GENESIS

(8)


 僕はその日のうちにリディアに連れられて、必要な衣服や下着類を買い揃えた。
もう外は暗くなっていたが、アパートメントから歩いていける距離に賑やかな通り
があり、そこには服の店がいくつも立ち並んでいてまだ開いているのだった。お金
はリディアが出してくれた。
 それから僕たちは同じ通りにある小さな中華レストランに入った。あまり「中華」
という感じのしない店で、通りに面した部分がすべてガラス張りになっている。ま
だ開店したばかりなのか、どちらかと言えばカジュアルなバーといった雰囲気の内
装やテーブルが見るからに真新しく、店長らしきアジア系の小柄な中年男性が髪を
オールバックになでつけ、タキシードに身を固めて直々に接客していた。僕たちは
彼に導かれて通りに面した、外の見える席についた。
 僕たちは小瓶に入ったビールを飲みながら、スライスされた腸詰めや、野菜と牛
肉のオイスター・ソース炒め、蝦のチリソース、ワンタン・スープなどを食べた。
リディアは苦もなく箸を使いこなしていた。むしろ僕よりも持ち方がきれいだった。
僕の持ち方は親指以外の指が一本ずつずれていて、つまり人差し指が余って遊んで
いるという些か変なものなので、少し恥ずかしく感じた。なぜこんな持ち方をする
のか自分でもわからない。親が直してくれなかったのだろうか。しかし、僕は自分
の親がどんな人であったか思い出すことができなかった。僕の意識の中にはそれは
存在していないのだった。
 食事を終え、さらにビールを飲みながらのんびりしていると、不意に傍らのガラ
ス窓を激しく叩く音がした。驚いて振り向くと、ガラス窓の向こう側に黒い革ジャ
ケットを着た、背の低い若い白人の男がへばりついているのが見えた。彼は僕たち
に向かって何ごとかを叫びながら、拳でがんがんガラス窓を叩いていた。何を言っ
ているのかはわからないのだが、そのまま窓を叩き割って飛び込んでくるのではな
いかと思えるほどの勢いだった。店内の他の客や店員たちが、何ごとが起こったの
かとこちらを窺いながらひそひそと言葉を交わしている。
「誰だい、あいつは」
「ごめんなさいね」彼女は困惑していた。「ジェラルドよ。大学の知り合いなんだ
けど」
「大学?」僕は思わず聞き返した。「君は大学に行っているのかい」
 リディアは何を言っているのかという表情で僕の顔を見た。「そうだけど。それ
が何か?」
「いや」僕は慌てて首を振った。この世界にも大学があってもおかしくないし、彼
女の年頃なら大学生であっても不思議ではない。あの洋服屋にはきっとパートタイ
ムで出ているのだろう。
 いつまでもジェラルドがガラスを叩きつづけて立ち去らないので、ついに店長が
ドアを開けて外に出、彼に近寄って何ごとか話しかけた。すると彼はますますいき
り立ち、今度は店長に向かって両手を振り回し、大声で怒鳴り散らしはじめた。
 ジェラルドよりもさらに小柄な店長は、最初は少し困ったような表情で、なんと
か彼をなだめようとしている様子だった。ところが、ジェラルドが何ごとかを吐き
捨てるように言った途端、店長の目つきが急に鋭くなり、頬の筋肉がぐっと引き締
まった。店長は無造作にも見える様子で一歩踏み込むと、ジェラルドの顔面に凄ま
じい回し蹴りを入れた。足の甲が頬に激しく打ち当たる鈍い音が、ガラス窓をとお
してはっきりと聞こえた。店内から小さな悲鳴がいくつかあがった。彼の顔は一瞬、
完全に真後ろを向き、そのままもんどりうって崩れるように舗道に倒れた。
「わ」リディアは思わず腰を浮かせた。
「もろに入ったな」
「ちょっとやりすぎなんじゃ・・・」
「何か店長に変なことを言ったんじゃないか?」
 店長はジェラルドを後に残してさっさと店内に戻り、それから入り口近くに突っ
立っていた店員のひとりに命じて警察に電話をかけさせた。そして彼はあらためて
店内をぐるりと見回し、見苦しいものを見せたことを詫びるように、片手を胸に当
てて軽くお辞儀をした。それで店内の雰囲気はいくぶんやわらいだ。ほどなくして
警官たちが到着し、まだ気絶しているジェラルドを担いでどこかに連行していった。
 僕は店員を呼んで伝票を持ってこさせた。リディアが財布からお金を出している
と、店長が僕たちの脇にやってきた。
「ご迷惑をかけました」
「いや、とんでもない」僕は強くかぶりを振った。
「むしろこちらのほうがお店に迷惑をかけてしまったかも」リディアが言った。
「いえいえ、悪いのはあの気違いです」店長はきっぱりと言った。「われわれに迷
惑をかけたのは他でもないあの男ですから」
「ところで」僕は聞いてみることにした。「彼、何か変なことでも言ったんですか」
「え?」
「いや、見ていたら、彼が何か言った途端に、急にあなたの表情が変わったもので
・・・」
 店長は口の端をちょっと曲げて苦笑した。
「私に向かって、このチンク野郎が、と言ったのですよ」
「はあ」
「あなたくらいの体格があれば、そのようなことはあまり言われないのかも知れま
せんが、ご覧のとおり確かにわたしは身体が小さいので・・・」
「そうですか・・・あの、あなたは出身はどちらで。中国ですか?」
「はい。わたしの祖父母の時代に、むかし中国と呼ばれていた土地からここにやっ
てきました」
 言われていた、というのはどういうことなのだろう。僕は不審に思ったが、あま
り長く彼を引き止めて話を聞くわけにはいかない。彼は仕事中なのだ。僕たちは彼
に礼を言って勘定をすませ、チップを多めに置いて店を出た。