知識至上主義と杉の木 なんと申しましょうか、えーと、なんだっけかね? ううむ、忘れた、すっかり忘れた。 まあ、なにしろ象気功の御神託であるので、象の神様が降りてこないことには始まらないわけである。 これはあくまでも象の神様であって、亀の神様ではだめである。 亀であるとカミサマではなくカメサマになってしまうからである。 さらに鮫であるとサメサマになったりもするのである。 それでもサメサマのうちはどうにかこうにかなるのであるが、これがうっかり坂だったりするとサカサマになっちまうのである。 まあ、カミサマでもカメサマでもサメサマでもサカサマでも、ご利益ということではそんなに際立った差異はないかもしれないのであるが、いいかげん無駄話をやめないとチャンネルを変えられるのである。 ううむ、ナンセンスもここまでいくとシロートさんにはなんのことかわからないのである。 まあ、クロートさんにだってわかるとは思えないのであるが、そこがね、また、七色虹色言語を操る象師匠ならではの粋なお仕置きであるのである。 お仕置きといえば、ううむ、これはとんでもない穴を掘りそうなのでやめておくのである。 穴を延々掘って石油が出ればいいが、ナニの汚染水が出てたりすると笑いが裏目で非難轟々で本末転倒になるのである。 まだ付いてきてる人いる? まあ、人間というものはどんな天才秀才であっても、どんな物知り大学者博士教授センセイであっても、知ってることしか知らないわけである。 これ、あるとき、どこだったかは忘れたのであるが、物見遊山で山間部を走るローカル線の単線に乗って、ものすごい山奥の森林の何百何千何万という木立の中の奥の方の1本の杉の木を見たときに「ああ、この杉の木は誰にもその存在を知られなくても、ずーっとここにあったのね」なんて感慨に耽ること数秒で忘却したのであるが、まあ、とにかく、どんな天才の脳も、山奥の森林の杉木立の奥のこの杉の木がそこにあることを、その単線に乗って、偶然その木に目が行かない限りはその存在をインプットすることは一生ないわけである。 つまり、あたしの脳に存在するその杉の木は、どんな天才の脳にも存在しないわけである。 これ、総ての事象がそのとおりで、何かの縁がなければ一生にわたって脳が認知しないことがこの世のほとんどであるわけである。 あたしがご本を読まなくなったのは、この1本の杉の木による神のお告げ啓示神示思し召しがあってからであるのである。 まあ、電子書籍への移行で出版業界が元気の無い現在はともかく、あたしがこれでもかとご本を読んでいた頃は出版全盛つーのか、まあ、とにかくものすごい量の週刊誌、月刊誌、書籍新刊が毎日書店に出てきて、あたしがいくら得意の速読を駆使しても追いつくもんじゃないのである。 そのころは、まあ、仕事上の必要に迫られて「なんでも知っていなくてはならない」てな状況であったので、とにかく図書館から本屋から本と名のつくものはなんでもかんでも読みまくっていたのであるが、これ、その杉の木の存在を目にしてからは「ううう、なんだ、これ、どうやってもこうやってもこの世の事象の1000兆分の1も知ることはできないじゃん」つーことをみごとに喝破したわけである。 つまり神のお告げ啓示神示思し召しがない限りは、この世のいわば無限の事象の中のほんの一部の、知っていることしか知らないわけである。 この世の事象の総てを知ろうと思ってあらゆる活字を追っても、どうやってもこうやっても知ってることしか知ることはできないのである。 当たり前であるが、たとえば毎月何百冊と湯水のように溢れ出る新刊書籍も全部読むことなんかは到底無理であるので、その総数のほんの一部しか読めないわけである。 てなことで、どうせほんの一部しか読めないのであれば、まあ、書店の店頭に並ぶ新刊書籍てなものは、実際には読んでも読まなくてもいいものがほとんどであるので、ならばいっさいやめちまえつーことで、ある日を境にまったく買わなくなったのである。 週刊誌、月刊誌てなものも、実際に中身を読んでみると新聞の広告欄の見出し以上の内容はないわけであるので、これもいっさいやめちまえということで買わなくなったのである。 さらに、かつては新聞もほとんど全紙を朝食のテーブルに並べて読んでいたのであるが、現在は某スポーツ紙の芸能欄とほんの申し訳程度の社会記事と、A日のいしーセンセイの「ののちゃん」しか読まなくなったのである。 社説なんかはどこの社にしろ、えらそーなだけで、基本的に読者の投稿に毛の生えた程度の個人的なご意見であるのでどーでもいいわけである。 それもこれも含めて、仕事をしながらのテレビのニュースで十分であるのである。 あとは何かの縁、つまり神のお告げ啓示神示思し召しで読みたくなったものか、電車などの時間待ちの時間つぶしの本屋の立ち読みぐらいしか本を読むことはないという生活になっているわけである。 しかしその生活になってから困ることはぜんぜんなくて、どなたとも普通に話せるし、仕事上で差し支えることもないのである。 しかし、あたしみたいな神のお告げ啓示神示思し召し頼りのもんばかりになったら、人間界の文化文明は遅滞衰退してしまうわけであるので、知識至上主義はなんの都合かある日突然進化して肥大した大脳前頭前を持つ人間だけに託されたお役目であるわけである。 つまり、神の采配の最たるものであるわけである。 完全なものが何一つ無いことのアンバランスにより進化する宇宙の偶然という名の必然であるわけである。 その神の采配である大脳前頭前野の特に左脳をご使用遊ばさなくなって、あたしのように右脳優位の極楽人生になるとどうなるかとゆーと、これがね、もちろん、ぱーになるのである。 つーことでオチがついたところで、本日の神のお告げはこんなとこでどーでしょーか。 どれどれ。 |