GENESIS

(14)

 金曜日、僕がクロードの店から帰ってくると、ちょうどナーモも学校から帰ってき
たところだった。ほどなくしてリディアも戻ってきた。
「おい、メシどうする?」ナーモが言った。
「そうだな・・・久々に何か作ろうか?」
 僕はキッチンに入って冷蔵庫をチェックしてみたが、バターや牛乳、いくつかの卵、
ジュース、それにビールとワインぐらいしか入っていなかった。冷凍庫までチェック
したが、凍った使いかけのベーコンと、袋に入った氷しか出てこなかった。リディア
がうしろから僕の背中にべったりとくっついてきた。
「ごめん、買い物行ってないの」
「みたいだな・・・明日の朝ごはん、どうする?」
「パンはあるから、なんとかなるでしょ」
 僕は冷蔵庫のドアを閉め、彼女に軽くキスをしていっしょにリヴィングに戻った。
「外に食いに行くか?」
「OK」
 僕たちは外に出てメイン・ストリートに歩いていき、たまたま目についた日本料理
屋に入った。この街にはちゃんと日本料理屋もあったのだ。僕たちは奥の白木のテー
ブルにつき、生ビールのジョッキを注文した。ナーモは料理のメニューを好奇心いっ
ぱいの眼で見つめている。
「ナーモ、日本料理って食べたことないのか?」
「うん」彼は答えた。「スシとかテンプラとか、名前は聞いたことあるけど実際に食
べたことはないんだ」
「初体験ね」僕の隣に座ったリディアがいたずらっぽく笑っている。どうやら彼女は
初めてではないようだ。
「あれ」僕は思わず声を上げた。「焼鳥はないのかな?」
 ナーモが首をかしげた。「なんだい、それ」
「ええと、鶏の肉を細かく切って、串に刺して焼くやつ」
「えっ」彼は顔をしかめた。「あいつらを食っちまうのか?」
 そこで僕はようやく気がついた。リディアもそれを察して、横から口を挟んだ。
「むかしは人間は他の動物の肉をよく食べていたのよ。鶏もそうだし、牛や豚もずい
ぶん食べていたみたい」
「そうなのか・・・」
 僕はふとさっきの冷蔵庫の中身を思い出した。
「でも、さっき冷凍庫にベーコン入ってなかったっけ?」
「ああ、あれね」リディアは頷いた。「あれは合成。蛋白質や脂肪を使って人工的に
作り出したものよ」
「へえ」僕は驚いた。「じゃ、今まで僕が食べていた肉は・・・」
「そう、本物の肉じゃなくてぜんぶ合成」
 僕は、リディアとはじめて行った中華料理屋で食べたものや、そのあと今日まで食
べてきたものをいろいろ思い浮かべてみた。そのなかには牛肉も豚肉も鶏肉もあった。
羊や山羊も食べたかも知れない。しかし確かによく考えてみれば、たとえば山羊の肉
を食べるということは、つまりクロードを食べるということなのだ。まあ、彼はもう
すっかり年老いて、肉はげっそり落ちてしまっているが・・・とつい想像しそうにな
り、僕はあわてて首を振った。
「動物たちが自分たちと肩をならべて生活する隣人になったからと言って、一万年以
上も続いてきた食生活はそう簡単には変えられないからね」
 リディアの説明に、ナーモも何かを思い出したようだった。
「そう言えば、何かの本でそんなことを読んだことがあったな。なんでも、中国と呼
ばれた地域では、人間は四足のものはテーブル以外は何でも食べてしまったと言われ
たとか」
 そんな会話を聞きながら、僕は正直言って、少しがっかりした。もう本物の肉を食
べることはできないのだろうか。この世界で肉を食べるということはすなわち隣人を
食べることなのだ、というのは判っているのだが、この世界で生まれ育ち、そういう
状況に慣れている、いや、それしか知らないリディアやナーモとは違い、急に途中か
らこの世界に放り込まれた僕にとっては少しつらい。まあ、慣れるまで我慢するしか
ないのかも知れない。
「そうだ。卵や牛乳もあったけど、あれは?」
「ああ、あれは本物。鶏や牛たちが自分で売っているのよ」
「へええ・・・ところで、魚介類は食べるんだね」
「そうね。それはずっと変わってないみたい」
 そこへビールが運ばれてきたので僕たちは乾杯した。こくがあって実にしっかりと
した、旨いビールだ。メニューには、かつての日本で作られていたビールを忠実に再
現したものだ、と書いてあった。
 僕たちはビールを飲みながら詳細にメニューを検討した。いきなり生魚ではナーモ
にとっていささかつらいかも知れないので、とりあえず天麩羅の盛り合わせ、じゃが
いもの煮っころがし、揚げ出し豆腐などをオーダーした。
「店の仕事はどう?」ビールをひとくち飲んで、リディアが僕にたずねた。
「悪くないね」僕は答えた。「もともと僕は本がけっこう好きだし、それにとても勉
強になる。店主も博識で、すごくいい人だよ」
「よかった」
「あ、そうだ」僕は思い出して言った。「ジェラルドがいちど店に来たよ」
 それを聞いてリディアが眉をひそめた。
「何かわたしたちのことで乗り込んできたの?」
「いや、そういうわけではなかったらしい。あの店に来たのも初めてのようだったし、
僕があそこで働いていることも知らなかったみたいだよ」
「まあ」ナーモがぐびりとビールを飲んで言った。「ああいう手合いは、一対一で直
接対決を挑むほどの度胸はないだろう」
「ああ。僕の顔を見て、ほんとうに身体がびくっと硬直していたからな・・・でも」
「でも?」リディアが僕の顔を覗き込んだ。僕はビールをひとくち飲んだ。
「あいつもあいつなりにいろいろ考えているんだなあ、と思ってさ」
「どういうこと?」
 ちょうどそこに料理が運ばれてきた。僕は料理をつつきながら、店でジェラルドが
言ったことをふたりに説明した。
「なるほどね」ナーモが箸の扱いに悪戦苦闘しながら言った。どうも彼の指が太すぎ
て余計に使いにくいようだ。
「その意味では、おれも人間の言語を喋り、人間の文化の影響を受け、今もこうやっ
て人間と同じものを食っているわけだけど」
 そう言いながらも彼はまだひとくちも食べられずに、天麩羅をつまもうとして大汗
をかいている。見かねて僕は店員を呼んでフォークを持ってこさせた。
「助かった」ナーモは大きく息をついた。「どうもおれには小さすぎる」
「中華料理屋に置いてあるような箸ならまだよかったかもね」リディアが笑いながら
言った。
「ああ、そういえばあれはもっと太くて長いよな」
「なんか、箸というよりは棒だよね」
 僕は久しぶりの日本の味に舌鼓を打った。実に懐かしい味だ。・・・もっとも、実
際のところ、僕には日本料理の記憶はさして鮮明に残っているわけではない。いわゆ
る「おふくろの味」というものも覚えていない。しかし、これらの料理を口にして感
じるのは紛れもない「懐かしさ」なのだった。これは不思議な感覚だった。よく知ら
ないのに懐かしく思う、というのは、理屈で言えば矛盾しているとしか言いようがな
いのだが、しかしそう感じている自分自身を否定することもできないのだった。
 僕たちはさらに、刺身も含めて何品か料理を注文した。それから日本酒も追加した。
ナーモは刺身には少し抵抗感があったようだが、それでもだんだん慣れてきて、ほと
んどのものは食べられるようになった。慣れというものの力は実に大きいものだ。
 おいしい料理をたくさん食べ、それに日本酒もたくさん飲んで、いつの間にか僕た
ちはすっかりいい気分になった。話の切れ目にふと時計を見ると九時を過ぎたところ
だった。僕たちは店を変えることにして勘定をすませ、外に出た。通りには大勢の人
間や動物が溢れていた。みんなの足音や喋り声や笑い声が混じりあったほどよいざわ
めきが耳に快い。
 僕たちは、以前、ジェラルドから逃れて入ったあの小さなバーに移動した。店に入
ると、前と同じように年老いたレトリバーが僕たちを出迎えてくれた。彼は僕たちを
前と同じテーブルに案内した。
 僕たちは酒を飲みながら、取りとめもないお喋りに興じた。馬鹿な他愛もない冗談
を言い合って笑いあった。なんだか、こんなにリラックスしたのは久しぶりのような
気がした。この世界に来てから僕はずっと緊張しつづけていたのかも知れなかった。
 いつの間にか二時間ほど経ち、さてこれからどうしようか、とほどよく酔いのまわ
った頭で考えていると、急に入口のドアが音をたてて乱暴に開いた。
「イヴォンヌ?」
 僕は思わず口に出した。彼女は足もとがおぼつかない様子で、ドアに掴まったまま
こちらを向き、わずかに片手を上げて微笑んだ。また相当に酔っ払っているようだ。
いや、むしろ彼女が素面でいるのを見るほうが珍しいと言ったほうがよいかも知れな
かった。彼女は黒の薄手のキャミソールに黒のぴったりとしたパンツ、それに黒のシ
ョート・ブーツという黒ずくめの格好だった。ナーモがすぐに立ち上がって彼女のと
ころに行き、肩を貸して僕たちのテーブルに連れてきた。彼女は椅子にへたり込むよ
うに腰掛けると、そのままぐにゃぐにゃとナーモに凭れかかった。彼は仕方なく椅子
を引き寄せて、彼女とぴったり密着して座った。イヴォンヌは両目がとろんと潤んで
いて、口も半開きになっており、剥き出しになった細く白い肩や腕がほんのりと紅色
に染まり、異様な艶めかしさを発散していた。しかしそれはもしかしたら、生まれな
がらの女性の持つ色気とは少し違うものなのかも知れなかった。不幸にも男性の肉体
を持って生まれてきてしまったがために、かえって女性らしさを女性よりも意識的に、
かつ強烈な意志の力を持って目指さざるを得なかったことによる屈折などが、ほんの
少しだけ外に沁みだしているのかも知れない。
 イヴォンヌはナーモに凭れたまま、すぐにすうすう寝てしまった。ゆすっても呼び
かけても起きる気配はない。
「しょうがないな・・・」彼は仕方ない、という表情で、金をテーブルの上に置いて
言った。「先におれが彼女を部屋まで連れて帰るよ」
「悪いな」僕は彼女を背負って出ていく彼の後姿に声をかけた。彼は軽く片手を上げ、
外の雑踏の中に姿を消した。
 僕たちはさらに二杯ずつ飲み、それからいっしょに手をつないでアパートメントに
帰った。リヴィングのテーブルに水が少し残っているグラスが置いてあった。僕はリ
ディアといっしょに彼女の部屋に入り、抱き合ってキスをし、そのままベッドに倒れ
込んで彼女と何度も交わった。
 翌朝、僕は早い時間に目がさめた。時計を見るとまだ八時だ。休日にこんな時間に
起きることはまずないのだが、もうきっぱりと覚醒してしまって眠れない。僕の目覚
める気配にリディアも横でもぞもぞと動いたが、またすぐに眠りに落ちてしまった。
僕は彼女の額にキスをしてベッドから抜け出し、床に散らばっている服を着て部屋を
出た。
 キッチンに行ってコーヒーを入れ、リヴィングに戻ってきたとき、イヴォンヌの部
屋のドアがそっと開いて、中からナーモが出てきた。彼も僕と同様、昨晩と同じ服を
着ている。僕が「あれっ」と思わず声を出すと、彼はびくっとして、ものすごい勢い
で僕のほうを向いた。彼の両目はこれ以上ないほどに大きく見開かれている。
「おはよう」僕はいつもと同じように声をかけた。
「あ、お、おはよう」
「コーヒー飲むか?」
「あ、ああ」
 僕はキッチンに取って返して彼のぶんのコーヒーを入れ、両手にふたつのマグを持
ってリヴィングに戻った。しかし彼の姿はそこにはなかった。僕はテーブルにマグを
置き、彼の部屋のドアをノックしてみた。しかし返事はなかった。外出してしまった
のか、それとも部屋の中でいないふりをして息をひそめているのか。いずれにしても
僕には不可解な行動だった。僕は溜息をついて、ソファに腰をおろし、テレビのスイ
ッチを入れた。