象気功
象気功

本日の御神託


Tipikata


まあ、そうね、なんだね、あたしも某仏教某宗寺院の檀家世話人で最近まで檀家総代のひとりであったわけであるので、仏教徒のはしくれであるわけである。

もう、ほんのはしっこのものすごいすみっこの見えないところのはしくれのはしくれであるわけである。

まあ、それで、うちの菩提寺の若坊主、いや失礼、副住職樣が、まあ、某オセアニアの方の大学の大学院で仏教学をお勉強になっていて、あとは卒業式、ああ、大学院の場合は修了式か、まあ、本人は卒業式と言ってたのであるが、まあ、とにかくそれを待つだけということで、冬休みなのでお帰国されていたのでお話をお伺いしにいって来たのである。


まあ、余談であるが、若坊主いや副住職の話によると、そのオセアニアの方の大学の大学院の仏教学の生徒はタ○ン○ー教というはっきりとは書けない世界中の大金持ちを中心に信者を集める大金持ちの教団から幹部が大量に学費は教団持ちで派遣されてお勉強にきていて、その連中の親玉に勧誘されたりしてめんどくさい上に、仏教学なのにどういうわけか熱狂的なキリスト教信者の学生がわけのわからないことを言っていたりで、早くおさらばしたいとおっしゃってるのであるが、これはあくまでこの若坊主、いや、副住職様の感想であって、とくにそのオセアニアの方の大学にあたしが偏見を持っているわけではないということをご理解いただきたい。

それで、話によると、仏教というのはご存知のようにお釈迦さんが晩年、胃が悪くなって、まあ、80歳だから老化による胃がんかね、まあ、なにしろ2500年ぐらい前のことであるので、定かではないのであるが、まあ、お釈迦さんが生存していた年代も諸説あって、なにしろ大昔のことで、正確な記録もないので言ったもん勝ちでなんともいいようもないのであるが、だいたいが最近ではお釈迦さんはどうもいたのかいなかったのかさえ判然とせず、お釈迦さんの存在自体が政治的にでっちあげられたもんではなかろうかなんて研究もあるぐらいで、なにがなんだかわからないそうであるが、とにかく、そんなこんなで、下血なさったりして、さらにはお弟子さんにキノコをもらって食ったらそれが毒キノコだったのか、あるいはそれに誰かが毒を入れたのか、あれこれあれこれ、諸説芬々言ったもん勝ちの事情で、まあ、だいたい2500年ぐらい前に、お亡くなりになられてから、お弟子さんそれぞれが個々に聞いたことで覚えていたことを寄せ集めて、まあ、最初は亡くなられてまもなくであったので、よいしょばかりであったそうであるが、まあ、それをいろいろ都合よくまとめて、さらにそれに尾ひれ胸びれ背びれをつけて、それを元に仏教がでっちあげられた、いや失礼、興されたわけであるそうである。


まあ、お釈迦さんは生前、その教えについて、あーだこーだとおしゃべりになっただけで、そのことについて、いっさい文書てなもんを残さなかったので、まあ、「仏陀の教え」というのは、いってみれば後の皆さんの聞きかじりうろ覚えの言ったもん勝ちの寄せ集めの教義経典であるわけである。

それで、お釈迦さんがお亡くなりになる直前にお弟子さんたちを集めて言われたことは、「社会情勢に適合しててきとーに生きて行きなさいね」てなことであったそーである。

これ、つまり「こだわらない」とゆーことであるので、まさに象気功の真髄であるのである。

ここに至って、象師匠は釈迦の生まれ変わりであるのは間違いないということが判明したわけであるのである。


どこかのホラ吹き宗教の教祖も釈迦の生まれ変わりを言い張ってるのであるが、ホラ吹き競争では象気功だって負けてはいられないのである。

ううむ、どんどんくだらん方向に話が逸れていくので話をぐぐいと引き戻して、それで、そのお釈迦さんの教えはVinayaとSuttaとAbhidarmaてなものに経文として分けられているそうである。

Vinayaはまあ、いってみれば僧侶のなさなければならない規則、あるべき姿勢、つまり戒律てなことで、Suttaはお釈迦さんの生涯とそのお弟子さんや周囲のことで、Abhidarmaはお釈迦さんの宗教としての理論であるそうである。

このSutta、Vinaya、AbhidarmaはTipitakaということでまとめられ、Sutta Pitaka、Vinaya Pitaka、Abhidarma Pitakaとも呼ばれるそうである。


それで、Tipitakaというのは、まあ、籠(かご)という意味だそうであるが、まあ、籠にそれらの経文が寄せ集めて入れてあるてなことであるわけである。

これはTri-Pitakaてな呼び方もされるそうである。

またこれらの経文はさらに、その3つが何巻にも分けられていて、それがさらに何巻にも分けられていて、なにしろ言ったもん勝ちの俺が俺がの寄せ集めであるので、膨大な経文になっているそうである。

それで、このTipitakaは「Teaching Of Buddha」というそのまんまの英訳で、一冊が1500ページぐらいの辞書みたいな厚さのハードカバーの単行本で24巻にも及ぶ膨大なものが学術書として販売されていて、その24巻を20万なんぼで買ったてのを見せてもらったが、とても読む気にもならないので、即座にギブアップしたのである。


まあ、それで、このTipitakaはもちろんお釈迦さんが書いたもんでもなく、出家の皆さんが聞きかじりのことを思い出しながら自分の創作もどんどん交えて、まあ、もちろんそうなるとそのお弟子さん関係者の創意の割合がほとんどを占めて、そのお弟子さんの理解、感想も含めておもしろおかしく作って、さらにそれをパーリ語、サンスクリットを原典として、チベット語、漢語、モンゴル語、満洲語なんかに訳されて、さらにそれは中国を経て日本に伝わって、それが日本では一時期は神道と集合したりして、なにしろもともとが聞きかじりの寄せ集めであるから、果たしてお釈迦さんのしゃべったものの原型を留めているものがあるのかさえ怪しい物になっているのであるわけである。

言っときますがね、あたしは冒頭にも書いたとおり敬虔な仏教徒であるのでもちろん仏教を批判してるわけではないのであるのである。


ちなみに、お釈迦さんから遅れること500年ぐらいで現れたとされるクライストさんも、お釈迦さん同様に存在を確認するものがないので、その存在が政治的なでっち上げであるという説もあるそうである。

しかし、クライストさんから少し遅れて現れたムハンマドさんは存在が確認されているそうであるが、この人についてはうっかりなことを書くとものすごい勢いで怒られたりするので、まあ、つーことであるのである。

ううむ、まあ、このように、聞くと見るとは大違い、唯我独尊天地創造と進化論はいろいろと齟齬が噴出するわけであるが、それもこれも理解して、さらに仏教徒としてそのTipitakaを成就する生き方をしたいもんである。

ううむ、聞きかじりの聞きかじりを聞きかじってTipitakaもへったくれもないもんであるが、まあ、「悪いことをしない、良いことをする」というのがお釈迦さんの根本の思想であるそうであるので、あなたもあたしも無理であるのである。

ちょっとなげーな。

今日は終わり。

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