GENESIS

(10)

 僕は仕事を探すことにした。リディアは、別にお金には困っていないから急がな
くてもいいと言ってくれたが、あまりその言葉に甘えつづけているとそのままずる
ずるとなし崩しで彼女に頼りっきりになってしまいそうな気がしたのだ。それに、
いずれにせよ服を買ったり食べ物を買ったりするのに現金は必要である。
 まず、リディアがアルバイトをしている小さなカジュアル・ウェアの店に、彼女
を通じて問い合わせてみたが、そこでは人手は足りているということだった。それ
にしても、リディアはあの店にいったいどうやって通っているのだろう。あの出鱈
目な街並みやホテルの廊下を辿って行っているのだろうか。それとも、無意識のま
まにあの空間を通り抜けてしまっているのだろうか。
 僕は街に出て自分で仕事を探してみることにした。とりあえず、この間行った中
華料理屋のある、このへんでいちばん賑やかな通りに出た。まだ昼ごろだったが人
通りはけっこう多い。通りの左右には実にさまざまな店が立ち並んでいる。リディ
アが手伝っていたような、カジュアルな安い服を売る店もあれば、対照的にどっし
りとした店構えの、見るからに高価そうな、フォーマルな感じの服を売る店もある。
バッグやジャケットなど、革製品を専門に売っている店の前を通ると、真新しい革
の匂いがつんと鼻をついた。ほとんど屋台のような狭い間口のホットドッグの店か
らは、ソーセージを焼く香ばしい匂いがただよっている。カレーのような強いスパ
イスの香りを発散しているのはインド料理か、いや、かつてインドと呼ばれていた
地域の料理の店か。それともパキスタンか、もしかしたらインドネシアかも知れな
い。例の中華料理屋の周辺には八角の独特の匂いがたち込めている。
 僕はそれらのおいしそうな香りに空腹をおぼえ、たまたま通りかかったピザ屋に
入って、ペパロニのピザのスライスと、小ぶりなプラスティックのボトルに入って
いるよくわからない黒っぽいジュースを買った。店を出て熱いピザにかぶりつきな
がら僕はまた通りを歩きつづけた。
 ピザを食べ終え、ジュース(なんだか薬っぽい味と匂いであまりおいしくなかっ
た)も飲み終わった頃に、僕は一軒の本屋の前に出た。さほど大きくはないが、ど
ことなく落ち着いた感じで悪くない。店内は暗くひと気もなくて、営業しているの
かいないのかわかりにくかったが、ドアを押してみると開いた。
 中に入ると、紐や茶色の紙で束ねられた本や雑誌が足もとにいくつも積まれてい
るのが目に入った。いずれも新品のようだったが、それらが、店頭に並べられるこ
となく、床に積んだままになっている。左右の棚もあちこちに隙間ができていて、
本が倒れているところもあり、しばらく整理をしていないように見えた。しかし、
床も棚もすべて落ち着いた色の木で統一されている店内は実にしっとりと落ち着い
て品がよく、好ましい雰囲気が漂っていた。扱っている本も、ざっと見た限りでは
どうやら文学書や芸術関係の書物が中心であるらしく、僕はひと目でこの店が気に
入った。
 暗い店のいちばん奥には古風なレジスターの置かれたどっしりとした大きな机が
あり、その向こう側の古びた革張りの巨大な椅子の上には一匹の山羊が座っていた。
長い髭を生やし、全体に骨ばっていて、痩せていた。毛や顔の皮膚につやや張りが
なく、かなり高齢のように見えた。居眠りをしているのか、両目を閉じたままじっ
と椅子にもたれている。
「こんにちは」
 僕が声をかけると、その山羊はわずかに身じろぎをして目を開けた。
「ああ、いらっしゃい」声からすると雄のようだ。
「寝てたんですか?」
「うむ」彼は大きな欠伸をした。「眠ってしまったらしいな」
「品物を盗まれますよ」
「大丈夫だよ。こんな店には盗むほどのものはない」
「そうかなあ」僕は背後の本や雑誌の束を振り返った。「それはそうと、あの本、
並べないんですか?」
 彼は少し悲しそうな顔をした。
「並べられないのだよ」
「え?」僕は驚いて聞き返した。
「この足では、わたし一人じゃ無理だ」
 彼はそう言って、前足を机の上に置いた。それは蹄のある、ごく普通の山羊の足
だった。なるほど、確かにそれは山の斜面を歩くのには向いているが、本を並べた
りレジスターを操作したりすることにはまったく不向きである。
「それじゃ、今までいったいどうしていたんですか?」
「つい一週間ほど前まで」彼は詠嘆するような調子で話しはじめた。「人間の、年
老いた男がずっと手伝ってくれていた。わたしたちは古い友達で、ふたりでこの店
をはじめたのだよ。わたしが、何をどのくらい仕入れればいいか、どこにどのよう
に並べればいいかなどといったことを考え、彼がそれを実際にやってくれた。わた
しはそういうことを考えるのが得意だったし、彼は逆に身体を動かすのが好きで、
腕力もあり、重い本を持ち運ぶことも苦にしなかった。レジスターの操作もすべて
彼がしてくれた。自動車の運転もできた。しかし」彼は声を落とした。「彼が二週
間ほど前に急に死んでしまった。店先で本の詰まった箱の上げ下ろしをしていたと
きに何かの発作を起こして倒れ、病院に運んだがそのまま息を引き取ってしまった
のだ。それでわたしはひとり取り残された」 彼はそこまで続けて喋ると口を噤み、
両目を閉じた。そしてしばらくそのままじっとしていた。しかし涙は流さなかった。
むしろショックが大きすぎると、呆然とするほうが先に来てしまって、泣くことが
できないのかも知れない。
 そのまま辛抱強く待っていると、彼はふたたび目をひらき、いくぶん投げやりな
調子で言った。
「まあ、そういうわけで、この店もそろそろやめなきゃいかんのだよ」
「それなら」僕は思い切って言ってみた。「僕を雇ってくれませんか。僕はちょう
どいま、仕事を探しているのです。本を運んだり整理したりするのは僕がやります
よ」
 山羊は目をしばたたいた。「君がか?君は本屋で働いた経験はあるのかな?」
「いえ、まったくないんですけど、でも実地で仕事しながら覚えます」
「給料もそんなにたくさんは出せないと思うよ。今じゃ本なんて読む人は少ないし、
それにかたい本ばかりだからさほど売れるわけでもないし」
「それでもかまいません。体力もありますから、どんどん使っていただいて構いま
せん。ぜひお願いします」
 彼は少し考えていたが、やがて僕の目を見て言った。
「わかった。では明日から来てもらえるかな」
 僕は深々と礼をした。「ありがとうございます」
「そうだな、午前10時半ごろに来てほしい。開店は11時」
「わかりました」
「では、よろしく」
 彼はそう言って蹄のある右の前足を軽く振った。僕も手を振って、店の外に出た。
 これで、僕のこの世界への繋がりがひとつ増えた。少しずつ、しかし着実に、僕
というものが規定され、かたちづくられているような気がして、それは決して悪い
気分ではなかった。