GENESIS

(13)


 その夜以来、リディアと僕は頻繁に交わるようになった。その時の気分で、彼女の
部屋ですることもあれば、僕の部屋ですることもあった。彼女は公然と僕にべったり
とくっつくようになったので、誰の目にも僕たちの関係はあきらかだった。僕もとく
に隠すこともないと思ったので彼女の好きにさせ、僕自身も彼女を突然往来で抱きし
めてキスをしたりした。
 ただひとつだけ、ジェラルドに見られたらまずいかも知れない、という心配はあっ
た。しかしそんなことをいちいち気にしていたら女性とつきあうことなどできない。
彼は彼、僕は僕なのだ。彼は僕よりも先に彼女に近づいたが、彼女は僕のほうを選ん
だ。それだけのことだ。誰も悪くない。ただし、ジェラルドの言動には問題が多いの
で、そういう「常識」が通用するかどうかわからない、というのも事実ではあるのだ
が。
 クロードの店での仕事にもすっかり慣れてきた。客の数も増えてきて、けっこう忙
しくなっていた。僕は店での仕事を通じて、僕は少しずつこの世界の文学や芸術につ
いて学んでいった。なにしろある程度はそういうものを知っておかないと仕事になら
ないのだ。
 国家というものがなくなった現在でも、言語についてはとくに統一はなされていな
いようだった。そんなことは不可能なのかも知れなかった。なにしろ、国家などとい
うものはあくまでイデオロギー、あるいは概念の産物に過ぎず、一種の幻想とすら言
えるものだが、言語はもともとそれぞれの土地、民族、日々の暮らしに密着して長い
時間をかけて発達してきた文化の一部なので、そう簡単に固有の言語がなくなるとい
うものではないのだろう。むしろ、人間以外の動物たちが入ってきたことによって、
事態はさらにややこしくなっているとさえ言えるかも知れなかった。ただ、昔のよう
にある民族が何百年にもわたって同じ土地に住みつづけるということが少なくなり、
いろいろな土地に分散するようになってきて、また、それにともない混血もかなり進
んだために、固有の言語にもわずかではあるが変化があらわれてはいるらしい。
 便宜上の共通語としては英語が使われているようだった。この状況はしばらく前か
ら変わっていないということだった。おそらくは現在の、この国境のない世界が成立
したときの経緯でそうなったのだろう。だから、たいていの者は本来の自分の言語に
くわえて英語を使うことができた。クロードの店では、文学作品の多くはもともとの
言語の版と英語版とが一緒にならべて売られていた。また、研究書の多くは英語で書
かれていた。そのほうが読者の数が多くなるからだ。
 ある日、僕がいつものように店番をしていると、ドアが開いていきなりジェラルド
が店に入ってきた。僕も驚いたが、彼はもっと驚いたようだった。僕の姿を認めたと
き、彼は一瞬、両目を見ひらき、全身を硬直させて立ち止まった。それから、なぜこ
いつがこんなところにいるんだ、というような露骨に嫌そうな表情を見せて、ゆっく
りと店内を歩きまわりはじめた。もしかしたらリディアと僕がべったりくっついてい
るところをどこかで見て、逆上して押しかけてきたのかと思ったのだが、どうやら違
うらしい。
 この店には初めて来たようで、彼は品揃えを点検している様子でしばらく棚の間を
ぐるぐる歩きまわっていたが、やがてレジにやってきて、視線を合わせないまま吐き
出すように言った。
「ここは英語の本が多いな」
 ぶしつけな言い方に少しむっとしながらも、僕は「はあ」と答えた。
「なぜだ?」
「は?」
「なぜ英語の本を置く?」
「なぜって・・・」僕は当惑した。「共通語だからだけど・・・」
「そんなことは誰かが勝手に決めたことだ」彼の声が大きくなった。「おれたちがそ
れに従う義理はどこにもない。おまえだって英語は母国語じゃないだろう?」
「はあ、まあ・・・」
「なぜ全世界で言葉をひとつにしなければいけないんだ? おれたちの言葉は不要だ
というのか? そんな馬鹿げた話は」
「ちょっと待ってくれ」僕は彼を遮った。「見てのとおり、それぞれのオリジナルの
言語の版もちゃんと揃えているじゃないか」
「そんなことを言っているんじゃない」彼は苛立たしげに両手を振り回した。
「英語なんかいらない、と言っているんだ。どうしてみんな英語を使わなきゃいけな
いんだ? あんなもの、おれたちには何の関係もないじゃないか。違うか?」
 僕は困ってしまった。彼は別に本を買いに来たわけではないのだ。単に難癖をつけ
に来ただけなのだ。もしかしたら何か政治的な主義主張があるのかも知れないが、い
ずれにせよそんなことを街の小さな本屋にぶつけられても困る。まして僕はついこの
間から手伝いはじめたばかりで、そもそもこの世界のこと自体、まだろくにわかって
いないのだ。答えられるわけがない。
 ただ、彼の言うことはある意味、正論であるのも事実だった。ことばが統一されて
しまえば、文化全体、それに人間の価値観もかなりの部分、統一されることになるか
も知れない。そうなってしまえば、それぞれの個々の文化を生み育て保持してきた各
民族の歴史が無意味なものになってしまう。少なくとも、そう考える人が出てきても
不思議ではないのだ。
 僕が困惑して黙ったまま突っ立っているので、やがて彼は舌打ちをして、足早に店
から出て行ってしまった。
「どうかしたのかね」
 いつの間にか僕の背後にクロードが立っていた。
「いや・・・」僕は彼を「友人」と呼ぶべきかどうか迷って、やっぱりやめることに
した。
「・・・変な客が来てたんです」
「ほう」
「なんか、英語の本を置くとはけしからん、というような意味のことを力説してまし
たけど・・・」
「ああ」彼はそれを聞いてもとくに驚いた様子は見せなかった。「そういう手合いは
べつに珍しくはないよ」
「そうなんですか?」
「英語が世界の共通語になったことで、それぞれの民族や種族固有の言葉がそれに押
しつぶされてしまい、同時に英語圏の文化が固有の文化を一掃してしまうのではない
かとおそれているんだ」
「ふうん」
「文化的ナショナリストとでも言うのかな、まあとにかく固有の文化の価値を絶対視
し、共通の文化というものを認めないんだな。そんなものは文化の破壊だと言うんだ」
「言っていることはわかるような気がします」
「そのとおり。たしかに一理はあるんだ。彼らもまったくの出鱈目を言っているわけ
ではない。しかし」彼は椅子の上によじ登って腰をかけた。「今やそれでは生活が成
り立たない。いろんな民族や種族の者が入り交じって暮らしているのだから。今、み
んなが自分たちの言葉しか話さないということになったらどうなるか、想像はつくだ
ろう?」
「はい」
「そういうことだ。家の中に閉じこもって、家族と暮らしていれば自分たちの言葉だ
けで済むだろうと思う者もいるようだが、それでもなお、衣食住のどれかで必ず外部
とのコミュニケーションが必要になる。仕事でもそうだ。わたしと君とがおたがい自
分たちの言葉で喋っても相手に通じないし、当然それでは仕事にならない。だから、
どうしても共通の言葉が必要なんだ。・・・実際、その客と君とは英語で話していた
のだろう?」
 そのとおりだった。
「彼らは自分が何をしているのかわかっていない」クロードはゆっくりと首を振った。
「でも」僕は言った。「クロード、英語圏の文化のせいで固有の文化がほんとうにな
くなってしまったらどうするんだろう?」
 彼はしばらく考え、それから一語一語、噛み締めるように話しはじめた。
「固有の文化や言語、という考え方そのものがおかしいのではないか、とわたしは思
うね。あるひとつの民族や種族の中だけで純粋培養された文化・言語などというのは
ありえないのではないか。実際、歴史的に見てみれば、どんな文化・言語でもかなら
ず発展していく過程で別の民族や種族の文化・言語と交流し、衝突し、あるいは政治
的にそれを強制され、その結果いろいろな異文化の要素をどんどん取り込みつつ発展
していっているのだから」
「それはたしかにそうですね。僕の母国語である日本語も、中国語の文字や語彙をず
いぶんたくさん取り入れているようだし」
「そう。英語にしても、ケルトの言語やフランス語、ラテン語などからとても大きな
影響を受けている。それで、日本語圏や英語圏の文化が消えてなくなったかというと、
そんなことはない。変化はしたが、消えることはなかった」
「そうですね」
「それに、調べてみると複数の言語が実は同じ根っこから派生した、いわば兄弟のよ
うなものだったりすることもある。その意味では、英語を含めて、ヨーロッパと呼ば
れた地域の言語は多かれ少なかれ兄弟、あるいは従兄弟のようなものじゃないかな」
「そうなんですか」
「うむ。それに、共通語というものにしても、別にいま初めて出てきた概念ではない。
たとえばヨーロッパではかつて、ラテン語が教育を受けた者の共通言語として機能し
ていたんだよ。これはいまの英語と似た位置づけかも知れんな。違うのは、当時は教
育を受けた者の数がいまと比べると圧倒的に少なかったということだ」
「ふうん・・・」
 僕の頭の中で、世界の見取り図がさらに更新されてゆくような感覚があった。この
世界が、ますます鮮明で複雑な像を結びはじめている。
「けっこう奥が深いんですね」
「そうだね。その変な客も、まあ、頭は悪くないんだと思うよ」
「はあ」
「彼は彼なりに何か考えがあるんだろう。ただ、彼の見方は単純すぎて、ものごとの
一面しか見ていない。・・・世界の歴史が悪いほうに向うきっかけを作るのは、だい
たいがそのような、ものごとの全体が見えていない連中だ。そのような視界の狭い連
中が性急に、しなくていいことをやらかしてしまったがために、世界が否応なしに悪
い方向へ進んでしまうという経験をわれわれはさんざんしてきている。・・・まあ、
今のところはあまり心配する必要はないだろうが」
 そのとき、客が数冊の本を抱えてレジにやって来たので、この話題はそこまでで打
ち切りになった。しかし、彼の話、そしてジェラルドの言ったことは、仕事の最中も
頭の片隅から離れなかった。僕は仕事を終えると、彼らの言ったことをゆっくりと反
芻しながらアパートメントに戻った。