GENESIS

(9)

 部屋に戻り、リヴィングのソファーに腰をおろすと、疲れがどっとのしかかって
きた。腕時計を見るとまだ九時前だった。
「何か飲む?」
「うん」
 リディアは戸棚から瓶とふたつのグラスを持って戻ってきた。グラスに注がれた
その液体はわずかに黄色がかった透明で、鼻を近づけるとつん、と強い匂いが鼻腔
の奥を刺した。口に含むとかなり強い酒である。香りも味もウィスキーに似ている
がまったく同じというわけではない。原料が違うのだろうか。
「この酒、けっこう強いね。何というんだい?」
「モランジ。この近くでしか取れない種類の穀物で作ったお酒よ」
 そのモランジをちびちびと舐めているうちに身体があたたかくなり、緊張が少し
ほぐれてきた。それとともに、さっきの出来事をいくぶん冷静に振り返ることがで
きるようになってきた。
「さっきのことだけどさ」僕は言った。「あのジェラルドっていうの、どういうや
つなんだい?」
 リディアはモランジをひとくち舐め、顔をしかめた。
「さっきも言ったとおり、学校の知り合いで・・・と言っても、おととし何かのク
ラスでいちど一緒になっただけなんだけど。ほとんど喋った憶えもないし」
「ふうん」
 僕は瓶をとって自分のグラスにおかわりを注いだ。
「なかなか激しい男じゃないか」
「と言うか」彼女は肩をすくめた。「ちょっとやばいのよね。以前、他の女の子に
やっぱり一方的に好意を持って、さんざんつきまとったあげくに彼女の家に侵入し
ようとして警察沙汰になったことがあるらしいのよ」
「会話はしないの?」
「しないわね。何も言わない。ただそこにいるだけ」
「ふうん」
 僕はまたモランジをひとくち飲んだ。それが食道をちりちりと焼きながら胃まで
おりてゆくのがはっきりと感じられる。
「ところで」僕は話題を変えた。「さっきあの店長が、むかし中国と呼ばれていた
土地からやってきた、と言ってたよね」
「うん」
「呼ばれていた、ってどういう意味?」
 リディアは不思議そうな眼で僕を見た。
「そのとおりの意味じゃない。どうしたの?」
「ということは」僕は粘り強く言った。「いまは中国という国はないのかい?」
「あたりまえでしょう。いったいどうしたのよ。だいたい、中国に限らず、独立し
た国家というもの自体、とっくになくなってるじゃない」
 僕は慄然とした。では僕が属していたはずの日本という「国家」も今や存在しな
いのだ。それはつまり「日本人」というものも、またおそらくは固有の「日本文化」
も、もはや存在しないということを意味する。・・・ここに来るまでに通り抜けた、
あのわけのわからない出鱈目な町並みこそはまさにそのあらわれだったのだろうか。
しかし、さっきのレストランは紛れもない、正真正銘の「中華料理」だった。料理
は固有の文化のひとつと言ってもいいはずだ。僕はまたも混乱してきた。
「・・・ジ。ユウジ?」
 僕はリディアの声にやっと我に返った。
「どうしたのよ。急に黙り込んで」
「いや」僕は笑顔を作った。「なんでもない。ちょっとぼうっとしただけだ」
 彼女は溜息をつき、自分のグラスに手酌でモランジを注いだ。
 その時、入り口のドアが大きな音を立てて開いた。驚いて顔を上げると、イヴォ
ンヌが自分よりも背の高い、スーツを着た黒人の男といっしょに立っていた。イヴ
ォンヌより大きいのだから相当な背の高さだ。彼らはどたどたと足音を立ててリヴ
ィングに入ってきた。ふたりともベロベロに酔っ払っていて、かなり足もとがふら
ついている。
「イヴォンヌ、あなたまた男連れ込んできたの?」リディアが立ち上がって腰に両
手を当てて言った。
「なによ、別にいいじゃないよう」イヴォンヌは呂律のあやしくなった口調で言い
返した。「迷惑なんかかけてないんだからあ」
「毎日のように夜遅くに男連れて大騒ぎで帰って来られたらじゅうぶん迷惑よ」
「だいじょうぶだいじょうぶ、まだそんな時間じゃないでしょお」
「なにが大丈夫なのよ、まったく」
「だーいじょおおおぶ、だーいじょおおおぶううううう」と言いながら、彼女は男
といっしょに自分の部屋に入ってしまった。
「凄いな」僕は言った。
「ほとんど毎晩あれよ」リディアは呆れ顔で言った。「連れて帰ってくる男は毎回
違うけど」
「いったい何で生計を立てているんだろう?」
「わかんない」彼女は言った。「仕事をしているのか、それともどこかから仕送り
でもあるのか、まったくわからないの。・・・まあ、毎月ちゃんとお金は入れてく
れてるし、別にいいか、と思っているんだけど」
「ふうん・・・あ。そう言えばあの人は?」
「あの人?」
「人というか・・・ほら、Dの部屋のゴリラ」
「ああ、ナーモのこと? 彼はたぶんまだどこかで飲んでるんでしょ。週末だし」
 僕はグラスのモランジを一気に呷り、瓶を手に取った。
「まだ飲むの?」リディアが言った。
「うん、もう少し飲む」
「じゃ、寝る前に瓶をあそこの戸棚に戻しておいてね」
「OK」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
 それからすっかり神経がほぐれて寝られる状態になるまでにさらに五杯のモラン
ジを必要とした。