GENESIS

(5)

 僕は灰白色をした巨大な部屋の中にひとり立っていた。特に照明らしきものは見
えないが、周囲は案外明るい。背後を振り返ると、これも灰色のドアが整然と並ん
でいた。金属のようなものでできた、何の飾りもない殺風景なドアである。ついて
いるのは丸いノブと、目の高さのあたりに表示されている三桁のアラビア数字だけ
であり、全体に壁と同じ色をしている。アラビア数字はすべてのドアに順番に割り
振られているようだ。ドアとドアの間隔はかなり狭い。窓はひとつもない。そして
自分が出てきたはずのあのすりガラスの嵌った木製のドアはどこにも見当たらない。
 僕はゆっくりと歩きだした。天井を見上げると、それは何かよくわからない透明
な材質でつくられていて、向こう側が透けて見えていた。光はすべてそこから入っ
てきているようだ。天井の向こう側には木の枝のようなものが無数にからみあって
いるのが見える。ところどころでそれらは交差し、交差点にはいくばくかの膨らみ
が生じている。
 僕は壁に向きなおり、ドアのひとつに歩み寄ると、ゆっくりとノックしてみた。
その音は思ったよりも大きく響いた。返事はなかった。だが、誰かがいるような気
配があった。ドアの向こうで何者かがじっと息を詰めているような気配が確かに感
じとれるのだ。なぜ返事をしないのかはわからない。
 僕はドアの前を離れ、ゆっくりと壁に沿って歩きだした。広大な部屋の壁にドア
は途切れることなくびっしりと並んでいる。スニーカーの立てる僕のかすかな足音
のみがのっぺりとした壁に吸い込まれていく。
 右手が偶然に尻に軽く当たったときに、何か固いものの感触があった。ジーンズ
の尻ポケットをさぐってみると、それはキー・ホルダーのついた真鍮色の鍵だった。
キー・ホルダーも鍵もかなり使い込まれているようで傷だらけであり、色も少し黒
ずんでいる。鍵はずいぶんと古風な感じの、まるで棒の先端に歯が何枚かついてい
るような形のものだ。自分でポケットに入れた記憶はない。いつの間にこんなもの
が入っていたのだろう。さっきリディアがこっそりと入れていったのだろうか。そ
れとも道ですれ違った無数の人々の誰かのしわざなのだろうか。
 キー・ホルダーを裏返してみると、そこには「375」というアラビア数字が刻
印されていた。常識的に考えれば、この数字と同じ番号を持つドアがどこかにある
はずである。僕は顔を上げて壁面を見まわした。
 そのドアはじきに見つかった。番号の他は、とくに他のドアと変わることはない。
しかしいま、それは僕にとって意味を持つドアになったのだった。少なくとも、僕
に対してこのドアが示された、という意味において意味があった。僕は鍵を鍵穴に
差し込んだ。鍵は思ったよりもなめらかに鍵穴の中に吸い込まれ、そして奥に突き
当たって止まった。それ以上鍵が奥へと入らないことを確かめ、僕は左回りにそれ
を回した。かすかな抵抗があり、それからくるりと鍵が回転して、かちん、という
金属音が響いた。その音に僕は、たったいま何か後戻りのできない一線を越えた、
という、後悔と悲しみと諦めとがないまぜになったような奇妙な感覚をおぼえた。
なぜなのかはわからない。
 僕は鍵をゆっくりと引き抜いてポケットに戻し、そしてノブを回してドアを引い
たがそれは動かなかった。次に押してみるとそれはすうっと開いた。
 ドアの向こう側は部屋ではなく、細い通路になっていた。壁と床はごつごつとし
た岩に変わり、壁面のところどころに窪みが作られていてかがり火が灯されている。
通路は細かいアップダウンを繰り返し、時おり階段になったりしながらくねくねと
曲がりくねって続いていた。
 方角の感覚がすっかりぐちゃぐちゃになってしまった頃に、僕は突然広い廊下に
行き当たった。通路はそこで終わっていた。そこでしかたなく僕は廊下に出た。
 廊下はかなり広く、普通の乗用車が楽にすれ違えるほどの幅を持っていた。足も
とには真紅の絨毯が一面に敷かれている。毛足が長くかつ強靭で、歩くたびに足が
はね返されるような感覚がある。両側には大きめの、両開きのドアが並んでいた。
見るからに頑丈な一枚板であり、最初に見たすりガラスの嵌ったドアに少し感じが
似ている。表面にはシンプルな飾り彫りがほどこされており、真鍮製のノブは古そ
うだが傷もなく、わずかに年相応の曇りが見られる程度でぴかぴかに磨き込まれて
いる。飾り彫りの模様はドアごとに少しずつ違っているようだ。僕はそのうち、た
またま目が合ったドアの前で立ち止まり、ノブを掴むと、力を込めて押し開けた。
 ドアの向こうは暗かった。そこはちょっとした広場になっていた。足もとは土の
地面である。僕はその地面の上に降り立ち、手をノブから離した。ドアの閉まる音
がした。後ろを振り向いてみると、それは公園にあるような簡易便所のものになっ
ていた。慌ててもういちど開けてみたが、その向こう側にはすでにただの便器しか
見えなくなっていた。僕は溜息をつき、ドアをゆっくりと閉めた。
 あたりを見回すと、広場のまわりを取り囲むように木が鬱蒼と生い茂っているこ
とがわかった。木々のシルエットが薄暗い空を背景にして浮かび上がっている。離
れたところに街灯がひとつだけあり、そのおかげで辺りの様子をわずかながら窺う
ことができる。木々の枝に隠れて鳥居のようなもののシルエットが見える。
 他に目立ったものも見当たらないので、僕はとりあえずその鳥居に向かって歩き
はじめた。ところどころに潅木の茂みがあり、時おりその陰に人の気配のようなも
のが感じられる。女性用のアンダーウェアが丸まって落ちていたりもする。
 ほどなくして僕は鳥居の前に出た。
 鳥居は、いや、鳥居のようなものは、たしかに形は紛れもなく鳥居なのだが、し
かしそれは、いわゆる僕たちがふつう「鳥居」と呼ぶものではなかった。まず材質
が木でもなく石でもない。金属である。それも、何という金属なのかよくわからな
いが、銀色の地金がむき出しになったままであり、しかも新品の鏡のように傷ひと
つついておらず、その表面には街灯に照らされた僕の歪んだ像がはっきりとうつし
出されている。そして、通常なら神社の名前などが書かれた額が取りつけられてい
る場所には、真鍮だか金だか暗くてよくわからないが、黄金色に輝くおまんこマー
クの巨大なプレートが掛けられている。手書き風ではなく、あきらかにきちんと計
算してデザインされたものだ。僕は次第に混乱してきた。
 傍らには、社殿とおぼしき木造の建物が立っていた。屋根は瓦葺きだ。ごく普通
の、鉛色をした日本瓦である。玄関の前には広いポーチがある。そしてポーチには
巨大な白塗りの安楽椅子がひとつ置かれている。ポーチを囲む柱は、まるでギリシ
ア神殿を思わせるような麗々しい形をしている。玄関のドアは純和風の引き戸で、
格子が組まれ、その間にはすりガラスが嵌め込まれている。鍵穴は見当たらず、小
さな南京錠が扉の脇の金具にぶら下がっている。窓は出窓になっており、ガラスを
とおして向こう側には陶製だろうか、ロシア風の華やかな色の小さな人形がいくつ
も並び、さらにその向こう側のレースのカーテンが部屋の中を窺うことを拒んでい
る。そして、家全体が薄い黄色やピンクやエメラルド・グリーンなどといったパス
テル・カラーで塗りわけられているのだ。じっと見ているとだんだん頭がぐらぐら
としてくる。
 僕は鳥居からのびる参道らしきものを見つけ、それに沿って敷地の外へ出た。通
りには人通りはほとんどなかった。一見、どこにでもある普通の日本の街並みのよ
うに見える。僕はしばらく考え、右手に向かって歩きはじめた。