GENESIS

(15)

 次の月曜日に店に行くと、クロードが体調を崩していた。ひっきりなしに背中を丸
めて咳をし、呼吸もぜいぜいと苦しそうだ。
「風邪ですか?」
「うむ」ごほん、とまた咳をして彼は言った。「たぶんそうだと思う」
「休んでてください、今日は僕ひとりでやりますよ」
「いや、ひとりだけでは休憩も取れないだろう。大丈夫だ」
「平気ですよ。昼飯を食うときは「休憩中」とでも表示しておけばいいし」
「そんな札あったかな?」
「そこらの紙に書いて貼っておけばいいんですよ」
「なるほど」ごほん、とまた彼は咳き込んだ。
「ところで」僕はふと気づいて訊ねてみた。「薬は飲んだんですか?」
「それが、実は切らしていてな」
「ぜんぜん飲んでないんですか?」僕はびっくりした。
「ああ、うっかりしていた。まだ残っていると思っていたのだが」
「それじゃ、まず先に薬を買ってきますよ。どこで買えばいいですか?」
「いつも薬を買っている店がある」ごほん、ごほん。「ちょっとここから遠いのだが。
この近所では山羊のための薬を売っている店がないのでな」
「行きかたを教えてください。買いにいきますよ」
「悪いな」
 彼に店への道筋を教えてもらい、僕はそれを紙切れにメモした。ついでに、たまた
まそばにあった新聞のチラシを一枚引き抜き、その裏に「本日都合により午後より営
業します」と書きつけて、入口のドアのガラス窓に内側からセロテープで貼りつけて
おいた。
 薬代を貰って店を出、メモを見ながら僕は地下鉄の駅に向かった。地下鉄、と僕は
思った。僕がこの世界に来るきっかけとなったものだ。
 メモのとおりに十分ほど歩くと、地下鉄の駅に降りる階段があった。そこの通りの
名前がそのまま駅名になっているようだ。階段を下りるとガラス張りのブースがあり、
その中に太った中年の雌の羊がいる。声を通すために円形を描いて開けられた細かい
いくつもの穴と、カウンターの窪みの部分にできている隙間以外は完全にガラス(お
そらくは防弾ガラスなのだろう)でこちらから遮断されている。僕はガラス越しに彼
女にメモを見せ、行きたい場所を告げた。彼女は頷いて金額を言った。僕が言われた
とおりのお金を窪みの隙間からガラスの向こう側にすべりこませると、彼女は小さな
コインのようなものをこちらに寄越した。
「これは?」
「あそこで入るときに入れて」
 彼女はそう言って、僕の背後の改札口を指した。僕は礼を言ってそれを受け取り、
入口の脇のスロットにそのコイン状のものを入れた。すると「ぴっ」と小さな音が鳴
り、行く手をふさいでいた金属製のバーがくるっと回転して、僕はプラットフォーム
へと吐き出された。しばらく待っていると、やがて大音響が響き渡り、電車がやって
きた。前に見たのと同じ、銀色の車体だ。僕はそれに乗り込んだ。
 車内は大混雑というほどではないが、ほどほどに混んでおり、座席はすべて埋まっ
ている。僕はしかたなく通路の手すりにつかまって立つことにした。
 メモとドア脇にある路線図を見比べて、自分の降りる駅を確認していると、突然、
少し離れた場所から若い男のものらしい怒声が響いた。
 何ごとかと声のしたほうを窺うと、ふたつほど向こうのドア脇にジェラルドが立っ
ているのが見えた。彼はすぐ後ろの、スーツ姿の太った中年の白人男に食ってかかっ
ていた。その男はかなりの巨漢で、身長ひとつ取ってもジェラルドよりもニ十センチ
は高い。僕よりも高いかも知れない。周囲の乗客たちはどうしてよいか分からぬ様子
で、できるだけ彼らから遠ざかりつつ、不安げにことの成り行きを見守っている。
「なんでそんなにくっついてくるんだよ!」
 ジェラルドはまた大声を出した。相手の男も負けずに大声でやり返した。
「なんだこの野郎。混んでるからだろうが」
「嘘つけ」ジェラルドは彼の背後を指さした。「てめえの後ろがあんなに空いてるだ
ろうが。もっと下がれってんだよバカ」
 見ると、たしかにその男はジェラルドに密着するように立っており、ほとんど彼を
ドアに押しつけるような格好になっていたが、男の背後にはかなり隙間があった。そ
こではっと気づいて、僕はあわてて自分の周囲を見回した。しかし幸いにも無意識の
うちにちゃんと計算していたらしく、僕と他の乗客たちとは適度な距離を保っていた。
「バカとは何だ」男は憤然と怒りはじめた。「非常識な奴め。年上に向かってその態
度は何だ」
「年上?」ジェラルドは露骨に心底あきれ果てたという表情をして見せた。
「年上だからどうした? 年に寄りかからないとろくにものも言えねえのか。だいた
いどっちが非常識なんだよ。他人に迷惑かけておいて逆切れするのが常識なのかよ。
頭おかしいんじゃねえのか?」
 おそらくは自分の半分ほどの年齢のジェラルドに面と向かって罵倒された男は、顔
を歪めると憤然とジェラルドの胸倉を掴んだ。僕はまずいと思い、乗客をかき分けて
彼らのもとへ向かった。
 しかし僕が到着したとき、ジェラルドはすでに殴り倒されていた。彼は床に転がっ
て丸くなり、かすかに呻き声をあげていた。相手の男は荒い息をつき、スーツをだら
しなく乱してその場に突っ立っていた。僕は急に怒りをおぼえ、彼を睨みつけた。
「なぜこんなことを」
 男はまだ興奮がおさまらぬ様子で、目をむき、唇をとがらせて言った。
「こいつが先に言いがかりをつけてきたんだ。おれは被害者だ」
「被害者?」僕は彼に嫌悪感を抱いた。「あなたが先に彼に迷惑をかけていたんじゃ
ないんですか?」
「なにが迷惑だ。こんなに混んでいるんだから、少々くっついてしまうのは仕方ない
だろうが。こいつの方が非常識だ」
「非常識非常識って何度も繰り返してますけど、それじゃあなたの言う「常識」とい
うのはいったい何なんですか?」僕は彼の背後を指さした。「だいたいあなた、うし
ろが空いているのに、必要以上に彼に密着していましたよね。それが相手に不快感を
与えるんだということが想像できないんですか?他の乗客はみんな、おたがいに不快
感をあたえないよう、距離をはかって位置を計算して立っているんですよ。そのくら
い、ちょっと注意してまわりを見ればすぐわかるでしょう?」
 僕だってまだ地下鉄に乗るのは2回目だけどそのくらいは、とつい言いそうになっ
て、あわてて僕はその言葉を呑み込んだ。そんな個人的な事情はここでは関係のない
ことだ。
「うるさい」
 男は喚いた。たるんだ顔の皮膚がぶるぶるとふるえ、ひどく醜悪に見える。
「ふざけるな。おまえも殴られたいのか?」
「はあ・・・」
 僕は思わず大きな溜息をついた。いったいどちらがふざけているというのか。どう
してこの男はこんなに頭が悪いんだろう。いい年をして、こんな簡単なことがどうし
てわからないんだろう。
 僕の気持ちが表情に出たのか、男は怒りに表情を醜く歪めながら、わざと僕の鼻先
に顔を近づけ、臭い息を吐きかけながら吐き捨てるように言った。
「こら。ガキのくせに大人を馬鹿にするのか?あ?大人の言うことをちゃんと聞けな
いのか?ああ?どういう躾をされたんだ?お前ちゃんと親がいるのか?」
 僕は彼の目をまっすぐ見て言った。
「あんたは大人じゃない。単に年食っただけのガキだ。おまえのような奴こそ真の意
味でどうしようもなく躾がなってなくて、頭が悪く、育ちも悪いんだ。品がなさすぎ
なんだよ、バカ」
 そして僕は素早くステップ・バックすると、渾身の力をこめて男の顔面に左ストレ
ートを叩き込もうとした。しかし男は片手で僕の左腕を掴んだ。ものすごい力だ。そ
して次の瞬間、僕は逆に殴り飛ばされていた。
 僕はもんどりうって通路に転がった。口の中に血の味が広がった。頭がぐらぐらし
て方向感覚がよくわからない。
 ふらつきながらもなんとか膝を突き、身体を起こすと、ひとりの小柄な女性が激し
い口調で男に何か言っているのが見えた。まだ聴覚がおかしく、まわりの音がぐわん
ぐわんと反響しているように聞こえるので、彼女が何と言っているのかはわからない。
男はそっぽを向き、うるさげにそれを聞き流している様子だ。
 僕はゆっくりと立ち上がり、まだ多少おぼつかない足どりで静かに男に近づいてい
った。男の顔はちょうど僕の反対側を向いており、僕は男に気づかれることなく至近
距離まで接近した。そして無言のまま、僕は力いっぱい男の脛に爪先で蹴りを入れた。
 ごくっ、という鈍い衝撃音が響き、男は大きくバランスを崩した。見ると、僕が蹴
りつけた脛がおかしな方向に折れ曲がっている。男はがっくりと両膝を突き、叫び声
とも呻き声ともつかぬ声をあげた。
 僕はさらにその横面に回し蹴りを叩き込んだ。ごふっ、と妙な声を漏らし、男は大
きな音を立てて床に転がった。
 そのとき、電車は次の駅に滑り込んだ。僕の降りる駅だ。ドアが開いたので、僕は
ジェラルドを担ぎ上げ、ほとんど引きずるようにしてプラットフォームに下ろした。
振り返ると、若い痩せた黒人の男性が、気絶したままの男を足でプラットフォームへ
と蹴りだしていた。彼は僕と眼が合うと、ニッと笑ってウィンクをした。僕も微笑ん
で軽く片手を上げた。
 地上に出てすぐの大通り沿いに二、三分ほど歩いたところにその薬屋はあった。僕
はぐったりとしたジェラルドを担いだままその店に入り、クロードのための薬を買っ
て領収書を貰った。それから自分の金で僕とジェラルドの怪我のための薬を買い、そ
の場で彼を椅子に座らせ、店員にも手伝ってもらい手当てをした。幸い、僕も彼も、
口の中を少し切った程度だったが、ジェラルドのほうは殴られたということそのもの
によるショックがまだ残っているようだった。しかし彼もようやく少し意識が戻って
きたようだった。
 まだかなり足もとがおぼつかないジェラルドを連れて僕は店を後にした。
「大丈夫か?」
「ああ・・・」返事はできるものの、まだ彼の視線は虚ろなままである。
 僕はそのまま彼を連れて地下鉄に乗った。家はどこにあるのかと聞くと、僕が下り
る駅の次の駅だと言う。ここまで来たら最後まで面倒を見ようと思い、僕はひと駅乗
り越して次の駅で彼とともに下車した。
 地上に出てすぐに狭い路地に折れ、しばらく歩くと狭い公園があった。公園と言っ
ても、ベンチが三つほど置かれている他には何もない、黒塗りの鉄柵に囲まれた空間
である。ベンチのひとつには薄汚れたなりをした小柄な老婆がじっと俯き加減に座っ
ており、その足もとには一羽の烏がいて何かを懸命につついている。
 その公園を過ぎてすぐのところにある、古い煉瓦づくりのビルの三階の隅に彼の部
屋はあった。彼に鍵を開けさせ、僕は彼を部屋の中に運び込んだ。
 部屋に入った途端、むっとする臭いが鼻をついた。部屋の中はお世辞にもきれいと
は言えないものだった。大量の本や雑誌や何だかよくわからない紙束があちこちに積
まれ、しかもところどころ崩れている。他にも床にはお菓子の袋だのデリカテッセン
のものらしい容器だの瓶だの缶だのがごちゃごちゃになって散乱している。古ぼけた
ソファには服が何着もくしゃくしゃになって積み重なり、こんもりと山になっている。
突き当たりの窓に面して机が置かれており、その上には、よくわからない雑多なもの
に混じってコンピュータが一台乗っている。机を挟んで部屋の両端には大きなスピー
カーがひとつずつ鎮座している。机の脇にはギターやエレクトリック・ベースが何本
か立てかけられている。
 僕はソファの上の服の山を片側に寄せ、できた空間にジェラルドを座らせた。それ
から台所に行って、長らく使った形跡のない食器類の中からグラスを一個取り出し、
ざっと洗ってから水を汲んで戻った。
 水を飲ませると、彼はようやく意識がしっかりしてきたようだった。それとともに
殴られた痛みと怒りが込み上げてきたのか、目がだんだん据わってきた。
「あのおっさんはどこに行った?」彼は低い声で言った。
「ああ、あれね」僕は答えた。「ぶちのめしておいた」
 彼は少し驚いたようだった。「おまえがか?」
「ああ」
 彼は何かを言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わなかった。少し混乱して
いるようだった。
「じゃ、おれは仕事に戻らなきゃいけないから。無理するなよ」
 僕はそう言って彼の部屋を出、ふたたび地下鉄に乗ってクロードの店に戻った。