GENESIS

(7)


 突然、がちゃがちゃと鍵をあける音がして入口のドアが開いた。びくっとして顔
を上げると、入ってきたのは巨大なゴリラだった。彼(なのだろう、たぶん)は胸
に三文字のギリシア文字が並んだ紺色のスウェット・シャツにジーンズ、スニーカ
ーという軽装で、くすんだ赤色のデイ・パックを背負っていた。彼は僕を認めると、
意外に人懐っこい感じの眼で「ハイ」と声をかけ、地響きを立てながらDのドアの
向こうへと消えた。
 どうやらこの部屋は一種のスイート・ルームのようになっているようだ、と僕は
判断した。いま僕が座っているこの部屋がたぶん共有のリヴィング・ルームなのだ
ろう。
 リディアがAの部屋から出てきた。彼女はジーンズだけ、ルーズ・フィットのも
のに穿きかえていた。僕が立ち上がると、彼女は僕の肩に手をかけ、耳もとで「座
ってて」と言った。それからキッチンへ入り、コーヒーの入ったマグ・カップをふ
たつ持ってきて、僕の左側にある別のソファに座った。
「ありがとう」と礼を言ってカップを受け取り、僕はしばらく無言でコーヒーを飲
んだ。彼女も黙っていっしょにコーヒーを飲んだ。
 僕は意を決してカップをテーブルに置き、彼女のほうに向き直った。
「リディア・・・ここはどこなんだ?君はだれなんだ?なぜ僕はここにいるんだ?」
 つい意気込んでつっかかるような言い方になってしまう。しかし彼女は落ち着き
払って、優雅に微笑を浮かべて答えた。
「ここはここ。わたしはリディア。あなたは自分からここに来たのよ」
 僕は言葉に詰まった。彼女の答えはたしかにそのとおりだったからだ。実に簡潔
かつ要を得た、きっぱりとした答えであり、そしてそこには、これ以上の追及を拒
絶する響きすらあった。
 僕が何も言えず固まっていると、彼女は巧みに話題を変えた。
「Bの部屋が空いているから、とりあえずそこに入ったら?」
「はあ・・・」
「気に入るかどうかわからないけど。ちょっと見てみる?」
 僕が返事をするよりも早く、リディアは立ち上がり、僕の手を取って立ち上がら
せた。彼女は僕を導き、Bという表示のあるドアの前に立った。そのドアは窓も飾
りも何もない木製のドアだった。ついているのはドアノブだけだ。それはつい最近
取り替えたかのように妙に新しく、ぴかぴかと光っている。彼女はそのドアを開け、
先に立って部屋の中に入っていった。
 入ってすぐの短い廊下のような部分の右手には作りつけの大きなウォークイン・
クローゼット兼物置がある。その前を過ぎると思ったより広い空間が広がっていた。
僕の記憶にある日本式の言い方で言えば二十畳くらいはある。正面の突き当たりに
は大きな窓があり、ブラインドが下がっている。その左手には、がっしりとした木
製のベッドが、マットレスをむき出しにして置かれている。セミ・ダブルくらいは
ありそうな大きなベッドである。右手には僕の身長と同じくらいの高さのある空っ
ぽの本棚と、それからデスクと椅子がある。いずれも木製で、実にシンプルかつ実
用的な感じのものだ。
「どう?」リディアが僕の顔を見て言った。
「悪くない」
「じゃ、ここでいいね」
「あの・・・」
「何?」
「ええと・・・」
「だから何なの?」
「・・・僕、お金ないんだけど」
「知ってるわよ。だから当分はべつにいいよ。どうせここはもともとぜんぶ私の家
なんだし」
「はあ」
「でも仕事が見つかったら少しはお金入れてね。わたしも大富豪というわけではな
いんだから」
 仕事、と僕は思った。僕はここに落ち着くことになるんだろうか?
 そのとき、背後から誰かがいきなり僕に覆い被さってきた。決して乱暴な感じで
はなく、むしろそっと優しく寄り添ってきた、という感じだったが、かえってその
せいで僕は驚いて、びくりと全身を震わせてしまった。
「イヴォンヌ」リディアが声をかけた。
 それは白人の女の子だった。リディアや僕よりも背は高いだろう。肩幅もあり、
そのためかずいぶんと大柄に見える。しかし僕の身体に絡みついている長い腕はむ
しろ細く、全体に骨格は華奢なようだった。僕の肩に押しつけられた乳房もずいぶ
ん小ぶりなものに感じられた。
「この人は誰?」
 イヴォンヌと呼ばれたその女の子が言った。低めのすこしかすれた声が、彼女の
身体に密着した僕の身体へとじかに響いてくる。
「彼はユウジ。今日からここに住むから」
「ふうん、そうなんだ」
 彼女は腕を解くと僕の前に回ってきて、僕の顔を覗き込んだ。それではじめて僕
は彼女を正面から見た。髪は直線的にカットした短めのブルネットだった。肌の色
は異様に白く、目はぱっちりと大きくて眉が濃い。口もとがまるで笑っているよう
に常にきゅっと上がっている。鼻はさほど高くはなく、全体にあまり彫りは深くな
い。白人には違いないのだが、エスニシティがわかりにくい容貌だ。
「手を出しちゃだめよ」
 リディアが少し硬い声で言った。イヴォンヌは彼女のほうを振り返った。
「なあに、心配しているの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 イヴォンヌは僕から離れ、ひらひらと手を振りながら「じゃあね」と言って靴音
を響かせ部屋から出ていった。リディアは腕組みをしてその後ろ姿を見送った。
「・・・イヴォンヌ?」
「そう」リディアは溜息をついた。「きれいな子なんだけどね・・・」
「だけどね?」
 彼女は頭を振った。「まあいろいろあってね・・・ま、いいや」
 僕は気になったので、少し角度を変えてイヴォンヌの話題を続けた。
「彼女、ずいぶん大きいね」
「そりゃそうよ」
「そりゃそうよ?」
「だって男だもん」
「え?」
 僕は絶句した。
「信じられないでしょうね。私だって、実際に見せてもらうまで信じられなかった
もん」
「見せてもらった?」
「だから、あの・・・」彼女は口ごもった。「あそこ。・・・ペニス」
「ああ」
「声もまあ低いけど、あのくらいの声なら女の子でもいるし」
 僕は思わず溜息をついた。
「なによ」リディアが僕を睨んだ。「残念だと思っているんでしょう」
 僕は慌てて否定した。「違う違う。どう答えていいのかわからなかっただけだよ。
だいたい僕はストレートだ」
「ふうん。まあ、いいけど」
 そういうわけで僕はリディアたちと共同で暮らすことになった。