GENESIS

(17)

 ジェラルドと飲んだ夜以来、僕にはこの街が以前とは違って見えるようになった。
この街には、それぞれに少しずつ異なる「理想の世界」を抱いた者たちが寄り集まっ
ている。つまりこの街は、無数の独立した小さな「理想の世界」の集合体とも言える。
僕にはそれがまるで街全体が無数のひび割れ、亀裂で覆いつくされているかのように
感じられた。そして住民は皆、それをできるだけ埋めようとして日々苦労している。
しかし、ひとつが埋まったとしても、すぐに別の亀裂が生じる。また、いくら努力し
ても深すぎて埋められない亀裂もある。逆に亀裂があることにすら気づかない場合も
ある。
 また、すでに自分の「理想の世界」を失ってしまった者たちも多数存在する。いや、
それどころか、生まれてこのかた自分の「理想の世界」を持つことすらできなかった
者たちも、おそらくは存在するだろう。彼らには亀裂すら存在しない。いや、亀裂そ
のものが彼らの居場所であるのかも知れない。自分の世界を持たぬ彼らは、他人の世
界がひしめきあうその狭間で、人目につかぬままひっそりと暮らしているのだ。
 街を歩いていると、以前には目につかなかった者たちが僕の視界に入ってくるよう
になった。賑やかな通りから折れて少し裏に入ると、がりがりに痩せた白人の老人が
うつろな目をして道端にべったりと座り込んでいる。レストランやバーの裏手のごみ
捨て場では、みすぼらしい身なりの者たちが争うように残飯をあさっている。彼らの
多くはあきらかに他の動物との混血だった。また別の裏通りでは、肌の露出の多い服
を身にまとった女性たちが何十人も道端に立ちならび、通りかかる男性に媚を売り、
懸命に客を取ろうとしている。なかには、人間の目から見ると「醜い」としか言いよ
うのない女性も混じっている。その多くはやはり他の動物との混血である。僕はナー
モが言った言葉を思い出した。
「混血の連中にはあまり仕事の口がない。ウェイターやウェイトレスなどの、それも
アルバイト程度の仕事しかない。そこから抜け出すために、芸能界を目指すやつもい
る」
 そしてそのどの仕事にもありつけなかった者、または一度はありついたもののその
仕事を失ってしまった者たちも数多く存在するのに違いない。
 ジェラルドはあれからしばらく姿を見せなかった。ちゃんと家に帰れたんだろうか、
と僕は不安になってきた。どこかで行き倒れになったり、事故に巻き込まれたりして
はいないだろうか。ちゃんと家まで連れて帰ってやればよかった、と僕は後悔しはじ
めていた。なにしろ足元もおぼつかない状態だった彼をひとりで地下鉄に押し込み、
そのまま無事も確認せずに帰宅してしまったのだ。
 二週間経っても彼は姿をあらわさなかったので僕は不安になり、僕は日曜日の午後、
地下鉄に乗ってふたたび彼の家に向かった。
 駅から地上に出、記憶を辿りながら、僕は彼のアパートメントを探した。何度か道
に迷ったものの、間もなく僕は彼の住むアパートメントを見つけることができた。
 玄関のドアの前で彼の部屋の呼び鈴を押し、しばらく待つと、スピーカーから声が
聞こえた。
「誰だ?」
 ジェラルドの声ではなかった。彼よりもはるかにがさつで、押し出しの強い声だ。
「ユウジです」
「ユウジ?」声が露骨に訝るようなトーンに変わった。「どのユウジだ」
「ジェラルドの友人のユウジです」
 沈黙があった。それから、何かを話し合っているような声がかすかに聞こえてきた。
どうやら室内に何人か集まっているらしい。
 しばらく待たされてから「入れ」と声がして、玄関のロックがはずされた。僕は中
に入り、古いエレベーターでごとごとと三階まで上がり、ジェラルドの部屋のドアを
ノックした。足音が近づいてきてドアの向こうで止まり、がちゃがちゃといくつもの
鍵をはずす音がして、薄くドアが開けられた。そこからジェラルドが顔をのぞかせ、
妙にそわそわした様子で「はやく入れ」と手招きした。僕が入ると、彼はすぐにドア
を閉め、ふたたびがちゃがちゃとあわただしくいくつもの鍵をロックしていった。
 室内にはアルコールと汗の匂いのまじった生暖かい空気が充満していた。部屋には
ジェラルドの他に六人の若い男がいた。みなあぐらをかき、床に車座になって座って
いる。座の内側には酒の瓶や缶と簡単なつまみの袋がいくつも無造作に置かれている。
全員、ひと目で「表通りの者」ではないとわかる。彼らはどんよりとした、しかし敵
意のこもった疑り深い視線を僕に投げかけている。お世辞にも歓迎されている雰囲気
ではない。
「・・・また出なおすよ」
「心配しなくていい」ジェラルドは慌てた様子で僕を引きとめた。「別に大丈夫だ。
こいつらは怪しい連中じゃない」
「いや、おまえが無事なのかどうか確認しに来ただけだから。大丈夫みたいだし、お
れはもう帰るよ」
 僕はそう言いながら踵を返し、ドアを開けて外に出ようとした。
 そのとき、背後から誰かが僕の肩を乱暴に掴んだ。ものすごい力だ。僕はまるで床
に打ちつけられたように一歩も動けなくなってしまった。
 辛うじて首をねじって後ろを窺うと、それは身長二メートルはありそうな巨漢だっ
た。車座に座っていた者たちのなかで、いちばん奥、ちょうど僕に正面を向いて座っ
ていた男だ。半袖のシャツから剥き出しになっている腕は僕の脚よりも太く、シャツ
の上からでも、全身がごつごつとした岩のような筋肉に覆われているのがはっきりと
わかる。おそらくはスポーツのために意識的につけた筋肉ではなく、激しい肉体労働
のなかで自然についたものなのだろう。顔を見ると、あきらかに数種類の動物の血が
混じっていることがわかる。黒目がちの丸い両目が離れて顔の横にあり、鼻先が角の
ように尖っている。犀の血が入っているのだろうか。皮膚も灰色をしている。年齢は
どのくらいなのか外見からはわかりにくい。それにしてもいつの間に僕のすぐ背後に
やってきたのだろう。
「お、おい・・・どうしたんだよ」
 ジェラルドがおろおろして言った。
「このまま帰すのは危険だ」
 男が言った。その声は、さっき玄関のスピーカーから聞こえたものと同じだった。
「ムガシ、こいつは危険じゃないよ」ジェラルドは言った。「おれの友達だ」
「友達というのがいちばん危険だ」ムガシという名前らしいその男は言った。「友達
というのは裏切るものだ」
「裏切るって、別にこいつはまだ関係ないだろう?」
「いや、こいつはおれたちを不審そうな目で見た。あきらかにおれたちのことを胡散
臭いと思っている。怪しまれて警察にでも通報されたらどうする気だ」
「おい、そんなこと言ったら余計に怪しまれるじゃねえか」車座のほうから、これも
がさつな響きの声が飛んだ。
「うるさい」ムガシは振り返り、雷のようなすさまじい声で一喝した。「お前らは黙
っていろ」
「どうでもいいけど」肩の痛みがそろそろ耐えがたいものになってきたので僕は言っ
た。「いい加減手を離せよ。痛いんだよ」
 ムガシは僕が言い返してくるとは思っていなかったらしく、少しびっくりした様子
で小さな目を見張って僕を見た。
「だ・・・駄目だ。そうしたらお前は逃げる」
「逃げないよ」僕は少し怒りを感じつつ答えた。「なんでおれが逃げる必要があるん
だよ。何も悪いことなんかしてないだろうが」
 彼の目に迷いの色が浮かび、僕の肩を押さえる手の力が少しゆるんだ。僕はその瞬
間をとらえ、さっと身体を捻って彼の手から逃れた。そしてドアを背にしてまっすぐ
に立ち、彼の目を正面から見据えた。
「いいかげんにしろよ。さっきから訳のわかんないことぐちゃぐちゃ言いやがって。
おれがなんで警察になんか行かなきゃいけないんだよ。勝手に決めつけるな。おまえ
らがここで何をしていようが、そんなことおれは知ろうとも思わないし知りたくもな
い。おれには何の関係もないことだ。勝手におれを巻き込むな」
 部屋の中に重い沈黙が下りた。ムガシは僕を見たまま動かない。ジェラルドは両目
を飛び出さんばかりに見開き、驚愕と恐怖の入り混じったような表情を貼りつけて固
まっている。他の車座の者たちの様子はムガシの巨体に遮られて見えないが、少なく
とも物音はまったく聞こえてこない。
「それじゃ帰るからな」
 僕はそう言い捨て、ドアを開けて部屋の外に出ると、足早に階段を下りて玄関から
通りに出た。誰かが追いかけてくるかも知れないと思っていたが、結局誰も姿を見せ
なかった。
 地下鉄に乗って戻ってきた僕はそのまま部屋には帰らず、ひとりで街を歩き回った。
どの店にも入らず、立ち止まることもせず、行き先も決めず、ただやみくもに歩きま
わった。
 歩きながら僕はジェラルドのことを考えた。彼は何をしようとしているのだろう。
彼の部屋にいた連中はいったい何者なのだろう。神経質と言えるほどに繊細で体格も
貧弱な彼と、荒々しく筋骨隆々としたあの男たちとは見るからにミスマッチであり、
彼らの接点がいったいどこにあるのか僕にはまったくわからなかった。
 また、同時に、僕は自分に少し腹を立てはじめていた。僕はなぜ逃げるようように
あの部屋から出てきてしまったのだろう。僕は彼らに恐怖を感じたのか。そうかも知
れない。確かに彼らの外見は怖かったし、それ以上に彼らの発散する雰囲気が怖かっ
た。そこにはきわめて胡散臭く凶悪なものが感じられた。しかし本当にそれだけなん
だろうか?
 僕はいつの間にか、女たちが立ち並ぶ通りに入り込んでいた。僕はしまった、と思
い、足早にそこを抜けようとした。
 その時、僕を呼び止める声がした。
「ユウジ?」