GENESIS

(19)

 翌朝、僕はひどい二日酔いの状態で目を覚ました。酔っていないように感じていた
が、やっぱりしっかりと酔いは回っていたのだ。酔っ払っている奴ほど自分は酔って
ないと主張するものだが、昨夜の自分も実は傍から見ればべろべろに泥酔したただの
酔っ払いだったのかも知れなかった。
 そのあと、僕は週に一、二度ほどのペースでイヴォンヌと寝るようになった。だい
たいそのくらいの頻度で、アパートメントの中でしばらくの間、僕が彼女とふたりき
りになるという状況が出現するのだった。それは夜のこともあったし、休日の昼間で
あることもあった。そして彼女はそのチャンスを絶対に逃さなかった。いや、彼女が
さりげなくそうなるように状況をうまく操作していたのかも知れない。そのくらいの
ことはしても不思議はなかった。なぜなら、彼女にとってはセックスは最優先事項の
ひとつだったからだ。より正確に言うなら、彼女にとっては快楽がもっとも大切なも
のであり、なかでもセックスはトップ・プライオリティの位置を占めていたというこ
とだ。
 もちろん僕は、以前から彼女が毎晩のようにいろんな男とセックスしているという
ことは知っていた。彼女はそれを隠そうとしなかったし、たびたび堂々と部屋に男を
連れ込んでいた。僕自身も何度も目撃している。それどころか、彼女を知る者−−そ
の中には当然、実際に彼女と寝た者も含まれるわけだが−−にとっては、もはやそれ
は常識と言ってもよかった。だからこそリディアも心配したわけだし、その心配は実
際に現実のものとなったわけだ。
 一方、僕はリディアとの付き合いも続けており、彼女ともセックスしていた。しか
し僕にはイヴォンヌの誘惑をしりぞけることがどうしてもできないのだった。
 それからの日々の生活のなかで、僕はリディアのいる前で何度もイヴォンヌと顔を
合わせることになった。同じ場所に住んでいるのだからあたりまえだ。しかし、彼女
はふたりの関係の気配などは露ほども見せず、まったく以前どおりに僕に接した。妙
な話だが、大したものだと僕は感心せずにはいられなかった。遊び慣れているからな
のか、もともとそういう才能があったのか。おそらくその両方だろう。豊富な経験が
才能を補強しているのだ。
 僕自身はというと、もちろん平静を装ってはいたが、内心はパニック寸前だった。
いつバレるかと気が気ではなかった。しかしリディアは、少なくとも僕の見るかぎり、
特に気づいたふうではなかった。僕・リディア・イヴォンヌの三人は、実に微妙かつ
危ういバランスの上にではあるが、かろうじて良い関係を結んでいた。
 問題はナーモだった。最初会った頃はあれだけ仲の良かった彼は、今ではますます
僕を避けるようになっていた。それどころか、何やら僕に対する憎悪のようなものす
ら感じるようになってきていた。彼とたまたまリヴィング・ルームで出会ったときな
ど、以前は視線をそらせるだけだったのが、最近はたまにではあるが、ちらりと僕を
非難するような目つきで睨んだりもするようになってきているのだった。
 数日後、僕はいつものようにクロードの店に行った。そして何気なく店の入口のド
アを開けようとして、鍵がかかっていることに気づいた。
 彼の店で働くようになって以来、こんなことは初めてだった。いつもなら、彼は僕
が店に着く前に入口の鍵を開けているはずだった。別にそう決めたわけではないのだ
が、いつの間にかそういう習慣となっていた。いちおうスペア・キーも預かってはい
たが、それを使ったことは今までに一度もない。
 僕は大ぶりな鉄製のスペア・キーをポケットから取り出した。昔ながらの古いドア
の鍵穴に差し込んで時計回りに回すと、中でシリンダーの回る手応えがあり、やがて
かちりと音がした。僕は急いでドアを開け、店の中に入った。
「クロード?」
 返事はない。
 僕は彼の定位置である、店のいちばん奥の机へと直行したが、そこには彼の姿はな
かった。
 僕はさらに彼の名を呼びながら早足で店内をひととおり回ってみたが、彼の姿はど
こにもなかった。そもそも誰かがいるという気配すら感じられないのだった。
 途方に暮れて奥の机の前に戻ってきたとき、机の背後に、さらに奥へと続くものら
しい引き戸があるのに僕は気づいた。いつもはその前に常にクロードが陣取っていた
ので、今までそんなものがあるなんて知らなかったのだ。
 僕は机を回り込んだ。この大きな机よりもこちら側に来るのは初めてだ。僕は引き
戸に手をかけ、そっと引いてみた。するとそれは思ったよりも軽く、からからと音を
立てて開いた。少し黴臭いような、ひんやりとした空気が漏れてくる。
 引き戸の向こう側には、店内と同じような板張りの短い廊下があり、その両側と突
き当たりに一つづつドアがあった。僕は順番にドアを開けていった。
 右側のドアはトイレだった。山羊用に改造されたものらしく、細長く底の深い見慣
れぬ形の便器がタイル張りの床にじかに埋め込まれている。いちおう水洗式であるよ
うだ。便器の右側にペダルがある。たぶんこれを踏むと水が流れるのだろう。
 左側のドアを開けると、そこは浴室だった。タイル張りの内部には浴槽はなく、向
かって右側の壁には液体石鹸が出るものとおぼしき管と、クロードの体の大きさとほ
ぼ同じくらいの巨大なブラシが埋め込まれ、左側の壁にはシャワーのノズルが四つ、
ちょうど僕の目の高さのあたりに並んで取りつけられている。液体石鹸の側にもシャ
ワーの側にも、壁面の足で押せる低い位置に大きな金属製のボタンがある。ひとりで
体を洗えるようにうまく工夫されているようだ。しかし、壁も床もブラシも完全に乾
いており、少なくともここ数時間のうちに使った形跡はない。
 そして最後に僕は正面のドアを開けた。
 そこはひとつの大きな部屋になっていた。床は廊下と同じ板張りである。右手には
異様に背が低く平べったい形の冷蔵庫が置かれている。扉にはハンドルのようなもの
がついている。これも足で使えるように作られたものなのだろう。他に低い棚がいく
つか並んでいる。正面にはさほど大きくない窓があり、白い地味なカーテンが下がっ
ている。左手に視線を移すと、ごく低いコンクリート製の枠に囲まれた、二メートル
四方ほどの場所があった。枠の中には藁が敷き詰められている。そしてその藁の上に、
口を半開きにしたクロードが横たわっていた。彼の四本の足は不自然に揃ってまっす
ぐに伸びたまま硬直している。
「クロード!」
 僕は部屋に飛び込み、彼のもとに駆け寄った。彼は僕の声に何の反応も示さない。
よく見ると、彼の両の瞼はかすかに開いていたが、その隙間から見える両眼にははっ
きりと白い膜がかかっていた。口もとには何かを吐いたような跡がある。僕は彼の肩
口に触れた。僕の手のひらに嫌な冷たさが伝わってくる。
「クロード!!」
 僕はもういちど叫び、力いっぱい彼の体を揺すった。しかし、かたく伸びきった四
本の脚がむなしく上下に揺れ、藁の上でかさかさと音を立てるだけだった。
 僕は呆然と彼の傍らに座り込んだ。部屋の中の温度が少し下がったような気がした。
しかし頭の中は逆に熱く沸騰しそうだった。いろいろな思いが激しく渦を巻いて充満
し、その圧力で頭蓋骨が内側から破裂しそうな気がした。
 夕べ帰るときには特に変わったところはなかったはずだった。確かに高齢ではあり、
それにともなう衰えがあったのは事実だが、とくに目立って具合が悪かったわけでも
ない。むしろここしばらくは体調はいいほうだった。少なくとも僕にはそう見えてい
た。しかし、見えないところでひそかに病変が進行していたのかも知れない。そして
おそらく、昨夜のあいだに何かの発作を起こしたのだろう。せめて苦痛が短かったこ
とを願うしかない。
彼は僕にとってはまさに先生だった。日々の仕事はもちろんのこと、僕がこの世界
の基本的なことがらについて理解するための助けとなってくれたのも彼だった。彼の
脳の中には、長年の経験と読書と彼独自の思考によって積み重ねられてきた膨大な情
報がぎっしりと詰まっており、僕が何かわからないことがあって質問すると、それが
どんなことであっても彼は必ず適切な答えを返してくれた。彼はまさに僕にとって文
字通り「生き字引」だったのだ。
 まだまだ彼の頭の中には、僕の知っておくべき貴重な情報がたくさんあったに違い
ない。しかし、彼の心臓が停止し、血流が滞って脳への酸素の供給が止まったとき、
数億にのぼる脳細胞は短時間のうちにすべて死滅し、ただの冷たい蛋白質の塊と化し
てしまった。おそらくはすでに腐敗も始まっていることだろう。脳細胞の中のさまざ
まな化学物質を媒体として蓄積されていたはずの貴重な情報は変性して別のものに変
わってしまい、もはや情報として取り出すことはできない。彼はもう「生き字引」で
はないのだ。
 ずいぶん長い時間が経ってから、ようやく僕はのろのろと立ち上がった。しかし立
ち上がってから次の動作に移るまでに、またかなりの時間を要した。そして緩慢な動
作ながらもやっとのことで部屋を出、店を出て近所の病院まで歩いていった。受付で
事情を話すと、院長らしい初老の医師が出てきた。彼は話を聞くとすぐに受付の脇の
コンピュータから警察に連絡を入れ、それから僕について店にやってきた。
 彼は部屋に入るとまっすぐにクロードのところに行き、無言のまま表情ひとつ変え
ずに体のあちこちを調べ、鞄から取り出した用紙に何やら次々と書きつけていった。
それはとても事務的な作業に見えた。間もなく警官がひとりやってきて、医師から話
を聞いた。彼も特に表情を変えることなく、ちょこちょこと手帳に何か書き込んだだ
けで彼のもとを離れた。
 その間僕はずっと、少し離れた部屋の隅でまだ呆然としたまま立ち尽くしていた。
彼らの会話は、音声としては聞こえてくるのだが、その音声とその意味することとが
僕の頭の中でうまく結びつかず、僕には彼らがいったい何を言っているのかさっぱり
理解できなかった。僕はただ、ぽっかりと空洞になったような頭を抱え、そのうら寂
しい事務処理を眺めるだけだった。
 やがて医師は用紙の記入を終え、鞄から封筒を出してそれに入れ、封をして僕に渡
した。僕は黙ったままそれを受け取った。その時には警官はすでに姿を消していた。
「死亡診断書です。いろいろと必要になりますので、なくさないようにしてください」
 僕は「はあ」と返事とも溜息ともつかぬ声を漏らした。医師は「ご愁傷様でした」
というようなことを小声で呟くと部屋から出ていった。
 いろいろと手配しなければならない実際的なことがたくさんあった。身内(いれば
だが)や友人たち、仕事上の付き合いのある人々への連絡、葬儀屋の手配、埋葬の手
配、その他クロードが公私でかかわっていたさまざまなものごとの残務整理など。
 その日からしばらくの間、僕はその作業に没頭した。まず最初に僕は家じゅうひっ
くり返して住所録や手紙、メモ類、それにアルバムの類がないかどうか探し、それか
ら役所にも行って彼の身内がどこかにいないか調べた。
しかし、彼には結局、存命中の身寄りはひとりもいないらしかった。それで、さま
ざまなあれやこれやは全部僕がやらねばならないことになった。もっともそれはある
意味、僕にとっていいことだった。目先の用事で機械的にばたばたと忙しくしている
ことで、一時的とは言え悲しみを意識の外に追い出すことができたからだ。
 次に僕は葬儀屋に連絡を取って彼の葬儀をとりおこなった。すると、身内はいない
はずだったのに、数少ない彼の友人や仕事上の知人たちの他に、どこからどう見ても
山羊にしか見えない者たちが何人か姿を見せた。僕の目に映る彼らの多くは年老いて
おり、奇妙に平板でしかもどこかピントの合っていないような、茫洋とした姿をして
いた。彼らは僕が話しかけても返事をせず、ただ静かにクロードに別れを告げ、そし
てちょっと目を離した隙にいつの間にか姿を消していた。
 葬儀の手配のかたわら、僕は店にあった積立金を使って近所の墓地にクロードのた
めの小さな墓を買った。葬儀のあと、僕と少数の知人たちはクロードをそこに埋葬す
るのに立ち会った。その墓地でも、僕たちから少し離れたところに数頭の、さっきと
はまた別の山羊たちが静かに佇んでいた。まだ子供の山羊も一頭だけ混じっていた。
しかし棺がすっかり土で覆われるのを見とどけ、僕たちが顔を上げたとき、彼らはも
うそこにはいなかった。