GENESIS

(16)

 ジェラルドはそれからクロードの店によく来るようになった。何か買っていくとき
もあれば、ただ立ち読みをするだけのときもあった。特に口を利くこともなかったが、
以前のように意味もなく突っかかってくることもなくなった。
 さらにしばらく経つと、一言二言、会話を交わすようになった。もっとも、会話と
は言っても「元気か」とか「雨が降りそうだな」などといった程度の、きわめて表面
的で他愛ないものに過ぎなかった。しかしジェラルドはそんな簡単な言葉でさえしば
しば口ごもり、懸命に努力した末にようやく言葉が出てくる、といった様子なのだっ
た。
 他人とふつうに会話をするということは、もしかしたら彼にとっては大事業なのか
も知れなかった。確かにそれまで、彼が誰かと話をするときは、たいがいが彼のほう
から一方的に文句を言ったり苛立ちをぶつけたりするだけで、相手の言うことを聞い
て理解し、それに対応しつつお互いの意見を交換していく、などということはほとん
どなされておらず、厳密な意味では「会話」とは言いがたいものだった。
 それでも、徐々にではあるが、彼と僕とのあいだの会話は少しずつ長くなり、内容
のヴァリエーションも増えていった。
 ある日、閉店間際にジェラルドがやってきた。もうすぐ閉店だよ、と声をかけると、
彼はしばらく口ごもったあと、ぼそっと言った。
「ちょっと飲みに行かねえか」
 僕はちょっとびっくりした。このころになると僕のほうも彼がどういう人間なのか
興味が湧いてきており、いちどいっしょに飲みに行ってみたいと思ってはいたのだが、
まさか彼のほうから誘ってくるとは予想していなかったのだ。
 それで僕はクロードと店じまいをしてから、ジェラルドとふたりで近所のぼろいバ
ーに入った。ジェラルドの行きつけの店らしかった。窓に酒のブランド・ロゴらしき
ものをかたどったネオンがいくつも取りつけられ、蛍光色の毒々しい光を放っている。
 僕たちは粗末な木のテーブルに座り、ビールと簡単なつまみを注文した。ほんとう
は腹が減っていて、もっとしっかりとしたものを食べたかったのだが、メニューには
つまみ程度の料理しかなかったのだ。酒も、安いビール数種類と、やはり値段の安い、
聞いたこともない名前の強そうな酒がいくつかあるだけだった。
 店内は全体にうす汚れ、どこか澱んだ雰囲気がたちこめていた。僕たちの他にも客
はいたが、いずれも質素な身なりで、しかもどこか世間からはずれているような雰囲
気の者ばかりである。一人で来ている客が多い。みんな黙りこくって、めいめい自分
の世界の中に深く沈みこみ、時おり思い出したようにビールの小瓶に手を伸ばし、じ
かに口をつけてぐい、と呷ったり、またはグラスの中の度の強そうな酒をちびちびと
舐めたりしている。二人以上で連れ立って来ている客も、酔って陽気に騒いでいるよ
うな者は誰もいない。酒を飲みながら小声でひそひそと話をし、しばらく黙りこみ、
また声をひそめて話をする。なかには電卓を叩いたり、紙に何かを書いて見せあいな
がら話をしている者たちもいる。
 ビールが運ばれてきた。やはり小瓶である。グラスはついてこない。それで僕たち
も周囲にならって、直接瓶からビールを喉に流し込んだ。はっきり言って味がうすく、
旨いとは言いがたい。
 自分から誘っておきながら、ジェラルドは口を開こうとしない。僕のほうも、彼の
意図がわからないので、何を話していいのか見当もつかない。そんなわけで、僕たち
はしばらくの間、黙ったままビールを飲みつづけた。
 二本目のビールが運ばれてきたところで、彼はうう、と唸り声を漏らしつつ身じろ
ぎをした。僕は手を止めて彼の顔をじっと見た。彼は右手の指先で何度も目尻をこす
り、それから掌で顔全体をごしごしとこすった。彼の頭の中で言葉が出口を探してぐ
るぐると回っているように見えた。
 彼はぐい、とビールをひとくち呷り、やっと口をひらいた。
「おまえ・・・」
 また間があった。彼は両手の親指を絡み合わせ、くるくると回しつづけている。僕
は黙ったまま続きを待った。下手に催促したら、彼はそのままへそを曲げて話をやめ
てしまいそうに思ったからだ。
 彼はもうひとくちビールを飲み、大きく息を吐いてから、急にぐっ、と僕の目を正
面から見つめて言った。
「おまえ、この世界は好きか?」
 僕はう、と唸った。どう答えるべきだろうか。しばらく迷ってから僕は言った。
「・・・けっこう好きだな」
「そうか」
 彼はまたビールを飲んだ。なんだか飲むピッチが早くなってきているような気がす
る。
 僕は思い切って逆に訊ねてみた。
「君はどうなんだ?」
 彼はぎゅっと顔をしかめた。機嫌を損ねたかな、と思ったが、彼はビールを飲み、
瓶をテーブルにどん、と置くと、吐き出すように言った。
「大嫌いだ」
「ふうん」僕もビールをひとくち飲み、それから皿のソーセージを一本齧った。
「なぜ?」
「なぜだって?」彼は身を乗り出した。「このあいだ、電車の中で見ただろう。みん
な自分のことしか考えてない。まわりのことなんかまるで見えていない。最低だ」
 僕はソーセージをもうひとくち齧った。
「まあ、あのおっさんはおれも腹立ったけどさ・・・でも、みんながみんなあんな感
じではないだろう?」
「いや、ほとんど全員はクソだ」彼は言い切った。「ほんの少しだけまともな連中が
いるが、大部分はどうしようもない馬鹿どもばかりだ。反吐が出る」
「どうしようもないって、いったいどんなふうに?」
「だってそうだろう」彼の目が完全に据わっている。「あいつらは表面的なことしか
見ていない。ただ表向きがちゃらちゃらと明るければいいと思っているんだ」
「・・・・・・」
「知能の低い、単に勢いだけで押しまくるような連中が幅をきかせている。あいつら
は物事をじっくり考えることをしない。本も読まない。電車の中で堂々とくだらない、
毒にも薬にもならないような漫画や雑誌を読んで恥ずかしいとも思わない。しかも周
囲にごつごつ本を当てて迷惑をかけていることに気づかず、あさましく没頭している。
たまに文字だけの本を読んでいる奴がいるかと思えば、ビジネス書なんか読んでやが
る。しかも「部下の心を掴む」とか「成功するにはどうすべきか」みたいな、自己啓
発っていうのか、そんな本を大真面目になって読んでいる。どうしようもない馬鹿だ。
あんなものに書いてあることなんて、ちょっと注意深く生きていれば自然にわかるよ
うなことばかりじゃないか。そして話すことと言えば、どうでもいいようなテレビの
番組とかタレントとか、どこそこが安いどこそこが旨い、どこそこが流行っているど
こそこが新しいだのといった、くだらない表面的なことばかりだ。女もそうだ。自分
にふさわしいものかどうかも考えず、似合いもしないのに高い金を出して服だのアク
セサリーだの買いあさって、クローゼットにはろくに着ていない服が溜まる一方。見
かけだけは懸命に繕って見栄えよく作っているけど中身は空っぽで、話をしてもまっ
たく面白くない。そのくせ相手の男には自分を面白がらせることを要求する。どうし
ようもない馬鹿だ。自分は語彙も少なく話題も狭く、知性のかけらもなく、表面的な
通りいっぺんの話しかできないくせに、そういう身の程知らずの要求をするのだ。あ
あいうのを田舎者というんだ。いくら服や靴に金をかけたって、あんな連中はただの
屑だ。上っ面でひゃあひゃあ言って、何もわからないままに虫けらのように死んでい
くんだ。それならさっさと死んでくれたほうが世のためというものだ。ざまあみろ」
 ジェラルドはさらにえんえんとこの世界を呪う言葉を吐きつづけた。まるで何かの
たががはずれたように彼は別人のごとく喋りまくり、際限なくビールを胃袋に流し込
みつづけた。そして最後にはすっかり酔っ払ってテーブルに突っ伏し、ぐうぐう寝て
しまった。
 僕は溜息をついて、度の強い透明な酒に変えてひとりでちびちびと飲みつづけた。
いつの間にか店内は満員になっていた。しかしあいかわらず活気は感じられず、疲れ
たようなどこか投げやりな雰囲気が充満していた。
 ジェラルドのこの憎悪はどこからきたのだろう、と僕は思った。
 彼の言ったことのなかには、僕にも納得できる内容がないわけではなかった。しか
し総じて彼の考えは単なる私怨のレベルにとどまる、かなり幼稚で偏ったものである
と言えた。だが、彼が世界に対して激しい疎外感を感じていることは痛いほどに感じ
ることができた。
 実際、初対面のときから、どうも彼はこの世界にうまく馴染んでいないようだ、と
僕は感じていた。彼が何かを言ったりしたりするたびに、まわりと激しく衝突し、波
風を立て、摩擦を発生させ、不快感をふりまき、その結果しばしば彼自身にも損害が
及んだ。人に嫌われ、悪口を言われ、ときには殴り倒された。彼には友達と呼べるよ
うな人はひとりもいないようだった。彼が誰かといっしょに談笑しているところなど
いちども見たことがない。自業自得、という考え方もできるだろう。
 しかし、彼はそれでも必死になって世界に自分を合わせようとしていたのかもしれ
ない。ほんとうに周囲の世界を超越してしまっていて自分の論理だけで生きているよ
うな者は、住む世界がまったく違うためにかえって衝突はあまり起こさないものだ。
まわりに合わせようとするからこそ、逆にまわりとの違いが浮き彫りになり、その差
に悩むことになる。罪悪感のようなものさえ抱くようになるかも知れない。
 しかし結局、自分をまわりに合わせるということは、寸法の合っていない服を無理
矢理に着こむようなものであり、そこから生じる不快感やストレスは相当なものであ
るに違いない。
 結局、彼は根源的にこの世界の仕組みにそぐわないのだろう。しかし、他に彼に合
う世界というものがあるのだろうか。確かに、僕はこの世界のほかにも別の世界があ
ることを知っている。僕はそれらの世界を次々と渡り歩き、今はたまたまこの世界に
いるだけだ。またいつか他の世界に行くことになるのか、それともここで骨をうずめ
ることになるのか、僕にはわからない。しかし、僕はおそらくかなり特殊なケースで
あるはずだ。ほとんどの人は、自分の生まれた世界から一歩も出ることなく一生を終
えてゆく。だから、彼らはなんとかその世界に適応して生きていかなくてはならない。
もし仮に彼にぴったりの世界が他にあったとしても、彼はそこに行くことはできない。
 そもそも僕自身にしても、今まで僕にぴったり合った世界などあったのかどうか。
記憶がほとんど残っていないので確かめようがないのだが、しかしもしあったにせよ、
結局は僕はそこを離れ、その結果僕はいまここにいる。もしかしたらこの世界がそう
なのかも知れないが、それはまだわからない。少なくとも今のところは悪くない。し
かし将来どうなるのかはわからない。
 さらに考えてみれば、ひとつの世界には実に多くの者たちが住んでおり、彼らはひ
とりひとり全員違うのだから、彼ら全員に対して同時に理想的であるひとつの世界な
どというのはありえない。言いかえれば「自分に合った世界」などというものはそれ
こそ無数に存在しうるのである。
 そんなことをとりとめなく考えながら酒を飲んでいるうちに、しだいに客が減りは
じめた。時計を見るともうかなりの時間だった。僕はジェラルドを叩き起こし、勘定
を払って店の外に出た。僕はまだふらついている彼を連れて地下鉄の駅に下り、切符
を買わせ、彼がちゃんと正しい電車に乗るのを見届けてからふたたび地上に戻り、歩
いてアパートメントに戻った。
 もうみんな寝てしまったらしく、リヴィングは暗く、物音もしなかった。僕は戸棚
からモランジの瓶とグラスを出し、それを持って自分の部屋に入った。グラスにモラ
ンジを注ぎ、それを持って僕はベッドに腰をかけた。手を伸ばしてブラインドを少し
開けると、眼下に散らばるたくさんの灯が見えた。さっきの寂しい酒場の灯はどれな
んだろう、と思って探してみたが、もちろんわかるはずはなかった。僕は眠れぬまま、
ときどきモランジを舐めながら、長いこと外を眺めていた。