GENESIS

(1)

 僕は表参道駅に駆け込んだ。メトロカードを取り出し改札を駆け抜け転げ落ちそ
うになりながら階段を走りおりた。駅員が何ごとか叫んだようだが何と言ったのか
は聞き取れなかった。
 プラットフォームに辿り着いた僕の目に、駅から遠ざかりつつある二つの赤い輝
点が映った。
「間に合わなかったか・・・」
 僕は激しく咳込みながら傍らのベンチに腰を下ろした。もうこの後には電車はな
い筈だ。すぐに駅員が追い出しに来るだろう。しかし僕の肺は焼けるように熱く、
まるで肋骨に貼りつくようであったし、運動不足気味の脚の筋肉もたっぷりと乳酸
を含み、固くこわばってしまっていた。かなり長いこと出番がなかったところを突
然呼び出され、いきなり全力疾走をさせられたのだから些かつらい。とは言え、出
番がないからと身体の手入れをしていなかったのは僕の怠慢でもあるのだが。とに
かく、僅かの間でも腰を下ろして休みたかった。
 暫くのあいだ、そのまま肩で息をしながら僕はベンチでうずくまっていた。駅員
が来るまでは座っているつもりだったのだ。ところが、ようやく呼吸が落ち着いて
きた頃になっても誰も来ない。それに、いつもなら終電の発車後すぐに消える筈の
蛍光燈も相変わらず辺りをしらじらと照らし続けている。
 そのうちに遠くから轟音が響いてきた。明らかに電車がこちらに向かって来てい
る音だった。僕は腕時計を見、それからベンチから立ち上がって傍らの時刻表を確
認したが、やはりこの時間に電車が来る筈はなかった。
 しかしそれは来た。
 大音響とともにトンネルの暗闇の中から現れたのは、全体を黄色に塗られた昔な
がらの古い車体の電車だった。
 おかしい。僕は首を捻った。銀座線では古い車体の電車はもう全廃されたのでは
なかったか。
 僕の疑問をよそに電車は駅に滑り込み、ブレーキを軋ませて停車した。それから
がらがらと滑車の音を響かせてドアが開いた。車内にはちゃんと乗客がいる。スー
ツ姿の会社員も酔っ払った大学生もぴったりと抱き合ったままのカップルもいる。
ちょっと数は少ないような気もするが、まあ、ごくごく普通の夜の地下鉄の乗客だ
った。しかし降りる客は誰もいない。また乗る客も、僕以外に人がいないのだから
当然誰もいない。
 これは「乗れ」ということなのだろうか、と良く分からないままに乗り込むとす
ぐにドアが閉まり、電車は妙に甘ったるいモーターの音を響かせて発車した。
僕はドアの側に空席を見つけて腰を下ろした。窓の外は駅のタイルから剥き出しの
コンクリートに変わり、ざらついた暗闇の中を電車は巨大な音の塊と化して突き進
んだ。
 電車はいつまで経っても次の駅に着かなかった。ふと気づいて腕時計を見ると、
表参道を出てからすでに十分以上過ぎていた。都内の地下鉄でこれほど駅間が離れ
ているところはない筈だった。僕は少し慌てて車内を見回した。しかし誰も騒ぎも
せず、心配そうな表情すら見せていない。これはどういうことなのだ。
 僕の掌が次第に湿ってきた。
 地下鉄の車両から走行中に外へ飛び出すことは可能だろうか、ということを半ば
本気で考え出した頃になって、やっと電車は速度を落とし始めた。助かった、とに
かくどこかに到着するようだと少し安心し、僕は組んでいた脚を解いた。
 ぱたっと車内灯が消えた。これを見るのは何年ぶりだろう。しかしこんなに車内
は暗かっただろうか。たしか黄色っぽい小さな非常灯だけは消えなかったような気
がするのだが。
やがてそれは再び点灯した。
「あ」
 僕は思わず腰を浮かしそうになった。
 周囲の乗客ががらりと変わっていた。僕の向かい側には全身黒一色で固めた巨大
な黒人男性、身長が六フィートはありそうなとてつも無く手足の長い黒人女性、絞
り染めのシャツの上にアーミー・ジャケットを引っ掛けた痩身の中年白人、小さな
子供を三人連れたヒスパニック系らしきお母さんなどが座っている。通路の真ん中
に並んだ手摺にも、黒のレザー・ジャケットにスパッツで決めた矢鱈に姿勢のよい
オリエントの女の子やブルックス・ブラザースに身を包んだ、短髪の若い白人男性
などがつかまっている。
 愕然としてのけぞった拍子に、いつの間にかプラスティック製になっていたシー
トの上で尻がすうっと滑った。

(続く)