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師匠は瞑想についてどう思っていられるのでしょうか?
名前:いかさし   
師匠は瞑想についてどう思っていられるのでしょうか?
オーンナームスバーハーとひたすら唱えて頭がよくなり、願望達成するという人やら
姿勢を整えて数分ぼーっしてから成功したイメージをひたすら浮かべて願望達成、
手を与願印にすることによって体内の気の循環路が出来る等流派によってばらばら過ぎます。
自分ではやって数分で体内の気が手から出てきて、これが師匠の
「古い氣が放出される」って事なんだなとは思いましたが。

師匠のご意見をお待ちしております。


お答え
象師匠  
まあ、あなたがお習いになったグル、センセイにもいろいろ都合がおありでしょうし、営業妨害になりますから、その方法についてはあたしからはなんとも申し上げられませんが、「瞑想」については以前にどなたかのご質問にお答えしたことがありますが、まあ、瞑想のもともとの目的は「解脱」、つまり煩悩からの脱却であるわけです。
煩悩というのは仏教用語で、「心を煩わし、身を悩ます心の働き。心身を悩ます一切の精神作用の総称」であるわけです。
貪(むさぼる)・瞋(恨む、怒る)・痴(惑、迷い)が煩悩の三毒といわれるわけでありますが、まあ、わかりやすくいうと、代表的なものでは「生老病死」「他人に対する恨み妬み嫉み憎み怒り」「性欲、金銭欲、食欲などの各種の欲望」「ものごとがわからないために起きる、惑い、迷い」などでありますが、つまり、これ、人間がこの世に現された目的であるカルマの刈り取りからの脱却という、まあ、無理っちゃ無理な目的であるわけです。
その無理な目的に対して、お釈迦さんも菩提樹の下にお座りになって、あーでもないこーでもないと大悩みに悩んだ末に「おいらは悟ったぞ!どーだまいったろう!」とゆーわけで仏教をお開きになったわけであります。
それで、お釈迦さんが大悩みの末に悩んで「お悟り」なった「瞑想の本来の方法」は、道元さんもおっしゃるように、目的を何も持たず「ただ座る」ことなのであります。
気功上の瞑想である「静功」も何も目的を持たず「ただ座る」のが本来の方法であります。
ご理解いただけるかどうかわかりませんが、人間は生きる限りにおいて、その総ての時間において必ず何かしらの「目的」を持って生きているのであります。
その「目的」を総て捨て去り、「ただ座る」のが瞑想の本来の方法であるのであります。
ですから、お釈迦さんも悩んだ、「煩悩からの脱却」つまり「解脱」を求めることさえ、これ目的があるわけですから、いわば「貪」にあたり、正しくないとゆーことをさすがにオツムがすこぶる優秀であったお釈迦さんはお悟りになったわけであります。
まあ、しかし、そんなこたあ、その辺のなーんにもわからないヨーガ、メディテーションのグル、センセイに解るはずもありませんから、瞑想における「願望達成」の本来の「願望」はもともとの意味では「煩悩からの脱却」であるのですが、実際には大金持ちになりたいなんて金銭欲の達成であったり、おねーちゃんにもてたいなんて性欲の達成だったり、しまいには超能力者になりたいなんてわけのわからないものだったりするので、まあ、これ本末転倒であるわけです。
まして、チャクラの活性化だのクンダリニーの覚醒だの、超人だの、神人だの、空中浮揚だの、しまいには念力で火をつけるだのと、どんどんとんちんかんな方向に行くのは人間の欲望丸出しでなんのこっちゃでありますが、どこのグル、センセー、導師もこの辺を売り物にしないとお客が来ませんのいろいろおもしろおかしく効果を大宣伝して客集めお金儲けの煩悩に励んでいるわけであります。
それで、この、「目的を持たず、ただ座る」ということを実際にやってみると、なんの目的もないわけですから、脳はお休みして体は緩み、氣は体に下りて来て、当然、氣道は開き毛細血管が開き、氣はいやでも溢れ出すのであります。
しかし逆に氣を発生させよう、あるいは悟りを得ようなんて意識を持った時点で、目的ができるわけですから、脳がそのことで働き始めて氣は脳に集まりますから、いうなれば効果としては半減するわけであります。
「自分ではやって数分で体内の気が手から出て」くるのであれば、それで瞑想としてはよろしいわけですので、まあ、この「ただ座る」が本来であるということを踏まえて、それにともなって派生するいろいろな体の不思議をお楽しみいただければ、おかしな方向である、「痴」の毒に嵌らなくてよろしいかと思いますねえ。


Re: 師匠は瞑想についてどう思っていられるのでしょうか?
名前:いかさし   
ありがとうございました。何も考えないで脱力する事を試してみます。