GENESIS

(20)

 クロードの店はそのまま僕が引き継ぐことになった。せっかく繁盛してきているの
に閉めるのももったいなかったし、それに僕だって生活していくためには収入が必要
だった。幸い、常連客になってくれている人たちも、クロードの遺志を継いで店を続
けるよう励ましてくれた。
ただ、店番こそそれなりにできるようになったとは言え、店の経営については僕は
まるっきりの素人のままだった。お金の動きが正確にはどうなっているのか、店の口
座はどこにあるのか、貸借はどうなっているのか、税金はどうすればいいのかなど、
僕はまったくと言っていいほど知らなかった。その部分はクロードがすべて自分で管
理しており、僕はいっさい関わっていなかったのだ。必要な情報は彼が使っていたノ
ート型のコンピューターに保存されているということは知っていたが、それがどんな
意味を示すもので、どんなふうに使えばいいのか、彼は僕に何も教えないうちに死ん
でしまった。したがって、僕が店を続けていくためには、しばらくの間、書店の経営
に詳しい者の助けが必要だった。
 それに、ひとりでは昼食やトイレにもおちおち行けなくなる。昼休みはともかく、
トイレに行くたびに店を閉めるわけにもいかない。
そこで僕は店の表に求人の張り紙を出した。
 次の日、さっそくひとりの男が雇ってほしいと言ってやってきた。彼はハームレス
と名乗った。名前は英語圏風だが、外見から見るかぎり基本的にはアジア人、それも
日本人のようだ。あるいはいわゆる「日系人」の子孫なのかも知れない。もっとも、
国家の概念の消滅してしまっているこの世界で「日本人」と「日系人」とを区別する
ことにはあまり意味はないようにも思える。
 彼は身長はさほど高くない。いや、はっきり言って低い。痩せているわけでも肥満
しているわけでもないが、少なくとも筋肉質ではない。全体にもったりとした感じの
体型である。身のこなしから見ても、運動神経はあまりよくなさそうだ。ぱっと見た
感じでは年齢のわかりにくい、どこか子供っぽいがあまり表情のない顔をしている。
しかし年齢はおそらく僕よりは上だろう。四十歳を過ぎたくらいか。薄いグレーの、
安っぽい感じのスーツに白のシャツを着て紺の地味なネクタイを締め、垢抜けない感
じの黒の靴をはいている。髪型に至ってはなんと坊ちゃん刈りである。そしてこれも
洒落っ気のない、黒の平べったいセカンド・バッグを抱えている。
 僕は彼に英語で話しかけた。
「日本語は喋れますか?」
「喋れません」
 あっさりとした感じではあるが、妙に抑揚のない、平板な喋り方である。
「本屋で働いた経験はありますか?」
「あります」
「どのくらい?」
「十五年です」
 僕は考えた。経験を考えると彼はまさに適任と言える。明日からでもすぐに仕事を
してもらうことができるだろう。しかし僕はどうも彼に引っかかるものを感じた。表
情や喋り方の起伏のなさとか洒落っ気のなさもそうなのだが、特にその顔の子供っぽ
さがどうも僕には気になってしかたがなかった。人間でも動物でも、結局は顔だと僕
は思っているのだ。これは顔のつくりが整っているとかそういうことではない。内面
はすべて顔にあらわれる、ということなのだ。相手がどういう人であるかを知りたけ
れば、顔を観察すればいい。屈折した者は屈折した顔つきをしているし、野心的な者
は野心的な顔つきをしている。気の弱い者は気の弱い顔つきをしているし、傲慢な者
は傲慢な顔つきをしている。そして子供っぽい者は子供っぽい顔つきをしているもの
なのだ。
 僕は子供っぽい、幼稚な奴は大嫌いである。子供っぽいというのは、自分のしてい
ることを客観的に見ることができず、自分が何をしているのかが自分でわからず、自
分のしていることが他者にどういう影響を与えているのか考えもしないということだ。
自分のことすらろくにわかっていない奴に、他者のことなどわかるはずがない。そも
そもそういう手合いには自分の頭でものを考えることなどできないのだ。自分という
ものがないのに自分の頭で考えることなど不可能なのだから。
 また、そういう連中に限ってこのような野暮ったい格好をしている者が多い。おそ
らく、自分というものがないこと、それに自分が他者からどう見えているかというこ
とに対して無自覚・無関心であることが、そのまま服装にまで表われているのだろう。
 そこで僕は判断を保留することにして、彼のメール・アドレスを聞いてからいった
ん帰ってもらった。
 それからさらに一週間ほど待ってみたが、結局、応募してきたのはそのハームレス
ひとりだけだった。選択肢はどうやら他になさそうだった。僕は彼にメールを打ち、
次の週の月曜日から来てくれるよう伝えた。
 月曜日、僕は店を再開した。今まではクロードに言われるままに動いていればよか
ったのだが、これからは仕入れる本の選択や並べ方も自分で考えてやらなければなら
ない。それでも、毎日の仕事の中で店内の棚構成はすでにだいたい頭に入っていたし、
おおまかな売れ線の傾向もわかっていた。僕は毎月メールや郵便で送られてくる新刊
案内に目をとおして発注する本と冊数を決め、売れた本を補充し、売れない本を返品
した。
 ハームレスにはクロードの使っていたノート型コンピューターをまるごと貸し与え、
経営管理をおもに担当してもらうことにした。彼はキーボードをぱたぱたと叩いてい
くつかのファイルをチェックし、この店は非常に堅実な経営状態だと言った。彼がそ
の内容を「読める」ことがわかり、僕はほっとした。
 書店で十五年働いたという彼の言葉には偽りはなく、仕事の上では彼はほとんど手
がかからなかった。毎日の出入荷のトラック便の時刻、常連客についての情報などと
いった店に固有の基本情報の他には、彼に教えることは特になかった。棚構成や売れ
筋などについても自分でどんどん覚えていった。勤務態度も実に真面目だった。真面
目過ぎるくらいだった。
 ただ、最初に彼に対して抱いた違和感はその後も消えなかった。そのため、日々の
仕事のなかで彼と必要な会話を交わすたびに僕は軽い苛立ちと息苦しさを覚えること
になった。それは徐々にではあるが僕の神経をすり減らし、疲労がまるでやわらかい
泥が少しずつ川底に堆積していくように、ゆっくりと、しかし着実に僕の中に溜まっ
ていった。だからと言って今さら彼を首にするわけにもいかなかった。それに彼は間
違いなく仕事には必要な存在だった。事実、店の売り上げも順調に伸びつづけていた。
学者や研究者たち、熱心な学生たちからほぼ定期的にまとまった注文が入るようにも
なり、ときには配達にも行かなければならなかった。
 僕は配達のために自動車の運転免許を取ることにした。何しろハードカバーの重い
本が多いので、さほど遠い客はいないとは言え、何ヶ所かまとめて回ろうとすると徒
歩や自転車ではつらいものがあったのだ。いずれ必要になれば取ろうとは思っていた
ので、これはちょうどよい機会だった。
 僕はリディアのつてを頼って、彼女の知人から中古の小さなヴァンを安く購入した。
それは左ハンドルで、くすんだ薄い水色に塗られた直方体のボディを持つ普通のヴァ
ンだったが、角の部分やライト類、窓枠、フロント・グリルなどがすべて丸っこく、
どことなく親しみの持てる車だった。変速はオートマティックだったので、リディア
に教わりながら近所の人通りの少ない通りで少し練習したらすぐに運転できるように
なった。
 僕は自動車免許を管轄している小さなオフィスに行って、無料で配られている筆記
試験用のテキストを貰ってきた。ひととおり読んで理解すると僕はふたたびオフィス
にでかけていき、まず窓口の脇にあるカウンターで立ったまま簡単な筆記試験を受け
た。すぐに採点がおこなわれ、合格となったので今度は試験官といっしょに車に乗り
込み、実技の試験を受けた。僕は試験官の言うとおりに車を走らせ、方向指示器を出
し、車線変更をし、右に左に走りまわった。ほんの十分程度でそれも終わり、最後に
数問の口頭試問を受けてオフィスに戻るとすぐに合格が伝えられ、所定の手数料を払
ってその場でただちに写真を撮り、十分後にはきちんと写真が貼られてラミネート加
工までされた免許証が手渡された。なんともあっけないほど簡単に取れてしまったの
だった。
 僕は店で切れ目なく訪れる客の応対をし、ヴァンに乗って得意先を走り回った。忙
しい時にはハームレスにも手伝ってもらった。あいかわらず店では文学・芸術系のか
たい専門書しか扱っていなかったのだが、仕事はますます忙しくなっていった。以前
のようなのんびりした、牧歌的と言っていいような雰囲気は目に見えてなくなってい
った。僕は仕事を終えてアパートメントに帰るときにはいつもぐったりと疲れきって
いた。しかし、肉体は疲れていても、頭の中はまだ熱く昂ぶっていて休息を拒否する
のだった。
 いつしか僕は、酒なしでは寝られないようになっていた。以前は平日はほとんど酒
を飲まなかったのだが、今では毎晩、寝る前にモランジを二、三杯飲んでいた。そう
しないとうまく寝つけないのだ。肉体は疲れているのにうまく寝られないというのは
初めての経験だった。少なくとも、僕の記憶に残っている限りでは初めてだった。
 ハームレスが来て三ヶ月ほど経ったころ、僕は仕事量の増加に対応するため、やむ
なくもうひとり店員を増やした。ジェフというこのひょろっと背の高い白人はハーム
レスの紹介でやって来た。以前彼と同じ店で働いていたことがあるということだった。
ジェフも、体格こそ違うもののどことなくハームレスと同じような印象の人物だった
が、やはりそれなりに経験を積んでおり、即戦力として使えそうだったので雇うこと
にした。彼にはおもに店番の補佐をしてもらった。
 店の売上げは伸びつづけたが、それでもしばらくすると伸び率はしだいに小さくな
りはじめた。あたりまえのことだった。扱っている商品の性格上、この店は万人向け
の店ではない。文学や芸術などに深く興味を持つ者以外にとってはまったく縁がない
と言ってもいい店なのだ。だから、このエリアでの購買層にだいたいひととおり行き
渡り、新規の客が少なくなれば、当然のことながら売上げの伸び率は低くなってくる
わけなのだ。
 しかしハームレスとジェフのふたりはある日「もっと売れる本や雑誌も置くべきで
は」と言いはじめた。
「もっと売れるものって?」僕は問い返した。
「要するに」ハームレスは言った。「もっとやわらかい、一般受けするものです」
「一般受け?」
「たとえば、週刊誌などの雑誌とか、もっと軽い読み物とか」
「駄目だ」僕は言下に断った。「うちはそういう店じゃない」
 彼は口を尖らせた。
「だって、そうしたほうがもっと売れるじゃないですか」
「そんなことはわかっている」
「売れるとわかっているのならそうするのが常識でしょう」
「常識?」僕は胸がむかむかしてきた。「うちの店はそういうスタイルじゃないんだ。
そんなことぐらいもうわかっているだろう?」
 僕の胸の中に、彼に対する生理的とも言える不快感が急激に膨らんできた。
「…だいたい常識って何だよ?どこの誰の常識なんだ?そもそもそれは本当に「常識」
なのか?おれと同じようなスタイルで商売をしているやつは街にいくらでもいるぞ。
あんたが前に働いていた店ではどうだったのか知らないが、それはその店でしか通用
しない「常識」だったんじゃないのか?」
 僕の言葉に彼はぐっと下を向いて押し黙った。しかし、それでもなお、彼は自分の
ほうが正しい、というオーラを全身から放射させつづけていた。ジェフもその背後に
無言で立ったまま、僕を馬鹿にするような表情を浮かべていた。それが僕を余計に苛
立たせた。
 たしかに、僕はこの世界に途中から入り込んできた異邦人だ。僕が知らないだけで、
もしかしたら本当にそれがここでの「常識」になっているのかも知れない。しかし、
それを差し引いてもなお、僕は彼らのどこか押しつけがましい幼稚さには強い嫌悪感
を覚えずにはいられなかった。
 彼らは自分の意見がもしかしたら間違っているかも知れないとは思わないのだろう
か。いや、それどころか、自分とは違う考えが存在することすらうまく想像できない
のかもしれない。まさに文字通り「独断と偏見」である。…いや、正確に言えば「独
断と偏見」とはやはり違う。それが本当に彼ら自身の思考を経て生まれてきた「独断
と偏見」であるならば、むしろ僕はそれをひとつの独自の意見として尊重する。僕が
何よりも我慢できないのは、彼らが自分たちの言いたいことを勝手に「常識」という
言葉で一般化し、かつ権威的な響きを加えて、それによって自分たちの考えを強制的
に押しつけようとしたことなのだ。「おれはこう思うんだが」と言えばいいのに、な
ぜ「常識」などという言葉を持ち出し権威を振りかざそうとするのか、僕にはさっぱ
りわからないのだ。
 そもそも、実のところ「常識」などというものほど曖昧なものはない。「常識」は
決して不変のものではなく、時と場所によってずいぶんと変わるものである。たとえ
ばある時代のある地域には、素手で手づかみで食事をするのが正式で洗練された作法
であるという「常識」があるが、別の時代の別の地域ではそれは「非常識」で「野蛮」
なこととされ、ナイフやフォークなどを使って食事をすることが「常識」とされる。
これはあくまで非常にわかりやすい表層的な一例だが、同様の例は探せばいくらでも
見つけることができる。極端に言えば、世界は無数の「常識」にみちているのだ。
 だから「常識」というものに権威を見出しそれに頼ろうとする者は、実は「常識」
というものの本質をまったく理解しておらず、さらに自分の頭で自分の意見や価値観
を考えだすことができない者、つまりは馬鹿なのである。しかし、自分の馬鹿さ加減
に気づかないというのがまさに馬鹿の馬鹿たる所以であって、彼らは無自覚のままに
次々と愚行を積み重ねていく。彼らは「常識」を持ち出すことで、自分が多数派の意
見を代表しているかのような錯覚に陥り、自分と意見や価値観を異にする者をまるで
反社会的存在であるかのように一方的に糾弾する。数十年もすれば、その関係が逆に
なるかも知れないなどとは想像もできないのだ。つまりは想像力が足りないというこ
とである。
 もっとも、そのような馬鹿な連中は、価値観の逆転が起こって「常識」の変化が生
じれば、真っ先に新たなる多数派に恥も外聞もなく尻尾を振り、それまで自分たちが
奉じてきたはずの「常識」に対して平気な顔をして唾を吐きかけるのではないかとい
う気もする。自分自身の考えを持たないから、何の疑問も痛みも感じることなく、自
分が流されていることに気づかぬまま流されていくのではないか。
 僕の酒量はますます増えた。いつの間にか、毎日モランジの瓶を半分ほど空けるよ
うになっていた。それも外で誰かといっしょに楽しく飲むのではなく、自分の部屋で
ひとり黙って飲むのである。アパートメントの中でも、ナーモはもとよりリディアや
イヴォンヌと会話をすることも少なくなり、休日でも部屋にこもってベッドの上で日
がな一日何もせずにぼうっとしていることが多くなってきた。これは決して良い傾向
ではない。自分でもそれはわかっていたが、だからと言って止めることもできないの
だった。