GENESIS

(11)

 翌日から僕は、その本屋に通いはじめた。山羊の名はクロードと言った。僕は彼
の指示にしたがって、棚を整理し、括られたままだった新刊本を平台に積み、古く
なった雑誌を括りなおして返品伝票を書いた。クロードは店の隅でほこりをかぶっ
ていたノート型のコンピューターを引っ張り出すと取次会社に接続して担当者を画
面上に呼び出し、取引を再開するよう依頼した。コンピューターにはマイクと超小
型のカメラが内蔵されており、音声で操作ができるようになっているので、彼でも
扱うことができるのだった。
 店で扱っているのは僕の予想どおり、文学・芸術関係のものだった。もちろん僕
にはこの世界にどのような作家や学者がいるのかまったくわからないし、もともと
そういうものには、憧れこそあったものの特に親しんできたわけでもないのだが、
それでもなんとなく装丁やタイトルで想像がつくものだ。
 最初はほとんど客が来なかった。また営業を再開したということにみんな気づか
なかったのかも知れない。それでも、一週間ほどすると、ぽつぽつと客が入りはじ
め、少しずつ本が売れるようになっていった。客はクロード同様、落ち着いた感じ
の年配の者が多かったが、ときどき若い、学生のような者もやってきて、メモを見
ながら本を探していた。
 店は土曜日・日曜日が定休日だった。僕は週末はむしろ稼ぎ時なのじゃないかと
思い、クロードにもそう言ってみたのだが、彼は「土日に街に出ている客はうちに
来るような客層じゃないよ」と答えた。たしかにそうかも知れなかった。そんなわ
けで、僕は月曜日から金曜日まで毎日、朝の十時半に歩いて店に行き、昼休みをは
さんで午後六時の閉店まで働いた。
 リディアとナーモも平日は大学に行っており、アルバイトもしているので、朝早
く出かけていき夕方まで戻ってこないことが多かった。イヴォンヌだけは生活パタ
ーンが一定しておらず、僕が店にでかける頃に起きて来たり、僕が起きる頃にはも
うどこかに出かけていたりした。いや、それは前夜からどこかに行っていて、単に
まだ部屋に戻ってきていなかっただけなのかも知れない。
 あっという間にまた一週間余りが過ぎ、土曜日になった。僕は十時までぐっすり
と眠り、起きてコーヒーを入れ、夕べ買っておいたベーグルを焼いてかじりながら、
リヴィングのソファに腰掛けてテレビを見た。テレビ放送のチャンネルはものすご
く多くて、全部でいくつあるのかはっきりとはわからないが、あきらかに百をゆう
に超えていた。僕はポップ・ミュージックのヴィデオ・クリップやライヴ映像を流
す局にチャンネルを合わせた。画面の中では、僕とさして年齢が変わらないと思え
る、白黒黄色の若い男女が歌い踊っていた。ときどき人間でない動物や、動物と人
間とのあいのことしか思えないようなよくわからない生き物も出てきて、人間に混
じって器用にステップを踏んだり、バック・コーラスをつけたりしていた。
 コーヒーを飲みながらぼんやりと画面を眺めていると、ナーモが起きてきた。彼
は自分のコーヒーを作り、リヴィングにやってきてソファにどっかと腰をおろした。
「おはよう」
「おはよう」
「夕べはどこかで飲んできたの?」
「ああ」ナーモは頭をごしごしと掻いた。「大学の友達の寮の部屋で音楽がんがん
かけてバカ騒ぎしててさ。戻ったのが午前3時だよ」
「寮?」僕は聞き返した。「寮があるんだ」
「ああ」
「君はどうして寮に入らなかったの?」
 彼はコーヒーをひとくち飲んだ。
「おれは寮ってのはあまり好きになれなくてさ。相部屋でプライヴァシーがないか
らな。四年生になれば個室を貰えるらしいけど、それまで待てない」
「週末のパーティーには便利みたいだけど」
 僕たちは笑った。
「ところで、ゴリラって酒飲んで大丈夫なの?」
「大丈夫さ」彼は分厚い胸をぐいと張った。「かなり強いぜ」
「知らなかった」
「そう言えばリディアは?」
「ああ、なんかさっきランニングに行ったよ。もうすぐ帰ってくるだろ」
「元気だなあ」
「まったく」
 僕たちは顔を見合わせて思わず苦笑した。
「あのさ」彼はマグ・カップをテーブルに置いた。「悪いんだけど、ちょっとチャン
ネル変えていいか?」
「いいよ。とくに熱心に見ているわけじゃないから」
 彼はテーブルの上からリモコンを取りあげ、チャンネルを変えた。
「これだ」
 そのチャンネルでは、ニュース番組とおぼしきセットにスーツを着たゴリラが座っ
ていた。彼はこちらに向かってさまざまな声色で唸り声をあげたり、いろいろな身振
りをしたり、ときには歯をむきだして胸を叩いたりもした。
「これは?」
「ゴリラ専門のチャンネル」
「え?」
「このチャンネルでは人間の言葉はいっさい使わない。ゴリラにだけわかる手段でメ
ッセージを伝えているんだ」
「ああ、あの、怒ると胸をどんどん叩くとか、あれのことか?」
「そうそう」
「それじゃ、君は人間の言葉も使えるし、ゴリラの言葉も使えるということかな」
「そう。バイリンガルさ」彼はそう言って片目をつぶった。
 その時、入り口のドアが乱暴に音を立てて開き、イヴォンヌが入ってきた。目がと
ろんとして、異様になまめかしい表情になっており、びっくりするほど短いタイト・
スカートをはいた足もとがふらついている。例のごとく朝帰り、と言うよりももう昼
帰り、と言ったほうがいいだろう。彼女はドアを閉め、そのままそこに寄りかかって
ぼうっと突っ立っている。
「お帰り」僕は声をかけた。「コーヒーでも飲むか?」
「ううん」彼女はハスキーな艶っぽい声でつぶやいた。「寝る」
 彼女はふらふらと前進しはじめた。が、足もとにまったく注意を払っておらず、た
ちまちカーペットのへりに蹴つまづいて転んでしまった。
 僕は彼女を助けようと腰を浮かせたが、それよりも早くナーモが立ち上がって彼女
のもとに行き、肩を貸して立ち上がらせた。彼女はまるで巻きつくように彼にしなだ
れかかり、自分の頬を彼の頬にべったりくっつけていた。ナーモは照れたような困っ
ているような、なんとも複雑な表情をしていた。彼は自分とほぼ同じくらいの身長の
イヴォンヌを支えながら、ゆっくりと彼女の部屋に入っていった。
 コーヒーのおかわりをしようと立ち上がったところでリディアが帰ってきた。Tシ
ャツにショート・パンツ、それにランニング用のシューズ姿で、露出した健康的な長
い腕や脚がつやつやと強く光り、とても美しかった。
「ただいま。よく眠れた?」
「ああ。走ってきたの?」
「少しね」
 彼女はそう言ってソファの背中にかかっていたタオルを取って汗を拭いた。それか
ら僕といっしょにキッチンに入り、冷蔵庫からグレープフルーツ・ジュースの大瓶を
出してグラスに三杯たてつづけに飲んだ。キッチンの中に二人きりでいると、彼女の
身体の匂いがとても近く感じられる。
 不意に、その匂いが強くなったと思うと、彼女がコーヒーを注いでいる僕の肩にう
しろから顎を乗せ「わたしにもコーヒーちょうだい」と言った。彼女のこりっとした
顎の感触と、背中に押しつけられた乳房の感触がはっきりと感じられ、僕はどきりと
した。
「マグはどれ?」
「そこの建物の絵が描いてあるやつ」
 彼女は僕から離れてリヴィングへ戻っていった。僕は何度か深呼吸をしてから、ふ
たりぶんのコーヒーを持ってキッチンを出た。
 僕たちがソファに座ってコーヒーをひとくち飲んだところでナーモがイヴォンヌの
部屋から出てきた。彼はリディアが帰ってきたのに気づいていなかったらしく、彼女
の姿を見てすこし慌てたような表情を見せた。僕は咄嗟に切り出した。
「イヴォンヌは大丈夫だったか?」
 彼はほっとしたような様子で、しかし表面上は何でもないといった風を装って答え
た。
「ああ、かなり酔っ払ってるけど、とりあえず寝かせたよ。でかいから苦労した」
「なに、またイヴォンヌ朝帰りなの?」リディアが溜息をついた。「誰か連れ込んで
るの?」
「いや」僕は首を振った。「ひとりだったよ。かなり酔ってたね」
「やれやれ」
 リディアはコーヒーをふたくちほど飲むと立ち上がり、バス・ルームに行った。シ
ャワーの音がかすかに聞こえはじめると、ナーモが声をひそめて話しかけてきた。
「リディア、何か疑ってなかったかな?」
「何を?」
「いや、だから・・・」彼は一瞬ためらった。「・・・あの、おれがイヴォンヌと何
かしていなかったかって」
「別にそんなこと気にしてないんじゃないか?どうしたんだ?」
 彼は自分のマグ・カップを取って、冷めたコーヒーをひとくち飲んだ。
「いや、ほら、おれがあいつと変なことしてたなんて思われたくなくて・・・」
「その言い方はちょっとまずいんじゃないか?」僕は彼をたしなめた。「ゲイやレズ
の人たちとかトランスの人たちがそれを聞いたら、すごく傷つくぞ」
 ナーモは激しくかぶりを振った。「いや、そういう意味じゃなくて・・・」
「リディアが好きなのか?」
「ちがう」彼はさらにかぶりを振った。
「それじゃ何なんだよ」
「・・・・・・」
 彼はうまく言葉が出てこないという風で、いつの間にか顔じゅうに汗をかいている。
それ以上追求するのは何だか悪いような気がしたので、僕はそこで話を打ち切ること
にした。
「まあいずれにせよ、別にリディアは何も疑ってないと思うぞ。心配するな」
 僕はそう彼に声をかけ、新聞を持って自分の部屋に戻った。ドアを閉めるときにち
らりと彼のほうを振り向いたが、彼はソファの上で固まったままだった。
 しばらく僕はベッドに寝転がって、ぱらぱらと新聞を眺めた。それは死に溢れてい
た。ニュースとはすなわち人の生き死にのことなのだ。いろいろな人が、いろいろな
年齢で、いろいろな死に方をしていた。ある者は九十歳で老衰によって大往生を遂げ、
ある者はまだ十代の若さで、ほとんど自殺のような形で死んでいた。もちろん本当に
自殺した者もいた。戦争で死んだ者もいた。この世界でも戦争はちゃんと存在してい
るのだ。結局、動物が社会を形成して活動している限り、戦争はなくなることはない
のかも知れない。
 新聞を枕もとに放り出し、ベッドの上で大の字になったままうとうとしていると、
ドアをノックする音がした。「どうぞ」と言うと、新しいシャツに着替え、タオルを
頭に巻きつけたリディアが顔を出した。
「今晩、外にみんなで飲みに行かない?」
「ああ」僕は寝転がったまま顔を向けて答えた。「いいね。・・・みんなって?」
「わたしたち四人でよ。たまにはいいでしょ」
「僕はいいけど。イヴォンヌは大丈夫なのか?」
「大丈夫。どうせ彼女は週末は必ず飲みに行くんだから。もしどうしても予定がある
と言ったら三人で行けばいいし」
「わかった・・・何時?」
「六時くらいでどうかな」
「了解。あ。その前にどこか行くの?」
「うん、ちょっと出かけてくる。でもいちどここに戻ってくるから」
「OK・・・じゃ、またあとで」
「じゃね」
 ドアが閉じられた。僕は天井を見上げて、さっきテレビで聴いたポップ・ミュージ
ックのメロディを思い出そうとした。しかし何も思い出せなかった。僕は仕方なく目
をつぶった。薄く開けた窓から茫洋としたノイズが部屋の中へと入り込んでくる。街
のたくさんの人々が発する話し声や物音や息遣いが寄り集まって、ひとつの巨大な塊
となって街の上空に充満しているようだった。それを切り裂くように、どこかから金
属を規則正しく叩く甲高い音が響いてくる。僕はその音を聴きながら、しだいに眠り
の暗い淵の中へずるずると引き込まれていった。