GENESIS

(3)


「僕はユウジ」
「おう」リディアは大きく頷く。「あなた見えた忘れたように」
「忘れる?」
「いえー。私思った、あなた記憶無くしている」
 僕は辛うじて苦笑してみせた。「違う違う」
「OK。あー、あなた持っていないか何か」
「ん?」
「バッグ、スーツケース」
「いいえ」本当に何も持っていなかった。文字通り着のみ着のまま、全くの手ぶら
だったのだ。換えの下着すらなかった。
「本当に?」
「ない」
「奇妙だ」彼女は僕の顔を覗き込む。それはそうだろう。ホームレスでさえふつう
はちゃんと自分の荷物を何かしら持っているのだから。考えてみたら今の僕は相当
に怪しい人間である。そんな僕になぜ彼女は声をかけてきたのだろう。
「ここ」
 大通りから横道に折れてしばらく歩いたところでリディアは止まった。見ると目
の前には石造りの古びた、かなり大きな建物があった。彼女に続いて中に入る。ロ
ビーは建物の大きさの割にはこじんまりとしている。床は大理石のような白っぽい
石をベースとして、その中に菱形に切られた黒い石を規則正しく嵌め込んだものだ
った。木製の手摺やドアやフロント・カウンターはよく磨き込まれて濃い飴色をし
ている。
「待つ少し」
 彼女は暗証番号キーを押して狭いドアを開け、ガラス張りのフロント・ブースに
滑り込んだ。カウンターの真ん中ほどには窪みがあり、そこだけわずかにガラスと
の間に隙間がある。おそらくここからお金などをやりとりするのだろう。というこ
とは、これは防弾ガラスなのだろうか。
 ブースの中にはかなり高齢と思われる痩せた男が座っていた。薄茶色の、ぺらぺ
らした感じの安っぽいシャツを着ている。肌の色はリディアより少し濃く、髪はほ
とんど残っていない。顔にはまるで力いっぱい彫刻刀で彫りつけたようにくっきり
と深い皺が刻まれている。
 彼女は彼に何か小声で話しかけた。彼はちらっと彼女を見、そして軽く頷いた。
彼女は彼の背後の棚から鍵をひとつ抜き出して戻ってきた。それから僕についてく
るように身振りで示して歩きだした。
 僕たちはロビーからさらに奥へと進んだ。突き当たりの左手にドアの開いたエレ
ベーターがあり、彼女は無言でそこに脚を踏み入れた。続いて僕が乗り込むと、ド
アはすぐに閉まった。
 エレベーターが下降をはじめたので僕はおや、と思った。てっきり上に行くもの
だと思い込んでいたからだ。ふつう客室というものは上の階にあるものだ。1階に
ロビーがあれば、2階以上が客室になっている。大きいホテルになると、2階、3
階が会議室とかオフィス・スペースになっていることもあるが、どちらにせよその
上には客室がある。たとえ地下にフロアがあっても、そこにあるのはふつうレスト
ランやバーである。いったいどういうことだろうと訝りつつドアの上を見上げると、
そこにあるべきフロア表示がなかった。いま自分が何階のあたりにいるのかまった
くわからないのだ。
 いつまで経ってもエレベーターは止まることなく下降を続けた。スピードはさほ
ど速くはなさそうだが、それにしても時間が長すぎる。すでに十フロア以上は移動
していてもおかしくないくらいの時間が経っている。
 さらに延々と下降を続けた後に、ようやくエレベーターは停止した。彼女に促さ
れて僕はエレベーターを降りた。そこは薄暗い廊下だった。足許には緋色の、毛足
のかなり長い絨毯がいちめんに敷きつめられている。案内の類は何ひとつない。ド
アさえも見当たらず、あちこちに茶色の染みの浮き出た灰白色の漆喰の壁と、そこ
に一定の間隔で取りつけられた、黄色っぽいくすんだ光を放つ埋め込み型の球形ラ
イトの列が、見渡す限り続いているだけである。
 僕はどうしてよいか判らず、背後を振り返った。ところがそこにいるべきリディ
アの姿はなく、エレベーターのドアもいつの間にかしっかりと閉じていた。反射的
に僕はドアの上を見たが、フロア表示はそこにはなかった。
 視線を落とすと、エレベーターのドアの脇、ちょうど胸のあたりの高さに、小さ
な円筒形をした呼び出しボタンらしきものが縦にふたつ並んで壁から突き出してい
た。ふたつとも黒いプラスティックでできており、上とも下とも表示はされていな
い。上に位置しているほうが「上」なのだろうと勝手に判断し、僕はそのボタンを
何度も押した。押してもランプが点くわけでもなく、本当にちゃんと信号が伝わっ
ているのかどうかはわからない。
 結局、何度ボタンを押しても、いくら待ってもエレベーターは来なかった。動い
ている気配さえも感じられなかった。
 僕は大きく溜息をついた。エレヴェーターが来ないとなれば、何か他の手段を見
つけなければならない。いったいここが地下何階なのか知らないが、こんなわけの
わからない気持ち悪い場所にいつまでもとどまっている気は僕にはなかった。何十
フロアも階段で登ることになってもかまわない。僕は一刻も早く地上に出たかった。
 しかし、そのためにはまず廊下を左右どちらかへ進み、このフロアがどうなって
いるのかを知る必要があった。
 あらためて左右それぞれを観察してみると、どちらも、はるか向こうで突き当た
りになっているようだった。どちらがどこに繋がっているのかはもちろんわからな
いが、ここから抜け出すためにはとにかくどちらかに進むしかない。そこで僕は、
右のほうに行くことを選んだ。
 僕は廊下を歩いて突き当たりまで来た。予想通り、廊下はそこでさらに右へと折
れていた。角を曲がり、さらに進むと、やがて右手の壁には一定の間隔で、廊下の
入口があらわれるようになった。そのうちのひとつから奥のほうを目を凝らして観
察してみると、どうやらいま僕が歩いている廊下と平行して、何本もの廊下がずっ
と向こうまで整然と走っているようなのだ。つまり、計画的に建設され整備された
街路のように、廊下どうしが碁盤の目のごとく、まっすぐ直角に交わっているのだ。
しかし通行人は僕の他には誰もいないようだった。また壁には相変わらずドアひと
つ、窓ひとつ見当たらなかった。
 さらに進んで行くと、廊下が奇妙な角度で右にねじ曲がっている場所に出た。百
二十度くらいだろうか。平行して走っている廊下も同様に捻じれているようだった。
構わずそのまま進んで行くと、廊下の配置は急激に不規則になり、あらゆる方角か
らあらゆる角度で廊下が交差するようになってきた。十字路だけでなく、五叉路や
六叉路がどんどん出てくる。
 そしてしばらく経ってふと気がつくと、僕は完全に迷ってしまっていた。自分が
今、フロアのどのへんにいるのかさっぱり判らない。このまま永遠にここから出ら
れないのではないかという恐怖が脊髄をちりちりと這いのぼってきて、頭の中が真
っ白になってしまった。
 判断能力をなくしたまま、僕は足に任せて出鱈目に廊下から廊下へとさまよい続
けた。いつの間にか口から「ああ、ああ」という、声とも息の音ともつかぬものが
漏れている。しかし、僕にはそれを止めることができなかった。