GENESIS

(22)

 ジェラルドが大怪我をして病院に運び込まれたという話をリディアから聞いたのは
それから数日後のことだった。詳しいことは彼女も知らなかったが、学校では実にい
ろいろな噂が飛び交っているということだった。
 いわく、女の子をつけまわし、さらに彼女を小型カメラで盗み撮りして、それに気
づいた彼女のボーイフレンドに袋叩きにされたのだとか、飲み屋で暴れて店員に叩き
だされたのだとか、道で通りがかりの通行人に絡んで逆に叩きのめされたのだとか、
だいたいそういった類の話だった。
 つまりは、彼にはそのような「前歴」がたくさんあったということなのだった。実
際、僕自身、この世界に来て早々に、中華レストランの店長に彼がノック・アウトさ
れるのを間近で目撃している。
 しかし、病院に担ぎ込まれるほどの怪我を負ったというのはただごとではない。悪
い相手と当たってしまったのか、それとも複数の相手にやられたのか。この街ではそ
ういう事件はほとんど聞かない。少なくとも表には出てこない。実に平穏かつ平和な
街なのだ。平和すぎると言ってもいいくらいだ。だからこそみんな珍しがって騒いで
いるということなのかも知れない。
 僕はリディアから彼の運び込まれた病院の名前を聞き(それも彼女によれば「たぶ
んここだと思う」ということだったが)、日曜日の午後にそこに行ってみた。
 それは彼のアパートメントの近くにあった。意外にもかなり大きな総合病院で、ロ
ビーは患者や医者や看護婦たちであふれている。比較的新しく建てられたものらしく、
白い壁はまださほどの汚れやくすみを見せてはいない。
 僕は受付に行き、いまが面会時間内であることを確かめてからジェラルドの名を告
げた。受付係の白衣姿の太ったアビシニアンが端末をチェックし「六階の六六七号室
です」と彼の部屋を教えてくれた。この病院で正しかったらしい。幸い、面会謝絶と
なるほどの重傷ではないようだ。
 僕は礼を言い、エレベーターで六階に上がった。廊下には消毒液と薬剤の匂いと患
者の体臭の混じったなまあたたかい空気が充満している。この匂いはどうも好きにな
れない。嗅ぐだけでどんどん気が滅入ってくる。病院というのは病気や怪我を治すた
めの施設のはずだが、しかしそれにもかかわらずそこにはどこか人の気を滅入らせる
ものがある。かえって体の具合が悪くなってしまうのではないかとすら思えるのだ。
 六六七号室はほどなくして見つかった。ドアは開いている。僕は軽くノックをし、
部屋の中に入った。
 そこは四人部屋で、それぞれのベッドは白いカーテンで仕切られるようになってい
た。もっとも、実際にいまこの部屋にいるのはジェラルドひとりらしく、すべてのカ
ーテンは開けはなたれ、使われた形跡のない三台の真っ白なベッドが剥き出しになっ
ている。
 ジェラルドはその部屋で唯一使われている、窓際の向かって右側のベッドにいた。
ベッドの背中を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めている。首にごついコルセットのよ
うなものがはまっているのがまず目につく。さらによく見ると、顔も頭も両腕にも包
帯が巻かれていることがわかった。要するにほとんどぐるぐる巻きの状態なのである。
「よう」
 僕は彼のベッドに近づきながら声をかけた。彼は視線だけをゆっくりと動かして僕
を見た。彼の口が「おう」と言ったように見えたが、実際には声はほとんど聞こえな
かった。
「どうしたんだ?」僕はベッドの傍らに椅子を見つけ、そこに腰をかけた。「ずいぶ
ん派手に怪我してるじゃないか」
 彼は黙っていた。包帯の隙間から両眼がこちらを見ているが、どうも力がなくどん
よりと澱んでいる。面会謝絶ではないとは言え、けっこう怪我は重いのかも知れない。
「ま、言いたくないのなら別にいいよ」
 僕は立ち上がってあたりを見回した。花や見舞い品のたぐいはまったく見当たらな
い。ベッド脇の机にペーパーバックの本が数冊置いてあるだけだ。そこで初めて、僕
自身も何も持ってこなかったことに気づいた。
「しまった」僕は思わず声をあげた。「果物でも買ってくればよかった。ついうっか
りして何も持ってこなかったよ。すまない」
 それを聞くと彼は慌てた様子で右手を上げようとした。しかし途端に彼は眉間に皺
を寄せ、唸り声を上げて固まってしまった。
「おいおい、無理するな。痛むのか?」
 彼はかすかに頷いた。
 その時、僕は彼の目の脇の皮膚が赤黒くただれていることに気づいた。見たところ
火傷のように見える。
「おい、火傷でもしたのか?」
 そう聞くと彼の視線が泳いだ。何かあったに違いない。
「どうしてそんなひどい火傷を?」
 しかし彼は苦渋にみちた表情を見せるだけで口を開こうとはしなかった。
 その時、背後から荒々しいノックの音が響きわたった。振り返ると、そこには数人
の大柄な男たちが立っていた。その真ん中に立っているひときわ巨大な男には見覚え
があった。
「ムガシ…」
 彼らはどやどやと部屋に入ってくると、ジェラルドの傍にいた僕を押しのけ、そし
て彼と僕との間に割って入ると、壁のように並んで立ちふさがった。まるで彼を僕か
ら守ろうとしているかのようだ。
「おいおい」僕は言った。「なんだよ、おれは別に何もしてないぞ。ただ見舞いに来
ただけだ。なぜそんなことをするんだ?」
 しかし彼らは無言のまま冷たい目で僕を見おろし、わざと胸を突き出すようにして
威圧的に立ちふさがりつづけた。目の前にはムガシの分厚い胸板がある。わけがわか
らない。しかし少なくとも友好的な態度でないことだけは間違いない。
 不快に思いながら彼らを見ているうちに、彼らのなかにも腕に包帯を巻いていたり、
頬にガーゼを当てていたりする者がいるのに気づいた。しかしそのことは僕は黙って
いた。口に出すと余計にまずいことになるという予感があったのだ。僕は仕方なく帰
ることにして、病室を後にした。ドアのところで振り返ると、彼らはまだ無表情な目
でじっと僕のことを見つめていた。
 僕は病院を出て、駅に向かって歩きはじめた。どうもあの連中が胡散臭く感じられ
てならない。彼らはいったい何者なのか。ジェラルドを妙なことに巻き込んでいるの
ではないのか。
 僕は駅に行く前にちょっと遠回りして彼のアパートメントを見に行った。くすんだ
色の煉瓦づくりの建物が立ち並ぶ通りを抜けていくと、間もなく彼のアパートメント
の前に出た。アパートメントの前の道路には、煉瓦やコンクリートやその他さまざま
なものの細かい破片がところどころに散らばっており、入口の階段の前には黄色いテ
ープが張り巡らせてあって入れないようになっている。不審に思って見上げると、彼
の部屋のあたり一面に青いビニール・シートがかぶせてあった。脇には警察のものら
しきヴァンが二台止まっており、制服を着た屈強そうな男たちがカメラや紙束やいろ
いろな道具類を持ってその車と建物との間を往復している。
 僕は地下鉄に乗って部屋に戻ると、リヴィングの隅に積み上げてある新聞をかたっ
ぱしからチェックした。すると、一週間ほど前の日付の新聞に、こんな記事が載って
いた。

「アパートで爆発、重軽傷者八名」

 十一日午後九時半ごろ、****通りXXXX番地のアパートメント三階が爆発炎上、一時
は付近住民が避難する騒ぎとなった。幸い火はすぐ消し止められたが、爆発発生場所
と見られる部屋に住む学生(二十歳)が全治一ヶ月の重傷、また同じ部屋にいたと思
われる労務者風の男七名が軽傷を負って病院に運ばれた。消防と警察では現在、爆発
の原因を調べている。

 僕はその記事を何度も読み返した。これに間違いない。やはり、女につきまとって
誰かに叩きのめされたとかそういう類の話ではないのだ。
 ジェラルドにもう一度会わなければ、と僕は思った。ムガシたちに妨害されないと
ころで、ふたりきりで会って話をしなければ。どうやら彼は何か妙なことに巻き込ま
れつつある。それを止めなければならない。そして止められるのはたぶん僕くらいし
かいない。彼がまともに話をすることができるのは僕の他にいないのだ。
 では、どこで話をすればいいのだろう。病院では無理だ。彼らが見張っているに違
いない。しかし退院後ということになると、どこで彼をつかまえればいいのだろうか。
あのアパートに戻るとは考えられない。住める状態に修理するだけでもかなり時間が
かかりそうだし、それにあのような事件を起こしてしまったらとてもじゃないが戻れ
ないだろう。たとえ戻りたいと言っても家主が許さないに違いない。
 いいアイディアが浮かばないまま数日が過ぎた。結局、もう一度病院に行くしかな
い、という結論に僕は達し、僕はふたたび地下鉄に乗って病院に向かった。
 受付でジェラルドの名前を言うと、彼はもう退院したと言われた。僕はえ、と驚い
た。事故のあった日から通算してもまだ一週間かそこらしか経っていないし、だいい
ちまだ退院できるような状態には見えなかった。ほとんど身動きができない状態だっ
たのだ。
 僕は嫌な予感がした。あいつらが無理矢理に退院させたのではないか。警察の捜査
が彼に及ぶのを恐れて、彼をどこかに隠したのではないか。
 僕は彼の退院先をたずねてみた。受付係の白衣を着た痩せた黒人の女性がキーボー
ドを叩いて調べてくれたが、結局、登録されている住所はあのアパートメントのもの
しかなかった。僕は彼女に礼を言って病院を出た。
 僕は途方にくれてしまった。どうやって彼を探し出せばよいのだろう。おそらく彼
はムガシたちのうちの誰かの部屋に連れて行かれたのだろうが、それがいったいどこ
にあるのか、僕には見当もつかなかった。
 僕はいったん自分の部屋に戻った。しかしいてもたってもいられず、すぐにまた外
に飛び出した。僕は裏通りに入り、混血の者たちの間を抜けてあちこち歩き回った。
しかしどこにも彼らの痕跡は見られなかった。この近所は彼らのテリトリーではない
のかも知れない。僕はあきらめてアパートメントに戻った。
 その夜、リディアが帰ってきたときに、僕はジェラルドのことは伏せたままそれと
なくムガシたちのことを聞いてみたが、彼女はそのような者たちは知らない、と言っ
た。ナーモにも聞いてみようとしたが、彼は僕を無視して黙って自分の部屋に入って
しまった。
 僕は戸棚からモランジの瓶を出してきてリヴィングのソファに腰を下ろし、それを
ゴブレットになみなみと注いで飲んだ。…今日は裏通りの者たちに直接話を聞くこと
はしなかったが、やはりいずれは話をしなくてはならないのだろうか。しかし、僕が
そうやって動きまわっているという情報が、彼らの間を経由してムガシたちのうちの
ひとりに伝わる、という可能性は充分にある。そうなればおそらく彼らはジェラルド
を別の場所に隠すだろうし、僕自身の身にも危険が降りかかるおそれがある。
 そこまでしてジェラルドを助ける必要があるのだろうか、という疑念が心の奥底に
むくむくと沸きおこってくる。いや、「助ける」などと思っているのは僕の勝手な思
い込みで、彼にとっては実はそんなことをされても有難迷惑でしかないかも知れない
のだ。彼は自分の意志で巻き込まれている、あるいは自分から飛び込んでいった可能
性もあるからだ。もしそうだとすれば、僕がやろうとしていることは単なるいらぬお
せっかいということになる。
 思い悩みながら二杯目を注いでいると、イヴォンヌが帰ってきた。彼女にしては早
い帰宅だ。足もともしゃんとしている。僕はソファから立ち上がった。
「あれ、今日は珍しく素面じゃないか」
「なによ」彼女は軽く僕を睨んだ。「まるでわたしがアル中みたいじゃないの」
「違うの?」
 彼女は笑いながら僕の肩を掌で軽く叩き、自分の部屋に向かった。
 そのとき、僕はふと思いついて彼女を呼び止めた。
「そうだ、イヴォンヌ」
「なあに?」
「ムガシという奴を知らないか?」
「ムガシ?」彼女は僕のほうに向きなおり、首を傾げた。「聞き覚えのある名前ね…」
「たぶん犀との混血で、ものすごくでかい奴なんだけど…」
「あっ」彼女は声をあげた。
「知ってるのか?」
「知ってるわ」彼女は言った。「けっこう有名よ」
「有名?」
「有名と言っても、まあ何と言うか、裏の世界で有名ということね」
「裏の世界…」
「要するに、表舞台に出て来られない連中の世界ということ」
「…」
「その中で、混血の人たちがひそかに作っているグループがあるらしいのよ」
「グループ?」
「そう。何をしているグループなのかはっきりとはわからないんだけど、あまりいい
噂は聞かないわね。彼はそのリーダー格らしいのよ」
「ふうん」
「役所関係の建物とか、裕福な人間の家などに火をつけたり、爆弾を仕掛けて爆破し
たり、そういうようなことをしているという噂よ」
 僕はびっくりした。「そんな事件が起こっているの?」
「もちろん」イヴォンヌは頷いた。「どんな世界でもそういうことはあるわ」
「そうなのか?」僕は言った。「僕は、この世界にはそんな類のこととは存在しない
のだと思っていた」
「そんなことはありえないわ。社会が成立すれば、そこには必ず支配する者と支配さ
れる者が発生するし、さらにそれぞれのなかで報われる者と報われない者に分かれて
いくものよ。そして支配される者のなかでさらに報われない者たちは社会に不満を抱
くようになり、その不満を何らかの方法で晴らそうとする」
「…」
「単に酒でも飲んでくだを巻くとか、ちょっと酔って暴れるとか、そういう他愛のな
いことで発散できればいいんだけど、なかには鬱屈して社会を深く恨んで『こんな社
会は間違っている。ぶち壊してやろう』などというような過激な考えを持ってしまう
者だってやっぱり出てくるのよ。この世界にだってもちろん、そういう種類の者は存
在するわけ」
「たしかに、最近になって、裏通りのほうにはまた違う別の一面があることがわかっ
てきたけど、そんなにヤバいことまで起こっていたなんてまったく気づかなかった」
「それは、気づくことのできる段階に達してなかったからよ」
「段階?」
「たとえば、まだ幼い子供にはこのようなことを言っても理解できないでしょ?ある
程度の年齢を重ね、経験を積み重ねてからでないと、教えたとしても理解できないし、
すぐに忘れてしまう」
「子供…」僕はちょっとがっかりした。「僕は子供だったのか?」
「この世界ではね」彼女は微笑んだ。「だってこの世界に来てから一年も経ってない
じゃない」
 僕は驚いて彼女の目を見た。「…僕が他の世界からここに来たんだって、僕、きみ
に言ったっけ?」
「聞いてないけど」彼女はおかしそうに笑った。「そんなの見てればわかるわよ」
「はあ」
「そういうものよ。まあ、ここで暮らしはじめて時間が経つにつれて、少しずついろ
んなことがわかってきて、いま、やっとこういう陰の部分まで見えてくるようになっ
たというわけ」
 僕はすっかり感心してイヴォンヌを見た。
「なんだか今日はいつもと違うね」
 彼女は僕に口づけして言った。
「やっとここまで私のことが見えるようになった、ということよ」
 彼女はくるりと踵を返し、手を振りながら自分の部屋に入っていった。僕は呆然と
立ちつくし、その後ろ姿を見送った。