
  その瞬間、突然彼女が僕の左手を振りきった。
「あっ」
  僕は思わず声を上げた。彼女はそのまま振り返りもせず、ハイ・ヒールを履いて
いるとは思えないほどのものすごいスピードで疾走し、あっという間に先の角を曲
がって姿を消してしまった。
  僕は茫然とその場に立ち尽くした。ブリーフは僕の膝の辺りで止まったままだ。
勃起したままのペニスの先が風に吹かれて冷たく感じられる。しかし腰の奥にはま
だじんじんと痺れるような感覚が残っていて、そのせいでペニスの勃起がおさまら
ない。僕は歩き出そうとして膝のブリーフに脚を取られ、あやうく転びそうになっ
た。僕は舌打ちしてブリーフを引き上げ、ぶらぶらと歩きはじめた。
  なんとかしてこの勃起をしずめなければ。今や僕の頭にはそれしかなかった。僕
のペニスはブリーフの中に収まりきらず、亀頭がはっきりと上から顔を覗かせてい
る。脚を運ぶたびにブリーフのゴムで亀頭がこすられるため、その部分が赤く充血
してバルトリン液にまみれ、てらてらと光っている。
  ときどき行く手から若い女性がやってくるが、僕の姿を見ると皆恐怖の表情をあ
らわにして引き返したり横道に入ってしまったりする。男ですら全員が僕を避けた。
僕は苛々してきて、たまたま目に入った自転車や交通標識や看板をがんがん蹴りな
がら歩いた。
  そのうちに、その「蹴る」という行為自体が快感になってきた。革靴を履いてい
るので爪先にはほとんど痛みはなく、むしろ快い衝撃として感じられた。また、爪
先の当たる場所や角度、力の入れ加減によって、それこそ痛みがまったくなく、向
こう側へ力がすぽん、と抜けていくような感触を覚えることもあった。これはなん
とも気持ちのよいものだった。まるで自分がきわめて熟練した職人になったような
気になって僕は嬉しくなった。いつの間にか僕は両手を振り回し大声であーおーと
歌いながら、スキップするように周囲のものを蹴り飛ばしていた。
  やがてそれにも飽きて僕は立ち止まった。ふと下を見ると、ペニスはいつの間に
かすっかり萎んでしまっていた。僕は、なんとなく拍子抜けしながらもほっとした。
すると腹がぐうと鳴った。そう言えば今日はまだ何も食べていなかったのだ。身体
は正直だ。母親はどうなっただろうか。とりあえずいったん戻ってみるか。ズボン
も履いてないし。僕は急に自分がブリーフ姿であることがたまらなく恥ずかしく感
じはじめた。ついさっきまでは平気だったのにおかしなことだ。僕は片手で前を隠
し、背中を丸めて歩きだした。革靴のたてる音がいやに大きく聞こえ、ひどく気に
なったので、僕は革靴を脱いでもう片方の手に持ち、爪先立ちで小走りに家へと駆
け戻った。

  体育の授業があった。体育の時は、宇宙人どもと一緒に密閉されている部屋から
外に出ることができ、多少は気分が楽になるので比較的好きな課目である。
  僕たちはグラウンドに出、準備運動をした。それが終わると教師は僕たちに陸上
競技用トラックを十周しろと言った。マラソン大会の練習だという。トラック十周
というと四キロメートルである。僕の通う学校はやたらにグラウンドが広く、その
せいでトラック一周の距離は他の学校の倍、正式な陸上競技場と同じ四百メートル
あるのだ。
  僕たちは一ヶ所に並ばされ、教師の笛の音でいっせいに走りだした。僕も他の宇
宙人どもの後ろについてとことこと走りだした。
  しかし一周も走らぬうちに僕は走るのに飽きてしまった。それはそうだ。ボール
などを追いかけるでもなく、単に同じところをひとりでぐるぐる回るだけなのだ。
気の狂った奴でもなければ飽きるのが当然だ。なぜただひたすらに、延々と走り続
けなければならないのだろう。ただ苦しい思いをするだけではないか。僕には、ど
うして自分が苦しいのを我慢してまで走り続けなければならないのかまったくわか
らなくなり、走るのをやめて歩きはじめた。しかしずっと先のほう、もう僕よりも
二百メートルほど先を走っている宇宙人どもは、一団となってものすごい勢いで突
っ走っている。彼らはちょうどトラックの反対側を、こっちに向かって走ってきて
いるのだが、みな両眼が吊り上がり、舌を出して、何かに取り憑かれたかのような
悪鬼のごとき表情で爆走している。なぜあんなにおそろしい顔をしてまで速く走ら
なくてはいけないんだろう。
  すっかり阿呆らしくなってきたので僕はトラックをはずれ、校舎に向かって歩き
だした。するとすかさず背後で鋭い笛の音が鳴り響いた。僕はそれを無視して歩き
続けた。そのうちに重い足音が聞こえてきて、それが急速に近づいてきたかと思う
と、僕の体操着の襟が乱暴に後ろから引っ張られた。
「この野郎。笛が聞こえなかったのか」
  体育の教師は僕に臭い息を吐きかけて言った。たまらず僕はそれを正直に言った。
「くせえ」
「なんだと」教師の顔は面白いほどにみるみる赤くなった。「ふざけるな」彼はそ
れだけ言うと、いきなり僕の脚に蹴りを入れた。僕はさほど痛いとも感じなかった
が、しかし「蹴られた」という事実に僕の頭の中は白くなった。
「がああ」
  僕は叫びながら逆に教師の尻を蹴り返した。相手に怯んだ様子が見えたので、僕
はさらに強く蹴ってやった。彼はこちらに半分ほど背中を向けた。明らかに蹴られ
ることを嫌がっているのだ。僕は声を出して笑った。ではもっと蹴ってやらねばな
らない。僕はげらげら笑いながら両足で滅茶苦茶に教師を蹴りまくった。さらに顔
と言わず胴と言わず拳でがんがん殴った。これはとても気持ちよく、僕は陶然とし
つつ蹴りつづけ、殴りつづけた。
  どのくらい経ったのか、さすがに疲れたので僕はその作業を中断した。僕の足も
とには血まみれになった教師が横たわっていた。うつ伏せで、首が不自然な感じに
捩じれている。意識はまったくないようだ。僕は自分を邪魔するものがなくなった
ので嬉しくなり、軽くははは、と笑った。宇宙人たちは遠くから僕を見ていたが、
近づいてくる気配はなかった。
  僕は彼をその場に放置し、まっすぐ教室に戻った。僕は無人の教室でさっさと着
替え、それから教壇の上に乗るとズボンとブリーフをおろしてしゃがみ込み、そこ
で大便をした。けっこうな量の便が教壇の真ん中に盛り上がった。ティッシュ・ペ
ーパーがなかったので、僕は手を伸ばしていちばん近い席の宇宙人の机の上からノ
ートを取り、でたらめに数ページを破りとってそれで尻を拭いた。何か字が書いて
あるページもあったが別に構うものか。どうせ誰も僕には何も言わないのだ。
  僕はズボンを上げて教壇から飛び降りると鞄をつかみ、そのまま学校から飛び出
した。

  今日は日曜日だ。何もすることがないので、僕は目が覚めた後も布団をかぶった
ままうつらうつらしていた。母親も姉も寝こけているらしく、家の中には物音ひと
つしない。この時が僕にとっていちばん幸せな時かも知れない。
  突然、一階から足音が聞こえてきた。明らかに母親のものでも姉のものでもない。
しかし聞き覚えは確かにある。ということは父親のものか。確かに、日曜日で会社
は休みなのだから家にいてもおかしくはないのだが、例え日曜日でも父親はゴルフ
に行ったり出張したりで家にいることは滅多にないのだ。珍しいことがあるものだ、
などとまだ半分眠っている頭でぼんやり考えていると、その足音が階段をのぼって
きた。おやおや、どうしたのだろう。足音は僕の部屋の前を素通りし、隣りの部屋
の前で止まった。そこは姉の部屋だ。なるほど。さては腹が減ったのだな。おおか
た、一階の同じ部屋で寝ている母親を起こそうとして失敗したのだろう。しかし姉
も母親に負けず劣らず手強いことは父親も承知しているはずだ。どういうつもりな
のだろうな。
  しばしの静寂のあと、姉の部屋のドアが開く音が微かに聞こえた。おいおい、い
きなりノックもなしかよ。僕は布団の中で思わず身を固くした。知らねえぞ。
  それからまたしばらく物音が途絶えた。父親もまだ迷っているのかも知れない。
ひとつ間違えれば濁流のごとき悪口雑言が彼を直撃することとなり、少なくとも二、
三日は立ち直れなくなってしまうことが明白だからだ。事実、彼はそういう経験を
何度もしてきているはずなのだ。僕は息を詰め、ほんの少しの空気の動きも読み取
ってやろうと身構えた。もう眼は完全に覚めてしまっていた。
  突然、姉の悲鳴が響き渡った。そらきた。僕はベッドの上に起き上がった。こう
なったら父親ひとりじゃ絶対に事態の収拾は無理だ。最悪の場合は僕が割り込んで
いかねばなるまい。
  叫び声に続いて、何か固いものが壁にぶつかるような音がした。それから乱れた
足音がしばらく聞こえたかと思うと、ほどなくして激しくもみあっているようなず
しんずしんと重い音がしはじめた。僕は立ち上がった。どうもいつもとは様子が違
う。いつもなら、まず姉が罵倒の絨毯爆撃を浴びせかけ、その後にとどめを刺すか
のごとく物を投げつけるのだ。しかし今度は最初の叫び声だけで、その後いっさい
声が聞こえてこない。僕は部屋を飛び出し、彼女の部屋のドアを開けた。
  父親は僕に背中を向けていた。そして姉のベッドの上に両手をついて四つん這い
のような格好になっていた。腰が上下に動いている。その下には姉がいる。脚を大
きく広げ、眼を閉じて気持ちよさそうに喘いでいる。
「うわっ。この馬鹿、何やってんだ」
  僕が思わず怒鳴りつけると、父親は首だけを少し後ろに向けた。
「なんだ、お前か。そうでかい声でわめくなよ」
「これが喚かずにいられるか」僕は部屋の中に足を踏み入れながら怒鳴り続けた。
「実の娘とエッチする馬鹿がどこにいる。てめえいつからそんなに見境がなくなっ
たんだよ」
「うるさいなあ」父親は姉の両脚を自分の肩にかけてすくい上げるようにすると、
より深くペニスを挿入した。姉は太い声でおおう、と呻き、快感に顔を歪めた。僕
は行為に没頭する二人を前にして言葉を失い、ただ茫然と二人の交わりを見つめた。
  そのうちに姉が起き上がり、今度は彼女が上になった。父親の隆々とそそり立つ
ペニスを片手で握り、そろそろと自分の膣へと導く。位置を合わせ、先端を膣口に
軽く当てて確認し、それから一気に腰を沈めた。にちゃっという音が響き、同時に
彼女は長い吐息を漏らした。父親と姉とが繋がっている部分が後ろからはっきりと
見える。僕は勃起した。僕は半ば無意識のうちに、部屋着であるショート・パンツ
の裾から手を入れ、指先で睾丸を弄び、硬くなったペニスを握った。すぐに掌がバ
ルトリン腺液でぬるぬるになる。姉は野太い声をあげながら腰を上下に振り、父親
の下腹部に尻を激しく打ちつけた。僕はショート・パンツとブリーフを脱ぎ捨て、
二人の皮膚が打ちあたる音にあわせてペニスを強くしごき、呻き声をあげて父親が
果てるのと同時に高々と射精した。
 僕は椅子に掛けられていた姉のブラウスでペニスを拭き、ショート・パンツとブ
リーフを履いて部屋を出た。そう言えばなぜ彼女の部屋に入ったのだったっけ。僕
はそれを思い出そうとしたが、すっかり忘れてしまっていて思い出せなかった。
 階下のダイニングに行ったがそこには誰もいなかった。母親はまだぐうぐう寝て
いるのだろう。僕は小鍋で湯を沸かし、インスタント・コーヒーを作って飲んだ。
 飲み終わってから時計を見るとまだ八時半である。眠気は残っているのだが、さ
っきの騒ぎですっかり目が覚めてしまい今さら寝なおすこともできない。家にいて
もどうせろくなことはないので、僕は服を着て外に出ることにした。
 特にどこに行くという当てもなく、僕はふらふらと駅に向かって歩いた。住宅街
を抜け、緑色と茶色とでべったりと塗られた細い道に入るとそこはもう駅まで続く
商店街だ。こんな時間、しかも日曜日なので、ほとんどの店は閉まっている。
 薬屋の前で、店先に顔の大きなオレンジ色の象のマスコットが置いてあるのが目
にとまった。鼻先を軽くつついてみると、その大きな顔がゆらゆらと揺れた。どう
も首の部分にスプリングか何かを仕込んであるらしい。今度はもう少し強く突いて
みた。すると大顔がぐらぐらと前後左右に揺れた。僕は思わず声をあげて笑った。
さらに力を入れて顔を押してみると、それはいっそう出鱈目に揺れた。僕は嬉しく
なって興奮し、大声で叫びながら何度も手を叩いて跳ね回った。そして笑いながら
どんどん力を入れてマスコットの顔を押した。それは笑顔を浮かべたまま、まるで
気が触れたかのようにぐるんぐるんと激しく振動した。・・・いつの間にか僕の動
作は「押す」と言うよりも「叩く」に近くなっていた。僕は涙を流してゲラゲラ笑
いつつ、飛び上がりながら渾身の力でそれを叩き続けた。やがてそれでも物足りな
くなり、ウエスタン・ラリアートを見舞ったり、助走をつけて跳び蹴りを浴びせた
りもした。
 しばらくの後、疲れを感じたので僕はその活動を中止した。呼吸が落ち着いたと
ころであらためてマスコットを見ると、顔のあちこちが割れて穴が開いており、鼻
の先が完全に欠損していた。また顔全体が首の部分から変な角度に曲がっていて、
ちょっと首を傾げたような感じになっていた。指先でおでこを押してみたが、それ
は軋んだ音をたてるだけで動かなかった。僕は急速にそれに興味を失った。ふと横
を見ると、中年の男が立っていて僕に何か言っている。頭がぼうっとして何を言っ
ているのかよくわからないが、表情から察するとどうも僕の悪口を言っているよう
だ。腹が立ったので僕はずい、と彼の正面に行き、無言のまま両手で彼の胸元を力
一杯突いた。彼は無様にバランスを崩し、開いていたガラス張りのドアの向こうに
吹っ飛んで行った。僕はすぐに彼に対する興味を失い、動かなくなったマスコット
の頭を平手でひとつ叩いてその場を立ち去った。
 そのまま僕は駅までぶらぶら歩いて行ったが、結局パチンコ屋とコンビニエンス・
ストアしか開いておらず、いずれも特に僕の興味を引かなかった。仕方なく僕は家
に戻った。
 ダイニングに行ったが、あいかわらずそこは無人だった。僕は再び湯を沸かし、
インスタント・コーヒーを作ると、マグカップを抱えて二階の自分の部屋に行った。
 ドアを締め、椅子に座ってふた口ほど啜ったところで、さっきの姉と父親との交
わりの光景が頭の中に鮮明に蘇った。急に、姉が性器を持ちセックスをする「女」
であることを意識し、僕のペニスは勃起した。僕はすぐにジーンズとブリーフを脱
ぎ捨てて左手でペニスを握り、激しくしごいた。ほんの一時間かそこら前に一度射
精しているのに、僕はあっという間に絶頂に達した。しかし僕は満足できなかった。
現実の女性器にこれを挿入しなければどうにも収まりそうになかった。
  そこで僕はいったんティッシュ・ペーパーでペニスを拭き、ブリーフだけを穿く
と部屋を出て姉の部屋に向かった。
  ドアをノックすると、かすれた声で「はああい」という声がした。それを聞いて
僕はまた激しく勃起した。僕はドアを開けて中に入った。
  父親はもういなかった。さっき僕が放出した精液はまだ拭き取られておらず、半
乾きの状態でフローリングの床に散っていた。姉はベッドの上でだらしなく脚を開
き、とろんとした眼をして仰向けに横たわっている。彼女の性器が僕の正面にあっ
た。僕のペニスはさらに硬度を増して仰角に反り返り、痛みを感じるほどだった。
先端はブリーフのゴムを突き破り、臍の下に顔を覗かせていた。
  彼女は薄く眼を開けて僕を見、それからぎょっとしたように両目を見ひらいた。
「何よあんた」
  僕は無言のままブリーフを脱ぎ捨てた。そしてベッドの脇に行き、凝固している
彼女の髪を鷲掴みにした。彼女は抵抗しようとしたが、力がうまく入らないのかそ
れほど強い抵抗ではなかった。僕はその口にペニスを無理矢理にねじ込み、苦しげ
な呻き声をあげるのに構わず、喉の奥まで届くほどに激しく突きまくった。彼女の
目尻から涙が零れ落ちる。それを見ながら僕はひと声絶叫し、口の中に激しく射精
した。
  僕は激しく咳込む姉をベッドの上に突き倒してその両脚を大きく広げた。彼女は
懸命に脚をばたつかせようとしたが、僕は難なくそれを押さえつけ、そのままベッ
ドに上がると何も言わずに一気にペニスを根本まで挿入し、あっという間に果てて
しまった。
  彼女の上に重なって荒い息をついていると、いきなり彼女が叫びはじめた。
「馬鹿。あんた生で中出ししたでしょう。妊娠したらどうするのよ」
「いいじゃん」僕は急速に彼女に興味を失いつつあった。妊娠やら何やらのことは
僕にはどうでもよいことだ。「産みたきゃ産めばいいし、産みたくなきゃ堕ろせば
いい」
「そういう問題じゃないでしょ」彼女の声のヴォルテージが上がる。しかも僕のす
ぐ耳元である。うるさくてしかたがない。
「うるせえな」
「うるせえなじゃないでしょ。どうするのよ。責任取ってよ」
「なんだよ責任って」僕は露骨に不愉快そうな声で言った。「だいたい、糞おやじ
だってやってたじゃねえかよ」
「お父さんはちゃんとかぶせるものはかぶせてたわよ」彼女は僕を見くだすような
表情になった。「だいたい、あんたなんかよりずっと上手よ」
「な、何」僕は逆上した。そして姉の憎々しげな顔を平手で張り飛ばした。
「何すんのよ」彼女は金切り声を上げた。「姉を殴ったわね」
「うるせえやこのどスベタ」僕はもう一度ビンタを食わせた。彼女が抵抗するのを
やめたので、僕はペニスをしごいて復活させると彼女の性器に突っ込み、大声で咆
哮しながら無我夢中で突きまくって何度も射精した。そのうちに性器から僕の精液
が溢れ出しはじめたので、こんどは彼女の肛門にペニスを突き刺した。ペニスが僕
自身の精液にまみれていたせいか、意外とスムースに奥まで入った。肛門には、そ
の構造の違いのためか性器とはまた違った快感があり、僕は猛烈に興奮してさらに
何度もくりかえして射精した。その後も僕は肛門や口へと射精に射精を重ね、自分
でも何度出したかわからなくなるまで出して、ついに出るものがなくなるまで徹底
的にやりまくった。
  気がつくといつの間にか昼過ぎになっていた。睾丸の奥のあたりがじいんと重く
痺れ、全身がだるくてしかたがない。僕はのろのろとベッドから降り、精液まみれ
で気を失っている姉をそのままにしてブリーフを穿き、自分の部屋へ戻った。あの
ブスもしばらくすれば気がつくだろう。そう思いながら自分のベッドに腰掛けた途
端、まるでゴム製の槌で後頭部を軽くごん、と殴られたかのように眠気が僕を襲い、
そのまま僕は暗い泥の中に落ち込んでいった。
  気がつくともう夜だった。まだ下半身が重く、うまく力が入らない。それでも腹
が減ったので、僕は壁に手を突きながらゆっくりと階段を下りた。
  台所に行くと姉が夕食の準備をしていた。母親はとうとうまる一日ぐうたらと寝
て過ごすつもりらしい。なんて奴だ。
  その時、姉が振り向き、僕とまともに眼が合った。僕は反射的に眼をそらしてし
まった。すると彼女はにやにやしながらこっちにやって来た。
「さっきはどうも」姉は含み笑いをしつつ小声で言った。
「ああ」どうしても彼女の顔を見ることができない。
「今度またお尻に入れて」
「は?」
  彼女はそれだけ言うとまたすぐ料理に戻った。とりあえず彼女は怒ってはいない
ようだ。しかしあんな奴の彼氏になる奴は大変だろうな。僕は安心し、居間にテレ
ビを見にいった。

  朝、電車の中でぼうっと立っていると、途中で目の前の座席が空いた。通学途中
に座れるなんて初めてのことではないだろうか。僕は嬉しくなり、誰かに取られな
いうちにすばやくその空席に腰を下ろした。
  実際に座ってみると、立っている時に比べればまさに天国だった。いつもは、わ
ざわざ密着するように立ったり、ひとりで必要以上に場所を取ったりする馬鹿ども
が多いせいで、ほとんど反吐を吐きたくなるほどに不快感を感じるのだ。今日はな
んて運がいいのだろう。僕は機嫌がよくなり、そのせいかなんとなくはめていた腕
時計を誰かに見せて自慢したくなって、左隣にいた中年女に向けて腕を突き出した。
驚いたような顔をする彼女に向かって僕は言った。「ほら、時計」
  彼女は驚いた表情を残したまま身動きひとつせずに時計を見ている。僕は嬉しく
なった。ふふふ。驚いているぞ。「ほら。すごいすごい。時計。ほら」
  彼女はそのうちに硬い表情のまま眼をつぶって寝てしまった。
  次の駅に着くと、さらに何人かの乗客が乗り込んできた。その中に、安物の型崩
れしたスーツを着た、無理にしかつめらしい表情をつくっているような顔をした中
年男がひとりいた。男はまっすぐ僕の前にやって来た。なんだか嫌だなあと思って
いると、男は僕の右隣にむりやり割り込むように座ろうとしはじめた。
「なんだこいつ」と驚いて僕は抵抗した。だいたい、どう見ても人ひとりが座れる
スペースなど残っていないのである。・・・しかし男は知らぬ顔で身体をねじ込み、
強引に座席に腰を下ろしてしまった。窮屈なことこの上ない。男の向こう側の若い
女性などは男に弾き飛ばされてしまったような格好で、やむなく前かがみになって
肩をすくめている。僕は腹が立って男のほうを向いて言った。
「おい。なにすんだよ」
  しかし男はまるで何も聞こえなかったかのように僕を無視し、あらぬ方向を向い
たままむっつりと黙り込んでいる。そこで僕は男の襟首を掴んだ。
「この野郎。無理矢理こんなところに座るんじゃねえって言ってるんだよ」
男はなおも僕を無視しつづけた。それどころか、短い両脚を大きく広げて踏ん張
り、逆に自分の占有エリアを広げにかかった。
  僕は完全に逆上した。僕はいきなり立ち上がると、男の醜い顔にアッパー気味の
パンチを一発叩きこんだ。くぐもった音が響き、男の頭はねじれながら大きく斜め
後ろにのけぞった。僕はさらにそこへストレートを打ち込んだ。男は後頭部をガラ
ス窓に激しく叩きつけ、そして隣で前かがみになっている女にぐにゃぐにゃと凭れ
かかると、脂ぎった鼻と汚い色の唇とを彼女の首筋に押しつけた。彼女はびくっと
身体を震わせ「ひっ」と悲鳴をあげた。
  この野郎、さらに女にいやらしくすり寄っていやがる。汚ねえじじいめ。僕は彼
の首からぶら下がっているネクタイを両手で掴むと、渾身の力をこめて一気に締め
上げた。かは、という音が喉の奥から吐き出され、ほんの数秒ほどで彼は完全に気
を失って床に崩れ落ちた。僕はすぐに彼の首に食い込んだネクタイをはずして床の
上に投げ捨てた。
  それから僕はズボンとブリーフを下ろし、横たわる男の顔の真上にしゃがんだ。
そして大便をした。家を出る前にトイレに行っていなかったせいか、かなりたくさ
ん出た。ひととおり大便が出てしまうと小便も出てきたので、それを男の身体にた
っぷりとかけてやった。排便が終わると僕は鞄からちり紙を出して尻を拭き、それ
を男の顔の上に置いた。エアコンの風に吹かれ、紙がふるふると震えた。
  電車が駅に着いた。学校の最寄りの駅ではなかったが、僕は電車から降りた。
  そこから僕は学校まで歩くことにした。せいぜいひと駅ほどの距離だし、それに
ほとんど一本道だ。遅刻にはなるだろうが別にそれは大したことではない。だいた
い始業時刻なんていうものは学校が勝手に決めたものだ。それを一方的に押し付け
られる筋合いはない。僕は僕のペースでやる。僕はのんびりと、深く息を吸い込み
ながら歩きはじめた。
  歩いているうちに僕はだんだん学校なんてどうでもよくなってきた。別に行かな
くたって死ぬわけじゃないし、行ったってどうせ宇宙人どもに囲まれて窮屈な思い
をするだけだ。そんな所に無理をしてまで行くことはない。時間と労力の無駄だ。
  僕は学校を休みことに決め、駅に引き返した。そして待合室のベンチに座り、集
まってくる鳩どもを蹴散らしながらしばらく時間を潰した。ときどき、大勢の人が
いる前で大声を出してみたくなって、わざと待合室に人が増えた頃を見計らって何
度か絶叫した。それにも飽きると、今度は定期券で改札を通り、いちばん最初に来
た電車に、行先も何も確かめずに乗り込んだ。僕は先頭車両に行くと、他の乗客を
掻き分けて乗務員室の真後ろにへばりつき、フロント・ガラスの向こうに見える景
色をじっと見詰めた。眼前に刻々と新しい風景があらわれてくる様子はとても面白
く、僕はたちまち興奮した。僕は顔をべったりと仕切り窓に押しつけてしばらく鑑
賞しては「おう」「おう」と感嘆の声をあげつつ辺りをぐるぐると歩きまわり、や
がてまた見たくなって窓に張りついた。こんな刺激的なものを見たのは久しぶりで、
僕は有頂天になった。なぜ今までこんな面白いことに気がつかなかったんだろう。
これはすごい。すごいんだよ。みんなすごいことなのか知ってるか。家が走るんだ。
木が走ってくる。なめらかなんだ。線路!線路が流れる!!流れる流れる! 僕はい
つの間にか考えたことをそのまま口に出していた。すごい速さなんだ。どんどん景
色が生まれる。新しい風景なんだ。いやっほう。
  景色の流れる速さがだんだん遅くなりはじめ、そして前方に駅が見えてきた。よ
く見るとそれは学校の最寄りの駅だった。でたらめに乗ったつもりだったのに、結
局はいつもの電車に乗っていたのだ。僕は急に気分が落ち込んできた。腕時計を見
るとまだ昼までにはずいぶん時間がある。しかたない。学校に行くか。駅に着くと
僕は電車から降り、宇宙人どもに何て言い訳しようかと考えながら、のろのろと学
校に向かって歩きだした。

  今日は土曜日。学校は休みだ。最近は月に二回、土曜日も休みになる。しかし僕
にとっては平日も休日もそれほど変わらない。平日は学校に行くが、どうせ連中の
言うことはすべて右から左へ素通りしていくし、僕からも特に奴らに関わったりは
しない。休日も、学校にこそ行かないがやっぱり周囲の連中は宇宙人だ。違うのは
単に朝寝坊ができるということぐらいだ。
  今日も僕はその唯一のメリットである朝寝坊を充分に楽しんだ。十時ごろにベッ
ドから離れ階下に降りると、他の家族は全員どこかに外出してしまっていた。とは
言っても、全員が一緒に揃ってどこかに行ったということではない。それぞれがて
んでに行きたいところに行ったというだけのことだ。
  僕は冷蔵庫を開けて納豆と卵を見つけ、味噌汁を温めなおして遅い朝食をとった。
それからしばらく居間に寝転がってぼうっとテレビを見ていると、画面にターミナ
ル駅付近の風景が映し出された。なにやら生放送のグルメ番組らしく、若い女二人
組がマイク片手にそのへんの蕎麦屋とかラーメン屋などに押しかけ、異様に甲高い
声できゃあきゃあと何ごとかを叫んでいる。何を言っているのかはさっぱりわから
ない。ただ断片的な記号を羅列しているようにしか聞こえないのだ。なんだこいつ
ら。白痴じゃないのか。僕はその騒々しい女どもに殺意をおぼえた。こいつらを殺
さなければならない。今すぐ殺さなければならない。僕はすぐ部屋に戻って服を着
替え、財布だけポケットに突っ込むと家を飛び出した。
  いつもとは反対方向に行く電車に乗り、しばらくすると問題の大きなターミナル
駅に着いた。僕は下車し、人の波に押されながら改札口を出た。
  出たところで僕ははたと立ち止まった。あの店はいったいどのへんにあるんだろ
う。この改札口でよかったんだろうか。何しろターミナル駅なので改札口、出口が
無数にあるのだ。ここが店の最寄りの改札口なのかどうかわからない。だいたい、
自分がいまターミナルのどの辺にいるのかすらわからない。いやその前に、目的地
の店の名前も場所もわからない。テレビで店名や場所を確かめずに飛び出してきて
しまったのだ。それにテレビに映っていた店はひとつではなかったはずだ。いった
いどの店に行けばいいのか。茫然と突っ立ったままの僕を通行人たちが何やら罵声
とともに乱暴にこづき回していく。僕はパニックに陥った。僕はどこだ。なぜ人が
こんなに。なぜ僕をこづき回す。僕は悪いか。痛い。いま何か僕に言ったか。誰だ。
何と言ったのかわからない。こいつらは一体何を喋っているのだ。あっ。宇宙人か。
宇宙人。宇宙人。やっぱりこいつらも宇宙人だ。おれひとりだけが違うのだ。助け
て。助けてくれ。
  僕は絶叫した。改札の前で人波にもまれこづかれ突き飛ばされながら僕は両脚を
ふんばって恐怖の叫びをあげた。叫ばずにはいられなかった。
  そのうちに僕にぶつかる人々はいなくなった。みんな僕のほうを見ないようにし
て遠回りしていく。さりげなく見せているようだが僕にはそれが僕を避けるために
故意にしていることだというのがわかるのだ。くそ。宇宙人どもめ。あのテレビの
女どもだけでなく、こいつらも全員殺してやらねばならない。学校の連中もだ。し
かし僕は凶器を何も持っていなかった。興奮したまま何も持たず飛び出してきてし
まったのだ。
  僕はしかたなく、できるだけ大きく肩をゆすり、腕を横に振りながら、わざと他
の宇宙人どもにぶつかるようにして歩きだした。両脚を外側にほうり出すようにし、
胸をぐいと反らし、昂然と顔を上げて宇宙人どもを見おろしながら大股でのし歩い
た。誰か注意する奴がいたら半殺しにしてやるつもりだった。しかし皆、僕の姿を
認めると行手から水が引くように去っていくのだった。肝心な時に誰もぶつかって
くれず、僕は苛々した。
  その時、腹がぐうと鳴った。途端に僕はもう食べることしか考えられなくなって
しまった。食い物屋はないか。僕は眼をぎらつかせて辺りを見回したが、そこはた
だの通路であり、無数の宇宙人以外には一軒のしょぼくれた売店しか見当たらない。
そんなところに行ってもジュースとせこいお菓子ぐらいしか手に入らないのだ。
「めし」
  僕は歩きだした。頭が朦朧としはじめている。とにかく外に出なければ。しかし
いったいどこから外に出たらいいのだ。僕はとりあえず明るく見える方向に向かう。
もはや周囲の宇宙人など眼に入らない。頭の中に、きつね色に揚がった香ばしい小
海老入りのかき揚げにしゅうしゅうと熱いつゆがしみ込む天婦羅蕎麦とか、わずか
に脂の浮いた透明な醤油味スープの中に細い縮れ麺、叉焼、ほうれん草、メンマに
ナルトが浮かぶ熱い熱いラーメンとか、ラードでしっかりと揚げた大きなとんかつ
を黄金色のたっぷりとした卵でとじ、半熟の状態でごはんの上にぶっかけたほかほ
かのかつ丼とか、深い皿の右半分に山のように盛られたごはんに、ぶつ切りの牛肉
がごろごろしているきっぱりとした味のルウがたっぷりとかけられ、そこに生卵が
一個落としてあるカレーなどのイメージがぐるぐると回りはじめる。口の端から涎
が垂れているのが自分でもわかる。食べ物屋はまだ見つからない。腹の底のほうか
らこまかい痙攣が湧きおこってきて、両手の指がぶるぶると震えはじめた。あきら
かにエネルギー不足の状態に陥っているのだ。一刻も早く何か食べないとぶっ倒れ
てしまう。これは比喩ではなく本当にぶっ倒れるのだ。そういう経験が何度かある
のだ。
  そのうちに明るいガラス・ドアの前に出た。しかしそれは食べ物屋ではなく駅ビ
ルへの出口だ。気が遠くなりかけたが、しかし、駅ビルには食堂街があるのではな
いかということに気づいた。僕は霧のかかったような頭で必死に考える。ふつうこ
ういうところにはどこかに食堂街があるはずだ。フロア案内はどこだ。ないのか。
案内係はいないのか。くそ、なぜこんなに無駄に明るいんだ。でも肝心のフロア案
内はどこにも見当たらない。フロア案内! 僕は叫びながらドアの周囲をうろうろ
と歩き回った。女性の店員がひとり、怯えたような眼をしながら必死にドアのほう
を指差して何か言っているのが見えるが何を言いたいのか僕にはわからない。とい
うよりも彼女の声が聞こえない。周囲の物音がもう殆ど聞こえなくなっている。頭
の中でごうごうと風が吹きつけるような雑音が切れ目なく鳴り響いている。目の前
が一面に黄色くなってきた。それでも僕の身体は勝手に動きつづけている。
  ガラス・ドアを出てふたたび通路に戻り、ふらふらと歩いているうちに階段を見
つけた。僕は手摺にしがみつきながらその階段を下りる。外に出た。そこは駅の正
面からはちょっとはずれたところらしく、出口の前にわずかなスペースがあるだけ
で、そこから狭い路地が縦横に走り、古く小さな木造の家々がぎっしりと立ち並ん
でいる。出口の周辺にはたくさんの自転車が乱雑にとめられている。僕はしばらく
立ち止まってあたりを眺めたが位置関係がよくわからない。しかたなく僕は足の向
くままに歩きはじめる。人がやっとすれ違えるほどの狭い路地に入り込む。ほとん
ど黒と言ってもいいくらいの焦茶色の板塀が続き、その隙間から亜鉛色の低い瓦屋
根の軒が見える。ときどき線香や墨の匂いがつんと鼻をつく。浪花節なのか、だみ
声で何やら唸る声が切れぎれに聞こえてくる。それは僕が普段知っている世界とは
まったく異質だった。僕は空腹だったことも忘れ、酔ったようになってふらふらと
歩きまわった。
  そうやって何度めかに路地の角を曲がると、突如として僕は商店街に出た。車が
辛うじてすれ違えるほどの広さの道がまっすぐに伸び、その両側に食品やら衣料や
らありとあらゆるものを扱う店が立ち並んでいた。いずれも小さな個人商店だ。休
日なので人通りが多い。いちばん多いのはやはり主婦らしき中年女性だが、それに
混じって僕と同じくらい、あるいはもう少し上の年代の男女もかなり歩いている。
辺りには何かを揚げる油の匂いや、だしや醤油の匂い、ソースの匂いなどが混じり
あったものが濃厚に漂っている。僕はそれらを嗅ぎなかば恍惚となりながら商店街
を歩き、やがて胡麻油の香りに引かれて一軒の天丼屋を見つけた。
  中に入り、カウンターしかない席に座って品書きを見ると、天丼とえび天丼だけ
だった。天丼のほうが安かったので僕はそれを注文した。
  目の前で手際よく海老、きす、烏賊に衣がつけられ、なみなみと琥珀色の油の張
られた巨大な鍋の中に滑り込んでいく。それらはしゅうしゅうと細かい音を立てて
浮かび上がり、すぐに香ばしい匂いをたてはじめた。しばらく止まっていた指の震
えがまたはじまった。しばらくすると音がばちばちと硬い音に変わり、それを合図
に海老たちは裏返しにされ、それから軽く衣をつけた海苔が油の中に追加された。
僕は額に汗を滲ませ、激しく貧乏揺すりをした。頭の中を吹き抜ける荒涼とした風
の音がまた聞こえてきた。やばい。早くしてくれ。僕は叫びだしたかったが、その
気力も急速に萎えてきた。震えは腹の底から這いのぼってきて寒気すら催し、一瞬
ではあったが、こんな苦しみを味わうのなら死んだほうがいいとまで思った。
  先に味噌汁が出てきた。しじみの赤だしだ。すでに限界点に達していた僕は、震
える手でお椀を持ち、必死の形相で一口すすった。すごく熱い。でも旨い。胃袋に
それが流れ落ちていくのがはっきりと感じられる。それと同時に身体の震えが見事
なほどにぴたりと止まった。
  半分ほど飲んだところでようやく天丼が来た。大ぶりのどんぶりに粒のはっきり
としたつややかなごはんがたっぷりと盛られ、その上に四種類の天婦羅が乗せられ
ている。ごはんがどんぶりの縁よりも高く盛り上がっているため、注意しないと天
婦羅が転げ落ちそうだ。僕はさっそく割り箸をぱちんと割り、海老に食らいついた。
  ふと気づくと、僕はすでに全部食べ終えてお茶を飲んでいた。食べている間の記
憶はみごとに欠落していた。もっとも、すごく旨かったということだけは覚えてい
た。天婦羅もごはんもおいしい、盛りも豪快でせこいところがない、天つゆも変に
甘いところがなくておいしい、味噌汁もおいしい。最高だ。僕はたちまち機嫌がよ
くなった。
  お勘定を払おうと値段を確かめると、なんとたったの五百円だった。僕はますま
す機嫌がよくなり、にこにこと愛想よくお金を払って店を出た。
  僕は店の前で大きくのびをした。満腹感と、いい店を見つけた満足感とで、僕は
とても心おだやかになっていた。その時、すぐ隣の喫茶店のドアが開き、ぞろぞろ
と十人ほどの男女が出てきた。男性の多くはそれぞれ大きなヴィデオカメラとかマ
イクとかライトとかよくわからない大きな板とか、何らかの器材を担いでいた。見
覚えのある若い女性が二人いた。しばらく考えて、それがさっきTVで黄色い声を
張り上げていた女性たちだったことを思い出した。僕は彼女たちが「お疲れさまー」
などと言いながら思い思いに散っていくのをぼんやりと見送った。たしか彼女たち
に何か用があったはずなのだが。しかし僕はそれを思い出すことはできなかった。
僕は思い出すことを放棄し、それから、ここに来るときに通ったあの路地への入口
を探した。しかしそれはどうしても見つからなかった。僕は仕方なく商店街を駅と
おぼしき方向に歩いた。間もなく駅前のロータリーが姿をあらわし、僕は中央口か
ら駅構内に入って切符を買い、家に帰った。

  学校からの帰り、電車に乗ると、たまたま反対側のドアの近くの席に僕好みの外
見の若い女性が座っていた。僕はなかば無意識のうちにふらふらと引き寄せられ、
気がつくと彼女の前に立っていた。彼女は横一列に伸びた席の端から二番目に座っ
ていたので、ドア脇の手摺の近くに立てば自然と彼女の前に来るのだった。
  近くで見ると、彼女はまさに僕の好みだった。吊り気味の眼、厚めで両端がわず
かにきゅっと上がった唇、肥満ではないが全体にちょっと丸っこい感じの体つき、
長くてきれいな爪。僕より少し年上のようだ。僕はぞくぞくし、たちまち勃起した。
  車内はまだそれほど混んでいない。僕はわずかに位置をずらし、彼女の隣の席が
空いたらすかさず座れるように準備した。もっとも、別に隣に座ったからと言って、
口説くとか何とかするわけではない。だいたい、改まって女の子に声をかけようと
すると途端に僕はほとんど口も利けなくなってしまうのだ。どうしてなのか自分で
もわからない。結局はいつもうまくいかず、女の子には振られ続けることになる。
僕は本当はとても素直でいい奴なのに、正しくそれが伝わらないのだ。焦ってはい
けない、と僕は自分に言い聞かせた。とりあえずは隣に座るだけで満足しておくの
だ。
  ところが、しばらくして彼女の隣は空いたのだが、それは僕が想定していたのと
反対側の席だった。あっ、と思ったときにはすでにそこには小柄な老婆が座ってし
まっていた。僕は舌打ちした。この野郎、そこは僕の席だったのに勝手に座りやが
って。おまえなんかどうせそこに座ったって別に何も感じないんだろうが。そんな
奴にその席はふさわしくない。僕のように強く彼女に惹かれる人間でなければそこ
に座ってはいけないんだ。糞ばばあめ。僕は心の中でその老婆に対してさんざん悪
罵を浴びせかけた。もちろん老婆はそのことに気づいてはいない。のんびりとした
顔で静かに座っている。そのことが余計に僕を苛々させた。
  やがて電車が次の駅に着いた。すると、今度は手摺のすぐ脇の席が空いた。とこ
ろがその時になって、自分が老婆を憎しみの眼で睨みつけているうちにいつの間に
かドア脇を離れ、その老婆のほうへと寄ってしまっていたことに気づいた。慌てて
僕は移動しようとしたが、空いた席には小学校の低学年くらいの女の子がさっさと
座ってしまった。くそ。このばばあのせいだ。このばばあのせいで僕は彼女の隣に
座ることができないのだ。僕の頭の中にはますます老婆への強烈な憎悪がぱんぱん
に充満し、隙あらば表へ噴出しようとした。僕はそれをまわりに気取られないよう、
無理に笑顔をつくってみた。すると「へへ」と声が出てしまった。僕の声が聞こえ
たのか、ターゲットの若い女性がちらっと僕の顔を見た。かすかに不審の表情が窺
える。何か変だと思われたのだろうか。まずいな。そこで僕は快活な好青年に見え
るよう、意識してさらににこにこと笑顔をつくった。
  ふと気づくと、さっきまで僕の周囲に立っていた乗客たちがいなくなっていた。
下車したのではない。僕から離れた別の場所に移動したのだ。あそこには背後にい
たスーツ姿の中年男、その向こうにはドアの反対側の手すりに掴まっていたはずの
制服姿の女子高生。皆、僕を遠巻きにするように距離を置き、僕を避けているのだ。
くそ。僕はおかしくなんかない。狂ってもいない。もしそう思われているのだとし
たら・・・そこまで考えて僕の頭は沸騰した。このばばあだ!
  その瞬間、僕の視界に火花が散った。僕は網棚を見た。うまい具合に、誰かが読
み捨てた分厚いマンガ雑誌がちょうど老婆の頭上に置いてあった。僕は手を伸ばし
てそれを手に取った。それからそのままあさっての方向を向き、あたかも偶然であ
るかのように見せかけるべく何気ない風を装いつつ、横目で狙いをつけてその手を
思い切り振り下ろした。
  ぱあん、と乾いた大きな音が響きわたり、雑誌は狙い通りに老婆の頭をまともに
ヒットした。
  周囲の乗客の視線がいっせいに僕に降り注ぐのを感じた。ちらりと老婆を見やる
と、彼女は何が起きたのかわからない様子で、ぽかんとした顔のまま凝固していた。
ざまあみろ。僕は思わず笑みを浮かべた。
  ところが突然、僕のターゲットの女性が僕に対してあからさまな非難の眼を向け、
大声で僕を糾弾しはじめたのだ。
「何するのよ! おばあちゃんは何もしてないでしょう! なに考えてるのよ」
  僕は彼女ににっこりと笑いかけた。僕は君には何もしていないじゃないか。ただ
隣にちょっと座りたいだけなんだよ。別に大したことはない。こんなばばあなんか
どうだっていいじゃないか。しかし彼女の眼には明らかに怯えの色が浮かんだ。
  その時、老婆はようやく事態を察したという感じで、そそくさと席を立った。最
初からそうしていればいいのだ。僕は老婆のほうをじろりと睨むと、さっそく空い
た席に座った。
  ところがターゲットの女性は露骨に激しく嫌悪の表情を示し、まるで汚いもので
も見るようなものすごい一瞥をくれて、きっぱりと席を立ってしまった。そんな。
せっかく苦労してここに座ったのに。しかし彼女は靴音高く僕から離れていき、隣
の車両に移って行ってしまった。僕は慌てて立ち上がり、彼女の後を追った。ここ
で逃がしてしまっては元も子もない。
  その時、急に電車が減速をはじめた。駅に近づいているのだ。早く捕まえないと
逃げられてしまう。僕は先に行こうと焦ったが、後ろに身体が引っ張られるのでな
かなか前に進まない。彼女にも同じ力がかかっているはずなのだが、彼女は力強い
足取りでぐんぐん僕から離れ、あっという間にさらに先の車両へと突入してしまっ
た。
  ついに我慢できず走りだそうとした時、ちょうど電車が駅に停車した。僕はその
反動で前に投げ出され、両手でガードする間もなく車両の間の仕切りドアにばん、
と激突した。じいんと痺れるような分厚い痛みが身体じゅうを覆う。ガラスの向こ
う側で、彼女が小走りに下車していくのが見えた。そして電車は発車した。
  僕は茫然と立ち尽くした。今までの努力はいったい何だったのだ。きーんと耳鳴
りが聞こえ、周囲の他の乗客たちが異様に遠く、小さく見える。僕はふらふらと歩
きだした。ペニスはまだ勃起したままだった。僕は夢うつつのまま隣の車両に移り、
車内を見回した。するとすぐ目の前のドアの脇に、小学校高学年くらいの女の子が
立っているのが眼に入った。すらりと背が高くてスタイルがよく、よく日に焼けて
いる。顔だちも美人だ。よし。僕は彼女に引き寄せられるようにすうっとその背後
に忍び寄ると、脇の下から両手を差し込んで、まだ発育途上の小ぶりの乳房をぎゅ
っと掴んだ。女の子はびくっと両腕を痙攣させ、それから金切り声をあげて叫びは
じめた。
「こらこら、そんなに騒ぐんじゃないよ。すぐ終わるから」と僕は女の子に声をか
けながらスカートをまくり上げ、布面積の広いパンティを引き降ろした。周囲の乗
客たちは皆こちらをじっと凝視し、なかには腰を浮かせている者もいるが、全員固
まってしまったかのように動かない。僕は彼女を床に突き転ばせて四つん這いにさ
せると、片手で素早く自分のベルトを外し、ズボンとブリーフを脱ぎ捨てて、まだ
一度も使われた形跡のない彼女のつるんとした性器にためらいなくペニスをぐい、
と押し込んだ。分泌液が出ていないのでなかなか奥まで入らず、彼女は痛い痛いと
泣き出した。その泣き声に僕は興奮し、ペニスを力まかせにぎりぎりと根本までね
じ込むと、激しく腰を動かしはじめた。最初は摩擦が大きすぎてなかなか思うよう
に動かせなかったが、しばらくするとにちゃにちゃという音がするようになり、抜
き差しがスムーズにできるようになってきた。彼女はすすり泣きを続けながら、ぐ
ったりと僕に貫かれている。その横顔を見ていると、彼女がいじらしくも可愛く感
じて、たまらなく切ない気持ちになった。そして僕は急激にのぼりつめ、彼女のか
たく締まった身体の中に激しく射精した。ここしばらくなかったほどに大量の、爆
発的な射精だった。
 僕はペニスを抜いた。それは真っ赤に染まっていた。分泌液の音かと思っていた
のだがそうではなかったようだ。僕はそのままブリーフとズボンを穿き、しゃくり
上げている彼女に「もう大丈夫だからね」とやさしく声をかけて立ち上がった。そ
のとき電車が次の駅に停車した。見ると僕の下りる駅だった。そこで僕は下車し、
まっすぐ家に帰った。
  帰ってからも彼女の姿が頭の中にちらつき、激しい勃起が続いたので、僕は夕食
もそこそこに部屋に閉じこもってオナニーを五回連続でおこなった。しかしそれで
もまだ勃起は収まらず、仕方がないので姉の帰りを待ってベッドに押し倒し、彼女
の性器と尻の穴にペニスを突っ込んで五回ほど射精した。姉も満足そうだった。

  階下からの激しい物音で僕は眠りの沼から引きずり出された。朦朧としたまま瞼
をこじ開け、枕元の時計を見るとまだ午前七時だった。おいまだ七時だぜ。今日は
日曜日じゃないか。別にどこに行く予定もなかったはずだぞ。いったい何やってん
だ。僕は脳味噌が膨れて頭蓋骨の内側に押しつけられているような感覚に漠然と苛
つきながら、ふたたび眠りの淵へずるずると引き寄せられていった。
それを突き破るように母親の金切り声が聞こえてきた。
「なによこの犬。勝手に入ってくるんじゃないわよ。汚いじゃないの。あんたたち
にそんな権利はないんだからね。来るなって言ってるでしょ。ぎゃあああああ」
  どうも声音が尋常ではない。もともと尋常ではないということを差し引いてもや
はり異常だ。僕は完全に眼を覚まし、ベッドの上に起き上がった。犬と言っている
な。犬が家に入ってきているのか。それにしては「権利」とか喚いているのはいっ
たいどういうことなんだろう。犬に権利なんてあったっけ。
  そのうちに複数の足音が入り乱れ、階段を上がってきた。うちの家族のものでは
ない。まったく聞きおぼえのない、もっと凶悪で粗暴な足音だ。階下からは母親の
怒号が聞こえてくる。
  足音は僕の部屋の前で止まり、一瞬の間のあと、ノックもなしに部屋のドアが開
けられた。
  逆光の中に黒々と大きな影が浮かび上がった。影は三つ見えたが、まだ階段に何
人か隠れているような気配がある。眼が慣れてくると、彼らがよれよれの安物ジャ
ケットを羽織った、お世辞にもお洒落に気をつかっているとは思えない、ごつくむ
さ苦しい中年男たちであることがわかってきた。揃ってとても凶悪な顔つきをして
いて僕よりも身体が大きい。こいつらは何者なんだろう。さっき母親が犬と言って
いたのはこいつらのことなんだろうか。なるほど汚らしい。
  彼らのひとりが僕に向けて黒い手帳を見せ「警察だ」と言った。そして別のひと
りが手に持った大きな茶封筒から紙片を取り出し、濁った声で言った。
「君に対して逮捕令状が出されたので逮捕する」
  言い終わるや否や、彼らは部屋の中にどかどかと入り込んであっという間にベッ
ドを取り囲み、両側から僕の両腕をがっしと掴んだ。煙草やら汗やら何やらが混じ
りあった悪臭がぐっと僕の鼻を刺し、僕は思わず口に出して「くせえ」と言った。
しかし彼らはそれを無視し、ブリーフ一枚の僕をベッドから引きずり出すと、無茶
苦茶に強い力で僕を引っ張って階段を下りた。僕は別に抵抗するでもなく引きずら
れるままになっていた。ごつい男ども数人がかりでがっちりと押さえられてしまっ
たのではさすがに逃げ出せない。しかし正直言って事態がよくわからなかった。僕
は何も悪いことはしていないのに、なぜ警察なんてものにこんな風に連れて行かれ
なければならないんだろう。これじゃまるで極悪人じゃないか。
  警察と称する男たちに両側から引き立てられ、僕は玄関を出た。背後では母親が
叫びつづけていた。僕はサンダルを突っかけただけのブリーフ姿だった。母親の叫
び声を聞きつけたのか、近所の連中が家の前に集まりはじめていた。その中には見
覚えのある顔がいくつかあった。味噌汁をぶっかけた後セックスをした主婦。その
後で飛び蹴りを食わせてやった中年男。その他いつも僕の顔を見てはひそひそと噂
話をしていた糞じじい糞ばばあども。それらの顔を見ていると僕は急に腹が立って
きて、「おお」とひと声吠えて躍りかかろうとしたが、両側の男たちに押さえつけ
られてしまった。くそ。あの宇宙人どもめ。ぜったいにいつか殺してやる。僕は憎
悪に眼をぎらつかせ、家を取り囲む宇宙人どもを睨みまわした。
  それにしてもこいつらは本当に警察なのか。・・・そう考えた瞬間、僕は恐怖に
襲われた。このむさ苦しい男たちは実は警察の人間ではないのではないか。こいつ
らは本当は宇宙人の手先で、僕をどこかに閉じ込め、電波か何かを当てて洗脳しよ
うとしているのではないか。いや、洗脳ぐらいならまだいい。もしかしたら僕を拷
問にかけるかも知れない。他に残っている正常な地球人の情報を得るためだ。それ
だけは何としても避けなければならない。では、僕から情報を得られなければいっ
たい僕はどうなるのか。・・・そこまで考えて、僕の腰の奥のあたりがじいん、と
重苦しく冷えた。そうだ。僕は抹殺されてしまうだろう。用なしの役立たずとして、
誰の眼にも触れぬままに闇へと葬られてしまうのだ。僕の死体は発見されず、魂は
永遠に救われることなくどことも知れぬ場所をさまよい続けることになるのだ。だ
とすれば僕は絶対に捕まるわけにはいかない。助けてくれ。「助けてくれ!」僕は
大声で叫んだ。「こいつらは宇宙人だ。おれをどこかひと気のない所に連れて行っ
て殺そうとしているんだ。誰か助けてくれ!」しかし誰も助けてくれる者はいなか
った。
  母親の絶叫が家の中から切れ切れに聞こえてくる。いつしかそれに姉のものらし
い泣き声が混じりはじめ、気の狂いそうな歪んだ和音を奏でつつ僕の脳に突き刺さ
った。脳が痒い。「痒い!」僕は叫んで暴れようとした。しかし僕はしっかりと中
年男のかたちをした宇宙人たちに抱え込まれ、身動きひとつ取れないのだ。「ぎゃ
あああああ」僕は断末魔の叫びを上げた。「ぎゃおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおう」必死に叫びながら僕は引きずられた。引きずられながら僕は放尿し
た。ブリーフの前部がぐっと黄色く盛り上がり、そこからぼたぼたと小便が流れ落
ちた。しかし宇宙人たちは動じることなく僕を門の外に連れ出そうとする。小便の
跡が帯のように門の手前まで繋がっている。僕はさらに大便をした。ブリーフの股
間部分がずしりと重くなる。ゴムの隙間から一部が漏れ出して、あたりには異臭が
漂いはじめた。しかし宇宙人どもは顔をしかめただけで、みじんも力を緩めること
なく僕を連行し、門を通り過ぎて通りへ出た。
  そこには白と黒に塗られた、紛うことなきパトロール・カーが停車していた。な
ぜだ。「なぜだ!」僕は怒号した。僕は何も悪いことなんかしていないのに、なん
でパトカーに乗せられなきゃいけないんだ。「があああああああああああああああ」
僕は必死に足を突っ張ろうとしたが難なく宇宙人どもに両足を抱え込まれ、両手両
足の自由を失った状態で運び出された。「離せ!」くそ宇宙人め。周囲に集まった
宇宙人どももただ眉をひそめるだけで僕を助けてなどくれないのだ。殺す。殺して
やる。「殺してやる!!」僕の頭の中で火花が散った。「ぎゃははははははははは」
  パトカーのドアが開けられた。「ぎゃははははははははははははははは」宇宙人
が全員で僕を乗せようとする。「ぎゃははははははははははははははは」いつの間
にか住民の顔をした宇宙人どもも力を合わせて僕をパトカーの中に押し込もうとし
ている。「ぎゃははははあはははははははああああああああああははははあはあ」
僕はふたりの宇宙人に挟まれて後部座席に押し込められた。「ぎいいいいいいいい
いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」運転席と助
手席にさらに宇宙人が乗り込んでくる。大便の臭いが強くなった。「おあああああ
おおおあああああああああああああおおおおおおおおおおう」ドアが閉まり、エン
ジンがかけられ、パトカーは僕を乗せて光り輝く未来へと疾走をはじめた。万歳!
万歳!! 万歳!!!