GENESIS

(2)

 天井のスピーカーからぼそぼそとした声が降ってきた。
「次.......西◎◇●駅...移るto B, D 'n F to ★※〓@島、C線 for ■$*○
#∞★ぽあああく」
 どうも英語のように聞こえる。断片的にいくつかの単語が聞き取れる。しかし何
を言っているのかはよく解らない。
 窓の外がタイル貼りの壁になり、やがて電車は停車した。ドアの開く音で我に帰
り、僕は急いでホームへと走り出た。すぐにドアは閉まり、電車は銀色の車体を光
らせて走り去った。
 僕は辺りを見まわし、とりあえず人の流れに従って歩き始めた。途中、古びたテ
ナー・サックスをくわえて吹き鳴らしているような動きを見せる黒人青年がいたが、
何故か音は聞こえなかった。僕は皆に続いて出口を抜け階段を昇り地上に出た。
 外は昼間だった。白黒黄色の老若男女が大きな通りに沿ってたくさん歩いている
が、物音はまったく感じ取れない。見たところ、どうも日本ではないように思える。
道端には紙コップを持ち通行人に振ってみせている身なりの汚い連中が何人も佇ん
でいる。
 突如、その紙コップからじゃらじゃらと小銭の音が響きはじめた。
 その音を聞いて、僕は自分が全くお金を持っていないのに気づいた。もちろん日
本円はいくらか財布に入っていると思うが、ここでは役に立ちそうもない。しかし、
クレジット・カードが三種類ある筈だった。そこで僕は周囲を見回して「BANK」
と英語で表示された建物を見つけ、車の流れをすり抜けながら広い通りを渡った。
なぜ英語であるのかは特に疑問に感じなかった。
 建物に入る時に僕は、入口の脇に貼ってある取扱いカードのマークをチェックし
た。そして思わずドアの前で立ち止まった。
「ない」
 そこには全部で十三個のマークが表示されていたが、僕の持っていた筈のものは
おろか、他に僕の知るカードのマークも何ひとつ示されていなかった。VISAも
マスターもAMEXもダイナースもJCBもDISCOVERも無く、そのかわり
に全く見た覚えのないマークが十三個並んでいる。
 僕は大きく息を呑み、そしてゆっくりと吐き出した。立ち尽くす僕を押しのける
ようにして中年の白人男が建物の中に入ってゆく。僕は押された拍子に建物の中に
数歩足を踏み入れた。そこは見慣れた、ごく普通の銀行のATMコーナーである。
僕は他の客の通行の邪魔にならない位置に下がり、それからジーンズのポケットか
ら財布を取り出して中身を確かめた。
 そこには見たことのない絵柄のカードが三枚入っていた。それらの表面に示され
ているマークは、入口の脇に表示されていたものと一致した。
 僕は空いたATMの前に行き、カードの一枚を差し込んだ。画面の表示はぼんや
りとしており判読できない。しかし僕にはどれが「引き出し」なのかが判別でき、
適切なボタンをためらいなく押す。
 やがて数枚の紙幣が出て来た。20と書いてある。単位は判らない。紙幣のデザ
インはどことなくアメリカのドル札に似ているような気もするがなぜかはっきりし
ない。いったいどういうことなのか。僕は混乱したまま紙幣をズボンの前ポケット
にねじ込み、銀行を後にした。
 外はもう薄暗くなりはじめていた。道端にある金網に囲まれた公園の時計を見る
と短針は6のあたりを指している。察するにこれは午後の六時なのだろう。寝る場
所を見つけなくてはならない。僕はここの住人でないからだ。この風景はあきらか
に僕が記憶している自宅のまわりのものとは異なっている。さらに言うと今までに
行った記憶のあるどの場所とも異なっていた。要するにどこなのかまったくわから
ないのである。
 僕はたまたま近くにいた、警官とおぼしき制服姿の巨大な黒人の男に尋ねてみる
ことにした。どの言語で話しかけるべきか少し迷った。しかし結局、日本語の他に
わずかなりとも知っているのは英語しかなかった。僕は懸命に頭を絞り、知ってい
る英語の単語をかき集めて話しかけた。
「ああああうあうホテルホテル安い。あなた知るか。部屋安い滞在必要。何かどこ
か知るか。OK?」
 まったくOKではなかったらしく、彼は顔をしかめ、両手を広げて行ってしまっ
た。英語が下手だったので通じなかったのだろうか。それともここでは英語が使わ
れていないのか。しかしさっき「BANK」という表示があった。あれは英語では
ないのだろうか。いや、もしかしたら単に見かけがたまたま同じであるだけで、発
音や意味はまったく違う未知の言語なのかも知れない。鳩尾の奥のあたりが冷えて
すうっと力が抜けていくような感じがした。
 その時、傍らで女性の声がした。
「あなた必要か助け」
 英語だった。
 声のした方を振り向くと、そこは小さな洋服屋だった。その入口の脇に若い黒人
の女性が立っている。肌の色はそれほど濃くはない。身長は僕と大体同じくらいだ
が手足の長さがまるで違う。彼女は赤のタンクトップを着、脚にぴったりと合った
スリム・フィットのジーンズに、すこし爪先が角張ったヒールの低い黒の革靴をは
いていた。その服装のために手足の長さがなおさら目立つ。長い髪はコーン・ロウ
にきれいに編み込んである。目が細く少し吊り目気味で、鼻は小さい。剥き出しに
なっている額の曲線が可愛らしい。
「はいその通りです」と僕はぎこちなく答えた。「場所滞在する必要。安いところ。
知っていますか」
「いやー私知っている。わたしの家族持つホテル」
「本当? それは偉大だ」
「私仕事終わる今日の。待て一分」
 どうやら意志の疎通はできたらしい。僕は店の外で辺りを眺めながら彼女が出て
来るのを待った。近くに屋台のようなものがあったので、そこで大汗をかいた末に
やっとのことでコーヒーを手に入れた。それを半分程飲み終えたところで彼女が出
て来た。
「ごめんなさい遅れる。来なさい。私連れて行くあなたホテルに」
 僕は彼女と並んで歩きだした。
「何ですかあなたの名前」
「私リディア。あなた?」
「僕は」と言いかけて僕は言葉に詰まってしまった。自分の名前を思い出せない。
僕は口を半開きにしたままで曖昧に視線をそらした。僕はいったい誰なのだろうか。
一瞬「記憶喪失」という言葉が脳裏をよぎった。・・・しかし、そもそも僕には名
前があったのだろうか。僕は歩きながら懸命に記憶を遡っていった。ところが、僕
の記憶はあの表参道の駅の階段を駆け下りたところで止まってしまうのだった。そ
れよりも以前に自分が何をしていたのかまったく思い出せない。僕の背筋が冷えた。
名前だけではなく過去の記憶がごっそりと全部抜け落ちているのだ。では、さっき
頭をよぎった僕の自宅の周りの風景の記憶はいったい何だったのだろう。しかしそ
れすらもう曖昧になっていて、具体的にどのような風景であったのか思い出すこと
ができない。もしかしたら最初から鮮明なものではなかったのかも知れない。ただ、
今いるこの場所の風景とは違うということが感じ取れただけなのではないのか。
 リディアの表情に不審そうな表情が浮かぶ。まずい。せっかく見つけた宿だ。な
んとかして切り抜けなければならない。