GENESIS

(12)


 まだ早めの時間だったが、通りに面した店にはもうかなり客が入っていた。胸に店
の名前が刺繍されている黒のポロシャツを着た、ポニーと人間のあいのこのような店
員が僕たち四人をテーブルに案内してくれた。店はかなり古いようで、明るい色をし
た木でつくられたテーブルや椅子、床、壁、天井には磨耗や傷、染みが無数について
いたが、しかし不潔な感じはなく、かえって親密な感じを醸しだしていた。それらの
中に、この店の歴史が文字どおり刻み込まれているのだろう。
「おれはこのビールにしよう」ナーモがテーブルに広げたメニューを指して言った。
「私は」リディアが僕の隣で言った。「この白のワインがいいな。イヴォンヌは?」
「私もそれがいい。ボトルでもらおうよ」
「OK。ユウジは?」
 僕は腕組みをした。「ビールがいいな・・・どれが旨いんだろう?」
「どういうのがいい?」ナーモが言った。「濃いやつ、ライトなやつ、味つけしてい
るやつ、昔のスコットランド風の黒いやつ・・・」
「黒いのがいいな」
「じゃ、これがいい」彼はメニューを指さした。「エディーズというんだ。旨いぜ」
「なるほど、ではそれにしようか」
 さっきとは別の店員が注文を取りにきた。こんどはペルシア猫の血が入っているら
しい女の子だった。
「なんだか、混血っぽい店員が多いな」
 彼女が長い尻尾を揺らしながら戻っていくのを横目で追いながら僕は言った。ナー
モが頷いた。
「そうなんだ。混血の連中にはあまり仕事の口がない。ウェイターやウェイトレスな
どの、それもアルバイト程度の仕事しかない。そこから抜け出すために、芸能界を目
指すやつもいる」
 僕は、今朝テレビで見た歌い踊る混血の男女の姿を思い浮かべた。
「そう言えば」イヴォンヌが何かを思い出そうとしている顔で言った。「そう言えば、
わたしのモデル仲間にもいたと思う。ちょっとだけ黒豹や鹿の血が混じっているのと
か」
「モデル?」リディアが驚いた様子で聞き返した。「仕事してるの?」
 イヴォンヌは不思議そうな顔をした。「何かおかしい?」
 リディアは慌ててかぶりを振った。
「いや、ほら、あなた生活パターンとか一定してないし、何してるのか見当もつかな
かったから・・・」
「だって、モデルの仕事って、毎日決まった時間に決まった場所に行くような仕事じ
ゃないもん。毎日仕事が入ってるわけでもないし。だいたい働かなきゃ家賃とか払え
ないでしょ」
「それはそうだけど・・・」
 その時、僕たちのテーブルの前に誰かが立った。顔を上げると、それはジェラルド
だった。まだ痣がうすく残っている頬をわずかに歪め、笑っているような苦しんでい
るような、変に力んだ妙な表情をしていた。
「ジェラルド」リディアが少し困惑したような声で言った。「どうしたの」
 彼はぎこちなく顔の筋肉を笑っているように動かしたが、眼はまったく笑っていな
かった。
「いや・・・ち、ちょっと、そこまで、来たものだから・・・」
 彼はそう言って、脇のテーブルの椅子を引き寄せると、いきなり僕たちのテーブル
の、リディアのすぐ横に座り込んでしまった。僕たちは意表を突かれ、どう反応して
よいかわからず、思わず揃ってリディアの顔を見た。彼女はあきらかに困っている様
子だった。しかしあからさまに彼に出て行けということもできないのか、僕たちにす
まなそうな視線を向けるばかりだった。そこに、さっきのペルシア猫との混血のウェ
イトレスが僕たちの酒を運んできた。彼女は、その場の異様な緊張感を感じ取ったの
か、そそくさと店の奥へ戻ろうとした。ジェラルドはそれを制してなんだかわからな
い酒を注文し、それが運ばれてくると僕たちと杯を合わせることもせず、一気に半分
ほど呷った。その酒は透明で、強烈なアルコールのにおいがつんと鼻を突いた。かな
り強い酒のようだ。
 僕たちは何を話していいのかわからず、黙ってめいめい酒を飲んだ。誰もなにも話
さない。ジェラルドも何か話しかけてくるでもなく、リディアのほうをちらちらと横
目で見ながら、ただ黙って酒を飲むばかりである。テーブルの雰囲気がどんどん重苦
しくなってくる。僕のすぐ背後のテーブルで誰かが破裂したように笑いだした。ふと
気づくと、店じゅうに楽げな話し声や笑い声がさざめいている。僕たちのテーブルだ
けが、まるでブラック・ホールのように暗く重たく静まりかえっている。
 僕はだんだん腹が立ってきた。なぜこんな陰鬱な気分にならなければいけないのか。
酒の味も旨く感じられず、何よりもまったく楽しい気分になれない。理由は決まって
いる。ジェラルドがいるからだ。彼が黙ってそこに座っているだけで場が白け、つま
らなくなってしまうのだ。その間にも彼は次々とおかわりを注文し、急速に酔っ払っ
ていく。酔いがまわるにつれて、彼はさり気ない風を装って、リディアの身体に触れ
るようになった。すこし身じろぎしたり、欠伸をしてみせたり、何かの動きにかこつ
けて彼女の肩だの髪だの背中だのに手を触れてくるのだ。リディアは露骨に嫌がって
いるのだが、彼はまったく意に介さず、えんえんと同じようなことを続けている。僕
はますます不快感をおぼえた。そんなことをしても偶然に手が触れたなどと誰が思う
ものか。意識的に、わざとやっているのは明白だ。なぜそんなことをするのか。触り
たければ堂々と口説いて肩でも抱けばいいじゃないか。僕の中で彼への嫌悪感がどん
どん膨れあがった。
 ついに我慢できなくなり、僕は立ち上がってジェラルドの傍らへ行き、ぐいと髪の
毛を掴んだ。
「いつまでも何やってんだよこの野郎。バレてないとでも思ってるのか? リディア
が嫌がってるのがわからないのかよ」
 いちおうは目立たぬよう小声で言ったつもりだったが、声のただならぬ調子に驚い
たのか、周囲のテーブルの客が何人かこちらを向いた。僕はまずいことになったと思
いながらも、ジェラルドの髪を掴んだ手に力を入れ、ぐいと上を向かせた。彼は僕と
目をあわせようとせず、あらぬ方向へと視線をそらせた。それと同時に、彼の口がわ
ずかに動いた。ほとんど息の音しか聞こえなかったが、その口の形はあきらかに「馬
鹿が」と言っていた。
 僕の目の前が白くなった。僕は腕に力をこめ、ほとんど引きずり上げるようにして
彼を無理矢理立ち上がらせ、そしてその顔面に思いっきり右ストレートを叩き込もう
とした。
 その時、誰かが僕の右手をぐっと掴んだ。僕は身体のバランスを失って二、三歩よ
ろめいた。振り返ると、それはナーモだった。彼はささやき声で、しかし強い調子で
言った。
「そこまでにしとけ。もっと場が白けるだけだ」
 僕はそのひと言で我に返った。途端に僕の顔がかあっと熱くなった。僕はジェラル
ドから手を放した。彼は糸が切れた操り人形のように、くたくたと床にへたり込んだ。
僕は下を向いたまま自分の席に戻り、どさりと腰をおろした。奥のほうから、犀や牛
など数種類の動物の血が混じっているとおぼしき、身長が二メートルをゆうに超える
色黒の巨漢の店員がやってきた。ナーモが何ごとか言うと彼は頷き、床にいるジェラ
ルドを片手で軽々と持ち上げると、出口まで運んでいって文字通り外へ放り出した。
 ドアが閉じられ、店内にはふたたびなごやかな雰囲気が戻ってきた。しかし僕はい
たたまれず、一刻も早くこの店を出たかった。横目でリディアのほうを窺うと、やは
り彼女も居心地悪そうに俯いている。それを見てさらに僕は自己嫌悪を感じた。腋の
下や背中に嫌な冷たい汗が滲んでくるのがわかる。
 イヴォンヌはさっきからひとりだけ涼しい顔で、黙ってワインを飲みつづけていた
が、突然まっすぐ僕の目を見て言った。
「場所を変えようか」
 僕は救われたような気分で頷いた。僕たちはめいめいの代金をテーブルに置き、そ
の店を出た。
 ジェラルドがつけてきていないのを確かめつつ少し歩き、僕たちは通りから少し脇
に入ったところにある、さっきよりはぐっと小さなバーに入った。
 ここも木を基調にした内装だが、全体にもっとダークで落ち着いた色をしている。
テーブルは壁際に四つしかなく、その他にはカウンター席があるのみである。客はカ
ウンターに二人、それぞれひとりで飲みにきている客のようだ。カウンターの端のほ
うに年老いたラブラドール・レトリバーが伏せていたが、僕たちが入っていくとむっ
くりと起きあがってやってきた。
「四人ですかな」
「はい」ナーモが答えた。
「ではこちらへ」僕たちは彼に導かれてテーブルのひとつについた。
 僕はアルコールでさっきの記憶を洗い流してしまいたかったので、モランジを飲む
ことにした。リディアとナーモも強めの酒に変えた。イヴォンヌだけは変わらず白ワ
インをグラスで注文した。
 僕たちのオーダーを聞いてゆったりとカウンターへ去っていくレトリバーの後姿を
見やりながら僕は大きく伸びをした。リディアも大きく溜息をついた。
 僕はナーモに言った。「止めてくれてありがとう。あぶなかった」
「まあ、やることそのものは別に止める必要もなかったけど」彼はそう言って片目を
つぶった。「あそこでやるのはちょっとまずいからな」
「それにしても」リディアがふたたび溜息をついた。「まだあんなのにつきまとわれ
なきゃいけないのかなあ。・・・本当は私もぶん殴っちゃいたいんだけど・・・」
 イヴォンヌは首を横に振った。「やめたほうがいいわよ。あのタイプはきっと根に
持つし、しかも逆恨みするから」
「詳しいな」僕は言った。
「まあね」イヴォンヌはあいかわらず涼しい顔で答えた。「わたしだっていろんな目
に遭ってきたもの」
「ふうん」
 レトリバーと同様に年老いたバーテンが、直々に酒を運んできた。とても姿勢がよ
く、テーブルに酒を置いていく様子も慇懃無礼でなくさっぱりとしており、見ていて
実に気持ちのよい身のこなしである。
 僕たちはしばらく黙って酒を口に運んだ。僕は店内に静かにジャズがかかっている
のに気づいた。むかしアメリカと呼ばれていた地域で生まれた音楽だ。天井のどこか
にスピーカーが仕込んであるようだ。音量は大きすぎず小さすぎず、ほどよい音で鳴
っている。いまかかっているのはかなり古いスタイルのもので、女性のヴォーカルが
入っている。その、まるで猫の発情期の声のようでありながらどこかざらついた、お
世辞にも美声とは言えない歌声が、なぜか妙に心にしみこんでゆく。張りつめていた
神経がどんどんほぐれていくのが自分でもわかる。リディアのほうを窺うと、彼女の
顔の筋肉からもさっきまでの緊張がはがれ落ち、すっかり柔和な表情になっていた。
 結局、僕たちはそれから大した話もせずにアパートメントに戻った。しかしまだ時
間が早かったので、イヴォンヌは「踊りに行く」と言ってふたたび外に出ていった。
ナーモも友達のところに行くと言い残して出かけていった。リディアは疲れたので休
む、と部屋に戻った。
 僕もいったん自分の部屋に戻ったが、リディアのことが気になって仕方がなかった。
だいぶ元気を取り戻していたとはいえ、まだジェラルドのことが澱のように心の底の
ほうに残っているかも知れなかった。彼女のことを慰め、元気づけてあげたいという
気持ちがどんどん膨らんできた。でも、それは結局は単なる口実なのであって、本当
は彼女に触れたいのだった。なぜか、今なら抵抗なく彼女の肩を抱けるような気がし
た。理由はない。僕の勘がそう告げているのだった。
 僕は部屋を出て、リディアの部屋のドアをノックした。すぐに「はあい」と返事が
あり、ドアが開いた。彼女は僕の顔を見てぱっと笑顔になり、僕の手を取って部屋の
中に導き入れた。
 彼女の部屋に入るのは初めてだった。間取りは僕の部屋と同じようだった。おそら
くイヴォンヌやナーモの部屋も同じなのだろう。正面の窓には、アフリカを思わせる
プリミティヴで力強い柄のカーテンがかかっている。本棚には本がぎっしりと詰まっ
ており、机の上には本やノートが何冊か重ねてある。部屋の真ん中に、窓を背にして
二人掛けくらいの大きさのソファーが置いてあり、その前に毛足の長い、派手な色の
絨毯が敷いてあって、その上に小さな木のテーブルが置かれている。あまり女の子の
部屋という感じはしない。薄いピンク色をしたベッド・カヴァーだけが「女の子」と
いう感じを与えるものだった。
 彼女は僕をソファに座らせ、それからいったん部屋を出て、白ワインの瓶とコルク
抜きとふたりぶんのグラスを持って戻ってきた。彼女はソファに僕と並んで座り、ワ
インのコルクを抜いてふたつのグラスに注いだ。僕たちは軽くグラスを合わせ、その
ワインを飲んだ。辛口でよく冷えており、とても美味しい。
 僕たちはソファの上で肩を寄せ合い、小さな声でいろいろな話をした。彼女とこん
なに親密に話をしたのは初めてだった。リディアは自分のことをいろいろと話してく
れた。彼女は文学が好きで、音楽が好きで、身体を動かすのも好きで、学校では歴史
を勉強していると言った。僕は、記憶に残っている情報が少ないので、彼女ほどには
詳しく話せなかったが、それでもせいいっぱい努力して、僕に話せる限りのことを正
直に話した。
「それじゃ、あなたはどこか他の世界からここに来たの?」
 リディアは僕の眼を覗き込んだ。
「うん」僕は頷いた。「そういうことになると思う」
「ということは、いつかはそこに帰るの?」
「わからない。・・・だいいち、僕にはいったいどこが故郷なのかわからないんだ。
僕はどこで生まれ、どういう両親がいて、どこでどのように育ってきたのか、まった
く記憶に残っていないんだ。だから、僕には【帰る】場所などもともとどこにもない
のかも知れない」
「でも、この世に、いや、どう言ったらいいのかな、とにかく生きた人間として生ま
れてきて存在しているということは、少なくとも絶対に両親はいるし、生まれ故郷も
かならずあるはずよ」
「そうなんだろうとは僕も思う。でも、僕にはそれがわからないんだ」
 リディアは僕の腕に指を這わせ、それからグラスを置いてぎゅっと抱きついてきた。
「どこにも行かないで」
 僕は彼女の肩を抱いた。僕たちは見つめあい、唇を重ねた。最初は軽いキスだった
が、しだいに僕たちは興奮し、互いの唇をむさぼるように吸いはじめた。舌を絡ませ、
強く唇を押しつけあいながら、僕たちはお互いの身体をまさぐり撫でまわした。
 しばらくして、僕は彼女を促して立ち上がった。僕たちはぴったりと密着したまま
そろそろと歩き、そして一緒にベッドへと倒れこんだ。